幼馴染、その言葉の定義を考えてみる。
 同じ世代で近所に住んでいる幼い頃からの知り合いを大概は指しているのだろうと思う。あくまで一般的には、というはなし。越野宏明は私の幼馴染だ。けれど、先ほどの条件とは少しだけ異なっている。私達は別に近くに住んでいる訳じゃない。
「あんた今日授業一限からって言ってなかった?」
「……なんで三十分前にそれ言ってくれないの。」
「こんなにのんびりテレビ見てる娘が一限を忘れてるとは夢にも思わないでしょ、普通。」
 東京に住んでいる私と、神奈川に住んでいる宏明。距離にして考えると、結構遠いだろうと思う。
 ならば何故彼が私の幼馴染なのか。
 それは私の母に関係がある。元々母が勤めていた先の同期、それが宏明の母親だったという流れだ。ちょうど同じ時期に産休・育休に入っていた事も手伝ってか月に数回顔を合わせる関係だ。はっきりといつ出会ったのかを覚えていないので、恐らくまだよちよち歩きをしていた頃からの付き合いなのだろう。
「普通じゃないんだから気にかけてよ!」
「……なんなのその返しは。」
 三十分かけてぼけっとしながら食べきれていなかったトーストを口の中に突っ込んで、私は慌てて鞄を握りしめて家を飛び出る。
 一週間前、私は大学生になった。
 少し話を戻して、どうして突然幼馴染の話になったのかを説明しようと思う。それは今から遡る事三日前、入学式を終えて大学生活が始まった日の事。広いキャンパス内で、何となく宏明と雰囲気の似ている後ろ姿を見かけたのだ。
 今と同じように授業に間に合うか否かの瀬戸際を攻め込んでいた事もあって特に確認はしなかった。それに、きっとそれは本当に雰囲気が似ているというだけで宏明な筈がない。宏明の背があんなに伸びているわけがない。私の方がよっぽど高かったからだ。昔の話だけど。
「今日の授業はB棟の三階っと……」
 まだ慣れていない構内を、案内板を見ながら進んでいく。授業開始まではあと五分。私はギリギリでいつも生きていたいタイプなのかもしれない。
「仙道お前また朝練サボっただろ!」
「ん?」
 仙道と呼ばれた彼に、私の視線も動く。ハリネズミみたいな髪型をしている背の高い男の子。一度その熱血っぽい言葉に振り返った「仙道」くんは随分な色男だ。まつ毛も長いし、吸い込まれるような綺麗な瞳をしている。自分が面食いという自覚はある。
 テレビ越しに見る正統派イケメンのような顔立ちをした「仙道」くんにしばし視線を奪われていると、それに気づいたのか私を見てニコっと笑った。アイドルのライブ会場で「絶対今私の事見てたし、目合った!」と言う友人を心の中でそんな馬鹿なと思っていたが、それは同じ現象なのだろうか。
「おい仙道お前聞いて………って、なに見てるんだよ。」
「なにって、そこの子と目が合ったから。」
「はあ?」
 どうやら目が合っていたのは本当の事らしい。錯覚じゃなかった事には正直安心したけど、目が合った事実には心臓が止まりそうな勢いだ。人を惹きつけるには十分なきっかけと、ご尊顔だ。
「………?」
 何故私の名前を知っているんだろうか。教えてないけど、テレパシーで自分の名前って伝わるものなのかもしれない。とにかく今の自分が冷静な判断を下せない事は辛うじて分かっている。
「おいって!」
「え?」
「目ハートにしてんじゃねえよ。」
「……ああ、宏明か。」
「ああってお前なあ。」
「って……え?ちょっと待った、宏明?」
 目の前にいる「仙道」くんと比較すると小柄だけど、優に私の視線よりも高いところに宏明の顔がある。違和感しかない。言い合いになった時必ず「私より背低いくせに!」と言っていたのが嘘のようだ。否、そもそもこれは本当に宏明なんだろうか。
「あの宏明?」
「お前の知り合いで他に宏明いんのかよ。」
「高三の時に同じクラスだった田中宏明くん、」
「いるんかい!」
 嗚呼、この感じ。宏明だ。疑念が確信へと形を変える。このちょっと暑苦しい……否、熱いところ。さっき仙道くんに言っていた言葉を思い出しても宏明がまさに言いそうな事だ。曲ったことが嫌いで、どこまでも真っ直ぐな人。
「なに、お前も大学ここなの?」
「三日前に入学した一年生です。」
「その説明要らねえだろ……」
「あ、そっか。」
 同じ年の宏明、私の幼馴染。最後に彼に会ったのはいつだっただろうか。母が会社を辞めたのもあったし、中学に入ると宏明はバスケ部に入ってバスケに明け暮れているからと会うタイミングがなかったのを思い出す。
「てかお前一限の授業なんじゃん?」
「あ、そうだ!」
「やっぱな……そそっかしいとこ全然治ってねえの。」
「そっちだって暑苦しいの治ってないじゃん。」
「は?俺のどこが暑苦しいんだよ!」
「そういうとこ。」
 目の前の幼馴染は随分と私より背が高くなってしまったけど、でもやっぱり間違いなく私の知っている幼馴染だと納得させられる。最後に会ってからはきっと六年近くが経っているのに、まるでついこの間まで当たり前に一緒にいたような居心地だ。
「なに、越野の彼女?」
「お前今の話聞いてたか?」
 宏明が突っ込み気質なのか、それとも宏明の周りにはボケ気質(無意識のやつ)が多いのか、それとも宏明が引き寄せているのか。多分その全てに該当しているのだろう。それは仙道くんだけでなく、私も含めての話として。
「バスケ、続けてるんだ?」
「あ?まあな。」
「おばさんから聞いてたよ、頑張ってるって。」
「お〜。」
 私にバスケの知識はほとんどない。ボールを持って三歩歩いちゃダメとか、最初はジャンプボールで始まる事だったり、ファウルされたらフリースローができるとか、体育の授業で教わるレベルの知識量だ。
 そんな私でもうちの大学のバスケ部が強い事は知っている。中学の時からずっとバスケを続けていたのだからきっとバスケに夢中だったんだろうと思う。宏明は努力の人だから。
「大学には推薦で?」
「い〜や、俺は一般。んでこいつは推薦。」
「そうだっけ。」
「そうだろ!お前喧嘩売ってんの?」
 二人は高校時代の同窓生との事。そして目の前のイケメンは、この恵まれたモデル体型と恵まれたご尊顔だけに留まらずバスケもできるらしい。天は二物どころか三物も四物も時に与えるものなのかもしれない。神とは言っても元を辿れば人のようなものだ、好き嫌いの自我くらいあってもおかしくない。
「てかお前がうちの大学いるとか意外でしかないけど。」
「私も記念受験のつもりだったんだけど、」
「どんな奇跡が起きたら受かるんだ?」
「マークシート一個ずれてたみたいで逆に受かっちゃった。」
「だとしたらお前の運はそこで使い果たしたな。」
「否定できないのが自分でも怖い。」
 あの頃の自分達に戻ったようで忘れていたけど、少し落ち着いてきてもう一度宏明を見ると妙に落ち着かない心拍数が刻まれていて居心地が悪い。一緒に仙道くんも視界に入るからなのかもしれないし、きっとそうに違いない。
 雰囲気はあの頃のままの宏明だからこそ余計と違和感を生むのかもしれない。あの頃のままの宏明をそのまま身長だけ伸ばしたような、そんな姿だから。この違和感はそのせいで、それ意外に理由はない。きっと。
「で、まじで一分前だけど平気か?」
「だからそういうのもうちょっと前に言ってよ。」
「自分の事くらい自分で管理しろよ!」
「できないから言ってる。」
「逆ギレすんなよ。てか仙道、お前は少しくらい慌ててくれ……」
 仙道くんの事はつい数分前に知ってばかりだけど、なんとなく凡その人格を掴んだような気がする。天から二物以上を与えられた人間というものはあらゆる事を許されるものなのだろう。独断と偏見でしかないが、O型の匂いがした。
 朝練で早く来ていた宏明は授業のある二限まで自習をするらしい。私や仙道くんとは随分な違いだ。でもきっと宏明ならそうするだろうとも思えるから何も不思議はない。昔から事前準備をする人だったから。
 水泳教室でバタフライが出来るようになるまで休憩時間もずっとプールから離れなかった宏明の姿を思い出した。
「授業寝るなよ?」
「確約はできない。」
「しろよ!大学に何しにきてんだって。」
「え〜、」
「え〜、じゃねえし。」
 ったくもう、そんな昔に聞き慣れた言葉が耳を掠めていく。私の大学生活は幸先がいい。気のおける幼馴染という安定的な居場所と、画面の向こうではなく会えるタイプのアイドルを見つけてしまったのだから。きっと愉快な学園生活が待っているに違いない。
 だから、この得体の知れない感情は一旦眠らせておこうと思う。




 大学生になって二週間目の昼。
 少子化で嘆かれている世の中だが、驚愕するほどの若者を収容している学生ラウンジは酷く混み合っている。サークル席なる暗黙されたよく分からないルールが存在していて、私のようにサークルに入っていない人間がラウンジで居場所を確保するのは結構難しい。
 学食で一番安いうどん(二百七十円)を購入して、トレイを持ちながら広い広いラウンジを見渡す。二人で食事をしていた男子学生が立ち上がったのを見逃す事なく、この時ばかりは素早く行動に移す。
 トレイを置いて一息ついた所で、カツ丼(大盛)のトレイを持っているイケメンとばっちり目があった。ここ最近何か徳でも積んでいたのだろうか。イケメンがワイルドでヘビーなメニューを昼食に選んでいるのもとても健康に良い。仙道くんの話だ。
「ここ座ってもいい?」
「あ、はい………」
「なんで敬語?同い年。」
「……普通に話すの初めてなんで。」
「じゃあ次回に期待かな。」
 よく分からない人だと、そう思う。けれど女という生き物はよく分からない何かに囚われる生き物でもある。多分ミステリアス要素のある男を嫌いな女もそうはいないだろう。仙道くんは何を考えているのかよく分からない。何も考えてないのかもしれないけど。
「仙道くんは宏明と高校から仲良かったの?」
「仲はいいと思うよ?よく怒られてたけどなあ。」
「お母さんみたいな?」
「あ、そう。お袋に叱られるあの感じ。」
「すごい分かるそれ。」
 正論だけど、どこか耳に響いてちょっとうるさいあの感じ。それが母親に怒られてる感覚に近いと感じるのかもしれない。実際宏明は小言が多い。イライラしている場面をよく見ていたので寿命が縮むから治した方がいいと助言した事もある。より怒りを買ったのは言うまでもない。
「高校時代の宏明ってどんなだった?」
 私の知らない幼馴染の顔。きっと変わっていないんだろうと思いながらも、けれど妙に気になる空白の六年を仙道くんなら知っているんじゃないだろうか。
「どんなって、例えば?」
 酷くざっくりとした抽象的な質問をしてしまった。聞いておきながら、自分が何を知りたかったのかはよく分からない。
「そうだな、彼女いたかとかそういうの?」
 自分では到底思い付かないそんな思考に仙道くんは誘導する。確かに言われてみれば気になるし、寧ろ気にしかならない。聞いた話によると陵南は強豪の多い神奈川の中でもトップクラスのチームらしい。
 そんなチームでレギュラーを張っていたのだから、きっと宏明に好意を寄せる子もいただろうと簡単に推測ができる。顔だって悪くないし、口調こそ厳しいけどああ見えて結構面倒見が良い。仙道くんの方が一兆倍はモテるだろうけど。
「……いたの?」
「気になるんだ。」
「興味本位。」
「へえ?」
 そんな含みのある言い方をされたら私に限らず誰でも気になるものだ。そもそも宏明のタイプを知らない私は、いたかも分からない彼女がどんな人かさえ見当もつかない。水泳教室で誰もが羨む美少女“かこちゃん”にも宏明は興味がなさそうだったけど、一体どんな子を好きになるんだろうか。
「いなかったと思うよ、俺の知る限りでは。」
「そうなんだ?」
「でもモテてないって意味じゃない。」
「とは?」
「越野の事好きな子もいたし、告白もされてたっぽい。」
 仙道くんはきっと私が驚くと思ってそんな言い方をしたんだろうと思う。けれど私は然程驚くこともなく、事実としてそれを受け入れる事ができる。想像が付くからだ。
「案外冷静だね?」
「うん、そうだろうな〜って思うから。」
 水泳教室でマドンナ的存在だった“かこちゃん”。彼女が宏明の事を好いていたのを知っていたので、そこそこモテるのは知っている。情に熱いタイプなので、結局そんな男を好きになる人間が多いのも一定理解も出来る。
「でも好きな子がいるからって断ってたみたいなんだよな〜、だからずっとそれが誰なのか気になってるって訳。」
 宏明にも好きな人がいるのか。一体それは誰で、どんな人なんだろう。十八年も生きていれば好きな人の一人や二人いて当たり前と頭では分かっているのに、それをすんなりと受け入れるのは何故だか難しい。
「あ、」
「お〜噂をすれば。」
「噂?」
「そう、越野の話してたから。」
「は?絶対碌でもない話だろ。」
「もっと自分に自信持っていいんじゃない?」
「仙道に言われると腹立つな……」
 ちょうど空いた仙道くんの隣にドカっと宏明が腰を下ろす。私のうどんとも、仙道くんのカツ丼とも違い、宏明のトレイにはとても健康志向なメニューが乗っかっている。
 いただきますと一度手を合わせてから、箸を持って手をつけたのは鯖の味噌煮だ。しっかりと咀嚼した後に、湯気の立っている揚げなすのお味噌汁に口をつける。そして最後は駆け込む事なく少量を取ってお上品にご飯を口に運ぶ。多分食事の取り方を採点方式にするならば、百点の出来だ。
「……なんだよジロジロ見て。」
「なんか昔から中堅サラリーマンが好むような渋い食べ物好きだね?」
「中堅サラリーマン知ってんのかよ。」
「うちのお父さん。」
「……お前言ってて悲しくなんないの?」
 昔から宏明はこんな感じの子どもだった。オムライス、ハンバーグ、カレー、ミートソーススパゲッティ、グラタン……子どもが好きな王道メニューだ。連れられたファミリーレストランで私がお子様ランチに飛びつく一方で、宏明は季節限定メニューの鯖の塩焼き定食とかカキフライとかそんなものばかり食べていた。うちの父とほぼ同じ嗜好性だ。
「宏明って呼ぶのさんくらいなんじゃない?」
「……なんだよ藪から棒に。」
「クラスの女子には苗字で呼べって怒ってただろ。」
「別に怒ってねえし!」
さんはいいんだ?」
 私の知らない宏明の六年間が少し垣間見えたような気がして、けれど既視感のようなものを感じるのは何故だろうか。よくよく思い返して、また水泳教室のことを思い出した。
 私たちの通う水泳教室はちょうどお互いの中間地点にあって、オリンピック選手を輩出したことでも有名な名の知れた教室だった。他の地域から集まってきた子ども多く、地元の知り合いじゃないからそうなんだろうか?そう思ったのを思い出した。
 私が当たり前のように彼を名前で呼ぶので、周りも彼を宏明とそう呼んだ時の反応がどうだったか。それは今仙道くんが言った通りのものだったと記憶している。てっきり地元や同じ学校の子には下の名前で呼ばせているのだろうと思っていたけど、今の話を聞く限りそうではないらしい。
「特別っていいなあ。」
「は?なんだよそれ。」
「だって他の子はダメでさんはいいならそうだろ?」
「勝手に含みを持たせるなって!」
「え〜?」
「え〜、じゃない!」
 まるで自分と宏明のやり取りを見ているような仙道くんとのやりとりに不思議な気持ちを覚えながらも、仙道くんの発した言葉について急に引っかかったように冷静になる。
 特別、という言葉の持つインパクトは大きい。急にその言葉がダイレクトに心に入り込んできて、妙な意識を強いられるからだ。自分が宏明にとっての特別だと考えたことなんて一度もなかったから。
「……お前もあんまアテにすんなよ。」
「ん?」
「仙道ってマジでテキト〜なとこあるから。」
「仙道くんそうなの?」
「随分な言われようだなあ。」
 困ったなあ、なんてヘラヘラ笑ってツンツンしたその髪の毛を揺さぶってるけど本当にそうなんだろうか。どちらかと言えば鵜呑みにするより疑念の方が残る。
 仙道くんの事を私はよく知らない。知っているのはスタイルが良くて、そこら辺のアイドルなんかよりも顔が整っていて、強豪校から推薦もらえる程にバスケが抜群にうまいというバスケ以外は視覚から得られる情報のみだ。
 どこかボケっとしているようで、けれど話の節々に的確さを感じたのは事実だ。とても勘が鋭く、そしてクレバーな気がしてならない。もちろん私の盛大な思い過ごしという線もある。仮にそうだとすれば笑うしかない。
さんは?」
「ん?なんのはなし?」
「彼氏はいるの?」
 ヘラヘラ笑いながら然程も困っちゃいない顔をしていた仙道くんは、突然話題を変えてやっぱり核心をついてきたような気がした。そんな話、今ここでする必要なんてないのに。
「募集中。」
「募集中ってなんだよお前。」
「だっていないし。」
「募集中とか言うと誰でもいいみたいだろ!」
「誰でもいいなら俺でもいいの?」
「絶対言うと思ったんだよ!」
 それが社交辞令であることは分かる。けれど、こういう事を言えてしまう仙道くんがモテてない筈はない。だって天は二物以上を彼に与えているんだから。
 けれど今私が何を考えていたのかと言えば、天から二物を与えられた男の事ではない。とても泥臭く、季節を問わず年中熱いパッションを激らせる男の事を考えていた。誰でもいいみたいだろと言った宏明は、ならば誰なら私の彼氏として認めてくれるんだろうか。そんな事を考えて。
「とにかく自分をあんま安売りすんなよ。」
「……みんなバーゲンセール好きじゃん。」
「だから!ちゃんとお前の良さ分かってる奴じゃなきゃ意味ねんだって。」
 声を荒げながら正論を言う宏明は、今も変わらず健在らしい。私はいつもの本調子で切り返せないし、仙道くんはそんな私たちを見て随分と愉快にニコニコ笑っている。今の所ずっとニコニコしている仙道くんの顔しか知らないけれど。
「私の良さって?」
「は?そんなん自分で考えろよ。」
「ナルシストじゃあるまいし。」
 宏明の言葉尻はいつも勢いがあって、そして厳しい。でもその分言葉の裏側に隠れている彼の優しさが滲み出ているような気がしてならない。その辺りにこそ、宏明の性分だったり人柄が出ているんじゃないだろうか。
「底抜けに明るいとことか他の奴に真似できねえし?」
「もしかして能天気って事?」
「……めんどくせ〜!」
 自分で考えろと言っておきながらきちんと言葉にしてくれる宏明のその優しさが頼もしくて、少しだけ懐かしい。
 昔感じていたその感情がなんだったのかを、少しばかり大人になって理解した気になる。だとすればこの中で一番の策士は仙道くんなのかもしれない、そんな事を思った昼下がりのラウンジでの出来事だった。




 大学生の夏、その単語が持つ意味は結構深い。
 サークル活動というものはジャンルも形態も様々で、真面目にコツコツと活動をしているサークルもあれば、名前はあくまで建前上で実質蓋を開けば毎週飲み会をやっているだけのハッピーなサークルまで幅広い。
 必修科目で一緒に授業を受けるクラスメイトの所属サークルは、キックベースサークルを名乗りつつキックベースの活動は年に一度、雨天中止らしくここ二年実施に至っていないという。綺麗さっぱり開き直ったサークル名に変えた方がいいと思う。ところでキックベースってどんなスポーツでしたか?

 八月の半ば、まさに夏休みの最中。私は半月ぶりに大学のキャンパスを訪れる。なんでも在学証明書なるものが必要との事で、わざわざ出向いている形だ。
 夏休みともなると通学者がほとんどいない為か、十分に一本は出ていたバスも三十分に一本臨時便がくるのみだ。とても不便な上に、そして暑い。全部夏のせいだ。
 在学証明書を発行し終えた私は、人通りの少ない道を進んでいく。バスの時間まではまだ暫くあって、ちょうどそんな時にダムダムとゴムの跳ね上がる音が耳を掠めていった。部活ともなると休みでも関係なく練習するものなのか。部活って大変だ。
「あ、さんだ。」
「こんにちは仙道くん、おサボり中?」
「聞こえが悪いなあ、休憩中だって。」
「その割に随分涼しそうな顔してるね。」
「爽やかって事かな?」
 ポジティブへの変換力があまりに強い仙道くんにも結構慣れた。大学生になって五ヶ月目、仙道くんと知り合ってからもそれだけの時間が経過しているという事だ。慣れなきゃこちらの身が持たない。
「こんなとこでサボってたのか。」
「宏明と仙道くんって月と太陽みたいだね。」
「なんでお前がいるんだよ?」
「もちろん仙道くんが月なんだけどさ。」
「会話成立させろよ!」
 今日も宏明は熱い。既に夏で十分に暑いので、相当暑いし熱い。
 汗だくになっている宏明と、木陰で涼しげな顔をしている仙道くんと。宏明のバスケを見たことはないけど、授業の合間で時折話を聞く限りではちょこちょこ試合にも出ているらしい。強豪校で一年生から少しとは言え試合に出られるのは結構すごい事だと思う。
「先輩が呼んでたぞ。」
「そっか、じゃあそろそろ行くかなあ。」
「待たせてんだからちゃんと謝れよ?」
 仙道くんはひょいと腰を上げて体育館へと戻っていく。多分全国区の名プレイヤーなんだろうけど、一体どんなバスケをするんだろうか。ど素人でもそれは分かるくらいにすごいのか、興味がない訳じゃない。
「……んで?なんでお前学校いんの。」
「そんな不審者みたいに言わないでくれますか。」
「お前が休みに学校いるとか怪奇現象に近い。」
「私の事なんだと思ってる?」
 夏休み、それもお盆ともなると本当に学校に人の姿はない。地方から受験してきた学生も多い大学だ。ちょうど帰省するタイミングなのだろう。宏明も私も通える範囲に実家があるので、帰省という概念がないのかもしれない。
「お、お前さ………このあと暇?」
「なに突然。」
 宏明と再会してから半年弱、こうして誘われた事は一度もなくこれが初めてだ。冷静を装ったけど、普通に冷静でいられる筈もない。否、幼馴染と食事に行くだけで冷静を失う必要なんてあるのか?でも親ありきの遊び方しかしてないので二人でどこかに出かけた事なんて言われてみればないかもしれない。
「母ちゃんが田舎帰ってて晩飯ねえから。」
「母ちゃんいないとご飯も食べれないんだ?」
「誘うきっかけにしてやってんのにその言い方ねえだろ!」
「そんなの頼んだ覚えないし。」
 これはもしや一緒にご飯に行こうという誘いだろうか。どう考えてもそうだけど……しかもちゃんとした理由もついてたから納得だ。おばさん田舎に帰って居ないんだなとか、お父さんは残ってるんだろうかとか、本当にどうでもいい事に思考を巡らせる。そうしないと落ち着いていられないから。
「で、空いてんの、空いてねえのどっち?」
「……空いてます明日も明後日も明明後日も。」
「そこまで聞いてねえけど……暇だな、お前。」
 世間の大学生がガンガンに日差しを浴びながら夏を満喫している(勝手な想像の)中で、私は密やかに息をしながら生きている。ガンガンしているのは自宅のクーラーだけで、リビングで猫と転がりながらテレビをぼんやり見るそんな夏休みだ。絶対に他の人には共有したくない夏休みでもある。
「あと三十分で練習終わるけど待ってられるか?」
「あ、うん。適当に時間潰してる。」
「ラウンジ?そしたら終わったら行くわ。」
 練習に戻っていく宏明の少し大きな背中を見て、自分の感情と向き合う。入学間も無く再会した頃にはまだ眠らせていたあの感情。どうやら私はそれを目覚めさせてしまったらしい。




 店の入り口で学生証を提示して年齢確認を受ける。では、何故年齢確認を受ける店に入ったのかを説明しようと思う。
 二人でご飯を食べに行った事なんてないけど、大学生に適当な食事処ってどこなんだろうか。大学に入ってからほとんど自宅のリビングと大学への往復のみで、思えば大学生らしい青春がまるでない人生だ。青春と色気は大学二年生から覚えていこうと思う。
 ファミリーレストランというのも何だか捻りがないような気がして、食べたいものを聞かれ順に答えていくと、結果的に居酒屋の暖簾をくぐっていたという状況だ。もちろんアルコールは飲めない。
「お前さ、」
「なに?」
「なに食いたいか聞かれて他所でアレ答えるのやめとけ。」
「なんで?」
「色気もクソもないだろ、たこわさとエイヒレって……」
「美味しいじゃん。」
「それこそ中堅サラリーマンが好きそうなやつだぞ。」
「あ〜、そう言えばお父さんの好物だった。」
 だからか。未成年なのにどうしてこんなに酒のアテになるものが好きなのか自分でも理由を掴めずにいたけど、そう言えば我が家にいる中堅サラリーマンの好物だった。育った環境というものは結構影響するし、血の繋がりは侮れない。
「でもそれって、他所では色気出せって事?」
「あ?まぁ、出して損はないんじゃね?」
「ふうん?」
 何か確証をつかみたいと私と、何も掴ませてはくれない宏明と。確証もないものに正面を切ってぶつかって行くほどの勇気も自信もない。何年もかけてゆっくりと構築してきたその唯一無二の関係性を手放してまで冒険するのは正直恐怖以外の何物でもない。
「じゃあそうする。」
 そうは言ったけど釈然としない。モヤモヤする。全然スッキリしない。誰のせいか?宏明のせいだ。少しくらい隙を見せてくれたっていいのに。まるで掴ませてくれない。
「……なに怒ってんだよ?」
「怒ってない。」
「嘘つけめちゃくちゃ怒ってるだろ!」
「もう、うるさい!」
「誰がだよ!」
 入店早々二人で声を荒げていると、ズラリと辺りを囲うようにビールに口をつけていたオジ様方の視線を独占してしまった。それこそ中堅サラリーマンがこぞって好みそうな居酒屋だ、私たちの存在はただでさえ目立つのにこのザマだ。
 流石にお互い周りの目に冷静になって、軽くペコペコと頭を下げながらメニューで顔を隠して飲み物を選ぶ。
「それアルコールのページ、」
「どんなお酒あるのかなって。」
「おい普通にダメだからな!」
「そんなの知ってるに決まってる!」
 いちいち突っかかってくる宏明に、私も突っかかってしまう。昔は何かと突っかかってくる宏明を上手く受け流していた筈なのに。どうも今日は上手くいかない。上手くいかない理由を分かっているからこそ、余計と難しい。
「お酒の力借りたいと思うような状況にした宏明が悪いんじゃん!」
 実質ほとんどその言葉に私の感情が詰まっていて、言った後でそれに気づいて勢いを失ったように黙り込む。周りのオジ様方(中堅サラリーマン)の視線を再び釘付けにしてしまった。様子を伺って慎重になっていた筈なのに、どうしてこんな大観衆のギャラリーを引っ提げた状態で言ってしまったのだろうか。
「……なに言ってんだよ。」
「……ほんとなに言ってるんだろ。」
 今度は私だけでなく宏明まで冷静になったのか、二人して沈黙を経てぐるぐると思考を巡らせる。何故、どうして、何故、どうして、どうしてどうして……なんでこんなことになっている?
「お前それ、なに……そういう事かよ?」
「……聞いてこないでよ、そんな事。」
「お、おぉ……悪い。」
 うん、と素直に頷いておけば私たちの関係は変わったのだろうか。一歩前進するのか、それとも後退するのか。幼馴染というその絶対的にブレない軸から違う何かになる事なんてあるのだろうか。
「そういう事に決まってんじゃん。」
「は?なんで答えてんだよ!」
「さっきは聞いといて答えたら文句言う訳?」
「だってお前女だろ!」
「いや、なんの話してんの。」
「そういうのは男がするって決まってんだよ!」
 力強いその言葉に、ギャラリーの「お〜」という声があちらこちらから聞こえてくる。まるでドラマが始まったかのように……私たちのテーブルは食事はおろかドリンクさえ何も始まっちゃいないのに。
「だからさっきのなし。聞いてない事にするからな。」
「…………」
「……なんか言えよ。」
「なしだの言えだの忙しいね?」
「うっさい!」
 まるでムードなんかなくて、何も始まって無いけど、とにかく私は色んな意味で喉が渇いている。そしてきっと宏明もカラカラに喉が渇いているだろう。張り上げる必要もない言葉を随分と力強く、まるで知らしめるように伝えてきたから。
 大学入学早々に私の鼓動を鳴らしたのは宏明ではなく仙道くんだったけど、結局私が望んでいるのはアイドルを追いかける事じゃなく身近にいる変わらない関係を築いていける宏明だと気づいてしまった。
 以前は感じる事のなかった異性を宏明に感じた時点で、もう既にそれは始まっていたのだろう。
「早く言いなよ?」
「言う……言う……だからちょっと待てって!」
「お酒でも頼もうか?」
「だからダメだって!」
 何だかいつもの私と宏明の感じがして、少し気が抜けて急におかしくなって笑えてしまう。もちろん元々険しい表情をしていた宏明の眉間には更に皺が寄っている訳で、余計とおかしい。もうこうなると無限ループに入ってしまう。
「お前烏龍茶でいい?たこわさとエイヒレ食ったら店出るぞ。」
 私の最終的な返事を聞く事もなく宏明は垂直にピンと手を伸ばして「すみません!」礼儀正しい青年の声で店員を呼び寄せよく分からない組み合わせの注文を終えた。クイックメニューに書かれていたその二品は烏龍茶と同じタイミングで運ばれてきて、頂きますを言った宏明はものすごいペースでそれらを平らげていく。
「で、なんで?」
「お前なあ……俺は見せもんじゃねえんだよ。」
 オジ様方の熱い視線を受けながら彼は烏龍茶で喉を潤して、そして私の手を握ってレジの方角へとズイズイ進んでいく。会計は二人分合わせても千円を切っている。何をしにきたのか良くわからないレシートだ。
「酒なんかに頼ってちゃ格好悪いだろ……」
 どうせ飲めねえけどとそう言った宏明は、蒸し暑い八月の夜に私の手を引いて連れ出していく。あと如何ほど待てば私の欲しい言葉は回収できるのだろうか。
 もうこの状況が既に私たちの新しい関係性を物語っているけれど、その言葉を回収するまでのもどかしいこの青年を見ているのも悪くはない。
 階段を降りた先で、宏明の足取りが止まってこちらを向いた。


心停止ロンド
( 2023’08’12)