レイジさんの作ったカレーは美味しい。二日目は、特に格別だ。
 初めて彼を見た時、正直あまり得意なタイプではないと思った。威圧感があって、そして彼は自分にも他人にも厳しい人だ。人として正しいレイジさんが、何事に対しても中途半端な私には重荷だったのかもしれない。アットホーム感の強いこの玉狛で、私は彼と一定の距離を保っていた。
 苦手意識のあったレイジさんへの見方が変わったのは、私が彼氏に振られたタイミングだった。防衛任務で中々スケジュールを合わせられない事に愛想を尽かされて、私は振られた。当時まだ若かった私は大層落ち込んで、柄にもなくわんわん声をあげて、基地の自室で泣いた。いつだって旺盛すぎる食欲にうんざりしていたけれど、この時ばかりは一向に腹は鳴らなかった。泣き疲れて目を覚ましたのは夜が明ける前の最も外が暗い四時過ぎで、ほぼ丸一日何も口にしていない私の腹が、初めてぐぅと音を立てた。
「なんだ、起きてたのか。お前にしては早起きだな。」
 寝起きで、かつ空腹感が勝って忘れていた振られたという事実を思い出して、再び悲しみが襲ってきた。レイジさんの前で泣いても、きっと呆れられるだけだ。彼は傷心している私を気遣って励ましてくれる事などないと、そう思っていた。
「…腹、減ってるか?」
 泣いている理由を詮索するでもなく、過剰に慌てるわけでもなく、私にとってちょうどいいニュアンスの言葉だった。詮索されたくもないし、大袈裟に慰められたい訳でもなかった私にとって、その言葉は魔法のようにするりと入り込んだ。
「昨日の残りものだが、カレーが残ってる。二日目のカレーは美味いぞ。」
 結局、レイジさんは私の返事を待たずして、鍋に火をかけてカレーを煮詰め始めた。火が入るごとに漂うスパイシーな香りがとても食欲を掻き立てて、一瞬だけ何故自分が今泣いていたのかを忘れていたような気がする。レイジさんはいつもの、体に張り付かんばかりにピチピチしたシャツを着ていたけれど、どこかに出かけるつもりだったのだろうか。まだ夜もあけきっていない、こんな時間に何故彼は起きているのだろうか。
「いつもこんな時間に起きてるんですか。」
「ああ、日にもよるがな。この時間帯は、人の通りも少ないから走りやすい。」
 どこまでもストイックで、自分に厳しい人だなと思う。けれどその一方で、自分にも他人にも厳しい彼は、きちんと痛みを分かっている人で、必要な時にだけ必要な分だけの優しさを与えてくれる人なのだと思った。こうして面倒を見てカレーに火をかけてくれているのだから、それが立派な証拠になるだろう。
「ほら、さっさと食べて少し寝ろ。」
 そう言って出されたカレーは程よく暖かくて、そして極上に美味しかった。身に染みるようなその温かみが、スパイスと相まってちょうどいい。あんなしょうもない男に振られたことなど、少しばかりどうでもいいと感じた。よくよく考えれば、そんな理由で私を振る男なのだからそれまでのしょうもない男だという事だ、付き合う価値もないと冷静になった今なら理解できた。
「どうだ、美味いか?」
「…はい。」
「なんだ、泣くほど辛いのか?」
 ぼんやりと、レイジさんみたいな彼氏がいれば一番幸せなような気がしたのだ。つい先程まで苦手意識のあった男が、いくつものハードルを飛び越えて、いい男に見えてしまった。レイジさんなら、きっと大事にしてくれると。
「すみません、泣くほど美味しくって。」
 この日から、多分私はレイジさんの事を好きになっていたんだと思う。




 あれから何度となく、私はレイジさんのカレーを食べてきた。栞が作るカレーよりも、小南が作るカレーよりも、やっぱりレイジさんが作ったカレーがピカイチに美味しかった。味を占めた私は、夜勤明けに基地に戻っては、ランニングへ出かける前のレイジさんを捕まえて、二日目のカレーをせがんだ。
「火にかけるだけだろ。自分でやれ。」
「いいじゃん、レイジさんが火にかけると自分がやるより美味しく感じる。」
「お前の理屈にはいつものことながら根拠がないな。」
 めちゃくちゃだ、と呆れながらも二度は否定の言葉を紡がない。代わりに、彼はキッチンへと向かって、鍋に火にかけた。何だかんだ言って、レイジさんは甘い。当初私が持っていた彼へのイメージは、まるで変わってしまった。好きという気持ちは、何でも見通しをよくしてしまう。あれから三年が経っても、レイジさんのカレーは特別美味しい。いつ口に入れても香ばしいスパイシーさの後に、隠れていたようにほんのりと甘みが広がる。
「お前のせいで苦情が来てるぞ。」
「なんでですか?」
「俺が当番の度にカレーが出てくるからだろう。」
「だって美味しいから、リクエストしたくなる。」
 そうは言いながらも、レイジさんは私のリクエストを渋々受け入れて、私の為にカレーを作ってくれる。あの出来事以来、本当にレイジさんは私に甘い。それは他のメンバーと比較しても、自惚れてもいいレベルだと自負している。小南が毎度「レイジさんはにばっかり甘いんだから!」と言っているのが、証拠になるだろう。
「失恋するとレイジさんのカレーが食べたくなる。」
「は?お前、また失恋したのか。」
 あのカレーを食べてから、私が失恋するのは何度目だろうか。その度にちゃんとお決まりのようにカレーを作って私を気遣ってくれているレイジさんも、流石に呆れているだろうか。
 私にとって、あの時の失恋がきっと最後だった。その後何度か失恋したと言ってレイジさんにカレーを作らせたけど、それは恋人関係が終わったというだけで、私にとって失恋したという認識はなかった。ただ付き合っていたという事実があって、別れたという事実を重ねただけ。大して好きでもなかったのだから、別れるのは必然だ。一ミリも、感情は揺さぶられない。
「そんなに驚かないでよ。もうあの時みたいに子どもじゃないし、泣いたりしないから。」
 あの時、純粋な気持ちでレイジさんの二日目のカレーを食べていた私は、もうここには居ない。今ここにいる私は、もっと不純物の混じった欲に塗れた女だ。大して好きでもない男と付き合っては別れるを繰り返していたのは、他でもないレイジさんの気を少しでも引くために他ならない。
「あまりいい加減な気持ちで付き合うな。」
「別にいい加減な気持ちじゃないよ。最初は、好きだったんだよ。」
 嘘八百な言葉を並べて、私はカレーにスプーンを入れる。いつものあのスパイスを纏った香りが立ち込めて、私はすぅっと大きくそれを吸い込んでいく。そうする事で、動揺している自分を、少しでも誤魔化せるかと思った。
 失恋したと言う度に、私はどこか期待しているのだ。そんな駄目な男じゃなく、俺にしておけばいいというその一言を。そんな言葉がレイジさんから出てくる日はこれから先も、絶対にないと分かっていながらも、一理の望みを捨てきれず、私はずっと待ち構える。もし万が一にも、レイジさんがその言葉を言い放つ日が来たとしても、それは私宛てではない事さえも、分かっているのに。
「レイジさんが彼氏だったらいいのに。」
「なんだ、急に。」
「レイジさんだったら大事にしてくれそうだし。」
「ほんと、調子のいい奴だなお前は。」
 あと何度こんな茶番を繰り返したら、頭の悪い私は理解できるのだろうか。どう頑張っても、隙を見つけて付け入ろうとしても、レイジさんの気持ちが私に向く事はないと分かっているのに、何故それを飲み込むことができないのだろうか。早く飲み込んでしまった方が、私自身が楽だと分かっているのに。
 レイジさんが私に優しいのは、恋愛感情からくるものではない。一度弱みを見せた私を、何かあった時は自分が味方になってやろうと、そういった親心に近いものなのだろうと思う。そんな感情が、私がどんな言葉を言ったとしても突然恋心に変わることはない。レイジさんが、私を可愛がって、そして心配してくれるという関係性以上のものはないのだ。
「…おい、泣くほど辛いのか。」
 無意識のうちに涙が出ていたようで、自分のことながら驚いた。失恋をしたと彼に慰められる度、私はレイジさんに失恋する。その数だけ、本当の失恋を味わっているのだからもう慣れっこだと高を括っていたのに。
「辛くないよ。カレーが、辛かっただけ。」
 “つらい“と“からい“は同じ漢字なのに、こうも意味が違うのは皮肉なものだ。私は彼の作ったカレーを口にする度に、きっとこれからもこの事を思い出して、絶望を味わうのだろう。

深夜のリクエスト
( 2022'01'23 )