あの人を自分の彼女にしたのは、もう半年も前の事だ。手に入れるまでに時間をかけて、ひたすら慎重に彼女を落とした筈なのに、自分の手に入れたことによって、あの人のことがより遠く感じられるようになった。
 入隊時期ではなく、ボーダーではどこか年齢序列の色が強い。俺自身、ボーダーの中でも取り分け入隊してからの歴が短い訳でもなければ、何ならボーダー歴で言えば彼女よりも長く、そしてランクも上だ。ただ、彼女は俺が玉狛支部に転属するより前に玉狛にいて、且つ俺より年上の女性だった。
 もう間も無く、俺は高校を卒業する。家庭の事を考えてそのまま就職するのもありだとは思ったが、A級としての固定給と報奨金がある事を考えれば、あえて就職を急ぐことはないと思った。金は何とかして出せないこともないし、奨学金を受けようと思えばできなくもない。
「あれ、来てたんだ。お疲れ様。」
「お疲れ様です。今日飲み会って聞いてたんで、色々面倒かと思って。」
 ただ単に世間体を考えた時、高校卒業よりも大学を出ている方が肩書として、色々と遜色がないと思ったそんな下らない理由に尽きる。あの人と会う前の俺であれば、間違いなく選ばなかった選択肢なのかもしれない。
さん、随分酔ってるでしょう。」
「そんな事ない。大して飲んでないし、ふつうふつう。」
「大して飲んでる人ほどそう言うものです。」
「トリマル、未成年のくせに。生意気だよ。」
「未成年ですが、だらしのない酔っ払いの先輩方は沢山見てきているので。」
 この人が酔っているのを見るのは、何も珍しい事ではない。週に一度か二度はこうしてふらふらしながら帰ってくる。あまり歓迎していないような口ぶりである俺も、酔っている彼女を見るのは嫌いじゃない。寧ろ、普段よりよっぽど隙があって、近づける気がした。そしてその分、自分が彼女にとっては“彼氏“という存在でもあり、“ トリマル “で“ 年下の後輩 “という存在なのだといやでも思い知らされる羽目になる。
 彼女は、俺の二学年上で、年上の女性にあたる人だ。大した年齢差ではないと周りは言うし、自分自身もそう思っていた。彼女と付き合うまでは、たった二年生まれてくるタイミングが遅かっただけでどうってことはないと、特別気にも留めなかった。
 彼女の事が好きになった時、最初の弊害として自分よりも年上である事、そして自分がまだ十六という世間的に見ても子供に分類される齢だったこともあり、俺は慎重に自分が十八になるのを待った。もちろんその二年で、気持ちは一ミリ単位も変わらなかった。
 推薦で大学への進学を早々に決めていた俺は、十八になって暫くした後に告白をして、あの人は俺の彼女になった。日々他の人への対応を間近に見ているからこそ、最初のうちは冗談と取り合ってももらえなかったが、めげる事なく何日もかけて熱心に伝えると観念してくれたのか、それじゃあ付き合おうかと彼女はそう言って、俺の彼女になった。
「ちょうど風呂沸きますから、ちょっとは酔い覚まして来て下さい。」
「トリマル主婦力高いなあ。そういうとこ、好き。」
 そう言って、調子がいいように俺の首に手をかけてピョンピョンと飛び跳ねて感謝を表現する。酒が入っている時、彼女は俺に甘えてくる。普段から素っ気ない訳ではないけれど、あまり積極的に甘えてきたりする人ではない。
 姉御肌という訳ではないのだろうが、長年後輩として見てきていた俺にベタベタと甘えるような感じでもない。酒を飲むと、そういった理性やある意味で知性も飛んでいくらしい。酒は都合が良くもあって、恐ろしいものだと感じた。
「貴女は酒を飲んだ時しか、そう言わない。」
「そんな事ないよ。それに、沢山言えばいいってものでもないでしょ。」
「だったらもっと安売して下さい、俺はそれでいい。」
 俺の首に腕をかけているのをいい事に、俺もそれに乗じて彼女を腕の中に入れる。いつもより少しよそ行きの服からは甘い香水の香りがして、何だか憎らしくなって、彼女が困りそうな事を言ってしまう。
 どうすれば、この距離感以上に彼女を近くに感じられるのだろうか。




 十五分程が経過しても、あまり物音のしない風呂場を曇りガラス越しに覗いてみるけれど、動きはない。一応断りを入れてからドアを開くと、湯船の中でゆらゆらと船を漕ぎ出しそうな彼女の姿があった。下手をしたら死んでも可笑しくない状況だ。
 頬を小さく叩いてみても心地良さそうに眠り続ける彼女に、仕方なく少し力を入れてひねりを入れる。柔らかい彼女のほっぺはぐにゃりと曲がり、「いたい。」とようやく目を覚ました。
さん、死ぬ気ですか。」
「死ぬ気なんてないよ。トリマルが殺して、死ぬ事はあっても。」
「貴女を殺す筈ないでしょう。どういう発想ですか。」
 酔いが覚めてない上に、まだ寝ぼけているからか彼女は意味の分からない事を言う。何故、そんな事を言うのだろうか。酔っている時は無自覚状態で本音が出やすいとも聞くが、まさか心の奥底でそんな事を考えているのだろうか。
「この間、仮想空間でずたずたに殺したじゃん。」
「…まだその事言います?ちょっと、しつこいですよ。」
 少しだけ、ほっとした。もちろん俺が彼女を殺すことはないけれど、どこかの下らない恋愛ドラマで聞いたフレーズを俺は思い出していた。“殺したい程愛してる“と言う如何にもなキャッチコピーを馬鹿らしいと思いながらも、自分ももう少し何かを追い詰められたらそんな事を思う日が来るのではないかと、薄らとした恐怖を感じたからだ。
「とにかく上がってください。溺死する前に。」
 自分で風呂場に突入しておきながら、とは思うものの、酔っているせいか彼女は一糸纏わぬ姿にも関わらず特別恥ずかしがる事をしない。こちらの調子が狂いそうになって、手を貸して風呂場から起き上がらせると、すぐに肩からバスタオルを覆い被せた。
 俺に抱かれる時、一枚ずつ剥がされていくその行為にいちいち恥ずかしがる癖に、酒が入るだけで随分と人は鈍感になるものらしい。俺自身、早く酒を飲める年齢になった方がまだ気持ち的にも楽になるのかもしれない。
 辛うじて部屋着に着替えた彼女を連れて、俺はドライヤーを手に握る。そこまでしてくれなくていいと言う彼女は、少しだけ酔いを覚ましたのだろうか。自分でやっても絶対に乾かし切らないで寝るのが目に見えていたので、却下して座らせた。
 濡れて重い髪が徐々に空気に触れて乾いていくと、ふわふわと軽い手触りで触り心地がいい。猫のようにとまでは言わないまでも、指通り滑らかに俺の指を流れていく髪は、やっぱり男の俺のものとは違うのだとそう感じる。
「トリマル、もう帰らなくていいの?」
「帰った方が、いいんですか。」
「そうじゃないけど、もう十二時過ぎるし。高校生が出歩いたら、駄目な時間。」
「なら余計ここから出れないですね、俺。」
 技術でも、体力でも、言葉でも俺の方が圧倒的に優位を取れる筈なのに、どうしていつだって何かに負けているような気がするのだろうか。お互いの考える“好き“と言う気持ちを数量化した時に、俺の方が圧倒的に彼女のそれよりも大きく、俺が一方的に彼女を思っているからなのだろうか。仮説が出てきては自分で打ち消して、そして嫌になる。
「随分とガキ扱いするじゃないですか、俺のこと。」
「そんな事ない。でも世間の常識で言えばそうでしょ。」
「俺が、貴女の弟と同じ歳だから?」
「ああ、それはちょっとだけあるかもしれない。」
 こうして、思っている事を自分の損得感情なく素直に言うのだから、やっぱりまだ彼女の酔いは抜けていないのだろう。普段の彼女であれば、もう少し俺に配慮をした言葉を、選びながら言うだろう。
 そして、何より決定的なのは、俺の呼び名だ。トリマルとそう聞くたびに、俺は複雑な気持ちに陥る。付き合う前よりも尚の事、彼女の事が遠く感じられる要因の一つなのかもしれない。彼女は酔うと、俺をトリマルと呼ぶ。
「でも、トリマル私の彼氏じゃん。」
 付き合って暫くして、彼女に一つ俺は頼み事をした。トリマルという呼び名を、変えて欲しいと。すぐにそう頼まなかったのは、暫くすれば自然とトリマルではなく、下の名前で呼んでくれるだろうと何処か勝手に思っていたからなのかもしれない。付き合う事で関係性が変わったのだから、当然のように変わると思っていた。
「貴女の彼氏は、京介ですよ。」
 頼めば、彼女は意識して俺の事を京介と呼ぶけれど、こうして酒に酔っている時や、無意識に近い寝起きの時には、俺をトリマルと呼ぶ。結局、彼女の中での俺はトリマルであって、京介ではないのだろうと思う。それを認めたくなくて、いつだって心が折れそうになりながら、自分の名前を俺は彼女に教え込む。
「酒に酔うのも、大概にしてください。」
「じゃあ、甘えられないなあ。」
「酒なんかなくても甘えればいい。練習なら付き合いますよ、いくらでも。」
 彼女をベッドに寝かして、自分も添い寝するように体を横たわらせる。一人分の寝床しか確保してくれないそのベッドで、彼女の前髪を掬って、流す。気持ちがいいのか、ふわふわとしている彼女はまるで猫のように見える。くるくると髪を指に絡めて遊んで、前髪の隙間にできた肌にキスをしてみる。彼女は、未だ心地良さそうに微睡んでいる。
「名前で呼んでください。」
「…ん、どうしたの。京介。」
「次から間違える毎に、ペナルティ課せますからね。」
 やだ、と短くそう言った彼女は、もう間違えないよという言葉の代わりに、俺の口を塞ぎに掛かる。都合の悪い事を言っているとわかっているのか、ただ寝ぼけているだけなのか、やっぱり近くにいれば居るほど、俺にはこの人がよく分からない。
 むしろ、そう感じてしまうのは何故なのだろうか。決してぞんざいに扱われている訳でもなければ、付き合ってから別れるような喧嘩もした事がない。周りからは仲のいい恋人だと言われているけれど、何処か俺はそれが腑に落ちないでいる。
「好きだよ、トリマル。おやすみなさい。」
 十六の時、早く十八になりたいと思った。十八になって、俺は彼女を手に入れた。それが俺にとってのゴールだと思っていたのに、そうではなかったのだと気付かされる。十八になった今、早く二十になりたいと思う。きっと、二十になった俺は、二十二に早くなりたいと思い、一生堂々巡りを続けるだろう。
 自分がいくら歳を取っても、彼女との実質的な歳の差は埋まらない。どう頑張れば、彼女よりも大人になれるのだろうかと考える。大人になれば、こんな不安からも解消される筈に違いがないと、俺にはそれくらいしか自分を落ち着ける材料が見当たらなかった。
「おやすみなさい、さん。」
 彼女といる限り一生付き纏うであろうこの感情と、俺は共存する覚悟を決めなければならない。それは、その不安と一生付き合うしかないからだ。不安と彼女の存在を天秤にかけた時、大きく彼女に振り子が触れるのだからそうせざるを得ない。
 恋愛は駆け引き、なんてよく聞くけれど、本当にそうなのだろうと思う。駆け引きをしないといけないくらいに恋は辛いものなのだと思う事で、この不安定な幸せを噛み締めて俺も眠りについた。

シャイニー・グレイ
( 2021'12'27 )