酒を飲みすぎた日に限って、朝早く起きてしまうこの現象は一体なんなのだろうか。まだ二十歳と少ししか生きてきていないのだから、私にはその理由を探るだけの経験値が足りないのかもしれない。そんなものは必要ともされていなければ、誰も望んじゃいないだろうけれど。
 酷い二日酔いではない、喉が渇いて目が覚めた。狭いシングルベッドに一人で眠っていた筈の私は、隣に綺麗な寝顔をした男がいる事に一瞬記憶を掘り返して、そういえばなんとなく彼が家に来ていたことを思い出す。けれど、詳細な記憶はない。昨日はかなり飲んだ気がする。
 起こさないように、そうっと布団をめくって台所へと向かう。冷蔵庫を開けると、切らしていた筈の烏龍茶が新しく作られいて、満タンになっていた。恐らく、彼が酔っ払って帰ってくる私を事前に想定して、空になってシンクに置かれていた容器を見て気を利かせたのだろうと思う。
 暫く妥協して放置していた筈の洗い物は、綺麗に水切り籠の中で整列していて、私はそこから綺麗に噴き上げられている透明なグラスを手に取って、烏龍茶を注ぐ。百円均一で買った安物のグラスを、ここまで綺麗に仕上げる男もきっと彼くらいしかいないだろうと思う。
 一気に烏龍茶を飲み干すと、少しだけ体の水分量が増えて、気持ち体が楽になる。もう少し寝てしまえば、もっと回復するに違いない。私はそう確信して、未来の自分に投資をして、もう一杯だけ烏龍茶を一気飲みして、眠りにつくためベッドへと向かう。
「…おはようございます。」
「あ、ごめん起こした?おはよう、京介。」
「今日は寝起きなのに、俺の名前間違えないんですね。」
「寝起きなのは私じゃなくて、京介の方でしょ。」
 彼がこう言うという事は、きっと昨日の夜、私は彼の事を名前で呼ばず、付き合う前からの呼び名である“トリマル“と何度も呼んで、彼を失意に落としていたのだろうと想像がついた。意識しているときはきちんと彼の名前を呼べる私は、酔った時に限っては彼を名前で呼ぶ事ができない。
 私の中で彼は、トリマルだった時代が長すぎたのかもしれない。トリマルはトリマルでしかないのだから特に問題はないと思っていたけれど、付き合って暫くして名前で呼んで欲しいと言われて、やっぱり呼び方ひとつで捉え方は違うものなのだなと他人事のように感じたことを思い出した。
「昨日の事、どこまで覚えてます?」
「……どこまでと言われるとよく覚えてないけど、京介来たのは覚えてる。」
さん、都合悪くなると人の口キスで塞いでくる系の女性でした。」
「え、何それ。絶対、トリマルの幻覚。」
 言って、自分の両手で口を塞ぐ。また彼をその名で呼んでしまった。彼が悲しむと分かっているのに、私は意識しないと彼のことを京介と呼ぶ事ができない。私が自分の脳内で彼の事を投影する時、それが京介ではなくトリマルだからなのかもしれない。出会った頃から、今も尚それは変わらない。
「昨日決めたルール、覚えてますか?俺の名前間違えたら、ペナルティ課すって約束。」
「口約束は効力、薄いよ。言質取りたいなら録音するとか、記録に残さないと。」
さんの記憶力が皆無なので、今後は録画録音し放題ですね、俺。」
「口ぶり的になんだか如何わしい感じだけど、流用はしないようにだけお願いします。」
「それは、もちろん。わざわざ他の人間と共有する必要なんて、ないですから。」
 じりじりと私を攻め込んできたかと思えば、私に実力を行使してくる。主張は激しくないものの、しっかりと男である彼は私の体を巻き取って、再びベッドへと連れもどす。眠れるならもう一度寝ようかと思った私も、特別拒絶する事なく、彼の腕の中で大人しく抱かれる。
「だって、貴女は俺のものでしょう?」
 過去にも、同じような事を言われたことがあるような気がする。それは、付き合って間もない頃だったかもしれないし、私が酔っ払っている時に言われたのかもしれない。私は、この言葉に対して、いつだって曖昧な対応しかしてこなかった。
「なあに、急に独占欲。」
「と言うよりは言質を取れと言われたので取ってますね、まさに今。」
 彼は賢い男だ。知能面、言葉の威力、ボーダーでの階級と技術、体力さえも私は彼には敵わない。恋人として、誰もが羨むような完璧な要素を持っている彼に甘やかされながら、私は今日も駄目な大人になっていく。ただ一つ、彼に勝れる部分があるとすれば、それは彼より年上だという事だけだろう。
 なんの優位にもならないことは、私自身が一番よく分かっている。けれど、唯一、彼がそれを気にしているようだった。そこを駆け引きに使った訳ではないけれど、きっと今も尚彼は自分が私よりも二つ歳が下である事を引け目に感じている筈だ。
「私は京介のものじゃないし、何なら私を産んだ母のものでもないよ。」
 彼が、玉狛支部に転属してきてから私を好いていてくれた事は何となく理解していた。嬉しくなかった訳ではないし、後輩として私はきっと彼が好きだった。けれど、それが異性としてのものかと言われたらきっとそうではなかった。恐らく、彼が転属してきてからまだ間もない頃に好きだと言われていたら、こうして彼と一緒のベッドで微睡んでいることはなかっただろうと思う。
「でも私は京介の彼女だよ。逆にそれだけじゃ、足りないかな。」
 彼は、私との関係にいつだって怯えているように感じる。それは、先輩と後輩という関係性が長く、そして一度の告白で落ちなかった私に対しての劣等感なのかもしれない。
 元々の彼の性格や、育った環境がそうさせているのだろうとは思うけれど、私は世間でいう所のただの贅沢な女だ。年下でまだ高校生ではありながらも、機転が効いて、家事もできて、酔っ払いの私にも幻滅せず優しくしてくれる。これは自分の彼氏だからという手前味噌だとしても、彼はルックスも完璧だ。実際に周りからは私のこの境遇を有り余る幸せと表現されるけれど、実際本当にそうなのだろうと思う。
「京介と違って私は市場価値も低いし、心配しなくていいのに。」
「それは俺が市場価値のない女性と付き合ってると?」
「そこまでは言ってないけど、京介が心配することはないって事。」
「それは俺が判断する事で貴女が判断する事じゃない。」
 そう言って、布団ごと私を抱き寄せて、よりぎゅっと彼の方へと持っていかれる。自分の弟も彼と同じ歳だけれど、こんな事を女に言えるだろうかとぼんやりと考える。彼は、優しい。まだ私よりも若いのに、女の扱いをよく分かっている。どうして欲しいのか、彼は私に概ねの正解をくれる。
「京介、好きだよ。」
 あまり普段言わないその言葉を、言ってみた。彼が欲しがっていると分かっていながらもあえて言わなかった言葉で、私がいつも彼から言われている言葉だ。
 “好き“にはいろんな種類がある。異性としての好きもあれば、家族としての好き、友達としての好き、強いては人としての好きと用途は沢山ある。そのどの属性に分類されているかを明言しない“好き“という言葉に、果たして意味はあるのだろうか。過去の経験から、私はそんな事を思う。
「貴女がそんな事を言うなんて、まだ酔ってるんです?」
「たまには私も本気出すよ。京介に見放されたら、死んじゃう。」
 これはある意味では、私の本音だ。今私が彼に見放されたら、どう生きていけばいいのか分からない。こうして私に尽くしてくれる彼の存在は、精神的な支柱になっているに違いない。これからもずっと、一緒にいたいとそう思う。
「俺がさんを見放すなんてあり得ないでしょ。例え酩酊状態でも、好きですよ。」
 こうして甘やかされながら、やっぱり私は駄目な大人になっていくし、彼を駄目な女の彼氏に仕立てているのだろう。本来であれば、頻繁に酒に溺れるこんな年上の女なんて、見捨てられて当然なのに。
「進学したらきっともっとうちに泊まるよね?ベッド、大きいのにしようか。」
「なんですか、唐突に。」
「京介大きいから首も腰も痛いし、ゆっくり寝れないでしょ?私が幅取ってるし。」
 直接的な進学のプレゼントにはならないけど、その分うちにたくさん来てくれたら嬉しいなと言うと少し嬉しそうにも見えたけれど、私のその言葉を噛み砕いて考えたのか、彼からは冷静な言葉が返ってきた。
「いいんです、俺はこのままで。」
 週に数回、私の一人暮らし先へと来て面倒を焼いてくれる彼は、私のどこがそんなに好きなのだろうか。何年も想い続けてくれるほど、どこが良かったのだろう。その本人である自分自身が、私の価値を計りかねる。
「首が痛くて腰が疲れても、さんを近くに感じるこのベッドが俺はいいです。」
 こんな秀でて何もない女を、スペックの塊であるこの年下である男が好いてくれているのも、私には未だ謎めいた現象だ。身に余る光栄でしかない。何もない私に、彼がここまでしてくれる価値なんて何もないのに、それを拒絶するだけの勇気も私にはない。都合が、いいからだ。
「進学祝いくらいさせてよ。私だって報奨金もらったことあるよ。」
「なら、もっと俺に甘えてください。俺が面倒に思うくらい、執拗に。」
「京介に嫌われる事を自らやる訳、ないじゃん。」
「面倒に思っても嫌いになる訳がない。そうなれるくらいなら、苦労してません。」
 その言葉を皮切りに、彼は寝巻きの中に手を入れて、そっと優しく私に触れる。きっと彼に丁寧な手櫛を加えてもらったいつもよりも指通りのいい髪に、彼の指がするすると滑っていく。私は、彼が好きなのだ。間違いなく、きっと、彼が好きなのだ。
 これは、彼に抱かれる時、私が自分に言い聞かせる言葉だ。言い聞かせているというと彼のことが好きでもないのにそれを演じているように捉えられるだろうけれど、それは違う。私は、彼のことが好きだ。異性として、きっと。
「貴女を好きな限り、俺はずっと安心できないんだと思います。」
 こんな口説き文句を聞いて、落ちない女はいないのだろうかと少しだけ俯瞰してそう考える。相手がいないのに、見えない何かに嫉妬心をむき出しにして、余裕なく私にキスをしてくるこの男がどうしようもなく可愛く、愛おしい。けれど、私は未だにそんな彼に胸を痛める。
 彼が玉狛支部に来る少し前、私は先輩である迅に告白して、そして振られた。それは一つ年齢が下で対等ではないからなのかと尋ねたけれど、もちろんそんな事は関係がなかった。
 “俺も好きだよ。でも俺の性格…というか、性質わかってるだろうし、無駄な期待は余計に相手を傷つける“
 とても遠回しに見えて、彼の未来視のことを考慮して考えても私は確実に振られたのだ。きっと、嫌いではなかったと思う。私が京介を思うように、迅も私の事を玉狛支部の家族として思っていてくれただろうと思う。
 けれど、その一言で、私にはもう何の可能性も残っていないのだと、悟った。それは迅の未来視の中に私がいなかったからなのか、それとも今時点での迅の意思なのかは分からない。けれど、一度断られた以上、きっと私に彼とこの先異性として過ごす事はないだろうと察知した。
 そんな時、京介が玉狛支部に転属してきた。彼と出会ったのは、迅に振られてからすぐのことだった。
「じゃあ、一生私を好きでいてくれるってことだ。」
 昨日の飲み会に珍しく迅が来ていた事を、酔っ払いの私も流石に言わなかったのだろう。酒に興味のない迅が飲みの場に来るのは珍しい。無理矢理誘われてきたらしいけれど、その前情報を握っていた私は、よそ行きの服を来て、いつもより甘めの香水を振り撒いた。
「都合が良すぎて腹立ちますけど、そうですね。」
 もう迅と付き合う事はできない。それは京介が玉狛支部に来る前からの事実だ。きっと“迅“が私と付き合えないと言うことは、時間が経っても変わる事はないのだろう。そこで、初めて諦めないといけないのだと自分を戒めた。
 幸い小南にはこの噂が広がっていないようで、木崎にだけ口止めを依頼した。そして、京介が玉狛支部へとやってきて、その二年後、私たちは付き合った。
「京介に振られたら、私をもらってくれる人いなくなる。」
「随分と、自己評価が低いですね。」
「だって相手京介だよ?今でも釣り合ってないのに、それ以上とか贅沢だよ。」
 いくら年下とは言えど、彼を慕っている女性は多い。そんな男から一心に、そして執拗に愛されている私は幸せ者なのだろうと思うし、私自身そう感じている。
 私は、ずるい女だ。迅が持っている能力を自分の駆け引きに使った。いろんな未来が見えている中で、私との未来がいくつかの未来に投影されていれば、もしかしたら彼女になれるのではないかと考えた。いつだって優しい迅を糧に告白して、私は失敗した。
「どうしたら京介は安心してくれるんだろう。こんなに、好きなのに。」
 迅との未来が完全に絶たれているというのであれば、もう割り切るしかない。恋愛は自分からの好意でしか始まらないけれど、時には熱量が大きければ、受け取る側として後からでも相手を好きになれるのではないだろうかと、そう考えた。
 京介には、気の毒な事をしたと思っている。私が迅を好きだったという“過去“を知らないまま、苦しんでいる。
「安心したくないんです、さんが好きなので。」
 これだけ私のことを愛してくれる男は、金輪際いないとそう思う。それくらい、彼は私のことを第一優先に考えてくれる。私よりも年下なのに、私が思いつく以上の言葉で私を包んでしまう。
「変態、でもその変態性も認めて受け入れてあげる。」
「認めてあげるじゃなく、認めざるを得ない、でしょ。」
 本当の自分の気持ちが通らないのであれば私には切り替えが必要だ。もう一生彼氏がいらないという年齢でもないのだから、次を考えるのは当然だ、そんな時、京介が玉狛支部にやってきた。
「まだ眠いの。起きたら、甘えたい。だめ?」
「俺が拒絶したこと、ありますか?」
「ないよ。言質、取っただけ。あと二時間したら起きるから、おやすみのキスしよっか。」
 そう言えば、要望通りに、彼の熱くも冷たくもない体温が私に伝わる。温いと言えばちょうどいい表現だろうか。
「それは、俺を誘惑する行動でしょう。」
 そう言って、私を優しく抱く彼の本心は、どうなのだろうか。いつだって、どんな時でも彼は絶対に私を拒絶しないし、全てを受け入れてくれる。全ては私を満足させるために、彼は動く。自分のことよりも、私を優先する。時々、私の言葉を聞かずにこうして求めてくるのは彼も若い男だから仕方がないのだろう。後で、と言った事に対して一度は認めたようにも見えて、するりと指が上から下へと伝ってくる。
「まだ明るいよ、京介。」
 ある程度酒が抜けた私を、彼はしっかりと女として扱う。申し訳ないと思うこの気持ちは、いったい何なのだろう。
「京介のこと好き。ずっと一緒に、いよ?」
 彼は数ヶ月後には私と同じく、大学生になる。今は私が飲み会だのサークルだのボーダー以外の活動で彼はヤキモキしているようだったけれど、彼の大学生活は、常に女が周りにいるのではないかと、思う。
「それは、煽りすぎです。」
 私はこうして、彼に抱かれる。それは幸せなことで、私は世間的に見ても満たされている女だろうと思う。だからこそ、この言葉が大切なのだと思う。
 ようやく安心したのか表情を緩めた彼は私に口付ける。私も彼を求めたし、彼も私を求めた。高校生の年下の男に何をしてるかと言われたら、ひとたまりもない。私がぼけっとしていても、きちんと京介が私をつかまえてくれる。
 私は決めたのだ。叶わない恋より、叶う恋。好きになって尽くすよりも、尽くされる側の方が幸せだと。私は今、その真っ只中にいるのだろう。
「やっぱ、京介が一番好きだなあ。」
 嘘ではなく、本当でもないその言葉を元に、私は彼に抱かれる。身が震えるほどの、気持ちのいい交わりを与えてくれる年下の彼に分不相応な優越感を感じ、そしていつだって罪悪感を感じながら私は彼と共にいる。
「馬鹿ですね、貴女という人は。」
 総合的に考えると、私には彼というとても贅沢な選択肢が残っていたという事だ。最も私が強運だったのは、誰にとっても価値のない私という余りものを、京介がしっかりと選んでくれた事だ。まるで、私がドラマの主人公であるかのように。
「大学、遅刻しますよ。」
「え、言うの遅くない?ひどい。」
「嘘です。」
 より一層と寄りかかってくるその大きな体を、私も受け止める。彼にここまで思ってもらうほどの価値がある女ではないけれど、そう思ってもらうことに弊害はない。少し良心が傷つくのを、我慢すればいいだけだ。
「今日は俺も貴女も非番で、土曜日だ。ずっと一緒にいる日です。」
 これは私が一方的に、彼へと誓った白い約束だ。決して、裏切らないと。精一杯求めてくる京介を、私も受け入れ、落ちていく。


白い約束
( 2021'12'29 )