昔から第六感は強いほうだった。
 別に自分の死期が明確に見えている、というそんな恐ろしいものではなかったけれどなんとなく嫌な予感がしていたのだ。十中八九とまではいかないけれど、私の勘は高い確率で当たることが多い。もちろんそんな事を言った所で変人扱いされることも安易に想像ができて、今までそれを人に伝えたことはなかった。
 今回の任務を下された時に嫌な予感がしていた。ただ、漠然とした不安が渦巻いて離れることはなかった。



 今回の任務が下されたのは、数日前のことだ。特別上弦の鬼がいると予め告知されていた訳でもなかったが、何とも表現しがたい恐怖がそこにはあった。
 かつて柱の一人が任務で、複数の部下を連れて任務に行った時のことだ。その時も今と同じような恐怖をぬぐう事ができずもやもやした感情が蔓延っていた。私はその任務についていた訳ではなかったが、現実としてほぼほぼ予想通りとなり、多くの犠牲が伴った任務となった。
 その時と同じ恐怖が纏わりついて離れない。
 今回の任務は随分と遠方という事だったので昼過ぎに本部を出た私は、藤の花の家紋で一夜を過ごすことになった。
「何構えてんだ。」
「別に構えてる訳じゃないですよ。まさか今回の任務に宇髄さんが来ると思わなかったから。」
「俺だって思わなかったし、それだけ人が足りてないって事だろ。」
 人使い荒いわ御館様も、なんて心底思ってもいないような事を呟くのだから憎い男だと思う。きっと私が何かしらの不安を抱えている事に気づいて、あえてこういう態度を取っているのだろう。彼はそういう気遣いが出来る男で、そして私の元師範である男だ。私が思っている以上に、彼は私の事を知っているのかもしれない。
「現役引退した訳じゃなかったんですね。」
「御館様の計らいでな。引退したのは柱だけ、まあ任務となるとあれ以来か。」
 今はない左腕の先を見据えながら、何てこともないように彼はそう言った。妬みも嫉みもなく、柱だったあの頃の彼と何一つ変わらないようなどっしりと構えた姿だった。
 彼と顔を合わせたのは随分と久しぶりの事だ。
 それもそうだろう、彼が柱でなくなった時点で私も彼の継子ではなくなったからだ。以前のように手合わせをしてくれる訳でもないのだから彼の屋敷へと通う必要性もなくなっていた。
「…で、それが私の部屋にいる理由にはなってないと思うけど。」
「飯食うだけだ。取って食おうって訳じゃないし、片腕だと何かと不便なんだよ。」
「食事にも難儀するような元柱と二人で任務とか、それこそ明日が私の命日かもしれない。」
「随分と口の方だけ達者になったもんだ。」
「それは私を継子として育てた柱に言って下さい。」
 その先の言葉に返答がない代わりに、彼は私の隣に膳を並べてどっかりと腰を据えた。特段左腕があった時と変わらず起用に箸を持つと、みすぼらしくぼろぼろと食事を零す事もなく綺麗に口へと運んでいく。五体満足な私の気が引けるほどに綺麗なその食べ方に、私の方が綺麗に食べる事を意識してしまうくらいなのだから彼がこの部屋にやってきた理由の辻褄が合わずもやもやした。
 彼は一体どんな気持ちでこの任務に挑むのだろうか。剣を握る者として、左腕がないのは想像している以上に致命傷だ。指を数本なくしただけの人間ですら現役として活躍するのは難しく、その多くの者が隠として役割を変えるものだ。五体満足で初めて、まともに剣を振るう事が出来るのだから。
 誰よりもその状況を分かっているのもまた彼だろうに、何故この任務を引き受けたのか私には甚だ疑問でしかなかった。いくら柱を引退して退院として現役であるとは言え、彼の戦力はおそらく今の私にすら劣る筈だ。断れば無理を強いてまで任務に出される事もなかっただろう。
「宇髄さんって何で私を継子にしたんですか。」
「何だよ今更。」
「確かに何で今まで聞かなかったんだろ。」
「…阿呆。」
 今まで考えたことがなかった訳ではないが、そこまで深く考えたこともまたなかった。
 元々私には継子になる力量も才も持ち合わせない、運よく最終選別を生き延びただけの非力な人間だった。もちろん私から弟子入りを志願するほど図々しい性格ではないのだから、彼からの誘いがあって彼の継子になったのだが、あまりにも過酷な訓練に何故自分が彼の継子に選ばれたのか考える暇を与えられなかった。
 周りからの偏見の目があるのは分かっていた。色目を使って彼に取り入ったのではないかと一部の隊員の間で噂になっている事も知っている。
 けれど今になって思うのだ。私にとって強くなる事に価値はあっても、彼にとってそんな私を継子にする事には何の価値も見出さない。寧ろ、彼まで奇異の目で見られるのだから価値どころか汚点にもなり得るだろう。冷静に考えて、やはり理由が思いつかない。
「聞き逃げですか。」
 早々に食事を終えた彼は器用に膳を片手で持ち上げて部屋へ戻るのか、立ち上がって背を向けた。
「…同じ呼吸使えるのは案外少ないんだよ。」
「あ、そっか。」
 私自身少しばかり納得してしまったけれど、相反して大きなその背中は居心地悪そうに私の前から消えていった。



 風呂を終えて早めに床に入る。
 元々あまり寝つきがいい方ではないが、こうして考えることが多い時は余計に寝られないものだ。今回の任務に際して考えるところがいくつかあった。
 何故柱を引退して隊員として通常任務をしている訳ではない彼がこうして任に借り出されたのかという疑念と、夕餉に見た彼の後姿だった。
 何度か寝返りを打って寝入ろうと勤めてみたもののやはり眠気は一向に訪れず、あきらめた様に縁側の戸を開き、夜の空気を吸った。腰を下ろして、ぷらぷらと足を遊ばせていると音も気配もなく、聞きなれた心地の良い声が耳に入った。
「寝れないのか。」
「普段夜は任務についてるからかな。何か妙に目が冴えちゃって。」
「お前がそんなに繊細な女だったとは初耳だな。」
「私もそこまで自分の元師範が女性に配慮のない人間とは知りませんでした。」
 皮肉を告げる彼に、私も皮肉で返す。今に思えばこんなやり取りも懐かしくて、少し前まであったはずの日常だったけれど酷く昔のことのように感じられる。もう何年もの間、私たちはこんな環境の中で過ごしていた筈なのにどうしようもなく遠いような気がするのは何故なのだろうか。
 私が鬼殺隊に入ったのは今から三年程前に時を遡る。
 入隊した理由は他の隊員と大差ない、身内を鬼に殺されたからというありきたりな理由からだった。身内を失った私には、もはや拠りどころなどなく当然のようにここへとたどり着いた。
 何が何でも鬼殺隊に入りたいと思っていた訳ではない点を考えると、他の隊員に比べると気概の部分ではかなり劣るだろう。生きる目的を見出せなかった私は、かろうじて鬼を滅する事で自分の生きる価値を見出そうとしたという本当に自己都合の理由からだった。
 育手の元で数年鍛錬して挑んだ最終選別で生き残り、隊員になるとすぐに任務はやってきた。何度も今度こそ死ぬかもしれないと思う環境の中で辛うじて運よく生き延びた私は、数ヵ月後に柱である宇髄と初めて対面した。
 鬼神のごとく強い彼を前にして、異次元のものを見ているような感覚に陥った。返り血を浴びて赤く染まるその身体が酷く美しく見えた事を今でも覚えている。
「さっきの呼吸が同じだからっていうの、本当は違うんじゃないですか。」
「なんだ、藪から棒に。同じ呼吸ってのは本当だろ。」
「私に水の呼吸が合ってないからって、音の呼吸を教えてくれたのは宇髄さんでしょ。」
 彼に声をかけられたきっかけは、そこにあった。音の呼吸は雷の呼吸の派生と聞いていたが、水の呼吸を会得していた私に何の縁もない音の呼吸こそが向いているのだと言われたのが事の始まりだった。
 水の呼吸を使うものが多い所以として、一番入りやすい呼吸であるという理由がある。たまたま私の育手が水の呼吸だったというそれだけの理由ではあったけれど、まさか三年以上も使っていた呼吸が私にあっていないとは夢にも思わないだろう。
「現にお前は音の呼吸に変えてから階級あがっただろ。」
 彼の言っている事は正論過ぎて私には返す言葉がない。本当に彼が言うとおり、呼吸法を変えてから私は飛躍的に力をつけ、階級をあげていった。水の呼吸よりも自分の身体に馴染むような感覚があった。
「じゃあ宇髄さんは潜在的にあった私の能力を見抜いてたって事か。」
「自惚れてんじゃねえよ。俺が見出してなきゃお前なんて今頃死んでる。」
「確かに、それはご尤もかもしれないなあ。」
 私がここまで生きてこられている理由、そしてある程度の立ち位置を築けたのはひとえに彼のおかげに違いがないだろう。けれどこれだけの痛いほどの事実を突きつけられても、私には釈然としない何かが残っているのだからしっくりこないのだ。
「……宇髄さんは、何で忍の里を抜けたんですか。」
 今まで聞きたいと思いつつ、何処か聞いてはいけない気がして紡ぐ事のできなかった確信を口にしてみることにしたのだ。
 気になっていなかったのかと言われたら、そうではない。本当はずっと聞きたいと思いつつも、何処か聞くことができないでいた。聞かないでほしいという雰囲気を出されていた訳ではなかったけれど、彼から話してこないという事もあって、私から聞くのも何だか憚れていた。理由は簡単だ。私も、鬼殺隊に入った経緯を彼に話していないからだ。
 隣の部屋の縁側から草履を履いた彼は私の隣に腰掛けて、静かに話し始めた。
が他人に興味示すなんて随分珍しいんだな。」
「私だって人の子だし血の通った人間ですから。少しくらいは、気になる。」
「…話し甲斐のない奴。」
 そっと隣に腰掛けてきた彼の話に耳を傾けた。彼にはどんな経緯があって、どんな人生を歩んできたのだろうか率直に興味があった。此れほどまでに力を持った彼は、一体どういう生い立ちを過ごしてきたのだろうか。
 忍という存在はもちろん私のような無知な人間でも知っている。感情を持たず、下された任務を遂行する為だけに形成された残酷無比な集団だ。けれどそれは江戸の頃には滅びているとも聞いていたのだから、彼が忍の末裔であると知ったときは大層驚いたものだ。
 昔に一度だけ、雛鶴に忍時代の話を聞いたことがあった。彼が自分の生き方、そして忍としての在り方に疑問を感じ、すべてを捨てて忍の里を出て鬼殺隊に入ったという事を。彼をその方向へと導くだけの何かが、きっとそこにはあったのだろうと思いつつそれ以上深くを聞かぬまま終わってしまっていた。
「俺の判断の過ちで、多くの人間を殺した。」
 話を聞くうちに、私には思い当たる節があった。口を挟んで、それがどういう人間だったのかを聞く事も出来ただろうけれど、それがあまりにも私が思い浮かべている状況と酷似していて何も言うことが出来ない。
 話はこうだ。忍時代の彼は任務を遂行する為、夜の街でその時をひっそりと伺っていた。その時意図せず出現した鬼に一瞬の隙をつかれ、暗殺対象だった人間を取り逃がしてしまった。その鬼に構うことなく目的としていた人間を仕留めた後、すぐその近くで鬼によって多くの人間が殺されていた事を知ったのだと言う。
「判断を誤った事で、罪もない人間を見殺しにした。救えた筈の命を、俺は取りこぼしたんだ。」
 それで、自分自身の存在価値に疑問を見出したと彼は言った。人を殺める為だけに生きていた事に迷いを感じながらも、自分の生まれや育ちから考えてそれを否定するのは難しい事なのだとそれも雛鶴から聞いたことがあった。それを否定することは、彼の今までの人生を否定する事に繋がるからだ。
「だから里を出た。それ以上も、それ以下もない。」
 彼に感じていた違和感と、私自身が抱えていた違和感が馬鍬って一致したような気がしていた。彼は多くを語らなかったけれど、きっと話から察するにその犠牲になった人間の一人は私の母親なのだろうとそう思った。あまりに酷似したその環境に、そう思わざるを得ない。
 彼はそんな咎を抱えて今まで生きてきたのかと辛く思う反面、彼が人間としての第一歩を踏み出せた事によかったと思うのだから複雑に思う。
「死んでしまった人の命は戻らないけれど、もしそのきっかけが宇髄さんにとってのきっかけになったらよかったんだと思います。」
「確かにきっかけではあるが、許されるものじゃないだろ。」
 何かを思い出すように、彼の視線は夜空の奥のほうを射抜いていた。私はなんと言う言葉を彼にかけるのが正解であるのかを、見つけることができない。
 恨んでいる気持ちが全くないのかと言われたら、それは違う。唯一の肉親であった母親を失った私にとって、少なからずそれは憎悪の対象だ。けれど、彼を今も尚恨むのかといえば、それもまた違うような気がした。
「もう許されてもいいんじゃないですか。宇髄さんはきっとそれだけ悩んで、苦しんだから。」
 振り向いた彼のかんばせには、いつもの眼帯はなく、代わりに目元に小さな痣が見えた。あの戦いの後からいつだってその左目を隠していたのが、別の意味があったのだと知って、どしようもない気持ちに襲われた。
「もう囚われなくてもいいんじゃないですか。」
「それはお前が決める事じゃないからな。これは俺の咎なんだよ。」
 彼がここまで大きなものを抱えているとは知らなかった自分が、どうしようもなく恥ずかしく思えた。自分の第六感で自分の身を案じていただけの私とは違い、彼は比べようもない業を背よっていたのかと思うと自分のちっぽけさに耐えられないように涙が下った。
 彼が私を継子にしたのも、これだけ悪態つきながらも手塩にかけて育ててくれた事にも、すべて合点がいくのだから。
「宇髄さんは業が深いなあ。」
「それだけのしてきたからな。仕方ないだろ。」
 片腕と片目を失っても尚、彼は自分の犯した過去の過ちを清算できないのだろうかと思うと、彼の懐の大きさを知るようでどうしようもない気持ちに陥った。私が未来に一喜一憂する事が、いかにちっぽけで、情けないものなのかを思い知った。
「…なら私が宇髄さんの事を許すから。もう囚われないで。」
 もうお互いにその事実が何であるのかを理解していながらも、その核心を言うことはない。大人だからといえば卑怯なのかもしれないけれど、もう互いが分かっていることを口にする必要はないだろう。
 いつ出現したのか分からない痣を見ながら、私は彼の左頬に手を伸ばす。何故、神は此れほどまでに残酷なことをするのだろうかと恨まずにはいられない。私の大切な人間ばかりに、痣をだしては、その寿命を削っていく。
 きっと、あの時の後悔を元に彼は私を守るために自分の命を燃やしているのだろう。私はそんな事を微塵にも望んでいないと分かりつつも、無理に自ら名乗りを上げてこの任務に参加したに違いない。
「泣いてんじゃねえよ。」
「……なら、見ないで下さいよ。」
「おーおー、泣け。お前の不細工な泣き面ななんて見たくないわ。」
 そう言いながらも反比例するように優しい彼の右腕に包まれながら、私は彼の言葉のまま泣き通した。彼の優しさで、先ほどまで感じていた嫌な予感も少しばかり霞んでいたような気がしていた。
「大丈夫だ。明日は悪いようにはならない。」
 きっと私には彼が必要だったのだろうと思う。鬼殺隊に入ってからもいつだって孤独を感じていた私に、温もりをくれたのは彼だった。
 それが自分の罪悪感からくるもので、それ以外の感情がなかったとしても、私からしたらあまりにも贅沢すぎる温もりだった。
「心配するな、もう次は間違わない。」
 力強く抱きしめてきながらも、少しだけ空気に触れた彼の震えた声が、私をより一層強くしてくれるような気がしていた。
「宇髄さん。」
「…なんだ。」
「私を見つけてくれて、ありがとう。」
 明日がどうなるかは分からない。明日が本当に最後になるかもしれない。恐怖が無い訳ではないし、自分の中に流れ込んできた得体も知れない恐怖は今も尚拭う事は出来ない。
 けれど、明日に立ち向かうだけの気力はこの腕の中で育まれている様な気がしたのだ。
「死んでも仕方ないと思ってたけど、生きたいと思う理由を作った宇髄さんは罪深いですね。」
 力強く彼の片腕が、私をより一層に抱きとめた。

執拗に甘い地獄
( 2020'08'10 )