道場には、いつだって気合に満ち足りた青葉の姿があった。明けても暮れても、この道場でただひたすらに稽古をつけるのは、きっと青葉一人だけであろう。人々はこう言う。彼女は、剣の鬼であると。
「青葉ちゃんは本当に熱心だな。関心関心。」
「新八さんの肉体美には負けますけど。」
「馬鹿。青葉、こいつは煽てたって何もでねえぞ。」
 休憩がてらに交わされるいつものやり取りに、青葉も表情を緩めた。此処は、彼女にとって一番気を緩める事の出来る場所であった。試衛館道場の頃からの馴染みの仲間もいれば、心高き理想を掲げている隊士も数多い。何一つ文句のつけどころのない、この場所が青葉は好きだった。唯一、自分が女であるという事に、ほんのささやかな反抗心を抱く以外は。
「お前も大変だな、青葉。少しは息抜きってもんを覚えた方がいいと思うぜ。」
 原田の気遣いに、青葉は可笑しくなったように笑んだ。
「私にとってこうしている事が何よりの息抜きだって、左之さん知ってるじゃないですか。」
 そう言えば、彼らは呆れたように笑った。青葉が剣術に長けていて、何よりそれを大切にしている事は言わずれと知れた事であった。それは青葉が試衛館の門弟であったころから、何も変わる事はない。
 けれど、彼女は幹部でもなければ、隊士でも何でもない。何の称号も持たず、武士とも言えない、けれど一般人とも呼べない、宙ぶらりんな存在だった。基本的に女は刀を持つ事はなければ、武士と呼ばれる事はない。だからこそ、何の役職に就けずとも青葉はこの新撰組に居場所を感じる事が出来るのだろう。武士は形や家柄ではないと、謳うこの場所が。
 久しぶりに稽古と称し、木刀を永倉の前に構えた青葉は、この上ない高揚感を浮かべる。結果は、もちろん例え剣術に長けているといえど、一介の女が新撰組の幹部ともあろう人間に敵う筈はない。けれど、悔しさや劣等感は感じない。
「剣術馬鹿って見てるだけで暑苦しいなあ。青葉と新八さんはよく似ている。」
 たった今、野次を飛ばしてきた、この男を除いては。この男にだけは、どうしてもその例外が当てはまってしまうのだ。そして、沖田も沖田であえて青葉を罵る様な事を言うのが、此処での常であった。
「幹部ともあろう人間が稽古も付けずに子どもと遊んでばかりなのは如何なものかと思うけど。」
「なあに。青葉は嫉妬深いなあ。そんなに怒らなくてもいいじゃない。」
「……冗談も休み休み言って。」
 青葉とは違い、新撰組一番組隊長という、確固たる役職を持っていながらも、彼はさながら自由人であり、まるで幹部らしい振る舞いをしない。絵にかいたようなその確固たる彼の立ち位置に、青葉はいつだって歯がゆさに顔を歪める想いを堪える。
「そんなに稽古稽古言うんだったら相手してあげるよ。」
   僕が、君と。
 慣れたような、しかし、いつだって呆れたかんばせを揃わせ、彼らは黙って二人の元を去っていく。
 しれっとした表情で木刀を構える沖田は、永倉との稽古で体力を消耗している青葉にも構わず、容赦なく彼女を攻め立てる。とめどなく繰り出される彼の剣を受け止めるだけで必死な青葉は、息をつく間もなく負けを見た。
「総司は、ずるい。」
「どうして。僕は何もしてないじゃないか。」
「それがずるい。」
 微量に肩を前後させる青葉に対し、沖田は先ほどと何も変わらぬその顔つきで、彼女を見据える。そんな何食わぬ彼の仕草に更に彼女の“劣等感”という名の厄介な感情が、絡みついて行く。
 彼女は総司と同じく、試衛館の門弟であった。早くに両親を亡くし、まだ幼く引き取り手のない青葉を引き取ったのは、善意に溢れたような、それはまるで仏の様な男であった。沖田が近藤を崇拝するように、青葉もそれと同様に、彼を慕っていた。強くなる事でしか、そこに自らの居場所はないと、そう感じていた。女子という性を乗り越えてでも、強くなりたいと、気づいた頃には極自然と心の中に芽生え、住みついていた。
「試衛館の内弟子になったのは、私の方が先だった。剣術を心得たのだって、私の方が先だった。」
 身よりのなかった青葉にとって、試衛館道場とは、第一の居場所であり、心のよりどころであった。強くなる事で、彼らの役に立ちたいと純粋にそう思っていた彼女の心は、一人の対抗者によって、焦りを生みだした。
 何をやっても、沖田の成長の方が早い。彼には素質があった。青葉が努力の末に手に入れたもの全てを、彼が全て軽々と塗り替えていく。次第に、大衆の目は沖田の方へと向いて行くようになった。自身が注目されなくなった事に焦ったのではなく、それは、自分の存在が無意味で無価値で、試衛館道場の門弟として必要ではないと放り投げられるのではないかという、純粋な不安であった。青葉が沖田を敵対視するだけの材料は揃っていたのだ。
「君はとっても下らない事に執着してるなあ。」
「私はいつだって総司の影に隠れる存在で、いつも怯えてなくてはいけなかった。いつ要らないって捨てられるんじゃないかって、自分の無力さを恨んだ日もあった。」
 言いきって、青葉は目配せる。言葉にすると余計と不安と劣等感で苛まれていくような気がした。全てが彼に劣っていて、それが全てで、青葉にとってそれ程の恐怖はなかった。きっと彼には、そんな気持ちに同調を得る事は出来ないだろう。
「青葉は近藤さんがそんな人だと本気で思ってる訳?」
 いつになく不機嫌そうなその声が、冷たく吹き荒れる風と共に耳へと滑りこんだ。
「近藤さんがそんな事する訳ないだろ。」
「…総司には分からない。総司にはちゃんとした居場所があるから。」
 新撰組の幹部という、揺るぎないその居場所が青葉には心底うらやましかった。かろうじて無意味で無価値ながらもこの居場所に縋りついている自分とは違い、ちゃんと求められたものを持ち、必要とされて居場所を持っている彼が、何よりも羨ましい。境遇は同じだった。けれど、こうも差は開いてしまった。いっその事、彼になれたらと、何度思ったか数え切る事は出来ない。
「馬鹿だね、青葉は。」
 ふと、優しげに揺れた沖田のかんばせに、彼女は面をあげる。優しさの中に、物悲しさをも漂わす、同じような何かを感じ取って。
「要らなければとっくに追い出されてるし、僕だってやっぱり斬ってるだろうね。」
 その言葉は、まるで魔法のようにすうっと青葉の心を浄化していくようであった。たった一言、その言葉を待っていただけなのかもしれない。他の誰に言われてもしっくりと体に入り込む事のなかった、単純なその言葉が、彼から発せられる事でようやく素直に浸透していく。同じ境遇の彼だからこそ、その言葉が染み入る。
「これでも青葉の事はよく分かっているつもりだよ。僕も、君も、此処しかない。この居場所がなくなったら、一人ぼっちだから。」
 きっと他の人には、分からない、二人だけでしか共有出来ないその感情が、今までの痞えていたものが音を立てて抜け落ちたように、青葉は拍子ぬけた。
「一人ぼっちよりは二人ぼっちの方がいいと思わない?」
 二人ぼっちという、どうしようもなく頼りないその響きが、どこか青葉を酷く安心させるようでもあった。彼の前で泣くなど、自尊心の崩壊も良い所だと思いながらも、案外すんなりとその自尊心を払拭した青葉は、感情に身を委ねた。
「意地っぱりだなあ。泣く時くらい我慢しなくてもいいのに。」
「泣いてない。」
「そう。そっか。それは失礼致しました。」
 引き寄せられて顔を埋めた彼の懐は、薄着の割に暖かく、不思議と居心地が良かった。ようやく彼女は失っていた自らの分身を見つけ出した。物心ついた頃より探していた、欠片を。

2011'12'03