彼と関係を持つようになったのは、今から遡ること数年前の事になる。私の部署の部長職についている男だ。早くからその才能を存分に発揮し、何をやらせても彼に勝るものは誰もいなかった。同期であった私とはどうしようもなく違う存在で、同期であった事すら入社一年もすれば忘れるくらいの異次元ぶりだった。
 彼が私の直属の上司になってからも随分と時間が経っていたが、すべての歯車が狂い始めたのは達成会と称して行われた飲み会の帰り、私が酷く酒に酔っていた時の事だ。
 チーム全体の数字に加えて自分自身の個人目標も達成していた事に柄にもなく高揚していたのかもしれない。いつも以上に酒の周りが早く、今に思えばところどころ記憶が欠落している。人はこの状態を酩酊状態と呼ぶらしい。この事件は、人生における汚点の一つだと記憶している。
 酩酊状態の私は帰りの方向が同じ宇髄に支えられながら駅を目指したものの、駅までたどり着くことはなく、ずっしりと重みを感じる頭を起こした私の視界に映されたのは薄暗く色がついたライトが煌々と照らされるホテルの一室だった。
「……よう。どうだ気分は。」
 背中に嫌な汗が伝う。現状を受け入れたくもなかったが、隣に感じる違和感に目を向けると昨日の酒など物ともせずにケロっとした表情でこちらを見ている宇髄がいた。どうやら、私は上司と酒の場での過ちを犯してしまったらしいと脳みそが判断を下すまでに暫く時間がかかった。
「お前がお喋りな女だったとは知らなかったな。」
「…私そんなに喋ってましたか。」
「人並みには喋ってたし、途中からは気持ち悪いって煩かった。」
 聞いているだけで顔から火が出そうな勢いで昨日の酒が血液を逆流してくるようだったけれど、暫く時間を置くと現実味が帯びてきたようにすぅっと今度は体温を失ったように冷える感じがした。人生における醜態を晒したのだとその後すぐに認識に至った。
「まさか全部記憶なかったりする訳。」
「…皆と解散してからは、ほとんど。」
「なんだよ。もったいない女。」
 いったい私は彼とどんな時間を過ごしたのだろうか。終盤は気持ち悪いと何度も口にしていた点を考慮しても、ムーディーな一夜を過ごした訳ではなさそうだ。
 布団の中にすっぽりと嵌っている自分の体を確認するように布団を覗き込めば、ある程度の事は理解ができた。雰囲気はどうにせよ、私は自分の上司と寝たというのは紛れもない事実のようだった。
 色んなことがぐるぐると脳内をめぐっていく。今までの事、そしてこれからの事、私のこれからの仕事の事、頭を全力で回転させたところで希望の光は微塵にすら見出せない。
「…私クビだったりします?」
「あほか。どんな頭してんだお前。」
「いやだって、こんな事なったし…。」
「別に俺が無理やり犯された訳じゃねえんだし、問題ないだろ。」
 どうして彼はこうも焦ることなく冷静でいられるのだろうか。仕事ができる人間というのは自分の脳みそとは構造が根本的に違うのかもしれないとぼんやりとそう考えた。隣であたふたと効果音が付いてきそうな私とは正反対なまでに余裕のある、いつもと変わらない上司の姿がそこにはあった。
「今度は記憶なくすなよ。」
 まだ重い頭で考える間もなく、彼は私にした昨日の出来事を体現する。優しく髪を撫でる大きな手のひらも、首の筋を這うように動く唇も、全てが優しくて、そして上手かった。
「…、お前酒残りすぎ。」
 そう言いながらも、私からアルコールを抜き取るように唇が重なった。
 ふいに入社してばかりの頃を思い出す。
 私は、彼の事が好きだった。   好きと断定するにはまだ不確かな憧れに近かったのかもしれない。
 ほろ苦くもあり、淡い過去の感情だった。



 入社してばかりの頃はただの顔のいい男だなと思うだけだった。
 研修の飲み込みも早く、そして同期の皆の統率を取っていたのも彼だった。頭の回転が速いという事は入社して数日で周りも知る事となり、宇髄はやっぱり皆と違って特別だなと誰も彼と競うような事はしなかった。
 最初のうちは同期で飲みに行くこともあったし、同期なのだから特別敬語も必要がない。今から思うとかなりフランクな関係性だったと思う。
 一ヶ月の研修が終わり各々配属先へと飛ばされ、私は宇髄と同じ部署に配属となった。
 最初は同じ部署に同期がいる事の安堵感があったが、数ヶ月もすればそれは脅威となって私へと降りかかってきた。
 全てを完璧な宇髄と比べられ、そして自分が彼よりも劣っているというのが全ての評価になる。私に出来て彼に出来ないことはなく、彼に出来る事は私には出来ないものの方が多かった。
 比較となる対象があまりにも次元の違うものなのだから仕方がないと周りから厳しい目を向けられる事もなかったが、社会人一年目の私には耐えがたくつらい経験として記憶に残っていた。
 最初に淡く感じていた憧れは鳴りを潜め、次元の違う遠い存在へと変わっていった。年次をあげていく毎にその意識は強くなり、自分よりも後から入ってきた人間には彼と同期であるという事は極力気づかれないように距離を置きながら仕事をした。
「何でお前敬語なんだよ。今の状況分かってるか。」
「……一応、上司だから。」
「一応じゃなく立派に上司だけどな。今は仕事中じゃない。」
 きちんとした記憶の中で彼との情事を終えた後、正直会話に困った。もちろん困っているのは私だけで、彼のほうはと言えば目を覚ましてから終始余裕を貼り付けたような表情で私を見ている。
「甘え下手な女は損をする。覚えとけ。」
 女を手懐ける事に長けたその男に、私も再びうっかりと足を踏み入れてしまった。それが、自分自身にとっても何かの歯車を狂わせるものになるのではないかと何処か分かっていながらも、目先の幸せに手を伸ばしてしまった。
    私もまだ女だったのだと、少し笑えた。



 宇髄との関係が始まって数ヶ月が経った頃。
 思えばこの時が私にとって最も公私共に充実していた時期かもしれない。プライベートでは彼に甘やかされ、そして仕事も順調だった。分からない所は宇髄にアドバイスを求めれば今までが何だったのか疑問に思うほど上手くいった。私にとって宇髄はなくてはならない存在にまで膨れ上がり、生活の軸となっていた。
 何処か自惚れていたのかもしれない。皆から一目置かれている彼が自分のものだと思うと優越感に浸る事もあった。特別な人間と一緒にいる私も選ばれし人間だと思った。
「ねえ。まだ仕事終わらないの。」
「黙って待てないのか。」
「だってもう十時だよ。他に誰も居ないしそろそろ帰ろうよ。」
 周囲に人影がなくなったのを境に私はお誕生日席に座る宇髄の元へと近づいて駄々をこねる。少し前の自分には到底出来ない芸当だ。そんな特別な環境ですら文句を言いながらもどこか楽しんでいた。
 ずっとこちらを向かない宇髄の目線の先に目を向けると、面倒くさそうにしながら一度だけ私を映し出して、短い言葉で私を満足させる。
「もうちょっと待ってろ。」
 見計らったようにぽんぽんとタイミングよく私の頭上に大きな手のひらが宛がわれて、私は満足したように黙り込んだ。その言葉があれば、いつまででも、そして何にでも待てるとさえ感じた。苦手意識のあった筈の彼に対する感情は、百八十度反転していた。



 宇髄との関係も随分と長くなった。私の彼に対する感情は衰えることなく寧ろ大きく膨れ上がっていた。人間どんどんと強欲になっていくものだというけれど、正にその通りの状況だった。
 宇髄は面倒見がいい。管理職なのだからそうあるべきという事は分かっていたし、そんな彼が好きというのもまた事実だ。プライベートでは独占できる彼の視線が、仕事とは言え他の人間へも平等に注がれている事に何処かすっきりとしない気持ちを抱くようになっていた。
 私たちの関係は社内では秘密にするという暗黙のルールがあった。管理職ともなると色々とその辺りが面倒らしい。
 最初のうちは秘密にしている事への背徳感を楽しめたが、暫くするとそうでもなくなった。自分が彼にとっての特別であるのだという証明が欲しくなった。
「天元ってモテるよね。」
「…そんな分かりきった事聞いてどうすんだ。聞くまでもないだろ。」
「ちょっとしたヤキモチ。」
「お前それで甘え上手になったとでも思ってるのか。」
「前よりは確実に上達したと思うけどね。」
 いつかに宇髄が言った言葉を思い出し、甘え下手なりに必死に彼に甘えてみる。ぺったりと懐に飛びついてそんな事を言えば、いつだって彼は優しくしてくれた。私のレパートリーの少ない甘え方にも文句一つ言わず、抱きしめてくれた。
 それだけでは満足できなくなった自分の強欲さにうんざりしながらも、彼との関係が始まってからどれくらいの時間が経過しているのかを冷静に考えると、ぞくっとするような恐怖があった。
 私たちの関係は公のものではない。そういうルールだから仕方がない。けれどそれもそろそろ解禁してもいい時期なのではないだろうか。
「ねえ天元。」
「なんだ。」
 私たちもいい年齢だ。そろそろ結婚の話が出てもいいタイミングではあるが、そんな気配は微塵にも私には感じられなかった。宇髄にとっては年齢的にも一番仕事でのがんばり時だろうからまだ考えていないだけと、今まで気にしないようにしていた。
 結婚の話を考えたときに、そもそも私たちはきちんと付き合っているのだろうかと不安に陥る。
 管理職ともなれば夜が遅いのは仕方がない。彼と一緒にいるのは金曜日の夜遅くか、土曜日の夜くらいだ。私自身人ごみがあまり得意ではないが、昼に待ち合わせをして何処かに出かける事も片手で数えられる程度だった。
 彼から“好き”という言葉を聞いたことがなければ、“付き合って欲しい”と正式に言われた事もない。いい大人なのだからあえて言葉にする必要もないのだろうと気にも留めなかったが、付き合いが長くなればなるほど疑問が残り、そして不安に陥った。私は彼女として見てもらえているのだろうか。
「一つだけわがまま言ってもいい?」
 考えれば考えるほどに不安に陥ったけれど、それ以上に自分たちの関係性を確認する事にこそ本当の恐怖が隠れているようで恐ろしかった。聞けば答えが聞けるかもしれないが、それはハイリスクでしかない賭けも同然の爆竹だ。
 こんなにも大切にしてもらっているのに、こんな事を聞けば彼は呆れるだろうか。
 本当の真実を知りたい欲望と、それを知る事への恐怖が同居して、どうにも苦しい。もしその真実が私の望むものでなかった時、果たして私は耐えうることが出来るだろうか。
 公私共に宇髄を軸に世界が回っている私にとって、それは全てを失う事と意味を同じくしているに違いない。それを受け入れる勇気はなかった。
「勿体ぶるなよ。」
「…うん、なんかど忘れしちゃった。」
「馬鹿だな。ほんと。」
 何かを打ち消すように、更に彼の懐の奥へと体を預けて忘れる事にした。きっとこれは私の思い過ごしに違いない。彼が優しくしてくれるのは私が彼にとっての特別な存在だからで、私の気持ちと相違はないのだ。そう強く思い込む事でしか、私の生きる道はない。本心を確認する事も出来ず、その本心が負のものだった時に受け入れる事も出来ないのだから。自分をだます事でしか私に生きる道はない。
「幸せぼけしてるのかも。」
「そりゃめでたいこった。」
 私を是ほどまでに夢中にさせる男の優しさに、何も考えず甘えていればいいのだ。揺ぎ無い事実として、今も昔も、そして間違いなくこれからも彼は私に優しいのだから。それだけを信じていけばいい。
 その先にあるものを今の私は知る必要などないのだ。
 いつまでも待っていられると思っていたあの感情が、少し懐かしく脳裏を掠めていった。

その先にある喪失
( 2020'06'07 )