エレガントフローラル、ドリーミーミュゲ、メルティミルク、ハーバルアロマ。横文字が続いている。多分これは英語ではないが日本語でもない。あるいは和製英語という一体お前は何者なのかと問い正したい、そんなどっち付かずな存在なのかもしれない。医療部外品の話をしている。入浴剤の話だ。
「せ〜の、」
 やや長方形気味の箱の中身を開いて、左下に入っている薄オレンジ色の袋を取り出す。薄オレンジ色の入浴剤にはメルティミルクと記されているが、メルティーなミルクに包まれたい気分だという訳でもない。これにはちょっとした理由と、我が家のルールが起因している。
「やめろって!」
「え〜、いいじゃん。この間リョータもやってた。」
「俺はいいんだよ。」
 部外者がこの状況を理解するのはきっと難しい。脱衣所でキャミソール姿になった成人女性と、綺麗に描かれた逆三角形の筋肉を纏わせた成人男性が半裸で意味の分からない会話をしている。おそらくここから読み取れるのはそんな断片的で意味が分からない情報だけだろう。そして分かる必要さえも疑問に思える私たちの日常だ。
「てい!」
「って、おい!」
 薄オレンジ色のビニールからようやく外の世界にお目見えしたその固形物は一息付く間も無く宙を舞う。ぽとんと湯船に沈むその一つ前の工程で、浴槽のヘリに激突して細分化した。
「言わんこっちゃない。」
「入ると思うじゃん?普通。」
「球技で思う所に球飛んでった事ある?」
「そう言えばないね。」
「分かってんならやめてくんない?」
「後天的にコントロール力ついたか試したくて。」
「今後も才能は開花しないからやめてね。」
 細胞を散らした入浴剤は細分化されてもきちんと仕事をするらしい。数秒後にはシュワシュワと軽快なステップで踊るような音を奏でながら湯船の表面を弾けている。
 それを確認したリョータがボクサーパンツを下ろそうとしていたので、膝の裏に足カックンを噛ましてみる。元々スリム体型だったあのリョータは一体どこへ姿を消したのか不思議に思うほどの筋肉量の彼に、私が力で叶う訳はない。不意を突くしか手段は残されていないという事だ。
「うぉ?」
「二十数えるまで入ってこないでね。」
「……ガキかよ。」
 不意を突かれているリョータの背中をここぞとばかりに押し付けて、半裸の状態の彼を外へと締め出す。その間に私がする事と言えば湯船の色の確認をして、一度シャワーで体を流してからその湯船に飛び込む事。漏れなく、二十秒以内にというミッション付きだ。
「なんで今更気にすんだよ。」
「体育の授業終わり男子が入ってきたら嫌じゃん。」
「体育授業終わりのそこら辺の男と一緒にしないでくんない?」
「例えばのはなし。」
 リョータと付き合ったのは大学三年の終わりの頃で、知り合ったのは高校に入ったタイミングだった。高校時代誰と仲が良かったのかと聞かれて真っ先に脳裏に浮かぶのが今一緒に湯船で揺れているこの男だ。
「いつになったらの特別になんの?俺。」
 肩までしっかりと濁り湯に浸かり切った私を背後から包み込むようにリョータの腕が伸びて、私の肩で止まり木を得た小鳥のように彼の顔が沈み込んでくる。もう間も無く個体としての姿を消し去ろうとしている入浴剤が最後の足掻きと言わんばかりにパチパチと浴室内を弾けている。
「こんな音が聞こえそうな程ぎゅうぎゅうしといてまだそんな事言う?」
「だって毎日はダメってが言うからじゃん。」
「誰かと一緒にお風呂に毎日入るのは小学校低学年までです。」
「法律?」
「常識。」
 友人としての期間が長かったのも関係しているのかもしれない。リョータのように自分からスキンシップを取ったりするのが異様に照れ臭い。私が自らそういったスキンシップを取らないと知っているリョータは、結局こうなる。
「特別じゃなきゃ今頃叩いてるよ。多分。」
「多分はいらなくない?」
「世の中に絶対なんてないもん。」
 付き合うまでの友人の期間は確かに長かったけれど、だからと言って付き合って日が浅いという訳でもない。こうして一緒に住むようになって数ヶ月は経っているので、少なくともその数ヶ月以上の時間は経っている。
「メルティミルクこれでラストだったよ。」
「……こっそり食ったりしてないよね?」
「私を化け物か何かにしないでもらえますか?」
 メルティミルクの入浴剤を使う用途は決まっている。二人で一緒に入浴する時は必ずこの入浴剤を使うというルールが我が家には存在しているのだ。エレガントフローラルでも、ドリーミーミュゲでも、ハーバルアロマでもその替えは効かない………という事になっている。
「十二個入りで四種類あるんだからさ。」
「……明日買っとく。」
「メルティミルク以外が残ってる箱、何箱あるか分かってる?」
「いいじゃん俺が買うから。」
「そういう問題じゃないでしょ……」
 同棲するのも随分と待ってもらった。一緒に住もうと提案を受けた回数は軽く数えても両手の指で数えきれない程だ。それ程の期間彼を待たせたのも、めげる事なくそれでも提案を続けてくれたのも事実だ。私からすれば、それだけでも十分すぎたのかもしれない。
「ぎゅってするのは良くて毎日風呂一緒がダメな理由わかんない。」
 そう言って、私を後ろから強い力で吸い寄せるリョータにいつも不思議な感覚を覚える。友達の時には見る事のなかった仕草や言葉をリョータは沢山くれる。リョータという存在は今も昔も変わらない筈なのに、時々私の知らないリョータを見ているようで少しだけ擽ったくなる。毎日摂取するには、過剰すぎる量だ。
「リョータはさ〜、」
「なに。」
「彩子の事が好きだったじゃん?」
「……何で今アヤちゃんの話出てくんの。」
「嫌味とかそういうんじゃなくてね。」
 彼が長年片思いをしていたように、私もその分だけ片思いを拗らせて生きてきた。だから彼の気持ちが誰よりも分かるという自負があった。けれども一方で、彼には私の気持ちはきっと分からないだろうとそう思っていたのも事実だ。
「私も片思いしてたじゃん?ずっと。」
「……聞きたくないんだけど。」
「いいじゃん、今付き合ってるのリョータなんだし。」
 付き合うに至るまでには色んな理由が絡んでいて、そのどれをとっても私にとっては奇跡なんだろうと、そう思う。今こうして付き合っているのも、同棲している事実も、それだけで私にとっては十分すぎる真実でしかないのだから。
「ずっと報われない恋してたじゃん?お互い。」
 いつの時代も彼の目は真摯に一つの方向に向いていて、それが自分に向けられているこの状況が幸せであって、でも少しだけ苦しい。心臓が波打つように激しく鼓動しながらも、じんわりと優しく広がっていくこんな感情を私は彼と付き合うまで知らなかったから。きっと耐性がないのだろうと思う。
「だから幸せの手持ち無沙汰っていうかさ。」
「……なんだよそれ。」
「簡単に言うと、幸せすぎて怖いんだと思う。」
 叶わぬ恋をしていた代償として幸せを持て余してしまうのか、そのおかげで些細な事でさえ過剰に幸せを感じる事ができるのか。きっとそのどちらも正しいのだろう。地球上には約六千五百もの言語が存在するとされているのに、その中でも日本語はとても難しいとそう思う。
「……多分ね。」
「だから多分いらないだろって!」
「世の中に絶対は、」
「じゃあ一つだけでいいから。」
 物心ついた時から知っている近所の幼馴染に柄でもない事を言ってむず痒くなるあの感覚が私を襲う。私にそんな幼馴染と呼べる異性なんてただの一人もいないけれど。イマジナリーフレンドとでもしておく事にする。
「ん?」
の絶対。」
 リョータはよく私に絶対を求める。相対するように私は世の中に絶対はないと念を押す。本当はあればいいと思いながらも、それが絶対でなくなった時のリスクを負いたくないのだ。リスクは抑え、ダメージは最小限に収めたい。我ながらただの臆病者でしかないという自覚はある。
「トクベツは俺だけにしといてよ。」
 そんなの確認を取るまでもなく私の中の総意で、揺らぐことなんてないのに。私たちは正反対のように見えて、やっぱり似ているのかもしれない。時々こうして彼から求められるとそう思うことがある。
 どこまでも臆病で、欲張りで、満たされる事にまだ慣れていないところ。それは私も、そしてきっとリョータも。
「という事は私もトクベツにしてくれるんだ?」
「は?まだ分かってない?」
「わ〜〜、うそうそ大嘘。」
 しっかりホールドされていた上半身だけでなく、湯船をじゃぶじゃぶと揺らしながら筋肉質なリョータの足にも捕まる。逃げ場を失ったように、いつも私を真っ直ぐに正してくれる。
「じゃあリョータの絶対は何にしてもらおっかな。」
 間が持たない時程私の口はおしゃべりになる。むず痒いようで、じんわりと温かいこの感情は共存するものなんだろうか。それを証明する事は未来永劫やってこないのだろうけれど。彼と先ほど交わした“ゼッタイ”とはそういう意味なのだから。
「別にいいって。」
「それじゃあ不平等じゃん。」
 しっかりと全身を包まれながら苦し紛れに顔の半分まで湯船に浸かっている私は、この後湯船の湯を少し鼻から啜る羽目になる。メルティミルクというその名称からは想像できない痛みだ。
に向けた言葉は全部ゼッタイ。」
「……うわお。」
「茶化すなって。」
「正解の反応が分かんない。」
 首筋をなぞったリョータの指に促されたようにくるりと身を翻す。大層すぎる彼のその言葉は私の中で処理が追いつかない幸を生んで、吐き出す先をも塞がれる。こんな事が毎日続いては堪らない。
「……ばあか。」
 そう言ったリョータを追随する言葉は紡ぎ出す前に塞がれた。
 エレガントフローラル、ドリーミーミュゲ、ハーバルアロマ、そしてメルティミルク。そのどれもがにごり湯である事を彼はまだ知らない。脱衣所には幸せの数だけ三色の入浴剤が転がっていた。



過ぎた期待
( 2023’11’25 )