ちょうど梅雨が明けて初夏を迎えた頃、私は全力で廊下を走り抜ける。
 きっと今と違って邪念も邪心もなく、現状に満足していたのだろうと思う。ちょっとしたお使いがてらの任務を終えた私は、与えられた自由な時間でとある映画を見た。年頃の私には痛く響く感動的なその映画の内容を、きっと誰かに伝えたかったのだろう。誰かに伝えたいと言っても、それが誰でもいい訳ではなくて、伝えたい相手だけは最初から決まっていた。
「ねえ、傑!」
「ん、そんな慌ててどうした?任務で何かあったか。」
 中学まで地方で育った私は、進学と共に上京して呪術高専へと来たちょっとした御上りさんだった。田舎出身の私にとって、東京は憧れで、自分が暮らしていた地域よりも敷地面積が狭いとわかりながらも、無限な可能性を勝手に感じていたせいもあって、とてもとても広く感じられた。田舎だと、いくら流行っていても、そのブームは東京よりも数ヶ月遅れてやってくる。見たい映画だって、ネット上で公開されたのだと知っても、私の田舎にやってくるのは私の熱が既に落ち着いた頃だった。そんな私にとって、東京は希望に満ち溢れた場所だったのかもしれない。
「大した事ないよ。ほぼ、届け物しただけだし。」
「なら、そのはしゃぎっぷりはなに。」
「折角新宿行ったしと思って、あの映画見てきたんだ。」
 田舎からスカウトされ、呪術高専へとやってきた私にとって東京という場所は特別で、そして憧れの場所だった。憧れの映画も、話題になったリアルタイムで見れる街だ。禁じられている訳ではなかったけれど、任務の後に一人こっそりと見に行ったという背徳感が、よりその映画を美しく、そして特別なものにしたのかもしれない。
「やっぱ東京はすごい!ネタバレする前に、あんな大作を自分の目で確かめられる。」
「それは見る前にネタバレを見てるからであって、東京の恩恵じゃないだろ。」
「人が感動に打ちひしがれてるのに、そんな冷静に分析しないでよ。」
 私は、その映画の内容に痛く感動していた。元々、感情が豊かな人間で、好奇心旺盛だった私は、田舎にいた頃、耐えきれずその内容を知りたいという一心で、ネットで結末を見ては心を踊らせて、そして私の田舎に上映の知らせがやってくる頃には既に心が沈静化されるということを繰り返していた。話題作を、見たいと思うタイミングで見れた私は些か機嫌が良かった。
「主題歌がすごい良くてね、映画見たらより意味が分かって感動しちゃって。」
 この感動を真っ先に伝えたかったのは、やっぱり傑で、そして傑ならそれを理解してくれるんじゃないだろうかとなんとなく思っていた。どちらかと言えば女性向けの内容であるその映画に彼が興味を示さなくとも、彼なら理解してくれると思ったのかもしれない。
「だから、傑にもお裾分け。ちょっと、聞いてみて。」
「相変わらずは強引だね。」
「悟は付き合ってくれないけど、傑は優しいから付き合ってくれるの知ってるもん。」
 そう言えば、彼は苦笑しながらも否定することなく私の強引さを受け入れて、無理矢理彼の手のひらに置いた右側のイヤフォンをその大きな手で掴んで、耳にねじ込んだ。その光景を見届けて、私は早る気持ちをそのままに再生ボタンを押して、先ほど見てばかりの映画の主題歌を流した。まだ映画の余韻に浸っている私は、歌詞を噛み締めて横に揺れたり縦に首を振って同調したりしていたけれど、同じ音楽を聞いている彼はそんな私を微笑ましいとばかりに優しい顔で見守ってくれているように見えた。
 私は、術師として未熟だ。そんな事はよく分かっている。スカウトを受けてここに来たのは身に余る事だったけれど、私はここにきて良かったと、心底そう思っていた。呪術師という、どこか異質な存在として育ってきた私にとって、レベルは違うにしても同じ力を持った人間がいるこの場所は居心地が良かった。取り分け、彼の隣は心地が良い。
「明るい感じの曲なのに、歌詞は切ないんだな。」
「そうなんだよ。この繊細さは悟にはわからないけど、傑にはわかると思って。」
「悟も随分な言われようだね。」
 何かに感動すると、人はそれを共有したくなる生き物だ。大人であれば、それを自分の中で咀嚼仕切れるのかもしれないけれど、その当時の若い私にはそんな事はできるはずもない。田舎出身だからこそのミーハー心を持ち合わせている私が、一人でその感動を噛み締めて終われる事の方が逆に不自然だろう。だから、傑に聞いて欲しかった。
 けれど、多分そう思ったのはそれだけが理由ではない事を、私自身分かっていた。天真爛漫に振る舞いながらも、少しばかりの下心があった事は否定できない。もう既に近すぎると言っても過言ではない傑との距離感を、別の軸で近づけられないだろうかという純粋でもあって、よこしまな気持ちを孕んでいたのだから。
「じゃあ、悟がこの映画に興味あったらは悟に聞かせた?」
「…悟が恋愛モノに興味ある訳ないじゃん。」
「言い方がまどろっこしかったかな。」
「傑はまどろっこしくて、焦ったい。言いたいことは、はっきり言って。」
 私は、傑に認められたかった。呪術高専にいる面子の中でも呪力に乏しく、目立った何かを持っていた訳ではない私は、傑に認められるだけでよかった。悟や硝子という友人がいるだけでも満足できるくらいの充足感はあったけれど、私はそれ以上にこの男に認められたかった。
「言葉なんていくらでも繕えるけど、本当にそんな物が欲しい?」
「……ううん。でも、あるに越した事はない。」
「欲張りだね。」
 傑は、欲張りな私の事をよく理解してくれていたのだと思う。私が欲しいもの全てを私に与えてくれた。イヤフォンで塞がっていない私の右耳から聞こえたその言葉は、どうしようもなく私を幸福にさせた。




 最近、少しだけ一人でいる時間が増えた。
 別に元々人と群れるタイプでもなかったし、それを望んでいる訳でも好んでいる訳でもない。けれど、ここに入ってからは群れる機会が多かったように思う。多分それは、俺の性格が変わったんじゃなく、群れても不快感がないからだ。俺にとってこの環境は初めてで、そして居心地が良かった。
「おーい、傑。」
 ノックもしないで、ドア越しにそう呼んで傑の部屋を開くと、薄暗い部屋で画面に食い入っていると、そんなを後ろから抱き抱えるような形でソファーに背を預けている傑の姿があった。
「いや、普通に見せつけないでくれる?」
「別に見せつけてなんかないよ。それに、ノックしない悟が悪い。」
「つーかお前ら、この映画見んの何回目だよ。バカの一つ覚え?」
 こいつらは最近同じ事を繰り返している。別に任務外の自由時間に何をしようと本人の自由に違いはないが、よくもまあ飽きずに同じ映画を繰り返し見るもんだなと呆れる。余程の暇人でもここまで繰り返し見る事はないだろう。
が見たいって言うからね、私はその付き添い。」
、お前頭イカれてんの?」
「悟にだけは言われたくない。」
 この二人の現実を受け入れられない訳じゃないし、それは俺がわざわざ介入する事でもない。別に制限されている訳でもないのだから、勝手にすればいいし、数少ない俺たちに持たされている自由な選択肢だ。受け入れる事も自分を納得させる事も出来た。ただ、妙な胸騒ぎと、二人を視界に入れる度に突如発生するこの苛々とした感情が時に不快なだけだ。
「悟も文句言うなら見てから言いなよね。あらすじも知らないくせに。」
 俺に恋愛モノの映画を見る趣味はない。そんなもの見なくても面白くないのは分かってるし、この作品だけ群を抜いて面白いかと言えばそうじゃないだろう。何度か今と同じ境遇に出会したことがあったが、少し見ただけでスローペースで先の見えきった展開に飽きて欠伸が出たのだからそれが俺にとっての答えだ。
「知ってるよ、面白くない。それ。」
 田舎出身者というレッテルがあるからか、は流行に敏い。元々が少女漫画だかで話題になっていた作品が映画化されるのだとどこからか情報を得てきた彼女は、仕切りにその映画を見たいと公開前から騒いでいた。だから、内容は知っていた。
「悟、あんまりをいじめてやるな。」
「傑も他の映画見たいって、そろそろ言えよな。」
が見たくなれば、それでいいんじゃないかな。」
「傑は優しいなぁ。最早、照れることなく好きって言えちゃう。」
「それは、ありがとう。」
 そんなに騒がれたら、聞いてるこっちの方が気になるもんだ。ネットでそのあらすじを調べて確信したが、やっぱり一ミリも心は動かない。特別見たいと唆られる事はなかったが、俺はそのままチケット購入ページへ遷移して、二枚チケットを購入した。だから、その映画が面白くない事なんて最初から知っている。
「だから見せつけんな。キモい。」
「公衆の面前でイチャついてる訳じゃないし。」
「第三者の視界に映る範囲は公衆って言うんだよ。」
「悟が入ってきたんでしょ。ノックもしないで。」
 イラつくなと自分に言い聞かせても、感情のコントロールなんて出来やしない。自分で言葉を発しておきながら、だからは傑なんだなと嫌でも思わされる。それが、より俺を苛つかせているのだろう。繊細な女心を分かろうとする傑と、それを退屈と捉えて欠伸をかます俺。それが全てで、今を物語っている。
 結局、チケットは渡さなかった。渡せなかった、と言った方が正しい。次の休みの日にと思って取ったチケットを渡す前に、は公開初日に当日券を手に入れて一人で映画を見たらしい。それも程よく、任務で都心に出ているタイミングで見るのだから、そういうところだけは本当に抜け目がない。
「ちょうどもう少しでクライマックスなんだ、悟も一緒に見るか?」
「映画よりも目の前の惚気で腹一杯、ご馳走さん。」
 傑の肩に顔を乗せてジッと見てくるに、無性に腹が立つ。別にあいつに何かをされた訳でもないし、筋違いなのも分かってる。俺は何に腹を立てているのだろうかと冷静に考えた時、それはと映画に行けなかった事でも、もっと言えばが自分の思うようにならなかった事でもなくて、多分俺たちの関係が変わってしまうんじゃないかという俺自身の焦りだ。
 を手に入れたいと思ったのは紛れもない事実としてありながらも、俺は多分、今までのこの関係性を崩したくなかった。初めて出来たこの表現し難い環境が、俺に取っては何よりも貴重で大切なものだったのかもしれない。
 も、傑も、どっちも自分から奪われたような錯覚が仄かに残った。




 物事を先読みしてしまうこの性格は、少し厄介だ。
 別に気遣いが出来る人間だと思っている訳ではない。ただ、今この場面でこの相手にこの言葉を言ったらどう反応が返ってくるだろうかとかそんな事を考える癖がついていた。人を傷つけることがあるこの生業で、それ以外の部分でくらい人に優しくすべきという不必要な俺のエゴだ。
 呪霊を祓い、そして取り込む。これは自分の術式という理解はありながらも、毎度苦痛は伴った。それがこの生業で生きていく自分自身の背負うべき業なのだと、そう言い聞かせることで生きてきた。
 呪術高専に当たり前のように入った私にとって、特別期待する事など何もない。今までの日常と同じで、ただ祓い取り込むだけの繰り返しに変わりはない。強いて言えばその回数が今までよりも格段に増えるだろうという憂きはあったかもしれないが、プラスに捉えられるような感情は特別なかった。
 期待したものを得られなかった時、それは失望に変わる。だから、私はあまり期待をしない。無駄に失望を味わう必要もなく、期待をしなければその失望も生じない。あまり感情に振り幅を持たないように生きてきた私にとって、ここは居心地が良かった。多分それは、期待をしていないという事が作用して、より価値を見出してくれたのかもしれない。それだけで、満足だった。
「ねえ、傑。」
 ずっと期待をしてこない人生に、ほとほと疲れていたのかもしれない。久しぶりに、少しだけ期待をしたいと思った。そして、物事を先読みしてしまうこの性格を利用した。
 あれだけ見たいと騒いでいた映画を、彼女が公開初日に見ないはずはないという仮説は簡単に立ったし、見た後その感動を誰かに伝えようと目一杯その体を揺らしながらここへ帰ってくるだろうと思った。その時にその感想を聞くのは、私でありたいという期待を抱いた。きっと、彼女はそうするだろうと確証のない自信をもちながらも、余裕があったという訳でもない。彼女を今までよりも傍に置ける環境を手に入れられたのは必然でもあって、私の賭けだったのかもしれない。
「やっぱ傑も他の映画そろそろ見たい?」
「なんで突然そんな事聞くんだい。」
「さっきはああ言ったけど、そう言えば私傑のしたい事とか聞いてなかったよね。」
「ああ、そういう事。」
 彼女が案じていることは、私にとって然程大きな事ではない。同じ映画を繰り返し見る事に引け目を感じているのだろうけれど、その行為自体に私自身苦痛を感じていることはなかった。寧ろ、あの時のきっかけを大事にしてくれているのだろうかと都合のいい邪推をして、少し気分がいい。多分それは、彼女が私を選んだという優越感もあったのだろうと思う。悟ではなく、私を選んだのだと。
 悟が、彼女に好意を持っている事はなんとなく気づいていた。それが今すぐにでも手に入れたいと明確になっているものではなく、まだふわふわと確立していないものだという事も。だから、私はその隙を利用したのかもしれない。
「私だって嫌な時は嫌と言えるよ。だから、君が案ずることはない。」
「そうやって甘やかす。」
を甘やかすのが私の仕事だ。それとも、嫌か?」
 弱きを助け強きを挫くという思想を持ちながらも、時折急にそれが正しいのか分からなくなる時がある。その信念が歪む時、自分が自分でなくなるようで表現し難い感情を生む。数分もすれば、呪縛から解けたように自分本来の思想が正しいという結論にいつだって戻るけれど、例えばこれがそのまま戻ることなく継続したらどうなるのだろうか。学生でありながらも、既に生業となっている日常に飲み込まれるのは、恐怖だ。日常だからこそ、恐ろしい。だからそんな自分に、私はいつの日からか期待をしなくなった。
「分かってる答えを聞いてくる傑も、欲張りだよ。」
 ここに入ったのは、私にとって恐らくは幸運だった。仲間にも恵まれたし、同じ境遇に置かれている人間同士は言葉を交わさずとも時に理解できるものだ。必要最低限のものだけでやっていけるこの境遇が、私にはちょうど良かった。取り分け、私にとっての存在は特別だった。
「私にも欲があるって事知らしめておかないとね、たまには。」
 彼女の明るさは、私が余計な事を考える隙間を失くす。祓い、そして取り込むという日常的な苦行は術師であり続ける限り不可避だが、彼女と共にいる事でその先の不快感や歪みそうになる自分の思想や信念を正すという更なる苦行は必要なくなった。だから、私には彼女が必要だった。自分が術師でいる事に存在意義を見出している私にとって、はどうしても必要だったし、そう思う程に自分の中でも他の誰にも変え難い感情を既に持ち合わせていた。好きという単純な言葉に乗せてしまえばそれがとても安っぽくなるような気がして、私はあまりその言葉を口にしない。彼女がその言葉を欲していると、知りながらも。
「傑から甘えてくるなんて珍しい。」
「嫌ならやめるけど?」
「だから!もうそれなし、ずるい。」
 その分、私は彼女を目一杯甘やかす。周りの面子になんと言われようと、これは私自身が自分の欲求に沿ってそうしているに過ぎない。さえいれば、きっと私は正しい自分でいる事ができる。
 彼女を守るという事で、自分の正義が守られる。今まで出会ってきたどの人間にも感じる事がなかったこの感情を、大切にしたいとそう思った。先手を打って、悟にチャンスを与えなかったのは私の焦りだ。皆のバランスを壊したかった訳じゃない、けれど自分のバランスを保つため私は先手を打った。
「自覚はあるよ。」
 そうまでしても、私は彼女を自分だけのものにしたかったのだろう。




 あの時の私は、どうしてあんなに無垢でいられたのだろうか。
 田舎から出てきた私にとって、東京という魔法がそうさせていたのかもしれない。そういう事であれば、いろんな事に辻褄があう。今の私が無垢でもなんでもないのは、そうだと言い聞かせて、そして飲み込める。
 あれだけ憧れた東京も、十年も住めばなんて事はない。人は順応するというけれど、それは本当だ。あれだけ魅力的に見えた東京という私にとっての魔法も、今となっては他の地方都市に比べて呪霊が蛆虫の如く大量に湧いてくるという煩わしさしか持ち得ない。映画の最新作がリアルタイムで見れると、そんな事で一喜一憂していた私は、もういない。
 感情のままに生きていた私は、もう過去の産物だ。今は、極力感情を出さないように努めて、私は生きている。自分の欲のままに生きることはある意味で簡単で、そして難しい。あの頃、意図せずそれが出来ていた私を、今の私は思い出す事が出来ない。傑がいなくなって、私の考え方は百八十度変わった。
って、いつからそんな感じだっけ?」
「そんな感じ、とは。」
「それだよそれ。久しく僕はを見てないような気がするよ。」
「だったらあんたの知ってる私は多分、死んだよ。」
 人生で見ても一番幸せと感じていたあの頃の自分を否定したくなくて、私は半ば強制的に自分を変えた。傑が忽然と姿を消してから、私は自分と向き合って酷く葛藤した。何故自分が彼を止めることが出来なかったのか、そもそも彼のその違和感に気づいて誰よりも早く心の内を聞くべきだったのに、甘やかされてばかりいた私は、傑の優しさに寄りかかっていたのだ。私を甘やかすその環境に慣れ切っていた私は、多分人を思いやるという配慮にかけていたのだろう。何度も彼に救われていたのに、結局私は傑を一度だって救えなかった。
「可愛げないよね。昔の方が、可愛かった。」
「別に悟に好かれても。」
「この状況下でも、傑に好かれたいってそう思う?」
 これから自分が何をしようとしているのかきちんと理解しながらも、それはただの指令であって本当のところ上手く咀嚼できていないのかもしれない。これから私は、夏油傑を抹殺しにいくのだ。もちろん私個人にそんな力はないのだから、それに加担するだけだ。けれど、行くと決めたのは、あの時によく聞いた映画の主題歌でそんな歌詞があったからなのかもしれない。
「そんな昔の話を持ち出して、自分が優位に立ったつもり?」
「邪推しないでよ。純粋な、疑問。」
「だったらずっと疑問に思ってて、いいよ。」
 傑がいなくなって、あれだけ好き好んで見ていた映画のDVDを私は処分した。粗大ゴミの日に捨てて、二度と誰の手にも渡らないように意図的に壊して捨てた。そのDVDは、傑がクリスマスプレゼントにくれた私への贈り物だったからだ。結果的に最初で最後の贈り物になった思い出の品を、私はこの世から消し去った。
「もう見ないの?あの映画。」
「見ないっていう言葉を聞きたいだけの悟に、そんな事言うとでも?」
「だから邪推しないでってば。あんなに何度も見てたら気になる。」
「この十年一度だってその話をしなかったのに、このタイミングで?」
「そう、ちょうど思い出したとも言うよね。」
 傑が消えてから、こんな日が遅かれ早かれ来る事は容易に想像ができた。だからこそ、大した呪力を持ち合わせていない私は、卒業と共に足を洗おうかとも思ったけれど、異質物としてノーマルな世界で生きていくという覚悟もなかった。
 悟と同じく、残された教員という道に進んだけれど、これが正解だったのかといえば多分正解ではないと思う。昔の私であれば天職であったかもしれないけれど、今の私に人に与え、教えるものなど何もない。抜け殻になったようなカラクリが教壇に立っているようなもので、教わる側の生徒が気の毒だと自分の事なのに俯瞰してそう思った。呪術高専だから、なんとか私は教団に立てているだけだろう。
「全部昔の話。都合よく、忘れた。」
 傑に関わって生きてきた時間は、私が歳をとる分だけ短くなっていく。呪術高専という特殊な環境で出会った私たちが、こうして真逆の立ち位置に分離するなど誰も思わないだろう。それは多分、傑でさえも想像していなかったイレギュラーな事態だろう。信念に忠実な傑だからこそ、この結末が起き得たのだから。当時の彼が、それを予知するなど不可能だ。
「傑を殺しても、絶対に硝子のところに連れて行かないでね。」
「…現状分かってる?僕ら、傑を殺しにいくんだよ。」
「分かってる。だから、硝子のところに連れて行かないでって言ってる。」
「連れていく訳ないでしょ、してる事が矛盾する。」
 もう戻ってこないのであれば、あの時封印した過去の自分のように、傑もあの時のままでいいと思った。情が湧く事なんて、人間だから幾らでもある。実際、傑が悩まされていたものもそれに近い部分がある。だからこそ、私は念押しする。
「じゃあ、万が一私が死んでも放っておいてね。」
「僕と一緒にいて、自分が死ぬと思ってる?」
「思ってないよ。万が一の保険として、遺言残してるだけ。」
 呪術師として、傑の存在は許してはならないものだ。呪詛師になった彼は、私たちにとっての敵で、私が術師を辞めない限り、傑は一生私にとっての敵になる。
 あの時、変化を感じていない訳ではなかった。元々、正義感が強すぎるところを人知れず私は不安視していた。私には持たざる者の苦悩があったけれど、それ以上に傑が苦しんでいるのは聞かずとも分かっていた。あの頃の、能天気に見えた私ですら、そんな事はわかっていた。
「僕の隣にいておいて、遺言とかムカつく。嫌味?」
「あんたは最強かもしれないけど、何が起こるかなんて誰にも分からない。」
 表立って、呪詛師になった傑の元にいく事は出来ない。私は微力ながらも呪術師で、そして呪術高専の教員だ。少なくとも、何かあった時傑に助けられていたあの頃の私では、もう許されない。
 きっと、悟が全てを終わらすだろう。彼は最強だ。私たちがどれだけ望んでも、彼にはなれない。生まれ持ったポテンシャルと、センスが全てにものを言う。もちろん私にそんな才能はないし、唯一悟を理解できるとすればそれは傑だっただろう。
「昔の男だからって、抜かるなよ。」
 わかってる。これから、私は傑を殺しにいくのだ。殺せるかどうかは別として、確実に敵として相対するのだ。
「ちゃんと、殺す。」
「非情だねえ。」
「私たちの生業ってそういうもん。割り切ってるよ。」
 むしろ、私が呪詛師に転覆しなかっただけでも褒めて欲しい。私と彼を繋ぐものが変わってしまった今も、やっぱり私は傑が好きなんだろうと思う。自分と敵対する勢力になっても、それは変わらない。彼のそばにいく度胸がなかっただけで、私も呪詛師になっていた未来だって可能性としてはありえただろう。
「だったらしっかりして。腐っても、教師だろ。」
「…そうだった。」
 再会は即ち終わりを意味しているなんて、誰に言われずとも私自身が一番理解している事だ。

透くまぼろしの断片
( 2022’02’28 )
BGM - Good-bye days(2006)