俺の入院生活には、常に花が絶えない。色とりどりの綺麗な花は、きっとなんの意味も持たない。その多くは俺のテニスや容姿ばかりを見ていて、本当の俺を、俺の中身を見てはいない。俺が酷くずるく、汚い考えを持っているなどとは、きっと夢にも思っていないのだろう。そう思うと少しざまあ見ろと思い、そして、すぐに気が滅入った。今日はいつもにも増して、俺の憂鬱が底知れぬ闇より召喚されていた。
 質素な味付けに面白みもない病院食を完食し、暇を持て余した俺は、贈られた花を見ていた。俺が貰ったまま放っておいた花は、花瓶の中でかろうじて呼吸をしている。看護師の一人が、きっと気をきかせて、活けたのだろう。できればそのまま、ゴミ箱に捨ててしまいたかった。花は活けても次第に枯れ、そして葉を散らしていくのを、俺は知っている。それが、まるで、自らの事を言われているようで、酷く腹立たしい。卑屈になっている俺には、その枯れ散った花が自らの未来の姿であると、そう暗示されているようにしか考えられない。けれど、だからと言って、その花を贈った人間の好意を無下にすることも、また、俺には出来なかった。
 俺は結局、上っ面の俺を、捨てる事が出来ない。立海の長として、部長として、いつだって凛と構えている、厳しいながらも何処か優しさを帯びている、そんな、仮初の自分の姿を。きっと部の連中でさえ、俺が、こんなに醜い心の持ち主とは、夢にも思わないのだろう。
“今年も、全国NO.1の立海を   
 病に倒れるまでは、当たり前に口にし、当然のようにそれに挑んでいた目標が、今はただの重荷でしかない。俺にとってテニスが全てならば、やはり、俺を苦しめるのも、大部分でテニスだった。
 俺がテニスでのし上がったのは、才能というよりは、努力あっての事だろう。たまたま、その努力が報われ、世に言う“テニスの上手い人”になった俺は、色んな人間から注目される存在になった。それを何とも思わなかったのかと言えば、それは違う。気分は、悪くなかった。けれど、そんな、テニスしかない俺に、テニスが遠ざかっていった、まさに今、何が残るのだろうか。テニスというヴェールを脱いだ俺には、大衆から見て、きっと前ほどの価値はないだろう。テニスがなくなった俺は、ただの抜け殻。それでも今尚励ましの言葉をくれる人間は、やはり、きっと俺が再びコートに戻るであろうと仮定している、上っ面でしか人を見ていない人間ばかりだ。本来の姿の俺を、待っている人間など、きっと一人もいない。
 憂鬱が憂鬱を重ねていき、俺は、酷く閉じ込められているような気分に陥る。むやみやたらに、開放感を望んだ。意味もなく、外の世界へと、足を踏み出した。





 久しぶりに訪れた外の世界も、思っていた以上の開放感はない。六月も半ばに入り、梅雨入りをした季節に、雨はつきものとでも言いたげに、一面見渡す限りのアスファルトに水が集る。こんな雨の日でも外で練習をしていたのかと、そう思い出すと、余計と憂鬱が増していった。自分だけが、蚊帳の外で、何もないような気がしていた。
 自分の靴を持っていなかった俺の足は病院の茶色く簡素なスリッパに包まれ、みるみる内にその中が浸水していく。水を吸って重たくなったスリッパに気を取られる事無く、俺は、当てもなく前へと進む。ジャブジャブと意味もなく、大きな音を立てながら。
   幸村!
 高い声が、俺の名前を紡ぐ。気のせいであると、俺は振り向く事すらしない。信じられるのは自分自身だけ。この時ばかりは、自分の耳すらも信じる事が出来ない。こんな時間に、俺の名が呼ばれる筈はないと。
   幸村なんでしょ?ねえって。
 自分自身の耳すら信じられないと思ったのもつかの間、俺の耳に再び高く、柔らかい声が、届いた。今度はさすがに気のせいではないと、振り返った先にいたのは、今の空と同じ、闇色の傘を指した女だった。
「……青葉かい?こんな所で、何をしてるんだ。」
 病院の外で人に会うのはかれこれ数か月ぶりの俺に、上手く言葉は出てこない。こう言えば彼女の返し文句くらい、容易に想像がつくというのに、俺はそれしか口に出来なかった。入院していた間に、知らず知らず、体力だけでなく頭までも劣化していたとは知らなかった。本来俺は馬鹿と呼ばれる類ではないが、今回はそう認めざるを得ない。
「それはこっちの台詞だよ。病人が何大雨の外をほっつき歩いてるの?」
 ああ、やっぱりと、俺は自嘲にも似た笑みを浮かべる。彼女の言葉は酷く正論であり、可笑しいのは自分の方であると、分かっていたからだ。薄蒼い病院独特の衣類と、肌の見える履物、そしてきっと、酷く欝を帯びた俺のひょうじょう、どれをとっても俺は病人であると言って歩いているようなものだろう。仕舞には傘すらさしていないのだから、精神的に可笑しい人と思われても当然だろう。一応、言い訳を聞いてもらえるのであれば、ちなみに傘は病棟には置いていない。それも当然だろう、病人は病棟の外に出ないのが基本であるからだ。
「俺はこう見えて体は丈夫だから。…最も、病人ではあるんだけどね。」
「本当だよ。それ、ギャグにしては性質が悪すぎる。」
「ははは。青葉に言われたら、それこそ、世も末だな。」
 俺は青葉と上手く話せているだろうか。部活をやっていた、まだ俺にテニスがあった頃、マネージャーである青葉にこんな嘘偽りの表情を、果たして浮かべていただろうか。俺を追ってくる青葉の視線が、こんなにも厳しく感じたのは、初めてだった。俺はもっと彼女に、ありのままの自分を出していた筈だった。けれど、今、それが出来ない。何れは枯れる花を贈って来る人間と同じように、俺は作り笑いをかんばせに塗りつける。
「取りあえず、傘、入ってよ。」
 そのままじゃ、きっと、風邪をひくから。最もな青葉の言葉に、俺も渋々その呼びかけに応じる。
「君は、何をしに?」
「…別に。ただなんとなく、外を歩いてた。散歩とも言うね。」
「雨の日に散歩っていうのも奇特な趣味だな。」
 俺がそう言えば、彼女は然程も表情を変えずに、どうもありがとう、そう言った。何ら変わらない彼女の態度を見て、変わっていったのは、自分の方であると知る。青葉だけは、入院したからといって、俺に過剰な態度を取らない。それが酷く心地がいいようで、それでいて、少し腹立たしい。彼女は何も変わらなくて、俺だけが変わっていったのだと、そう言われているような気がしていた。
「…何も、聞かないのか?」
 漠然とした疑問を迷うことなく口にすれば、彼女は闇色の傘の中から、くるりと大きな瞳を揺らし、可笑しなものを見るように、少し馬鹿らしく笑った。
「だって聞いて欲しくないんでしょう?幸村って、詮索されるの嫌いだよね。」
 嗚呼そうかと、俺は妙に納得する。彼女と過ごした日々以上に、それは密度が濃い。彼女は俺の事をよく知っていた。マネージャーというものは自分が思っている以上に、選手を見ているものなのだと改めて実感し、苦笑する。自分の本性を知られているというのは、ほんの少し、恐ろしい事だと思ったからだ。
 俺は何事もなかったかのように、大雨の中を、青葉とひた歩く。辺りを通り過ぎていく通行人は、あまりにも奇妙な、女学生と入院患者の組み合わせをみて、通り過ぎた後もじろじろと振り返りながらこちらを見ていた。注目という意味の違い一つで、こんなにも不愉快になるものなのかと、以前の自分を思い出して、俺の心は果てしなく沈んでいく。
 そんな俺に察したのか、ようやくこちらを見てきた彼女の口が、微かに開かれる。無意味な、励ましの言葉でもその口から紡ぐのだろうか。当てもない言葉は、もう、うんざりだった。俺は彼女の口が開ききる前に、自分自身のそれを開いた。
「気休めの言葉なんか、聞きたくないんだ。」
 俺に面会してくる人間は皆、決まって、こう口にする。きっと、病気はよくなる、と。何の確証があってそんな事を言っているのだろうか、不思議でならない。その言葉に縋ってしまいたくなる自分の弱さを呪い、そんな安心材料の言葉だけを無責任に並べる人に恨みを抱いた。けれど、俺はいつだって自分を押さえ、ありがとうと口にするだけ。唯一この女の前、以外では。不思議と、青葉の前でだけ、俺は俺でいられた。醜く、汚れた心を持ち合わせた、俺に。
「それだけ口が達者なら、きっと、大丈夫なんでしょう?」
 予想にもしていなかった意外性しかない、彼女の言葉に俺は足を止める。こういう切り返しは、きっと、俺の中で初めてで、酷く斬新だった。
「私はそんな気休めなんて言わないよ。私は医者じゃあないし、そもそも幸村の病気の事にしたって、よく知らないんだから。そんな私が、気安く気休めの言葉なんて言える筈がない。」
 拍子ぬけた俺のかんばせに、彼女は笑みを塗りつける。そうでしょう?と尋ねてくる青葉に、俺も頷き返す事しか出来ない。彼女の言い分は、誰よりも、何よりも、狂いもなく正しい。きっとその言葉が、俺は一番欲しかった。本当の俺自身を晒しても、何食わぬ顔で、受けれてくれる、青葉のような、態度と言葉が。
「ねえ、知ってた?」
「なにがだい?」
「幸村はね、雨の日、憂鬱になるんだよ。入院する前から、ずっとね。」
 想像にもしなかった青葉の言葉に、俺は、少し前の過去を思い出す。部活動に支障のあるほどの雨の時、俺は酷く苛立っていたのを思い出した。苛立った後に、決まって憂鬱になった。彼女はそんな俺ですら意識しえない、些細な事を知っていた。改めて、思い知らされる。雨が降ると、練習が出来ない事による焦りと苛立ちが募った。辺りを見渡せば、部活が休みになったのだと喜び、放課後の街へと意気揚々と飛び出していく同級生が大勢いる中、やはり俺にはテニスしかないのだと酷く憂鬱になったものだった。
「きっと雨だから、今日も憂鬱になった。それは病気だからと、病気のせいにしては駄目。」
「…随分と、手厳しい言葉だね。」
 それはただの逃げになってしまうから。彼女はそう言ってから、付け足す様に、「幸村はいつだって逃げるどころか果敢に挑戦していた、ううん、寧ろ挑まれていた、皆に。」そう言った。
「恐れ入ったよ。君は、俺をよく見ている。」
「当然でしょ。だてに、マネージャーやってないよ。」
 やや自信ありげに肩を張った青葉に、俺は、ようやく心からの笑みをくすりと零す。それを見た青葉は、急に力が抜けたように、大人びた表情を脱ぎ去り、いつかに見た幼くあどけないかんばせを塗りつける。安堵が、胸いっぱいに覆っていくようだった。
「実はね、散歩なんて嘘なの。私も憂鬱だった。雨って嫌いじゃないんだけど、どうしても憂鬱になる。幸村と、一緒だね。」
 恥ずかしそうにしながらも、俺に同意を求めていたような、彼女の眼差しがとても近く感じられた。刺々しいものが、体内から、すぅっと音もなく抜けていったような気がする程、心が楽になった。俺にとって、忘れられない一日だった。





 無責任な言葉ばかりを並べていたあの人たちが言っていた事が、現実になった。俺の病は、治った。もちろん前と同じようになった訳ではない。その状態に戻るには、過酷で気の遠くなる気力が伴う。俺は今、その真っ只中にいた。
 歩行すらままらない俺を、学校の連中の視線が襲う。以前の視線とは明らかに違う、友好的なものを感じない、それが。けれど、俺にはもうどうでもよかった。もう、何も隠すつもりはない。
「幸村!おはよう!」
 あの時と同じ声が、耳に届く。彼女だけが、何も変わらずに、俺の傍に居てくれた。表の俺も、裏の俺も、すべてを知り、きっと受け入れてくれている。そんな事を口にすれば、彼女は、自惚れるなと鼻を高くして言いそうだが、きっと、だからこそ彼女の隣は居心地がいいのだろう。
「おはよう。騒々しいほどに元気だね、君は。」
「登校初日から、相変わらず口の悪い事。」
 気どった俺は、もう必要ない。きっと、驚く人間は多いだろう。けれど俺にとっては然程の問題でもない。今、この時が、酷く自然で心地がいい。テニスに対しても、新しい気持ちで挑めるような気がしていた。俺は、今日から挑戦者になる。今まで俺が、手を触れることなく地に伏してきた挑戦者のように、俺もそこから始まる事になる。俺はいつの間にか、自分の力を過信し、挑戦する事を忘れていた。それを思い出させてくれた人の、ありがたさが身に染みた。
 朝方にはまだ、パラパラと降っていた雨も、部活を待っていたかのように、晴れ渡った。出戻り初日に相応しい程の、晴れ。俺は、ラケットも持たずに、テニスコートにいた。軽くトレーニングをしただけでも、体は酷く疲労した。けれど、傍で見ていた彼女は、変わった俺を、笑ったりはしない。その安心感が、俺を未だに動かし続ける。
 一週間ほどが経った頃、俺はようやく僅かに感と体力を取り戻しつつあった。久しぶりに持つラケットが、以前より重たく感じられて、新鮮だった。一度全てを失った絶望より、これから始まる事へのほどよい緊張感が体の疼きを感じさせる。テニスに出会った、あの頃のような感覚を、俺は取り戻した。何をしても、楽しかった、あの頃に。
 思った以上に体は動き、そして、技も衰えてはいない。けれど、レギュラー陣にはまだ、遠く及ばない。これだけ必死になった事は、随分と久しぶりのような気がしていた。
「幸村が肩で息してるの、初めて見たよ、私。」
「俺も。…本当に、初めてかもしれない。」
 負ける事が恐怖でしかなかったあの頃、今は可笑しいほどに負けは怖くない。ものは見方によるものだと、本当にその言葉通りだと、今になって俺は思う。何もかもが、新鮮で、俺に意欲を与えてくれた。
「でも今の幸村の方が、かっこいいと思う。」
「ただの部員にさえ、勝てない、今の俺でも?」
「うん。なんかね、こんな事いうと笑われるかもしれないけど、   輝いて見えた。」
 青葉の言葉が、素直に嬉しい。こんなにも賛美の言葉が、ダイレクトに届いたのは、きっと初めてだった。初心を失いきった少し昔の俺は、何も知らなかった。病に侵されなければ、間違いなく、俺はそのままだっただろう。病気は、俺にとって、きっかけの一つだったと、今ならそう考える事が出来る。
   今日で梅雨が明けたぞ。」
 真田の声で、俺と青葉は、雲のない空から溢れんばかりに降り注いでいる太陽を映し出す。二人で、手をかざしながらも、その光を瞳に取り入れる。少しして、顔を降ろすと眩んだ瞳が色んな色を映し出し、揺らしていく。丁度そんな眩みと格闘していた頃、青葉の高い、あの声が、耳に届いた。
「ステイゴールド。」
 俺は首をかしげる。彼女も、言って、真似するように、笑いながら首をかしげる。その言葉が誰に向けられた言葉であったのかは分からないけれど、目が眩んでいたせいもあってか、青葉が黄金に包み込まれたように、輝いて見えた。
 眩みが収まった視界が、ようやく彼女を、見つける。俺はきっと彼女を探していた。汚い部分の俺も、俺だと認めてくれる、その人を。一度目を閉じた俺の視界は完全に戻り、確実に青葉を捉える。ふいに出そうになったその言葉を、迷いながらも飲み込んだ。その言葉は、今言うべきではないと。今は、まだ。そのステイゴールドの誓いを、守るのみ。

20110617
( いつまでも輝いていて )