池袋の街は今日も賑やかで、何も変わらないのだと妙に彼女を安心させる。賑やかというよりそれは騒がしいという表現の方が幾分もお似合いだったけれど、それでも不変なこの街が青葉の原動力だった。 仕事上がりの夜の池袋を歩く。眠る事をしらないこの街からネオンが消える事はない。 人通りの少ない路地に差し掛かった所で青葉は不思議な行列を見た。この路地は家へ帰るには人通りが少なく不気味だったけれど一番の近道で彼女はよくこの道を通って歩いた。しかしここ数カ月で物騒の事件が多くあったという事で暫くこの道を使う事もなく、此処を通るのは実に一カ月ぶりだった。 こんな錆びれた路地には似つかない程の行列の傍で、青葉はこれも久しく見ていなかった一人の男と遭遇した。その名が、数カ月ぶりに、懐かしむように彼女の口から零れた。 「静雄。」 狭い路地にごった返す多くの人の中でもひと際目立つ長身と、何より彼のトレードマークであるバーテン服と金髪が色鮮やかにネオンの元で輝きを放つ。 「…ああ、久しぶりだな。お前もこの店に?」 「ううん。私の家、この先だから。」 「そういえばそうだったな。しかしまあ凄い行列だ。」 彼女は静雄のその言葉に素直に頷いた。短い時間でも時が経てば変わるものだなと彼女は雑沓の中で曖昧に考えた。そして、これだけの行列があるのならこの路地を通って帰る事に何の支障もなくなるのかと、そんな些細な事を思っていた。 「ところでこの行列何なのか知ってる?」 「ん?ああ、これは 静雄の言葉と共に青葉の鼻元に芳しく、そして上品なものが漂った。彼女はその元を辿るように鼻を利かせて一、二歩前へと進んでいく。その先にあったのは、行列の先にあった小洒落た一軒のレストランだった。 「何でも本場で長年修業したとかの有名シェフが出したフレンチだとよ。」 開店早々これだけの列が出来ると言う事はやはり相当に腕のいいシェフなのだろうか。青葉はその芳しい香りだけでも楽しむかのように、鼻先をくんくんと二、三度揺らす。 「…犬か。」 「臨也や静雄程じゃないけど私結構嗅覚が優れてる方なの。」 「俺の嗅覚はあの野郎を嗅ぎわける専用のモンだ。」 「へえ。それは知らなかった。」 少々嫌味を込めた談笑を終えて再び青葉は鼻を揺らす。横ではそんな彼女を呆れるように、しかしほんのりとした優しい笑みを浮かべた静雄が見ていた。 鼻の先を漂うものは本当に、この世のものとは思えない程に優美で、食欲をそそる。その原因の一つに、彼女が未だ夕食を済ましていないという事が大きく関わっているのだろうけれど 「これ、お肉とか魚の香りじゃないよね。なんかもっと…こう、色んなものが混ざったような。」 フレンチと聞いて脳裏に思い浮かぶ料理と、その鼻先に漂う香りがどうにも一致しない事に彼女は疑問を抱いていたのだ。 「……凄くあったかい香りがする。」 青葉は目を閉じてその香りに浸っていた。未だその正体の知れぬ、芳しい香りを胸に吸い込ませるようにしながら。 くつくつ、と笑う静雄の微かな声で青葉はようやく目を開く。その先にあったのは、綺麗なその瞳を覆い隠す様な薄い紫色をしたレンズで、隠れながらにその瞳が彼女を見て笑っていた。 「ほんとにお前犬なんじゃねえの?この店の売りはスープらしいぜ。」 言われて青葉はようやく納得したように鼻を動かすのを止めていた。その香りの正体が、彼女の思い描いていた大まかなものと重なり合う。 「どうりで。なんかフレンチっていうよりは…って感じだったから。」 「9割方の客はスープを目当てにこの行列に並んでるっていうんだから驚きだよな。」 「そう?私、スープ好きだけどな。」 「たかだかスープ一つの為にこんだけ並ぶか?普通。」 「うーん…まあ、そうだけど。」 二人の前にあった行列はゆっくりと進んで行きながらも途切れる事を知らなかった。一組店に入る度に、その倍にもなろう人数が最後尾に並んで行く。二人はそんな行列に交じる訳でもなく、ただ人ごとのように雑沓の中に佇む。 静雄が言うに、この店は先週オープンしてばかりらしい。評判が評判を呼んで一週間でこういう状況になっているのだと。 気が遠くなるような長蛇の列には違いなかったけれど、彼は一言足すように青葉に告げる。 「ここの客はスープだけ飲んで帰る奴がほとんだと聞いた。だから回転率がいいらしい。」 「それだけ絶品のスープが作れるなら他の料理も美味しいに決まってるのに。勿体ないなあ。折角並んでるのに。」 行列に比例しないペースで店から客が出てくる。本当に大方の客はスープだけを目当てに来ているらしいと窺い知れる。それでも途切れる事のない行列に、青葉は静雄に尋ねた。 「私もそのスープ、飲んでみたいな。」 しかし青葉の言葉に彼は首を横に振った。 「予約が半年先まで埋まってるって話しだ。それを待てないならこうして並ぶしかないな。」 季節は冬。新しい物や流行りものには目がない青葉は、一度意を決してその列に並ぼうともしてみたけれど、やはり震える我が身には変えられない。予報外れの寒波に彼女は少し嫉妬した。春は目前なのに、今日はとても寒い冬の日のようだった。薄着でなければなあ、なんて呟いた青葉に静雄は一言「諦めろ。」そう言った。 「そういえば静雄はなんでそんな事知ってるの?」 「…トムさんから聞いたんだよ。」 「で?ここのシェフさんが貴方の会社に借金でもしてる訳?」 「違えよ。ただ、匂いに釣られただけだ。」 静雄にしては珍しい。青葉はそう言おうと口を開いたが、本来の彼のどこまでも優しい性格をふいに思いだして口を閉じた。くつくつと上がって来る小さな笑みを、喉の奥で堪えた。 「…何がおかしいんだ。」 「別に。静雄でもこういうの、気になるのかと思ってさ。」 春を目前にしながらも二人の間に冷たい風が吹き荒れた。いつだって薄着な静雄は顔色一つ変えずにただその行列を見ていた。寒くないのかと尋ねれば、別に、とだけ無愛想に彼の口が動く。 対する青葉は耐えがたい北風に身を震わせ、ようやくその場から一歩を踏み出した。 「私、帰るね。」 そう言えば彼はやはり無愛想に頷く。しかし何処か不安げに「…気をつけて帰れよ。」ぼやく様に青葉に告げた。彼の優しさは不器用で、そしてとても見つけにくいものだった。今も、そして昔から。 青葉はそんな静雄の優しさを確認すると小さく笑んで、手を振った。 スープを売りにしているあの店から人が途絶える事はなかった。青葉がこの路地を通るようになってから二週間が経っていた。会社帰りに鼻につく香りはいつだって最初に感じたままに、酷く香ばしかった。 彼女は何度か意を決して店の列に並ぼうと考えたが、結局店に入るには至らなかった。一人で待つにはあまりにも退屈で、とても寒かった。青葉は二度ほど同じ事を繰り返し、ようやくその列に並ぶのを諦めた。鼻を掠める香りを吸い込む事で彼女は自分を納得させるようにその路地を通り過ぎていく。 今日も彼女は同じように匂いに釣られて一度足を止めたけれど、諦めたように足を前に出す。その先に、また彼が居て青葉は立ち止まる。 「…今日は何をしにきたの、静雄。」 声を掛けると何だか罰の悪そうな静雄の顔があって、彼女は少し笑ってしまった。別に来たらいけない、と言っている訳ではないのにと。 「相変わらず凄い人ごみだね。」 「ああ。この街は物好きか暇人ばっかりだ。」 「そういう静雄だって、来てるじゃない。」 青葉の言葉にやはり彼は言葉を止めて、居心地悪そうに色のついたサングラスを揺らしていた。彼もこの店に並ぶつもりなのだろうか。しかし彼は少し離れた所で行列を見ていただけでそこに行こうとはしなかった。 「私もね、この間並んだんだけどドロップアウトしちゃった。」 「根気のねえ奴だな。」 「だってさ、じっと並んでるだけじゃ寒いんだよ。それに退屈でしょうがない。」 青葉がそう言うと彼はやはり呆れたように彼女を見ていた。雑沓の中で二人はあの日と同じように佇み、その行列を見ながら漂ってくる芳しい香りを楽しんでいた。いつの間にか、香りだけで満足出来るようになってしまったように、時折錯覚を起こしながら。 「ねえ静雄。」 「ん?」 「一緒に、並んでみない?この行列。」 彼女の申し出に彼は暫し考えているようだった。それは、そこまでしてたかだかスープ一杯を飲みたいのか、そしてこの行列に比例するだけの美味さがそこにあるのか、推し量っているような彼の横顔だった。 しかし彼は答えを出して、彼女に告げる。やはり柄じゃないとばかりに、自嘲めいた笑みだった。 「俺は御免だね。」 「そう。だと思ってたよ。」 ある意味で期待を裏切らない彼の言葉に、青葉も特別食いつく事もなく、二人は遠巻きに行列を眺めていた。 「私来月誕生日なの。覚えていた?」 「いいや。」 彼は言った後に「初耳だ。」と付け加えた。「嘘つき。昔、私言った事あるよ。」そう言えば彼は黙り込んでしまった。青葉はその芳しい香りを、鼻先で啄ばむようにして揺らした。 「私の誕生日にスープ、奢ってくれない?」 「…そんな義理はねえだろ。」 「いいじゃない。昔のよしみって事で、ひとつ。」 そう言えば彼は面倒くさそうに自分の髪を揺さぶっていた。きっと彼なりのオーケーサインなのだろうと、長い付き合いの元に青葉は勝手に判断を下す。口数の少ない、彼の聞こえない言葉を、聞いたようだった。 「歳をとるだけの誕生日が少しだけ楽しみだな。」 「単純な奴。」 少し皮肉めいた言葉の裏に隠された了承の意味を汲み取った青葉は最後に一度だけと名残惜しそうに辺りに広がるスープの香りを吸い込んだ。この香りの味を、来月知る事になるのかと思うと彼女は居てもいられなくなったように走り出してしまった。 「来月、楽しみにしてる。」 一度だけ振り返って静雄にそう告げた青葉は、もう一度だけ行列の先にあったスープの生みだされるその店を見た。アンティークな店から洩れるオレンジ色の光が、暗い路地を照らしていた。 その三日後、彼女は職を失った。不況の最中に襲った、リストラという名の流行り物だった。 青葉は絶望の淵を歩くように家から出た。失業してまだ幾ばくも経ってない、そんな日。失意の内に彼女は無意識ながらあの狭い路地を歩いていた。この路地には似合わない程の人混みがあったこの場所は、今は驚くほどに静まり返っていた。 こんな人気店にも休業日があったのかとも思ったが、それにしてもあまりにもそこは静か過ぎた。まるでそこには何もなかったとでも言わんばかりに、数週間前の薄着見悪い路地がただ広がっている。 まるで夢でも見ているようだと青葉は思った。いや、あの行列こそが夢だったのかもしれない。 「…青葉。」 取りつかれたように無残な形となった看板を青葉は見上げていた。ふと、静雄の声が聞こえてようやく彼女は視線をそちらに移した。 「まるで嘘みたい。あんなに、人で溢れかえっていたのに。」 「潰れたんだよ。それだけの事だ。」 あんなに人気だったのに?と青葉が尋ねると「色々大人の事情ってもんがあるんだよ。」いつもより少しだけ小さく聞こえた静雄の声が聞こえてきた。彼が言うのだから、本当に何か大人の事情があったのだろうと青葉は妙に納得してしまった。 「この街は敵が多すぎる。店を出す場所を間違えたな。」 此処はヤクザの“島”だったから。彼はそう言った。彼らの街で勝手な事は許さないという事を静雄は言いたいのだろうと、青葉は何となく彼の意志を汲み取って感じていた。裏事情の多い池袋が改めて自分の知っているものとは違う顔を持っているのだと、青葉はひしひしと感じて背中が凍るような錯覚に陥った。 結局この店はあまりにも利益を出し過ぎたというその一点のみで池袋の裏の主に目をつけられ、潰れてしまったのだ。小洒落たアンティーク調の店が、今は見る影もなく無残な形として、すっぽりと空っぽになっていた。 「悪かったな。スープ、奢ってやれなくて。」 思い出したように言う彼に、彼女は何かを察した。彼はこうなる結末を、知っていたのではないだろうか。最初に彼と此処で出会ったその時から、この結末を予想していたのではないだろうか。 青葉は以前抱いた疑問を必死に辿り、思いだす。 彼の眼差しの奥にあったあの店が、思いだされた。行列に並ぶわけでもなく、スープを飲みたいと懇願する訳でもなく、香りを楽しむ訳でもなく、ただ本当の輝きを仕舞い込んだように色の付いた眼鏡からあの店を彼は見ていた。 「…知ってたんだ。この店がつぶれるって。」 静雄は何も言わなかった。否定の言葉も、肯定の言葉も、そのどちらも喉の奥で留まらせているように、黙っていた。 「腹減ってんだろ?……寄ってけよ、ウチ。」 平日にも関わらず酷くしまりのない私服を着ていた青葉に何かを察した静雄が声をかけた。彼が一人暮らしをし始めた事を知っていた青葉だったが、まさかその彼の家がこんなにも近くにあるとは思いもしなかったのだろう。青葉は驚きに声を失った。 彼がウチと指指した家は、あの芳しい香りの届く範囲内にあって、数件隣の錆びれたアパートだった。 青葉はあの店の近くに立ち並ぶ静雄のアパートの階段を上る。静雄の後をただ付いていくと小さな、まるで箱のような何もない部屋に光がさした。彼が靴を脱いでその箱のような部屋に入っていき、青葉も同じように靴を脱いで中へと入った。 彼は煙草を取り出して何も言わずに狭いベランダに出る。青葉もそれに釣られるようにして、二人で並ぶには聊か狭いベランダに足を踏み出した。 視界いっぱいに広がる池袋の街の中で、あの店が見えた。目と鼻の先にある、あの店。 「家に帰ってきて煙草吸うとな、毎日あの匂いが漂ってた。」 彼は少し懐かしそうにそう話し始める。こうして煙草を吸う度に彼は芳しいあの香りを鼻に通していたのだろうか。そして、その香りの裏側にある『大人の事情』をひたと感じていたのかもしれない。 「お前が前に言ったように、…あったかい匂いだった。」 もう漂ってくる筈のないあの香りが、鼻を掠めたような気がした。どうしようもなくあたたかい、優しいあの香りを二人は思いだしているようだった。 「あーあ。あのスープ、飲んでみたかったなあ。」 今にも泣きそうな青葉の声が、弱弱しく響く。静雄はまだある程度の長さを残している煙草を灰皿に押し付けて、何故か部屋へと戻って行ってしまった。 彼女は一緒に部屋へは戻らなかった。泣き顔を晒してしまいそうだからと。 煙草を吸っている訳でもない青葉に静雄は何も声をかけなかった。青葉も声がかからないのをいい事に、広い池袋の一角にあったあの店の幻想を見つめていた。夢、幻のようにあっという間に消えてしまった、その場所を。 「青葉。」 ようやく名を呼ばれて彼女は振り返る。溢れ出そうだった涙は、幸いにも少し引いていた。 「なに?」 「スープ、飲んでけよ。」 振り返った先にあった小さなテーブルの上に湯気をたてるスープが置かれている。小さな器によそわれたそのスープだけが貧相にテーブルを飾っていた。青葉はその湯気に釣られるようにして部屋の中へと入り、腰を降ろした。 「……これ、まさか静雄のお手製?」 「馬鹿か。あの店の、インスタントのスープだ。」 「そんなの出てないでしょ。嘘つき。」 つい先日まで青葉と静雄の鼻先を漂っていたあの芳しい香りは、もうそこにはなかった。この家には似合わない大ぶりの鍋と、コンビニで買いそろえたと思われる調味料が台所のシンク周りを占領している。このスープはあの店が出したインスタントでもなんでもなく、優しい彼の嘘の元作られた彼お手製のスープに違いなかった。 「もうこの世が滅べばいいのになあ。」 「たった一軒店がつぶれたくらいで大げさだな。」 「違うよ。私、リストラされたの。」 ポンと然して躊躇う事もなく零れた事実に、彼は何も言わなかった。心配する言葉も、同情する言葉も、なにもかもをひっくるめたように彼は黙り込んでいた。 元々自分には分不相応な大きな会社だったからね。青葉は何も尋ねてこない静雄に、そして自分に言い聞かせるように告げていた。 それでも暫く彼は何も言わなかったけれど、再びあの幻のように消えて行った店を瞳に映し、呟いた。 「そんな事でこの世が滅ぶってならもうとっくに破滅してるだろ。」 静雄の言葉に青葉は何も言わなかった。その代わりに、スープに口をつける。少し冷めたくらいの丁度いい加減のスープが、彼女の口内で巡り巡っていく。 その味はこの部屋のようにとても質素で、少ししょっぱい。 「……料理出来ないくせにこんな事するから。しょっぱいよ。」 彼女がそう言えば、まるでそんな彼女の言葉を予め予測していたかのように、素早い静雄の返答が青葉の耳に届いた。 「お前が泣いてるからだろ。」 「ああ、そっか。」 塩分は体に悪いのになあ、なんて言いながらも青葉はそのスープを再びスプーンに乗せて口に運んで行く。最後の一滴になるまで、綺麗にそれを喉の奥へと押し込んだ。生涯忘れる事のない味を堪能し、彼女はスプーンを置いた。 「……あったかい。」 空っぽになった筈の食器に塩分を含んだ一滴が流れ落ちた。 あの店が幻だったかのように消えてから一カ月、青葉はスープの有名なフレンチレストランのホールで働いていた。あの頃恋焦がれた芳しい香りとは違う香りが漂う、フレンチレストランで。 閉店の時間を過ぎて彼女はあの路地を歩いていた。人の気配など微塵も感じる事の出来ない、数か月前と変わらない物騒な路地を慣れた足取りで進んでいく。 「お前がそんなにスープマニアだったとは知らなかった。」 何処からともなく現れた静雄に、青葉は微笑み返した。「知らなかったの?」まるで愚問とでも言わんばかりに。 「あったかくて魅力的な私とそっくりでしょう。」 「買いかぶりもいいところだな。」 二人はあの店のあった場所で、今はない幻想を見ていた。長蛇の列の先に漂う、あの懐かしい香りが再び鼻を通っていくようだった。 「ねえ。また部屋に寄ってもいい?」 「…なんだよ。」 「今度は私がスープ、作るからさ。」 そう言えば彼はしょうがないなと言いながら笑った。釣られるようにして青葉も、同じ表情を浮かべた。 青葉は今はないあの店を思いだす。目を閉じれば簡単に浮かび上がるアンティーク調の小洒落た店が広がる。一度だって飲んだ事のないスープの香りだけが、鮮明に思い出される。 彼女は少し感謝していたのかもしれない。あのスープを、結局口にしなかった事を。 「期待しといてやるよ。」 今も彼女はスープを追い求める事が出来る。最高の一杯を、追いかけ続ける。あの涙のようにしょっぱい彼の作ったスープを超える、一杯を。あの暖かいスープの味が忘れられなかった。 彼女は今になって思うのだ。あのスープは決して飲む事の出来ない、幻想だったのではないかと。温もりを望んだ先に見た願望のように。静雄が与えてくれた温もりが、目を覚ましてくれたような気がしてならなかった。 池袋の街は今日も騒がしい。でも、この路地だけはひっそりと、秘密基地のように穏やかに佇んでいる。騒がしいこの池袋という街の中で酷く穏やかなこの場所が、彼女には静雄のように見えていた。 じゃあね、青葉があの日のように手を振って静雄に別れを告げる。 彼女は、この街で極上のスープを探し求め、走りだした。 スープ |