長い、長い、戦いが終わった。

 何千年と続いた鬼が存在する世界は、終わった。その未知なる世界は信じられないほどに平和で、こんなにもあたたく気持ちがいいものかと思う。晴れ舞台に相応しい青空で、空気はこんなにもおいしいものなのだと改めて思わされる。今までは空気がおいしいという事すら考える余裕がなかった事を今になってはじめて知ったような気がする。ずっと望んでいた結末が、ようやく手に入った。

 鬼を滅する為に命を削って生きてきたのに、いざ平和な自分が望む世界を手に入れた時、自分が何をしたいのか分からなかった。もしかするとその世界がくるという未来を、私は想像できていなかったのかもしれない。自分の役目を終えた後にしたい事なんて考えたことがなかった。
「…終わったら終わったで、どうしていいものか分からないもんだね。」
「ハァ?好きにすりゃいいんだよ。俺はそうする。」
「天元はそういう生き方が出来る人だよね。羨ましいなあ。」
 彼の言う通りなのだろうと思う。思うが侭に、好きに生きればいいのだ。けれど、自由というものを今まで持ち合わせてこなかった事が不幸なのか、私はそれが今一掴みきれていない。
 時期に鬼殺隊も解散となるだろう。これからどうやって生きていけばいいのだろうか。
 望んでいた筈の生活が手に入る筈なのに、私は今まで自分の居場所であった鬼殺隊という場所を失い、これから放し飼いになるのだ。野良犬と違い、飼い犬は飼い主を失うとその場をうろうろとさ迷うことしか出来ない状況と何処か似ている。
「天元は何したい?」
「そりゃ派手に生きるさ。やりたい事やって、好きなように生きる。」
「天元の場合は割りと元から好きなように生きてる節があるけどね。」
、お前生意気だわ。」
 元柱の俺に向かって、と言われてそれもそうかと思って笑った。
 私は鬼殺隊の一員として最後の戦いに参加はしていたけれど、柱ではなかった。階級は最上級の“甲”。階級“甲”から柱は選ばれるものだが、私は最後まで柱にはならなかった。
 理由はいくつかあるのだと思う。時期もあったのかもしれない。けれど、一番は力ではなく覚悟の質が問われるこの世界で私にはそれが足りなかったのだろうなとぼんやりと考える。別に柱になりたかった訳ではないのだから、心残りがあるのかと言われればそうではない。
 この平和な世を手に入れるため、自分の命を落とすことは仕方がない事だと考えていた。それは柱だけでなく、私を含めた他の隊員も同じだろう。けれど、何処か怖かった。いざ自分が死ぬと感じた時に、全力で戦えるのだろうかという不安がいつだって存在していた。
 柱という存在は強い。私ではやはり到底適わない人たちばかりで、何度も命を助けられてきた。だから、自分が最前線に立って窮地に陥ることはなかったのだ。
    そう、“今まで”は。
 けれど今回は違った。最後の戦いという事は鬼の大将である“鬼舞辻無惨”を相手にするという事だ。それは私を今まで庇ってくれた柱が何人いた所で勝てる保障はない戦いだ。その覚悟は、あった。
 目まぐるしく刻一刻と変わっていく壮絶な場面で、私も戦わなければならなかった。今まであった死に対する恐怖すら感じる暇がない程に、それは過酷なものだった。あの場にいた者しか感じる事の出来ない空気感だ。
 今までも隊務を遂行する中で、沢山の死を見てきた。目を覆いたくなるような地獄絵図を通り抜けてきた。
「しかしお前、よく五体満足で戻ってきたもんだな。」
「いや、ほんとにね。私も自分で吃驚した。」
 今まで幾つもの死線を越えてきたけれど、今までとは非にならない程の犠牲が出てしまった。鬼を滅することが出来たのは喜ばしい事に違いがなかったけれど、その犠牲を考えた時にあまりにも失ったものは多かった。隊員の半分以上がこの戦で死んでいった。
「やっぱり天元も最前線で最後まで戦いたかった?」
「まあ、そりゃそうだな。ただ俺にはその力量がなかったってだけの話だ。」
「謙遜するなんて珍しい。」
「鬼殺隊ではそれが全てなんだよ。」
 彼は自信家に見えて、且つ派手な事を好むから勘違いされやすいけれど、誰よりも自分自身の力量を自覚している男だった。柱であっても奢らず、常に上を目指していた。そして、己の限界も知っていた。だからこその今のこの言葉なのだろう。
「やりたい事か。なんだろ、ちょっと考えてみようかな。」
 すぐに考えられることでもない。自分の人生と、この世界ががぐるりと一日で変わってしまったのだから無理もない。ゆっくり考えればいいのだ。
 “それくらいの時間はある”筈だ。
「でも一つだけやりたい事あった。思う存分、呑みたいな。」
「…地味な夢だな。」
 憎まれ口を叩いた筈の天元の太い腕が、私の肩に覆いかぶさった。



 あの戦いから数日が過ぎた。酷く平和な世では、以前と違って何も起きない。まともに一日休んだ事もなかったのだから、その休日のような毎日に戸惑いもしたが、これからどうしてい行くのかを考えるには最適な時間だった。
 まずは、今までの人生を振りかえった。鬼殺隊に入って六年。本当に目まぐるしい日々で、時はすぐに通り過ぎていく。
 気づいた頃には随分と年月が過ぎていて、そして階級を与えられる毎に自分が強くなったのだという証があった。力そのものが欲しいのではなかったけれど、鬼狩りをする身としては、階級を上げて強くなる事こそが喜びだった。
 けれど違う側面で考えたとき、他にも喜びはあった。
 天元はいつも私の傍に居てくれた。死の中を生きているようなこの環境化にあっても私が理性を失わず、狂うことなく人として生きてこれたのは、ひとえに彼のおかげだろう。本当に心身ともに支えてもらった。
「天元。」
「なんだあ。」
「暇だね。」
「暇暇言うな。余計暇に感じる。」
 一つ気づいた事があった。暇とは言うものの、暇というものを全力で味わうのも悪くはない。何もする事がないというのは平和である証拠だ。その暇に、彼という男が傍に今も変わらず居てくれるからそう思うのかもしれない。
 あの日以来、傍で私が暇暇と口を開くごとに言うものだから、天元はいい加減苛々としているようだったけれど、無下にはせず、私が暇と呟く度にきちんと返事をしてくれた。酷く、面倒くさそうにだけれど。
「この間何したいか聞いた時、好きに生きるって言ってたけど、具体的に何か案はあるの?」
「あー、それな。今考えてる所だ。」
 あれだけ大見得張っていたくせに案外私と変わらないのか。そんな事を思ったけれど、口に出せば確実に気を悪くするだろうと思い、寸での所で私は言葉を飲み込んだ。
 天元には本当に支えてもらったし、何よりも世話になった。何か恩返しがしたいと、控えめながらそう思う。
 あの戦いから暫くして、最後の柱合会議が開かれ、鬼殺隊は晴れて解散となった。その会議に参加できたのは、二人の柱だけだったという。人づてながらに、本当に役割は終わったのだなと、どこか他人事のように思った。
「ひとつ、私が提案しようか。」
「何だよ。の提案なんて、期待できねえけど。」
「温泉でも行かない?好きでしょ、温泉。」
 何を提案されるのか、如何にも構えていた天元も、私の言葉に賛同した。きっと彼も暇を持て余した事が今までなかったのだろう。私のようにただの町民だった訳ではなく、生まれてから忍びの家系で育ってきた彼は、私以上にこの時間を持て余していたのだろう。
にしては悪くない提案だな。」
「でしょ。じゃあ行こう、今から。」
「…お前そんなせっかちな女だったか。」
「善は急げだし、人間の命は鬼と違って有限!」
 いかにも私らしからぬ言葉に驚いていたけれど、結局は私と同じく暇な彼はすぐにその提案に応じて、旅支度を始めた。
 目的地は、藤の花の家紋。表立って旅とは言えない、小旅行だ。以前任務で立ち寄った際、大きな温泉があったのをふいに思い出したのだ。
 走っていけばすぐにでも付いてしまう距離だけれど、歩いていけば数時間はかかる。私たちにはもう先を急ぐ用もないのだから、歩いていけば一端の小旅行になると考えたのだ。別に、旅が遠くに行くことだという定義はない。
「ゆっくり歩いて行けば、ちょうど夕方には付くかな。」
「ま、たまには急がないのもいいか。」
 私たちは、今まででは考えられない程にのんびりと歩いて目的地へと向かう。呼吸を使えば早く走れるし、ある程度天元にも合わせて走ることができたけれど、こうしてのんびりと歩いたのはいつぶりだろか。普通に歩くというその行為が、とても新鮮だった。私よりも幾分も体格に恵まれている彼は、私が大股で進んでも私の二歩、三歩前を歩いていた。
、遅い。」
「違うよ。天元が早いんだよ。」
 そう言えば、ちゃんと速度を落として、私の歩数に合わせて歩いてくれる。体格が大きい分もちろん私よりも幾分も長い彼の足が、窮屈そうに小さく歩を出すのがどこか可笑しくて笑ったら、ゴツンと軽めの拳骨を食らった。優しい人だけれど、天元にはこういう所がある。
 隊服ではなく着物だと歩数も限られる。丁度日が翳ってきた。あと数十分もすれば、目的の場所へと付くだろう。そろそろお腹も空いたし、喉も渇いた。
「そういやお前人に提案するくらいの余裕なんだ、自分のやりたい事は見つかったのか。」
「あー、うん。まあね。」
「…なんだよ、勿体ぶりやがって。」
「そりゃ、ない知恵捻って考えた事だから勿体ぶりもするよ。」
 たいして何も詰まっていない脳みそを回転させて、この間ずっと考えていた。毎日が休みのようなこの期間は、私に“それ”を考えさせる期間なのだと思い、真剣に自分と、自分の将来と向き合った。悩みながらも、迷いながらも、出た一つの答えが何よりも私をすっきりとさせてくれた。考えれば考えるほど、これ以外自分には最早成すべき事はないのだと思うほどに、酷くしっくりと合点がいった。
「旅支度、するんだ。」
 私の言葉に、天元は一度首を傾げて、おかしげに顔を覗き込んでくる。
「さっきしてばっかだろ。」
「違うよ、自分の人生の旅支度。」
「…は。」
 一瞬彼は何を言っているのか分からないとばかりに考えているようだったけれど、すぐに言葉の意味を理解したのか何も言わなくなった。黙ったのではなく、次に続く言葉を、きっと見つけることが出来なかったのだろう。
 私には、彼と違う事が、確実に一つだけあった。
 私は柱ではなかった。“甲”の階級にはあったものの柱にはならなかったのだから、鬼殺隊ではそれは確実に柱よりも弱いという事を意味する。そして、私の能力なんてたかがそんなものだった。
 最後の戦いの時、顔に痣を出す柱が何人かいた。それを鬼の言葉で、“痣者”というらしい。
 極限の力を最大限発揮する為に、己の命を前借りしているのだという。選ばれし者にしかそれは現れない。私も、痣の事は隊から聞いて知っていた。
「まさか私に痣が出るなんて思わないでしょ。他の誰も、私だって。」
 いつだって私には恐怖があった。命を捨てても仕方がないと思いながらも、いつも怯えていた。けれど、最後の戦いの時にはその気持ちも消えていた。それを感じる間もなかったと言えばそれまでかもしれないが、それは今まで私が持ちえていた“覚悟の質”と潜在していた能力が解き放たれた瞬間だったのだろう。戦いが終わった後に、自分が柱達と同じように“痣者”になったのだと知った。
「だから残りの人生を、しっかり旅支度する事にしたの。」
 鬼と違って、人間には死に対しての猶予がある。鬼は殺されることでしかその幕を閉じることは出来ない。
 もちろん人間にだって死に対しての猶予が皆に与えられている訳ではない。病で突然死ぬ者もいるし、事故で死ぬ者だっている。鬼に殺されて、無念を感じることなく瞬時にあちらの世界に行く人間もいる。けれど、私は違う。
 私は幸運にも、人間として鬼との戦いを終えることが出来た。五体満足でこの終焉を迎える事が出来たのは、神から与えられた最後の褒美なのかもしれないと思った。
「辛気臭いから泣いたりしないでね。」
「あほ。誰が泣くか。」
「そっか。なら、よかった。」
 私が安心したように笑いかければ、彼はどうしていいのか分からなくなったのかそっぽを向いて、それきり暫く言葉を紡ぐ事はなかった。それだけでも、私からしたら充分に幸せな事だった。
 不思議なものだなと思う。少し前まではあんなにも死が受け入れがたく、恐ろしいものだったのに今はすごく安らかな気持ちだった。全ての事に意味はあるのだから、後悔はないと心から思う事が出来る。そんな環境を、あと少しばかりでも生きる事の出来る私は本当に幸せだ。
 沢山の仲間、同僚、尊敬すべき柱が死んだ中でも、私が生き残った意味があったのだと思う事にしたのだ。私も、この新しい世を作った立役者の一人なのだと自分を誇る事にした。残りの残量も分からないこの命、それくらいに評価しても罰は当たらないだろう。
「痣者でも寿命を全うしたって奴もいるんだろ。」
「残念だけど、私はそんな特別に選ばれた人間じゃないから。多分無理だよ。」
「決め付けてんじゃねえよ。分かんないだろ。」
 天元の言葉は嬉しかった。そうだったらいいな、とも思うけれどなんとなくそんな奇跡は起きないと思った。そもそもこの戦いで五体満足に生き残ったのが、何よりの奇跡なのだから。私には、彼とこうして余生をゆっくりと過ごせる時間が残されているのだからそれだけでも贅沢すぎる褒美だ。
「ごめんね。五体満足な私が、五体満足じゃない天元よりも先に死んじゃって。」
 贅沢すぎる褒美を授けられた私には、迫り来る恐怖はない。その日がいつやってくるのか、その恐怖はもちろんない訳ではないけれど、私にはまだ時間がある。自分が成すべきことを成す猶予はあるのだ。それだけでも、死んだ他の者に恨まれても可笑しくない贅沢だ。
「あほな事言ってんじゃねえよ。」
「ごめんって。」
 ずっと私よりも前を歩いていた筈の天元が、私の後ろにいた。私も立ち止まると、後ろから痛いくらいの力が抱きついてきた。幸せと感じると共に、涙が伝った。覚悟が出来ているとは言え、未知なる世界へ旅立つ不安と、彼の優しさに胸が締め付けられるように痛かった。
「天元。」
「…なんだあ。」
 今日の昼、中庭で暇を持て余していた時の私達のような会話に、私は安心して彼に告げるべく一言をきちんと口にする事にした。きちんと自分の口が動く時に、しっかりとした言葉を伝える為に。
「私、結構幸せだったよ。」
 終わりなんていつ来るか分からない。猶予は与えられているけれど、最後はきっと突然やってきて、何も告げる事無く終わるのだろうと思う。
 二十五歳という一つの基準がある中で、私はあとどれくらいの時を彼と一緒に過ごす事が出来るだろうか。
 それは誰にも分からないけれど、幸せのいっぱい詰まったこの短い人生がいつ終わってもいいように、私はしっかりと旅支度を始めるのだ。笑顔でその時を彼の隣で迎えられる、その支度を。
「…当たり前だろ。」
    私の人生、有意義だったな。


( 2020'05'27 )