4号室.
ただいまを言わせて


 初めて美容室で髪を染めた。
 就職活動がひと段落したからというのが表面的な理由で、本当の理由は別にある。宮城くんと仲良くなってしばらくした頃、二人で夜な夜な飲み明かしていた時にご機嫌な彼が一枚の写真を見せてくれた。
 長方形の枠に収まっているのは彼が高校時代一緒にバスケをしていた仲間で、熱い集団の中で一際目立つ黒髪がとてもセクシーな美女がいた。彼はその美女を“アヤちゃん”と呼んでいたのを今更ながら思い出した。
 彼が彼女を好きだという事実を正当化できるような気がしたのだ。その為に髪を茶色く染めた。今まで一度たりとも髪を染めた事なんてなかったのに、本当に今更すぎて自分でも恥ずかしさしかない。
 眠らせていた梅酒で別れの盃を交わしてから二日後の今日、私は近くのスーパーから段ボールを分けてもらい、せっせと少ない荷物を詰め込んで荷造りを始める。
 彼はタイミングよくこの土日を実家で過ごすと言っていたので、荷造りをするにはちょうどいい。この薄すぎる壁は全てを筒抜けにしてしまうから、彼がいないのは好都合だ。自分の感情まで筒抜けていきそうで、すぐに家を出ることはあの日に決めていた。
 こういう時ばかりは部屋が狭く物が少ないのは助かるものらしい。半日とかからず荷造りは完成して、そして私は鍵を持って家を出た。預かっていた彼のスペアキーを封筒に包んで、簡素なドアにおまけのような形でついているポストの中に落とし入れた。
 半年後に取り壊される事が決まったそのアパートに背を向けた。





 新しい家は前のアパートから十五分程歩いた、傾斜が急な坂の途中に建つマンションだ。小さいながらもロビーが付いていて、アパートではなくマンションタイプに少しグレードアップした。アールシー構造と呼ばれるものが一番遮音性が高いと聞いたけれどそこまでの予算はなくて、少し不便で辺鄙な場所に居を構えることになった。
「てかなんでこんな辺鄙なとこ選ぶ訳?」
「だって予算内のマンションほんとなくて。」
「予算いくら?」
「三万五千円。」
「都内の家賃舐めてる?」
「さすがに一万円グレードアップした。」
 引っ越しをして初めて大学に行った日、とても久しぶりにサークルへと顔を出した。自分がとても卑怯な女に思えて自己嫌悪に陥りながらも、どうしても一人で居たくなくて以前よく一緒にいた友人を自宅へと招き入れた。
「でも何でまた急に引っ越し?」
「前のアパート半年後に取り壊されるんだって。」
「あ〜、オンボロだったしね?」
「昭和レトロと言って欲しい……」
 予算を一万円ばかり底上げして坂の途中にある辺鄙なマンションに住み始めた私は、これからどんな人生を送るんだろうか。壁越しに感じられた隣人の生活音を思い出して、なんだかそれが遠い昔のことのように思えてとても不思議だった。
 友人に手伝ってもらい家具を配置させて、バイトだからと見送ってからの一人の時間はとても退屈だ。ふと寂しさを感じた時、たいした意味もなく玄関に出て洗濯機を回していた少し前までの自分を思い出して胸が痛んだ。
「お酒ばっか飲んでないで栄養ある物食べなね?」
「はあい。」
 箱の中から出てきた梅酒の瓶を開けてみる。むわっと広がる甘い香りは、私が宮城くんと過ごしてきた時間の分だけ熟成されていて、そして色を変えている。
 少し昔の事を思い出していた。





 高校生の頃、私には恋人がいた。
 小学生の頃からよく知っている、近所に住む一つ年上の男の子。面倒見がとてもよくて、いつも私の世話を焼いてくれる好青年だった。同じ高校に進んでお互いの気持ちを確かめ合って、そして彼は私を彼女にしてくれた。人生で初めての彼氏だ。
 何も変わらないと何故か安心しきっていた私への報いは、彼の大学進学後に跳ね返ってきた。進学先の大学で好きな子が出来たのだとそう言っていた。私が彼と同じ大学への進学希望を出した直後の出来事だった。
 終わりが始まったあの瞬間を今もまだ私は忘れることが出来ない。
 それからもそれは私にずっと付き纏って、表面的な付き合いを広く浅くするようにサークルにはまっていった。終わりが始まらない相手を好きになって、自ら深く好きにならない理由を作っていたことはなんとなく自分でも気づいていた。
 そんな生活にも慣れていた頃、宮城くんと出会った。とても自然な距離感で関係性を深めていった筈なのに、自分の気持ちに確信を持ったのはつい数日前の話だ。たまらなくなって、家の取り壊しの通知を見てそれを理由に何も言わずに逃げ出した。彼はまだその通知を見ていないのかもしれない。
 狭い部屋に無理やりねじ込んだような独立洗面台に立つと、酷く似合わない茶髪に染まった自分が映っていて虚しくなる。こんな事をしたところで虚しくなるだけで、何も変わらないことなんて本当は分かっていたのに。
 住み始めて五日、新居に引っ越したというのに心は沈んだままだ。
 少し遠くなったバイト先に向かって自転車を止める。いつものように階段を登って行った先に、彼はいた。
「……詰めが甘いよ、さん。」
 それだけ言って私の手を引く宮城くんは私が「え?」と驚く言葉を発する隙間も与える事なくずんずんと進んでいく。
「ちょ、ちょっと!私これからバイト……」
「代わってもらったから。」
「はい?」
「シフト出しに来た人に代わってもらった。」
「そんな勝手に……」
さんも勝手に出て行ったでしょ?」
 そう言われるともう何も言い返すことはなくて、本当に自分の詰めの甘さを悔やむしかない。もっと遠くに引っ越してバイト先も変えればよかったのかもしれない。けれど、大した思入れもなかった筈のこの街が気づいた時にはとても住み心地が良く、そして沢山の思い出に溢れていたから。
 洗濯機を回している四十五分間で近くを散歩したこと、時々一緒にスーパーに買い出しに出て酒盛りをして夜遅くまで一緒に過ごしたこと、小腹が空いてアイスを買いに行った深夜のコンビニ、家は無くなっても思い出が染み込んだこの街が好きだった。
「木曜日にバイトしてる事くらい知ってる。」
「………私お店の名前言ってない。」
「たまにパン差し入れてくれてたからどこかくらい分かる。」
「…………」
さんそういうとこあるし、そうとこしかない。」
 自分でも隙だらけな人間だと自覚しているけれど、改まって自分以外の誰かからこんなにもはっきり言われると結構凹む。それだけならまだいいのかもしれない。彼に奪われている左腕が熱を持ったように熱い気がして今すぐに振り解きたい。
「宮城くんもしかして家行こうとしてる?」
「そう。」
「もうあそこ私の家じゃないし……」
「知ってる。帰ってきたら洗濯機無かったから。」
 宮城くんにとってまだ私が見ず知らずの他人だったあの頃、酔っ払って自宅に不法侵入しようとしても決して声を荒げず冷静に対応してくれたのに……今はとても怒っているらしい。言葉の節々からも、私の腕を握る強い力からもそれは窺い知れる。
「いいから入って。」
 数日ぶりに見るかつて自分が“生活”をしていた部屋にはぽっかりと穴が空いたように洗濯機置き場が剥き出しになっていて、ドアに付いている簡易ポストには無造作にガムテープが貼られていた。
「……これ見た時の俺の気持ち分かる?」
「引っ越したんだなって。」
「今の俺見てそんな呑気な科白出たと思う?」
「……いいえ。」
 強引に連れられて入った彼の部屋は出会った当初から何も変わらずそこにあって、まるでついこの間までそこで楽しく一緒に笑っていた自分の幻影が見えそうなほどだ。たまらない気持ちになる……だからこの家を出た筈なのに。
「俺さ、」
「……うん。」
「好きな子いるってのは知ってるよね?」
「黒髪ロング美女のアヤちゃんさん。」
「そう……いやそうじゃないけど、アヤちゃんね。」
 こんなに形相を変えて私を部屋に連れてきておいて、突然現実を突きつけてくるのだろうか。全ての行為に合点がいかなくて混乱しかない。スプーンで自分の肉を色んな方向から抉られているようなそんな痛みが駆け抜けていく。
「正直この間の合宿すごい楽しみにしてた。」
 高校一年生から片手で数え切る事ができない長い間片思いを続けている彼にとっては絶好のチャンスだったに違いない。つまり私が想像していた通り、そのチャンスが彼に巡り巡ってきたという事だろうか。
 だとすれば何故こんなに荒々しい形相で、こんなところまで連れてきて私に報告するのだろうか。にっこりの“に”の字すら見当たらないかんばせで。
「……でもさ、気づいたんだよ。」
「ん?」
「アヤちゃんの事は今も好きだけど……でも今俺が一緒にいたいのはさんで、振り向いて欲しいのもさんだって。」
 彼は一体何を言っているんだろうか。突然すぎる。尤も私自身も自分の気持ちに気づいたのがあまりにも突然で受け入れられていないくらいなのだから、当然噛み砕く事ができない。
「俺さんが好きだよ。」
 はっきりと、きちんと言い淀む事なくストレートにそう宣言してきた宮城くんを直視することができない。そんな言葉を聞いて、自分のトラウマが再び色濃く浮かび上がって腹の底から何かが込み上げてくるような絶望感があった。
「お、お手頃な感じで一時的に傾いたとか…」
「バーゲンセールじゃないんだから。」
「でもだったら余計に分かんないよ、そんな突然。」
「それだけ好きって証拠じゃん……」
 あれだけ熱心に片思いを続けていたのに、そんな簡単に自分を好きになってもらえるような思考は私にはない。これだけしっかりと私と向き合って真正面からそう言ってくれていたのだとしても。
「……ここまで言わせないと分かんない?」
 そう言ってから「…ねえ」小さく私に問いかける。始まってしまえば、いつかきっと終わりが来る。だから始めるのがどうしようもなく怖い。彼が好きだからこそ、その先に待ち構えているであろう終わりが怖くて、何も始まらない内に自分からこの家を出た私だから。
「合宿のお土産買ってる時にはもう確信してた。」
「………」
「でもさん好きな人いるし……なんか急にガッつくと駄目そうだから長期戦で行こうと思ってたら居ない訳じゃん?……そんなんあんまりだろ。」
 彼が高熱で倒れた時の事を思い出す。
 私のことを誰かと間違えていたんじゃないかという、忘れられない出来事。あの時彼は一体誰に手を伸ばして、そして引き留めたのだろうか。捕える訳じゃなく、取り残される自分にひどく怯えたようなそんな言葉が忘れられずにずっと頭の片隅に生きている。
「宮城くんが熱出したあの日、」
「……もしかして俺なんか変なこと言った?」
「変とかじゃないけど……」
「置いてかないでとか言ってた?」
 的確すぎるその言葉に驚いていると、彼はやっぱりとそう言って罰が悪そうに髪を触っていた。あんなに意識朦朧としていたけれど、彼にその記憶は残っていたのだろうか。とてもそんな様子には見えなかったけれど。
「高校の先輩が家に泊まった時にも同じ事言われてさ、」
 それから彼はとても静かに自分の昔話を聞かせてくれた。沖縄で生まれて、沖縄で育ったこと。父と母と兄と妹がいたこと、今は母と妹がいること、触れられたくないであろうそんな傷を私に淡々と話してくれた。
「正直怖いんだ。大事なものができる度にまた失うんじゃないかって……尻込みしちゃうのは多分そのせい。」
 どうしてこんな心の傷を私なんかに見せてくれるのだろうか。私は自分の傷とすらまともに向き合ってこられなかったのに。やっぱり宮城くんはとても大人で、心の優しい人だとそう思う。それはとてもとても深く、海の如く広く──、
「だからずっと決めてた。次はもう絶対手放さないって。ソーちゃんの為でもなく、母ちゃんの為でも俺の為でもなく、俺が一緒に居たいと思った人の為に生きたいって。」
 だから大切なものは沢山なくていい、手のひらに収まるくらいに少なくていい、その分全神経をその人に向けて大切にしたいと思ったから──、彼はそう言った。ただの隣人で、しかも不法侵入を働いた私が受けるにはあまりにも勿体無い言葉で、彼の真心が詰まった心からの言葉のようにも思えた。
「……それがさんだから。」
「宮城くんは、」
「もう黙って……いい言葉出てくる気がしない。」
 どうして私が彼に惹かれて行ったのか、今ならその理由まで鮮明に分かるような気がする。やっぱり彼は私にとって海のような存在で、そして無くてはならない存在だ。
 終わりの始まりだとか、始まりの終わりだとか、もうそんなものはどうだっていい。結局私には彼が必要で、どうしようもなく欲してしまったから。そんな自制心や未来の恐怖心よりも、すぐ側にいる彼を求めてしまう自然の摂理だ。
「だからもう俺のこと置いてくなって。」
 泣きそうな彼の顔に私も釣られるようにしてじんわりとした熱を産み落として、そして吸い寄せられるように少し背伸びをして唇を重ねた。
 私の部屋がもう存在しない、このアパートで。





 私は梅酒の瓶を風呂敷に包んで温かい日差しを受けながら足早に慣れた道を歩いている。私が引っ越してからの五日間で、宮城くんは梅酒を一人で飲み干してしまったらしい。だから持って来いと、随分上から物を言ってきた。
 私が予告なしに行った引っ越しを相当根に持っているらしい。
「み〜や〜ぎ〜く〜ん!」
 チャイムを鳴らそうか少し悩んで、あえて今までした事がないタイプの呼び出しで彼を呼び寄せる。きっと恥ずかしがりながら慌てて出てくるだろうから。
「…クラスメイトの家に遊びに来たガキかよ。」
「へへ……不法侵入よりはいいでしょ?」
「まあね。」
 あんな出会い方だったけれど、彼はその出会いをなくてはならない出会いだったと言ってくれた。だから私も未来を見ることは辞めた。もう終わる未来は見ないことにしたのだ。
 普通の人なら意味が分からないって言うだろうけど俺には意味あったし……てか他の男に意味わかられても困るけど、と何だかとても可愛らしい事を言っていたので、今の所まだ未来に目を向ける必要はなさそうだ。
「持ってきたよ、例のブツ!」
「ブツって……俺らの思い出をブツ呼ばわりすんなよ。」
「早く飲もうよ。」
「気が早すぎるでしょ、ムードとかは?」
「え〜?」
「え〜じゃない!」
 ぶつぶつ怒っている様子なので、少し背伸びをして前髪を両端に分けて待ってみる。とても不自然な硬い動きで近づいてきた彼は音を鳴らすこともせずただ額に自分の唇を押し付けてくるので、何だか笑ってしまいそうになる。
「ね?だから早く飲もう!」
「……何でそんな余裕なんだよ。」
「もっとすごいの後でするから?」
「は、はあ?」
 それにはお酒が必要で、つまり私にはお酒が必要で、彼にもお酒が必要という事だ。二人で十ヶ月あまり眠らせ、そして熟成してきた証を摂取する為に。別れの盃となってしまったこのお酒に、きちんと意味をつけてあげないといけない。
「はあ……全くもう……」
 観念したのか、事前に作ってあった氷をグラスに入れ込んで彼が両手に持ってテーブルに置く。あの時と違って私たちはお揃いの梅酒のロックを注いで、そして彼が照れくさそうにグラスをカチンと鳴らせてきた。
 あの嘘のような出会いの時から、もう既に私たちは今と同じことをしていたのだ。つまり、こうなるというのも必然で必要な出来事だったのかもしれない。
「……おかえり、ちゃん。」
 ただいまのその一言は、想像していなかった私の名前によって飲み込まれてしまった。
 一本取られたのが何だか悔しくて、まだ酔ってもいない私の唇はアルコールよりも先に彼の唇へと方角を向けていた。  



ただいまを言わせて
2023/06/18~2023/06/23
...end.