まだ目覚めきっていない寝ぼけた状態で布団を足に絡め取り抱きつくのが、好きだ。どうせ暫くすれば寒くなって、また自然と布団に潜り込むのだけれど、外気に触れた肌が少しだけひんやりした状態も気持ちがいい。今日の布団はいつも以上に柔らかくふかふかとしていて、この間コインランドリーで洗ったような気がするなと完全に寝ぼけた頭でぼんやりと考える。人間の記憶は時々都合がいいもので記憶を塗り替えるようだが、ここ最近布団は洗っていないし、何ならコインランドリーに持っていったのは結構前の話だ。そんな違和感にようやく目を開けると、やっぱり私の足に纏わりついた布団の色はいつものものと違ったし、とても綺麗に整理整頓されている部屋だった。




「…起きましたか。おはようございます、正午過ぎてますが。」
 明らかに皮肉を乗せてそう言う七海を見て、昨日の出来事を思い出す。昨日は七海のお気に入りのレストランで食事したことを覚えていて、正面に座る七海と逆の手で持てばいいのだと鏡のように彼を手本にしながらテーブルマナーを気にしていたが、そんなものはほんの最初だけだ。その後にワインを追加で何本オーダーしたかは、あまりよく覚えていない。
「昨日、私何時に寝た?」
「三時頃には爆睡しているように見えましたが。」
「うわぁ、めっちゃ皮肉言うじゃん。」
「皮肉ではなく、ただの事実です。」
 ワインを何本追加オーダーをしたのか覚えておらず、何時に寝たのかも定かではない私にもちろんきちんと正い記憶なんてある筈もなく、昨晩の記憶は半分薄らと朧げにしか残っていない。覚えているのは、途中からピッチを上げてワインを煽るように飲み始めたという記憶くらいだろうか。
「そもそも、あそこはガバガバ飲むような店ではありません。」
「七海だって結構飲んでたじゃん。」
「私は貴女と違って醜態を晒すまで酔いませんので。」
「その正論、二日酔いに効くぅ。」
「学習したならさっさとこれ飲んで、歯でも磨いて来て下さい。」
「…歯ブラシなんて持ってきてないよ?」
「貴女が泥酔していた午前一時頃、コンビニで私が買いました。」
 段取りがいいなぁ、とそんな事を思いながら七海から渡された二日酔時に重宝する茶黒い小瓶の蓋をひと回しして、パキパキと音を立てて開封して一気に流し込む。妙に甘ったるく、どちらかと言えばまずい液体はこの後の私にとって少しばかり力をかしてくれるのを私は知っている。何に対しても薬や攻略法が出てくるこの文明の進化に感謝しつつも、飲み過ぎれば翌日に響くという分かりきった事実を学習せず繰り返す私は文明の進化と逆を進んでいるような気がした。
 瓶と一緒に渡された歯ブラシの袋をペリペリと剥がして、ようやく私はよっこいしょと言いながら起き上がる。よっこいしょなんて言わなくても立てるだろうじじ臭いと思うだろうけれど、これが結構地味に効果的だったりする。昔は自分自身もそんな無意味な掛け声いらないだろうと馬鹿にしていたけれど、スポーツをする時円陣を組んで気合を入れるのとそれは似ていて、自分を奮い立たせるきっかけになる。と、まぁただ単純に私が年を取ったという事だ。七海と出会ってばかりの頃を思えば、よくもこれだけ堕落した人間になったものだなといらぬ関心をした。
「洗面台どこ?同じような部屋ばっかで分かんない。」
「玄関から一番近い所です。」
「玄関、どこ?」
「人を馬鹿にするのも大概にして下さい。」
 相変わらずギャグの通じない相手だなと、私は大きく欠伸をしながら玄関と思しき方向へと歩いて、近くにあるドアを開けた。水垢どころか水滴一滴すら残っていない綺麗に磨き上げられたシンクを見ると、この男はどうやって日常生活を過ごしているのだろうかと不思議に思う。息が詰まらないだろうか。分かっちゃいたけれど、私と七海はまるで違う。むしろ、対照的な存在だ。それは今に限らず、高専時代からずっと変わらない事実だ。
 あの頃の私に、七海と付き合っていると知らせたら白目を剥いて驚くだろう。嫌いな訳でもなく、しっかりした出来た後輩と認めてはいたけれど、本能的な私とは対照的な七海はとても計画的でまるで私とは違う生き物だ。だから認める事はあっても、それは恋に発展するようなものではなかった。




「“几帳面“って主張感のある洗面台だね。」
「別に押し付けはしませんよ。」
「責任持って綺麗にしろって怒られるかと思った。」
「自分でやった方が楽ですし、その方が納得がいく。」
 この人は一人で生きていける人だと、改めて七海建人という人間と自分が付き合っている不思議さを感じる。
 もう出会ってから何年も経っているのに、意外とまだ知らない一面があるのだろうか。知りたい気もするけれど、今のまま知らない事がある方がいいような気がする。知りすぎる事で、墓穴を掘りそうな気がしたからだ。
 七海と付き合ったのは、ほんの少し前の事だ。お互いの任務とか諸々のスケジュールを合わせるのに結構時間がかかって、付き合ってから食事に行ったのも昨日が実は初めてだったりする。食事に行ったのが初めてなのだから、もちろん彼の家に上がるのもこれが初めてだ。尤も、私に部屋に上がった時の記憶はないけれど。
 学生時代のように、どきどきときめいたりする恋愛が出来るとは思っていないけれど、昨日のあれは七海が言うように本当にただの醜態でしかない。自覚したら負けと顔に出さないようにはしているけれど、これでも結構昨日の自分は恥と感じている。
「簡単なもので良ければ作りますけど、食べますか?」
「こんな時間まで食べてないとお腹空くもんね。」
「私は朝食取りましたけど。」
「その情報言わなくてもいいのに、意地悪だね。」
「ですから、意地悪ではなくただの事実です。」
 まだ付き合って日が浅いとは言っても、七海と出会ってからの年数でいえばかなり長い。きっと昨日の私の醜態に少なからず苛ついているのは確かだろう。本能的な私と違って酷く計画的な七海は、きっと昨日自分の立てていた計画に沿って進まなかった事を快く思っていないだろう。思えば、高専時代からこうして彼に要らぬ苦労や迷惑を背負わせてきたような気が、今にして感じられた。改めて、自分たちの今の恋人関係という事実が不思議でならない。
「二日酔いに優しいやつがいいな。」
「我儘なオーダーを挟まないでください。」
「私が台所散らかしながら料理しよっか。」
「何の嫌がらせですか。」
「七海がやった方が楽なんでしょ?ね、胃に優しいの頼んだよ。」
 結局私のオーダー通り、二日酔いの人間の胃を労ったような優しい食べ物が食卓に並んだ。つるっと喉越しの良いうどんが、少しとろみのついた出汁と卵に絡んで絶妙に美味しい。まさに体に染みるようなその味は、私を回復させていく。細かく刻まれた万能ネギが、二日酔いの私にも食欲というものを程よく湧き立たせた。
「七海主婦力高いね、超優良物件じゃん。」
「どのあたりがですか。」
「主婦力の方、それとも優良物件の方?」
「後者です。」
 その言葉は私の本心に違いなかったけれど、きっとこんな言葉はなかったもののように流されるだろうと思っていた。まさかそこを掘り起こしてくるとは夢にも思わない。人一倍心が優しいからこそあまり人と関わらず距離を置いているように見える七海も、彼女という存在にはある程度興味を持ってくれるものなのだろうか。
「こうやって毎回ご飯作ってくれる。」
「毎回こうして二日酔いでうちに来るんですか、勘弁してください。」
 それに、と七海は付け加えるようにして添えた。“それが優良物件かどうかは受け取り手次第で、定量的に計れるものじゃない“と難しい事を言った。本能的に動く私は、物事をよく考え噛み砕くのが苦手だ。定量とか定性とか正直よくわからない。七海の言葉は、たまに私の思考能力を超えてくる。
「でも、来ないでくれとは言わないんだ。」
「まあ、それは。」
「ちゃんと七海の彼女なんだ、私。」
「酒と一緒に記憶も流れましたか。」
 あえて認めるような言葉を言わないけれど、でも否定もしないその温度感が私にとってはちょうどいい。きっと学生時代なら物足りないと思ってしまうような、こんな生ぬるいくらいの関係性が今は心地がいいように感じられた。私も少しは大人になったのだろうか。
 七海と付き合うきっかけになったのは、本当に些細な私の一言からだった。聞き逃してしまうような、そんな下らない言葉を拾い上げて、七海は私を彼女にしてくれた。
    呪術師でいる限り彼氏なんて出来やしない。
 どこまで本気の言葉なのかと言われたら、嘘ではないにしても別にどうしても彼氏が欲しい状況だったのかと言えばそうでもない。ただのボヤきで、日々のストレスや鬱憤をたまたまそんな言葉に乗せただけといえば、多分それくらいの温度感だった。独り言のようにぼやいたその言葉に、七海から返事があるとは思わなかったし、付き合うきっかけになるような提案を持ち掛けられるとは思わなかった。今思い出しても、少し不思議だ。
「暴露すると、正直昨日は飲むしかないと思った。」
 そう言えば、七海は不可思議とでも言わんばかりに首を傾げてこちらを見る。対照的な私たちにとって、相手が不意に思い立って発言する言葉の意味を理解するのはきっと難しい。私が先刻の七海の言葉の意味をあまり分からないように、多分七海もこの言葉を理解できないのだろうと思う。
「酔った勢いがないと、七海は一生手出してこないんじゃないかって。」
 そもそもの私のキャラクターからしても甘えられるようなタイプでもないし、七海が二人きりになった瞬間ベタベタしてくるタイプのようにも思えなかった。だから、大人の特権でもあるお酒に頼って、酔えば何とかなるのかもしれないと思った。大人になってからの恋愛は、早く手順を踏まないと若者と違って色々と厄介だ。
 本能的で、そしてお気楽な女のように見えるという自覚のある私ですら、人並みに悩んだり人知れず思案することくらいあるという事だ。私にとって、手順は間違えたにしても七海との関係を大切にしたいと思ったから。
「…あんた、人の事なんだと思ってるんですか。」
「いやいや、普段的外れな私にしては真面でしょ。」
「的外れもいいところです、私を愚弄してますか。」
「結構本気で思い悩んだ結果なんだけど。」
 言葉にして伝えれば、七海も納得する言い分だと勝手に思っていたけれど、どうやらそうでもないらしい。そのかんばせはいつもとあまり違いを見出してはいないが、多分、きっと、間違いなく彼は今私に苛つきを覚えているのだろう。言葉尻が、少しだけいつもより尖って感情混じりだったから。
「私を学生か何かと勘違いされては困る。」
 そこまで言わせて、初めて七海の言わんとしている事を察知して自分の取り越し苦労だったと気づいた。彼が私の独り言をキャッチして、そしてそれに応えてくれた時点でそんなものは本当に要らぬ気苦労だったのかもしれない。
「いや、なんかごめん。そういう気がないとばかり。」
「だからと言って、あんなに飲む必要もないでしょ。節度がない。」
「おっしゃる通りで反論の余地もない。」
 思いがけないところで、想像以上に大切にされている事を知ってしまいこちらも調子が狂う。大切にされているというよりは、しっかり私の事を考えてくれていたんだなと少し感動してしまった。
 よくよく考えてみれば計画的な七海が、私のように無計画に動く事などないのだから、彼女になったその瞬間から私は思い悩む必要などなかったのだろう。
「ななみん、結構私の事好きだったんだ。」
「そのふざけた呼び名はやめて下さい。」
「じゃあ、七海くん?」
「今の私になら、普通は………」
 そう言って、七海は一度意味ありげに考え込んで、途中で言葉を引っ込めた。正反対の思考を持ちながらも、今回ばかりはその先の彼の言葉がどんなものであるのか、なんとなく当たりがついた。きっと、七海なら   




「いや、貴女に普通を求めた私が愚かでした。」
 私が脳内で思い浮かべた言葉と、七海の言葉が綺麗にピシャリと重なり合って、私は思わず笑ってしまった。少しずつ、こうして彼の事を知っていけるだろうか。
 初めて彼の名前を呼んでみると、少しだけ建人の右眉が揺れた。


正しさを患うひと
( 2022’03’09 )