大学三年の夏は暑くて、セミが煩かった。
 もう少ししたら本格的に始まる就職活動を前に、何も考えずぼうっと過ごす事のできる最後の夏になるかもしれない。大人にもまだなり切れず、かといって子どもなのかと言えばそうでもない一番分類が難しい時期だ。
 高校の時や、大学に入ってばかりの頃はもっと自由な恋愛感を持っていた私も、今は微妙な立ち位置に立たされていた。付き合うという行為が以前よりももっと窮屈で、怯える対象に思えるようになったからだ。人を好きになるというのは、思っているよりも難しい事だ。所詮、血のつながった家族以外はどれだけ関係性を近くして、体自体が繋がっていても他人に違いないのだ。考えてみればそんな他人を愛するというのは難しくて当然だと思う。


 半年前にクラブで知り合った男と別れたのは、二ヶ月ほど前の事だ。
 これから自由がなくなる生活へと足を踏み込む前にと、自由の象徴のようなその場所へ行けば何かが変わり、始まるかもしれないと思っていたのだから本当に愚かで安直な考えだったなと呆れる。
 一緒に来ていた友人が意図的にその場から消えていった意味を理解して、私も適当に声をかけてきた男と夜の街へと繰り出していた。
 もちろんその男の目的はひとつだったのだろうけれど、夜の空気を吸い込むことで冷め始めた酔いと熱にギリギリのところで正気を取り戻し、その日は朝まで飲んで連絡先の交換をするに留まり始発で帰ることになった。
 出会ってから暫くメッセージが頻繁に届いた。当たり障りのない恋人の真似事のような薄っぺらい言葉を元に何度か酒を交えて会ってはみたものの、相手が言うような感情が私に沸いてくることはなかった。
 三回目に会った時、告白を受けた。どうして出会って三回目でそこまで自信を持って私のことを好きと言えるのだろうかと不思議に思いながらも、アルコールの力を借りて結局彼の言葉を受け入れて体の関係を持った。
 翌朝彼の家で目を覚ますと、仕事があるからとさり気なく帰る方向へと誘われ、私が思い描いていた恋人初日からは随分と遠く、そしてこれが現実なのだとも思った。夢見る少女でもなく、そして現実的に体の関係だけで割り切った大人のような考えも持つことが出来ず、その宙ぶらりんな所で私の感情は複雑に揺れ動いた。
 数ヶ月前に女子会と称して行われた飲み会で聞いた会話が、今の自分にぴったりと当てはまっているようだった。
 男は体の関係を持つのがゴールで、女は体の関係を持つことでスタートすると。それは綺麗に反比例を描き、交わることがないのだとそんな事を言っている友人がいた。まさに今の私と彼の構図を示しているような言葉だ。
 その言葉のとおり、彼からの連絡はなく、そして私は今まで大して好きと思っていなかった筈のその男からの連絡を待っていた。彼の何が好きなのかと言われたら具体的に答えられる要素など持ち合わせてもいないし、私自身彼がどんな人物であるのかを知らないのだから答えがある筈もない。
 数週間に一度だけ気が向いたように連絡が来たかと思えば、週末の夜に呼び出されて家へと招きいれられる。その度に、彼の何がいいのかも分からないのに私はどんどんと依存していき、そして彼の気持ちがその度に冷めているのを感じて、一生埋まらない反比例に苦しめられた。
 ついには彼からの不定期に入る連絡もなくなり、自然消滅という名の別れが待っているだけだった。
 絶望に打ちひしがれる程まで落ち込むわけではなかったけれど、恋愛というものが何なのかよく分からなくなっていた。欲を持たず、何にも期待せずに淡々としている方が楽なのかもしれないとそんな事をぼんやり考えていた頃だ、一年の時からそこそこ仲がよかった宇髄と付き合う事になった。
 気を使いあうような関係性でもなかったし、友達の延長線上のような感じで付き合えばもしかすると丁度いいのかもしれないと、少し悩みつつも彼の気持ちを受け入れることにした。
 好きだから付き合って欲しい、というそんな言葉ではなく「俺ら付き合ってみる?」というくらいのレベル感の言葉だったからそれを受け入れることが出来たのかもしれない。
「あっち。」
「早く帰ってクーラーの下でダラダラしたい。」
「俺あと一限で終わり。お前は。」
「私あと二限。めんどくさいしサボっちゃおうかな。」
「待っててやるからちゃんと受けてこいよ。」
 暑さで朦朧としている意識の中、同じ授業を終えた私たちは構内を歩いて移動していく。友人時代だった頃からほぼほぼ変わらない関係性と、会話が落ち着くと同時に本当に私たちは付き合っているのだろうかと不思議に思う事も多くあった。
 付き合うとなってから数週間が経ったけれど、本当に私たちの関係性は変わらない。以前から講義終わりにどちらかの家で冷を取ったり、時期によっては暖を取りながらダラダラと酒を飲んで朝を迎えたり、ゲームを夜通しして次の日の講義をサボったこともあった。今の関係性は本当にその延長線上にあるだけで、今までの私たちの日常と大して変わらない。
「九十分って長いしさ、先帰ってていいよ。あとから行くし。」
「講義終わったり図書室で寝てるし。」
「そっか。じゃあ終わったら連絡する。」
「おう、じゃあな。」
 そう言って、爽やかな男前な表情をした彼は私の肩に手をおいて、少し先にある教室へと消えていく。
 前回付き合っていた男よりも、宇髄の事はよく知っているし、人間としても好きだった。私が一年の時から変わらず友人関係を続けられてきたのはそういう事なのだろう。けれど、付き合って数週間という本来であれば一番楽しく心が揺れるこの時期にも、私の心は今までと変わりなく平穏という言葉を映し出していた。
 入学当初、同じ学部にいた彼は誰よりも目立っていた。それはその身長の高さや、整った顔立ちにもあったけれど、何事に関しても豪快さの目立つ男だという事も私はよく知っていた。
 特別女関係が目立って盛んだったという意味ではなく、ただ単純に彼がモテていたからそう見えただけなのかもしれない。
 彼と付き合えばもっと甘い言葉や、スキンシップがあるのだろうとなんとなくそう思っていた。けれどそんな甘い言葉もなければ、一度だけゲームをしている最中に不意をつかれてキスをされたきり、それ以上はまだ何もない。本当に彼は私のことを好きなのだろうかと不思議に思わざるを得ない。何故彼は私と付き合おうと思ったのだろうか。
 長い長い三時間にも及ぶ講義を終えて、メッセージを打つ。すぐに返事が戻ってくると、私が教室を出た先に大きな後姿があった。
「お疲れさん。帰ろうぜ。」
「にしても暑いね。」
「食う?」
「あ、うん。」
 キンキンに冷えたアイスをパキっと折り曲げると、その片方を私に差し出した。何事もなかったように二人でそのアイスに口をつけて吸いあげながら歩く。これも以前から大して代わりのない私たちの日常だ。違和感がないまでに、今までと何も変わらない。
 歩きながら今日何をするかを適当に話して、新しいゲームでも買って帰るかと中古屋のゲームショップに足を踏み入れて、暫くクーラーの通気口の近くで涼んだ。
「汗引いたか。」
「あー、どうかな。まだちょっとクラクラする。宇髄は?」
「俺も。もうちょい座って涼もうぜ。」
 長い足を豪快に組んで、彼は講義の教科書が入った手提げ鞄から少し厚みのある紙を取り出してパタパタと仰いでいる。私がそれをじっと見ていると、何も言わずに私のほうへと風を送ってくれる。
「宇髄って結構優しいよね。」
「逆にお前知らなかったのか。」
「ううん、さりげないなあと思って。」
「スマートにやるからいいんだろ。」
 暫くすると風が止んで、彼は器用にヘアゴムで自らの髪を結った。私も真似をするようにヘアクリップを取り出して長い髪を一つに結わった。
 幾分か体の火照りも軽減された頃、二人で最新ゲームが置いてあるコーナーへと向かい、いくつかを手にとってレジに並んだ。どれからやるかを二人で話しながらコンビ二によって、ゲームをしながら飲む酒とツマミを籠に入れて家路へと付いた。
 家へ付いてビールを冷蔵庫に入れ、自分たちがこれから飲む分だけを手元においてゲームのコントローラーを持つ。
「ねえ宇髄。ひとつ聞いてもいい?」
「…駄目って言ったらどうすんだ。」
「駄目でも聞くと思う、多分。」
 私たちはコントローラーを持ちながら、互いに視線を交えることもなくゲームを進めていく。
「宇髄は、何で私の事好きになったの。」
 この数週間の純粋な私の疑問だ。何故彼が私を彼女にしたのかという疑問と、そもそも本当に私の事を好きなのかが分からないからだ。今までと何の代わりのない私たちの関係性を、あえて恋人という括りにする必要が果たしてあったのだろうか。
 彼の事は嫌いではない。もちろん好きだと思う気持ちの方が勝っているのは事実だった。
と一緒に居たいと思ったから。」
 それは私を好きという理由にはあまりに薄すぎて、そしてあえて付き合う必要性がそこにあるのだろうかと考えさせられるものだった。
「それって、友達としての好きなんじゃないかな。」
 未だテレビから視線を逸らすことなく言う私に、何かしらの違和感を感じたのか紅い瞳が横から突き刺さるような私を見ているのが分かった。
「…じゃあ、お前はどうして欲しいんだ。」
「どうって。そんなの私にだって分からない。」
「じゃあいいんじゃないか、このままで。」
 彼は何を考えていて、そして私に対してどう思っているのか益々分からなくなった。否定をして、お前が好きだというそんな安っぽい言葉を私は心のどこかで期待していたのかもしれない。けれど、彼はその言葉を言うわけでもなく、今のままでいいんじゃないかと一言だけを告げてゲームへと視線を戻す。
 彼が好きだと思う気持ちがありながらも、一歩煮え切らないこの感情はどう収集をつければいいのだろうか。迷走している私には、もちろん答えなど持ち合わせていない。


 あれからも私と宇髄の関係性は変わらない。時折被る講義を一緒に受けて、バイトがない日は二人でゲームに明け暮れる日々だ。秋になればこんな生活はしていられないと分かっているからこそ、最後の自由を惜しむように私たちは自由を満喫していた。
 私がゲームの最中に眠りに落ちれば、きちんとデータをセーブしてベッドへと誘導してくれたし、一緒に隣で眠る。おやすみと言えば、易しい声色で同じ言葉を繰り返して、そっと肉厚のある胸板で私を包んでくれる。
 これを俗に言う幸せと呼ぶのだろうかと思いながらも、どこか第三者的な目線で私はそれを俯瞰する。
 誰よりも私を特別に扱ってくれて、大切に優しくしてくる彼を好きと思う気持ちはあれど、私も彼も一線を越えようとはしない。
 今までもそういう機会がない訳ではなかった。ある時ゲームに飽きて、酒を随分と飲んだ夜があった。酒豪の彼と違いある程度飲めるだけの私は大層酔っ払い、彼にキスを強請った。
「誘ってんのか。」
「分かんない。酔ってるからなのかもしれないし、本当に誘ってるのかもしれない。」
 そう言えば、そっと彼の唇が触れて、急に酔いが冷めて冷静になった。少し前まではこの勢いに任せて一線を越えなければもう私たちに進展はないのではないだろうかと覚悟をしていた筈なのに、彼の腕が体に絡んでもう一度唇が触れた時、突如不安に駆られたのだ。
「……ごめん。ちょっと悪乗りした。」
 罰が悪いようにそう言えば、彼はそっかと何事もなかったように手を離して、冷蔵庫からペットボトルを取り出して私にそれを差し出した。
「強くないんだからほどほどにしとけ。もう寝るぞ。」
「うん、そうする。」
 本来気を悪くされても可笑しくない状況でも、彼は私を気遣ってくれた。酒に酔った私を気遣いながら具合は平気かと尋ねて、足元のふらつく私をふわふわとしたベッドへと仕舞い込む。いつだって彼の逞しい腕の中に包まれながら眠っていた筈の私は、いつもと同じ温もりがいつまで経ってもやってこない事に口を開く。
「……今日は、抱きしめてくれないんだ。」
「酔って具合悪い時はしんどいだろ、そういうの。」
「そっか、確かにそうだね。」
 ついに私は愛想を付かされたのだろうかと不安に思う。彼と一線を越えられないのは、私が過去に怯えているからなのかもしれない。
 今日だってそういう雰囲気はあった。それを寸での所で拒んだのは私だ。いつだかの自分のトラウマを思い返していたのだ。
 ―――男は体の関係を持つのがゴールで、女は体の関係を持つことでスタートすると。
 気の合う異性の友人など、そうそう多く出来るものではない。私は数少ないその異性の友人を、付き合うことで失うのではないかと怯えていたのかもしれない。私にとってのスタートが、彼にとってのゴールになり、この先がなくなってしまうのだろうかといつだって本当は怯えていたのだ。


 勝手に気まずくなった私は、付き合ってから始めて数日彼と会わない生活をしていた。
 バイトがあると嘘をつけば、特別詮索される事もなくまた暇があえば会おうと私のことを察してくれているような宇髄に少しばかりの後ろめたさを感じていた。こんな雰囲気を作り出してしまったのが自分なのだから申し訳なく思いながら、一度違えてしまったものは中々元に戻りづらいことも私は知っていた。宇髄とは本当にこのまま終わるのかもしれない。
 講義で久しぶりに顔を合わせた友人と何気なく話していた時、一気に背筋が凍るような気持ちに陥った。
「そんなに悩む事ないと思うけど。多分、宇髄はの事すごく大切に思ってるんじゃないかな。」
「そうかな、何かもう正直よく分からないんだよね。」
「だってがクラブであった男と付き合って悩んでるって言ったら、すごい気にしてたし。」
 彼女は私と一緒にクラブに行った女友達で、そしてあの名言を言い放った人物だった。まさか全てを宇髄に言ったのかと尋ねると、ひどく罰が悪そうに一度謝りながら彼に話したのだと告げた。
 宇髄とは以前より仲のいい関係ではあったものの、そんな色恋沙汰を話したことはなかった。自分の過去の汚点を彼に知られているのかと思うとどうしようもなく恥ずかしく、そして自分をみすぼらしく思った。
「確かに余計なお節介だったと悪くは思ってるけど、宇髄の気持ちは本物なんじゃないかな。」
 全てを知った上で、私と付き合っているのだとは今の瞬間まで知らなかった。もしかすると彼はそんな私に同情したのかもしれないと思ったけれど、彼が私に対してそこまでする義理はないだろう。―――ならば。
「同情だけで、そんなに優しく出来るもんじゃないでしょ。」
 その意味を考えながら、その日は五限をサボってまっすぐ家へと帰った。


 もやもやとした感情のまま、学校へと向かう。少しでも気分を上げようと、新しく買ったサンダルを履いてはみたものの、あっと言う間に靴擦れてうっすらと痛みを感じていた。
「ちゃんと一限来たんだな。珍しい。」
「宇髄だって朝苦手じゃん。」
「一人でゲームする程俺も寂しい男じゃないって事。」
 数日振りに少しだけ会話をして、またねとお互い講義へと出向く。止まらない汗をハンカチで拭いながら教科書を出せば、スマホがブルブルと振動してそのディスプレイに目をやった。
 今日の三限は宇髄と同じ講義だった。久しぶりに昼ご飯を一緒に食べないかという彼からの誘いだった。
 断る理由も思いつかなければ、そもそも断る必要もないのだから返事を返す。学食に行く?と聞けば、あそこは煩いから授業が終わったら次の講義の教室で一緒に食べようという事になった。
 一限、二限と三時間の間で、ずっと考えていた。私にとっての宇髄はどういう存在で、そして宇髄にとって私とはどういう存在なのだろうかと。大切であるという揺ぎ無いものがありながらも、それが恋愛感情によるものなのかがよく分からない。
 途方もなく長く感じる午前中の講義も、こういう時ばかりは一瞬にして過ぎていくように感じるのだから憎らしい。
 コンビニでサンドウィッチとサラダを買って、次の講義が行われる教室へと向かえば、大教室の後ろの方に彼は腰掛けていた。
「宇髄。待った?」
「あー、まあそこそこ。コンビ二混んでたか。」
「うん。五分くらい並んだ気がする。」
 私が彼の隣に鞄を置いて腰掛けると、何かをリュックから徐に取り出す。
「ほら、足出せ。」
「……何、急に。」
「いいから。」
 彼が触る方の足を差し出せば、彼は箱の中から取り出した絆創膏を綺麗に剥がしていく。私の靴擦れで滲んだ踵にそっと触れて、それを貼り付ける。
「派手に剥いたな。血、出てる。」
 一枚では足りないと察したのか、もう一枚を取り出すと、少し重ねるように絆創膏を貼ってくれる。
「エスパーなの、宇髄は。」
「朝足引きずってたろ。誰でも分かるわ。」
 そういいながら、よし!と出たゴミを鞄の中へと仕舞い、何事もなかったかのように彼も同じサンドウィッチの皮を剥いていく。ぱくりと大きな口で齧れば、ものの三口で胃の中へと流れ込んでいく。
 残りの二人もぺろりと平らげると、彼は眠るから講義の十分前に起こしてくれと言ってすやすやと眠り始めた。
 昔から彼は食堂を嫌ってあまり行きたがらなかった。何故なのかと聞くと、人一倍音が誇張したように体に流れてくる分、体が疲労するのだという。そのせいもあってか、彼はいつも人影のない静かな場所を好んだ。
「ねえ、宇髄。」
「なんだ。」
「…ううん。なんかごめん。よく分からないけど。」
 そう言えば、顔をうつ伏せにしながら寝る体制を崩さずに私の手に彼の大きな手が絡んできた。私は今まで何を怯えてきたのだろうかと、そう思った。
 クラブで出会った男と宇髄は別の人間なのだ。固定概念で彼を決め付けていたのは、私だったのだと気づいたのだ。
 私に手を出さずにいたのは、きっと私のペースで一緒に前に進んでいけばいいという彼なりの愛情だったのではないかと今になって都合の良い解釈が出来るのだから不思議なものだ。
 でも、同時に思うのだ。女から求めるのではなく、女は求められたいものなのだと。いつになったらそんな彼の優しさを直に感じることができるのだろうかと、この繋がれた手のひらでじんわりと感じる温もりに歯がゆく思う。
 ぎゅっと強くその手を握り返すと、彼の整った顔が一度私の方へと向いて、そのまま強引に引き寄せられた。
 三回目に触れた唇は表現しがたいほどに熱く、私の中で何かを育んだ。

辿り着くのは美しい終わり
( 2020'08'17 )