いつだか、手塚と見た映画を私は思い出す。真っ赤な薔薇の花のよう、燃えるようなラブロマンス。展開が読めていようと、人の心を動かしてしまう、そんな映画も存在しよう。私は、その映画で手塚の心を動かそうと、必死だった。梃子でも動く事がなさそうなその心を、自分の元へと、引き寄せてみたかった。
 彼と付き合っていたあの頃は、遠い記憶の中で、今尚綺麗に輝く。きっと、手塚がああいう性格だから、大きな揉め事もしなかったからなのであろう。人間というものは可笑しなもので、思い出を美化する傾向があるらしい。私の、彼とのそう長くはない共有された思い出も、きっとその例にもれずに大きく脚色されているのだろう。何せ、彼と付き合っていたのはもう随分と時を遡る、過去の事に違いないから。今尚、彼と一緒にいる時間の長い私にとって、寧ろ彼と付き合っていたという事実も、何処か幻覚だったのではないかと疑う程に、私達の関係はある一定のラインで酷く安定的に保たれていた。

 人は私達の事を、きっと、こう呼んでいるのだろう。
 良き、友人と。


 彼と別れたのは、付き合ってから半年が経った、中学三年の夏。私と、手塚の暗黙のルールは一つ、お互いの事にはあまり口を出し過ぎない。その一点のみだった。だから私は、テニスの事には全く関与しなかった。部活と自分のどちらが大事なのか、そんな不安を持ちながらも、部活に勝てる気もしなければ、そんな事を口にすればそれこそ彼との関係が終わるのが目に見えていたからこそ、私は聞きわけの良い彼女を半年間、ずっと演じ続けていた。付き合っているのか、それともやはり友人のままであるのか、そんなよく分からない状況にあっても尚、文句ひとつ零すことなく。
「私と手塚が付き合ってた事、知らない人結構いるみたいだね。」
 近くにいたから、何となくに声をかけてみようとして、何を話そうか迷った。別に、喋るのに緊張するほど別れてから喋っていない訳でもなく、ただ単に彼は用事がない限りは言葉を使わない部類の人間であり、それなりに話題も選ばざるを得ない。よりによって私が選んだ話題も、中々に、きっと可笑しいのだろうけれど。
「別に知っている必要もないだろう。」
「だよね。そう言うと思った。」
 結局、そこから話は発展しない。する筈もないと、知っていた。今思うと、一体私はどうやって彼と付き合い、コミュニケーションを取っていたのだろうか。そんな昔の事を考えてはみたけれど、よくよく考えれば思いだせない程にきっと一緒にいなかったのだろう。付き合いという名に相応しい程の事もしていなければ、休みの日に何処かへ出かけた事も片手の指で収まる程度だ。
「過去の事を話した所で何も変わらない。」
「そうだね。」
「何か用事でもあったか。」
「ないよ。特には。」
 本当の事を言えば、彼は不思議そうにしながらも、やはり「そうか。」と一言だけを漏らし、視線を元ある位置へと戻した。日誌を手にした彼は、立ちあがるとこちらを見て、もう一言私に告げた。いかにも、彼らしいと私が納得せざるを得ない、そんなお決まりな言葉を。
「じゃあ、また明日。」
 何事もなかったかのように、彼は左手に日誌を抱え込むと歩みを進める。
「テニス?」
 聞く必要もないけれど、あえてその単語を言葉にすると、彼の首が縦に振れた。季節は冬。私達が別れてから、三年と半年が経っていた。ふいに昔の記憶と、今のこの現状が重なり合わさって、私はふつふつと込み上がって来る失笑にも似たそれを隠すことなく、吐きだした。
「だってもう引退したでしょ。部活、もうないじゃない。」
 夏の大会を終えると、三年は引退を迎える。それは、中学であろうが、高校であろうが、揺るぎない事実。そして今、彼も部を引退している身に違いない。
「それは、俺の勝手だ。」
 尤もな答えに、私は言葉を失った。確かに、そうに違いない。彼が何をしようと、私には何も関係のない事なのだから。私は、もう引退しているのだからと彼を引きとめるような真似をする、彼女でもなければ、彼のただの友人の一人に過ぎない。そう、思い改まった。


 手塚と別れた理由を思い出して、私は自分の青さを噛みしめた。
 中学三年の夏の終わり、彼は部活を引退した。テニスを最優先にする彼も、引退と同時に少しは私を見てくれると思っていた。けれど、いつだって彼の中心で動いていたのは、やはりテニスだった。手塚が引退した所で、私達はそれまでと何も変わらなかった。ただ一度、私が見たいと強引に連れて行った映画を見ただけで。
 そこで、私はある賭けに出た。テニスと女を天秤にかけるものではないと、分かっていながらも、きっと天秤にかけて、それを自分に振れさせたかった。突然前触れもなく別れると言えば、さすがの彼でも、理由くらいは聞いてくるのではないかと私は驕っていたのかもしれない。
   そうか。分かった。
 理由を聞くどころか、焦りすらない、了承の二つ返事だけが私の元へと戻ってきた。
   国光は、それでいいの?
   お前がそう思っているのならば止めても仕方がないだろう。
 私は結局、それ以上何も言う事が出来なかった。言い始めたのが私であって、それを何の躊躇いもなく了承されてしまえば、私には一体何が言えただろうか。泣いて、縋って、嘘だと言えるほど、きっと私はプライドも何かもをかなぐり捨てる事は出来なかった。ただ賭けに出て、賭けに敗れた、その結果だけしか私の元には返って来なかった。
 三年前の、夏。きっと私は、あの頃と何も変わっていない。


 手塚が、教室のドアーに手を伸ばした時、それを止めるように焦った自分の声が響いた。聞いた所で、やはり返ってくる言葉など想像に容易いであろうに。私は、あの頃の自分から何も成長出来ていない。
「手塚には、テニスしかないね。」
 本当は、羨ましかった。それだけ夢中になれるものがある彼が、私にはないものを持っていて、何よりも輝いて見えたから。私にとって、それが手塚だった。けれど、手塚にとってのそれは私という存在ではない。そこがリンクしていない事など、彼と付き合う前から、本当は知っていた。私は、それを越える事が出来ないと。
「そうかもしれないな。」
 彼は眉の位置一つ変える事無く、いつもの、あの平然な顔つきで、そう言い残した。まるで、あの時、私の前から去った時と何もかもが同じように、そこだけが無意味に私の中でリンクした。



 あれから、手塚とは話していない。もう別れてから何年も経つというのに、急に別れてばかりの元恋人達のように、重たい空気をうっすらと感じ取った。しかし、よく考えてみれば、いつだって話しかけていたのは私の方で、用事がある時以外に手塚から話しかけてくる事はなかったのだから、結局私が一方的だったのかもしれない。考えれば、考えるほどに、何もかもが一方的な気がして、美化されていた筈の思い出すら今は思いだすとほろ苦い味がするような気がした。
 委員の仕事を終わらせた頃には、それなりに空は暗く淀んでいた。慌てて帰り支度を済ませると、一目散に外へと出た。いつだって生徒で溢れるこの学校も、この時間ともなれば人っ子一人見当たらない。早く帰ろうと歩みを進めた所で、まるで心を見透かされたかのように、予報外れの大雨が頭上に降りかかった。
 待てど、待てど、予報外れの雨は降り止む事無く、いつまでも私の足を留めて雨宿りする時間ばかりを増やしていく。キリがないと一歩を踏み出した私の傍に、気配が通りがかった。
   沢田。
 久しぶりに、その声が、私の名を呼んだ。

 部活もないというのに、まるで現役そのものであるかのような、ラケットバックを背負った手塚が、そこには居た。髪には多くの雨粒が滴り、珍しく眼鏡を外していた彼は、鞄から黒い折り畳み傘を取り出すと、珍しく自ら口を開いた。
「これだけの雨だ。傘なしで帰るのは大変だろう。」
 そう言って、彼は私にその黒い傘を手渡した。私が、ありがとう、とその言葉を紡ぐ間も待たずして、彼は土砂降りの雨の中へと躊躇う事無く進んで行く。
「どうしていつもそうなの。」
 いつだって隙がなくて、まるで誰も入りこませないような完璧さを身に纏って、私が入り込む隙間すら与えてくれない。
 私の言葉を不可解そうに聞いていた彼は、自分は既に雨に濡れてしまったのだから、雨をよける必要もないのだと教えてくれた。けれど、それは私の求めていた答えではなく、首を横に翳した。
「何が不満だ。」
「強いて言えば、全てが不満だよ。」
 私は、あの映画のヒロインに憧れていた。雨に打たれながらも、それすら気にせずに求め合うドラマでしかあり得ないような二人を羨んでいた。あの時手塚と二人、共に見た映画のヒロインのように、私はなりたかった。
「国光にとって、他に何にも天秤にかけられないような絶対の存在になりたかった。」
 もしあの時、彼がいつもと違う仕草をしていれば、私はきっとそれだけで満足して謝ったに違いない。ただ、私を必要として欲しかった。私が彼を必要とし、掛け替えのない存在と思っているように、彼にも思って欲しかった。自分勝手なエゴを手塚に擦り付けようとしていた。
「この世に“絶対”というものは存在し得ない。」
 結局、私はどうあがいたところで、映画のヒロインのようにはなれない。それが私の勝手な理想であり、それが理想の域を超えない事は知っていながらも、今尚私の中であの映画のヒロインへの憧れと、嫉妬は拭いきれない。
 私は、映像の中で幸せに笑うヒロインに嫉妬をしていた。
「そう言う所、嫌い。」
「物事の考え方を今更変える事も出来ないだろう。」
「国光は、いつもそう。」
 取り乱そうが、どれほど格好悪くても、私はそれでよかった。もっと彼の本音を聞きたかった。
「我がままでも、愚痴でも、何でもいい。ちゃんと、向き合って言って欲しかった。」
 私は嘗て、彼と付き合っていた頃の会話を思い出す事が出来ない。それは私の記憶が薄まっているのではなく、ただ単に、あまり会話を交わさなかったという変えようのない事実に違いない。口数が少ない事を別にしても、それが私には不安で仕方がなかった。彼の考えがどのようなものであって、それが何処にあるのかを、全く掴む事が出来なかったから。フィジカルよりも、メンタルで。
 私は、傘を持って、彼の前へと進むと、それを彼の手元へと戻した。「私ももう濡れたから、必要なくなっちゃった。」そのままその場を後にした私に、再びあの声が、私の名を呼ぶ。
   青葉。
 掴まれた右肩が、熱を持ったように、鼓動を打ったようにさえ感じられた。
 暫く、私と手塚は土砂降りの雨の中、何も伝える事なく無言の時を過ごした。耳に入るのは、地を弾くような雨音だけで、他には何も聞こえない。
「なら、今言おう。」
 何だかいつもと違う手塚に見えたのは、やはり彼がいつもと違ったからなのであろうか。まるで、あの時手塚と見た映画のクライマックスの様なこの状況が、何だかとてもくすぐったい。
「もう一度、やり直して欲しい。」
 私は、何処にでもいる、平凡な女学生から、階段も昇ることなく突然映画のヒロインまで上り詰めてしまった。
 その言葉を待っていた訳ではなかった。彼とやり直したいと思っていた訳でも、きっとない。けれど、いつもと違うそんな彼からのそんな言葉がどうしようもなく嬉しくて、元々ぼやけていた視界が滲んでいく。予報外れの大雨に、感謝する事は、きっとこれ以降ないだろう。
 ドラマは、始まった。

テイク35
( 20120202 )