多感な幼少期に経験した出来事は、その後の人生においても軸となり人間を形成していく。人生において、環境や努力で変えられるものと、変えられないものがこの世には存在する。幼少期に経験した出来事こそが、その先の長い長い人生においても永遠に根付いて、そして離れない。努力をすれば、そんな言葉は所詮は根性論でしかなく、なんのエビデンスも残さない。つまりは、考えても無駄という事だ。

 劣等感というものは、成長しても色濃く体に刻み付けられているものらしい。
 育ってきた環境が違うから好き嫌いは否めない。
 昔にこんな歌詞の曲が流行ったような気がする。それが自分の事を指しているようで、なんだか複雑な気分になったのを思い出す。それは私にとって自分の主観を歌っているのではなく、客観的に自分の事を言われているように聞こえたからだ。自分はどのように見られているのだろうか、いつも自分を客観的に捉えていた。
 親の仕事の関係上転勤族だった私は、毎年のように学校を移り渡る。少し周りに慣れ始めたと思った頃に転校を繰り返していれば、しっかりと友達と呼べる人物も、地元と呼べる場所も私にはどこにもなかった。周りに合わせる事でしか、自分を保つ事ができない可哀想な子どもだったのかもしれない。気づいた頃には、無意識に人の顔色を探りながら生きる事に慣れきっていた。

 中学一年生の途中、私は神奈川県に引っ越した。思春期ど真ん中にいた私にとって、それも中学入学と同時ではなく酷く中途半端な時期からの転校には不安しかない。そんな中でも不幸中の幸いだったのは、私の他にも同じ日に転校してきたクラスメイトがいたという事だった。学校側が気を利かせてくれたのか、二人して同じクラスに組み分けしてもらったらしい。
 それが、リョータとの出会いだった。





 リョータは私にとっては拠り所であって、最終兵器でもある。
 “地元”や“幼馴染”なんて言葉からは縁遠い私にとって、リョータの存在がそれに近しい。
 中学三年生に上がる少し前に再び転勤の話が持ち上がった時、私は神奈川に残る事を選択した。それに対して父も母も止める事はなかった。きっとこれ以上転勤で娘に苦行を強いる事への負い目という表面的な理由と、そこまで私に執着していなかったのだろうとも思う。母親の生まれ故郷でもあった神奈川で、私は母方の祖母の家で暮らす事で無事中高の凡そ六年間を同じ土地で過ごすことができた。
「リョータは彩ちゃんに告白しないの?」
「なに、突然。」
「だって好きでしょ、彩ちゃんの事。」
「お前そういうのシレっと言うなよ……」
「ほんとの事じゃんね?」
「だから!」
 中学三年生の時、隣のクラスだったリョータの教室まで聞きに行ったのを覚えている。進路希望の紙とシャープペンシルを持って、その日の放課後に待ち受ける三者面談に向けて休み時間に滑り込みで駆け込んだ。
 リョータはどの高校に行くのかと聞けば、「え〜…割とテキトーだけど」そう言いながらも、バスケットボール界では有名な元全日本選手が監督を務めている湘北高校に進学するつもりだと答えた。そのたった一言でしかないリョータの言葉は、私の進路希望の第一希望を埋める理由を満たしていた。迷う事なく、第一希望の欄に湘北高校と書いて、そこからの数ヶ月間は必死に勉強に励んだ。
 無事同じ高校に入学した私とリョータにはそれぞれ新しい世界が待っていた。
 私には同じクラスメイトに彼氏が出来て、リョータにはバスケに打ち込む理由になる彩子との出会いがあった。高校三年間、リョータと同じクラスになった事は結局一度もなかったけれど、それでも嬉しいこと、悲しいこと辛いこと、どうしようもなくおかしくて笑えること、その全てを一番最初に共有していたのはリョータだった。
 彼氏が出来た時も、別れた時も、全部一番最初に伝えたのはリョータだった。そして、彼氏がいた時でも、何かを伝えるのはリョータが一番最初だった。
「ダブルデートとかしたいじゃん。」
「いや、普通に単体の方が良くない?」
「え〜、楽しそうだけどな。」
「イチャついてんの見るのも見られるのもキツいっしょ。」
「あ〜、それは言えてるかも。」
 好きなら告白すればいいのに。それが私の心からの本音であって、疑問でもあった。
 けれど、それはそんな世界線がなかったからそう思っていただけで、実際はそうじゃなかったのかもしれないと今になって思う。
 結局私の一番の理解者はリョータで、代わりになる人なんて他にいない唯一無二の存在だ。だから、その確固たる地位が揺るぐ事など考えたことがなかったのかもしれない。どこからそんな根拠のない自信が出てきていたのかを辿ると、自分の事に戻ってきた。彼氏がいた時でも、私にとっての一番の理解者がリョータだったという事実に基づいている。
 正しい言葉でリョータを表現するのならば、おそらくは“最後の砦”という言葉が一番しっくりするだろうと思う。
「お前の惚気話で俺は腹一杯なんだよ。」
「じゃあもっとフードファイトする?」
「……胃もたれてる。」
 中高と同じ環境で過ごしていた私とリョータは、それぞれ別の大学へと進んだ。けれど、今も尚当時と変わらない関係性は続いている。“ハタチ”と呼ばれる大人になっても、出会った時のまま、変わらずに。





 何故人は付き合うのか?そんな単純明快でしかない根本的な理由を考えたことがあるだろうか。一般的なところで言えば“そこに愛があるから”というどこかのドラマやテレビコマーシャルで呪文のように唱えられていそうな原理原則なのだろうし、それが正だと実際私自身もそう思っている。
 けれど、私にとってそれは少し違う。一般的な大衆と同じ感覚や思考を持っていないという自覚はあるので、それがイレギュラーであるのは理解している。そして、それが根本的に終焉へと向かう理由なのかもしれない。

 高校に入ってから、彼氏はほとんど切らせた事がない。こう言えば聞こえがいいかもしれないが、つまりそれは付き合っても私は長続きしないという事だ。私が別れを告げるケースもあれば、相手から振られるケースもあって、そして第三の選択肢もある。そのいずれであっても、私はその度に心臓をギュッと摘まれたような苦しさを覚える。
 そんな状況でも立ち直り、そして元気に生きてこれたのはリョータの存在があったからだ。いつだって私の“最初の言葉”を受け止めてくれるリョータがいて、私は初めて息をして生きていけるのだと思う。
「よっ、リョータ元気?」
「元気ない奴に聞かれても回答に困る。」
「それこっちも回答に困っちゃうね?」
 いつもの待ち合わせ場所。それは大学生になっても変わらない。私は祖母の家から大学に通っていて、そしてリョータも実家から大学へと通う。お互い団地に住みながらも一番端同士の棟に住んでいる私たちは、ちょうど中間地にあるコンビニの前で待ち合わせをする。
 団地の密集地帯に正面を切るようにまっすぐな車道が通っている。待ち合わせをする時、リョータは大概車道の脇にかかるガードレールにひょいと両足を乗せて私を待っている。中学生の頃から変わらない、私たちの日常だ。
「別れたんでしょ。」
「ん〜、分かる?」
「寧ろ分からない訳ないじゃん。」
 ガードレールに器用に乗っかっているリョータは、私に缶コーヒーを渡してくれる。リョータが現在進行形で飲んでいる無糖ブラックの缶コーヒーとは違って、私の好きな微糖コーヒーを差し出した。
 いつだか、ブラックが飲めないと言った私にリョータはナチュラルな嫌味であり、事実を言った事があった。微糖と謳っていてもその微糖コーヒーの中には想像を絶する程の砂糖が含まれていて、そして缶の裏の成分表を見て想像の三倍以上はある糖質量を知って衝撃を受けたものだ。
 けれど、リョータは私がこうして呼び出す度に微糖コーヒーを私に差し出す。知らなくてもよかったロジックや裏側を言っておいてだ。けれど、「辛い時はカロリー消費するからプラマイゼロ」毎回そう言って、私に微糖のコーヒーを罪悪感なく飲ませてくれた。
「好きじゃなかったでしょ、あいつの事。」
「リョータは会った事ないじゃん。」
「散々聞いたから知ってるようなもん。」
「確かに……」
 好きだったのかと言われたら、多分そうじゃなかった。けれど、私は夢中だったし、必死だった。何となくその理由は分かっていて、けれどそれを自分で事実として認めたくないだけなのかもしれない。
 幼少期、転校ばかりしていた私は幼心に自分を認めてくれる人が欲しくて、誰かに認められたかった。その為にはどうすればいいのか?それは至極簡単で、相手の望むように自分を作り上げる事だった。そうすれば、少なくともその間だけ私の承認欲求は満たされる。そうするしか、自分を肯定して生きる事ができなかった。
「そのヒール、」
「…ん?」
「足だしてみ?」
 素足に履いているハイヒールを脱いで足を投げ出してみると、ぎゅうぎゅうに詰まっていた爪先が開放感に満ち満ちている。私が自発的に脱ぐのであればまだしも、何故リョータがそれを言ったのか。ちょっとした疑問を残しながらリョータを見ていると、コンビニの袋の中から四角い箱を取り出して、そしてぴりぴりと皮をめくっていく。
「踵もつま先も泣いてんじゃん。」
「あ〜、そうかもね。」
 カードレールから身を乗り出したかと思うと一歩こちらに近づいて、リョータは跪くようにして私の右足を自分の膝の上にポンと乗せた。
 薄いぺらぺらとした皮を剥がすと、肌色をした絆創膏がにゅっと私の足に伸びてくる。踵に、親指の付け根に、ヒールの角が当たってタコになってしまっている小指に、なにも言うことなく黙々と貼っていく。
「リョータってさ、」
「ん?」
「私の事見透かしてたりするの?」
「なんだよそれ。」
 三枚分の絆創膏の皮はコンビニの袋にぱらぱらと消えていく。カラフルな柄をした絆創膏が貼り付いている右足をピンと伸ばして見ていれば間髪入れずに「ん、逆の方もだして」そう言って右足と同じように私の左足も労わってくれる。いつも、言う前にリョータは欲しいものをくれる。私が気づいていない潜在的なものも全部だ。
「特殊能力はないけど、考えてる事は分かる。」
「それって立派に特殊能力でしょ。」
「ふつうに分かるって。」
「え〜、なにそれ。」
 左足を出すと、リョータは再び同じ作業に没頭している。答えは返ってこないのだろうか。そんな事を思っていた時、息をする程に自然にでたリョータの言葉に急に自分の体温を感じた気がした。
「俺とは似てるから。」
 リョータと出会って七年という月日が経過していて、今初めて聞いた言葉だった。初めて聞いたのに、何故だかすっとそれを受け入れられるように自分の中に入ってきて、そして馴染んでいく。
 自分がリョータと似ていると思ったことは一度もない。だからこそその言葉があまりにも自然に受け入れられた自分に驚いた。どこが似ているかなんてまるで分からないのに、妙な納得感があるから不思議でしかない。
「唯一無二って言葉ってあんじゃん?」
「うん、あるね。それで?」
「響きはいいけどあれって代わりが利かないって事だろ。」
「まあ唯一無二だからね、そりゃ。」
「だから大事なもん持つのって実はめちゃくちゃ怖い事なんだよな〜。」
「……詩人じゃん。」
 本当に唐突すぎるその言葉はまるで詩人のようで、あまり心の内をおおっぴろげにしないリョータにしては珍しい。これだけ長く同じ時間を過ごしているのに、こんなリョータは初めて見るような気がした。まだ私にも知らないリョータの一面があるのかもしれない。
「だから分かるし、だからが好き。」
 何の前触れもなく、突然その言葉が耳を掠めていく。全然そんな雰囲気でもなかったのに、本当にそれは突然やってきた。あまりにナチュラルすぎて、その好きの意味がよく分からない。一度自分を落ち着かせて、“好き”にもいろんな種類が存在していることを思い出す。そうする事でしか、冷静さを保つことなどできないのだから。
「……ライク?ラブ?」
「大前提ライクで、ラブだから両方かな。」
「本当に言ってる?」
「じゃなかったらタチ悪すぎだろ。」
 七年目の真実、いやそもそもこの言葉が本当なのであればリョータはいつから私にそんな感情を抱いていたのだろうか。少なくとも高校時代は彩子のことが好きだったのは間違いがない。そうすればここ最近の話だろうか。全くそんな予兆なんてなかったのに。
「彩ちゃんのこと好きじゃん?」
「うん、好きだよ。」
「めっちゃ矛盾した回答なの分かってます?」
「全然矛盾してねえもん。」
 一周どころか二周、三周としても意味がよく理解できない。噛めば噛むほど味が広がるのに咀嚼仕切れないホルモンのようで、私はそれを転がし続けている。リョータを異性として、恋愛対象として考えたことはなかったのだから当然だ。
の方が好きだから矛盾してない。」
「……よくそんな恥ずかしい事を真顔で。」
「事実なもんで。」
 少し考え方を変えてみる。この七年間一番側にいたのは誰なのか。ずっと彼氏という存在がありながらも、別々の大学に通いながらも、間違いなくそれはリョータに違いがない。ならば何故、そんな一番近い存在でしかないリョータを恋愛対象として意識してこなかったのか。
「高二の頃、俺アヤちゃんに告った事あって。」
「え〜、初耳なんだけど?」
 本当に初めての情報に私は驚きのまま勢いをつけて言葉を放つ。二人の関係性が卒業まで変わらなかったのを見ていたからこそ、リョータが告白をしたというその事実が意外でしかなかった。もっと気まずさだったり、落ち込んだりする物なんじゃないだろうか。
「言われたんだ、俺が好きなのはアヤちゃんじゃなくてだって。俺が一番自然体なのはの前だって。そこからずっと見てきたよ、のこと。」
 何故自分が高校に上がってから彼氏を切らすことなく誰かと付き合っていたのか、そして何故それがリョータではなかったのか。今まで付き合ってきたどの彼氏も、結局はリョータを越えたことがない。私にとって、彼氏が一番になった事なんて一度たりともなかった。
「多分、大事なもんを作るのが怖いところが似てるんだと思う。俺も、も。」
 言われてみて、自分の知らない潜在的な感情を知った気がした。確かに、リョータの言う通りなのかもしれない。誰かに認められたくて、そして認められることで自分の存在価値を見出していた一方で、人に合わせてばかりいる自分に疲弊して、そして関係が終わっていく。
「だから、ずっと見てきた。俺も怖かったから。」
「柄になく臆病じゃん。」
「失った時の事考えちゃってさ。だったら最初からそんなものない方がいいんじゃないかと思ったり。」
 昔リョータの家に遊びに行った時、妹のアンナちゃんから聞いた事があった。リョータには三つ年上の兄がいて、そして釣りに出かけたまま未だ戻ってきていないという事実。そして、それが自分のせいだと責め続けているのだと。「あんな見た目してるけど結構繊細で臆病なんだよ?」そう言っていたのを、今になって思い出した。
「俺は、じゃなきゃ駄目なんだよ。」
「……別れてばっかの私に言う?」
「言わなきゃまた新しい彼氏作るじゃん。」
「そうだね、多分作るんじゃないかな。」
 今まで付き合ってきた彼氏と呼ばれる存在を思い返してみても、たいしたエピソードを思い出すことができない。それは私が好きという感情とは別に、認めてもらいたいという感情の方が大きかったからなのかもしれない。好きなのではなくて、好きでいてもらう為に必死になって、そして疲れるのがお決まりだ。
「彼氏は変えられるけど、リョータは変えられないから。だから、リョータは駄目だよ。」
「それ好きって告白以上の告白だろ。」
 結局、リョータの言っている通りだ。私とリョータはきっと似ている。これだけ近くにいながら、リョータを恋愛対象としてみていなかったのはそういう事だったのだと気がつく。好きになる事を無意識のうちで制御していた。もし好きになって、失ったらなんて考えたくなくて。こんな事を考えている時点で、もう答えなんて見えきっているのに。
「リョータなしで生きていけないもん。」
「じゃあ一緒に生きていけばいいじゃん。」
「だって付き合ったら、終わっちゃう。」
 リョータは手に持っていた紙袋から箱を取り出して、そして中身を私の前へと差し出した。地面に置かれているのは、センスのいいスニーカーだった。いつか一緒に買い物へ出かけた時、ふと私が可愛いと漏らしたそのスニーカーだ。
「もっと自分を甘やかしなよ。」
 大して好きでもないハイヒールも、ワンピースも、巻き髪も、全部自分の為じゃないのだとリョータが気づいていたのだと思うと急に視界が温まっていく。
「俺の前では素のでいてよ。」
「……………」
 リョータが差し出してくれたスニーカーに足を通す。サイズは驚くほどにぴったりで、私の足にしっくりと馴染んでいる。踵が擦れたハイヒールよりも、ずっと自然に。
「そういうの何て言うの?定休日?」
「知らんけど、これから毎日定休日だな。」
 肩肘張らずに呼吸ができて、そして本当の自分を出せるリョータの前で、七年間きっといつも胸に秘めていたであろう自分の感情に気づいて、感情が滑り落ちた。ヒールでボロボロに痛めつけられた足に、驚くほど優しいその履き心地がどうしようもなく私を安心させた。
「ヒール脱いだら、リョータが大きいな。」
 うるさい、そう言って優しく私を包み込んだ。



定休日
( 2023’04’02 )