諏訪がこの大学に行くと言ったので、私も同じところに進学した。
 中学二年生の時に親の転勤で三門市に越してきた私は、それ以降今日に至るまで諏訪とは腐れ縁だ。一番気を置ける友人と言えば聞こえはいいけれど、そんな綺麗な言葉で私たちをまとめられるかと言えば、あまり相応しいとは感じない。
 ずっとぬるま湯に浸かっているように、私たちの温度は一定を保っていて、それ以上にもそれ以下にもならない。二十年以上生きていると、何事も一定を保つというのが想像以上に難しいと気づくものだ。けれど、私と諏訪の関係は時間が流れても“不変“なのだと思う。今までもそうであったように、きっとこの先もそうだろう。いい意味とも捉えられるが、不変が全てにおいての正ではないのだから、何とも言えない位置付けだ。
「なあ、お前提出レポートやったか。」
 大学の大教室、左側の最終列から数えて五列目。うとうとと今にも舟を漕ぎ出しそうな私に、諏訪がボールペンの後ろ側をコツンと頭にぶつけきて、まだぼんやりとした意識の中にいる私に尋ねた。
「え、なに。そんなん、あったっけ。」
「お前が船漕ぎ出す直前にな。一ヶ月前に言ったって言ってやがった。」
「なにそれ。私そんなの知らないよ。」
「一ヶ月前の自分が舟旅に出てないって自信持って言えるか、お前。」
 答えはノーだ。きっと聞き逃したのだと思うが、恐らくは聞くつもりすらなかったのかもしれない。全ての授業で一言一句言われたことを書き留める事はしないし、大学生らしく朝方まで飲んでから受講した時は潔く寝る時も多い。きっと、そんなタイミングでレポート提出の話があったのだろう。
 私が特質して不真面目な学生という訳でもないけれど、真面目と胸を張っていうことはまずできない。そんな私と違って、案外諏訪は真面目に授業を聞いていたりする。もちろん全てに対してという訳ではないけれど、興味のある授業は積極的に履修していた。あれがしたい、これがしたいという感情に乏しい私は、とりあえず諏訪が履修すると言った授業を可能な限り一緒に履修した。
「ごめん、多分爆睡してたんだと思う。」
「まあ、聞くまでもないな。俺が防衛任務で居なかった時だな。」
 課題に行き詰まった時には諏訪に聞けば、おおかたの事が解決する。それが彼と同じ授業を取っている理由の一つでもあるのだが、逆に諏訪にとっては自分が欠席している時の情報提供が価値の筈。私は、自分の首も絞めながら、結果的に諏訪の首まで絞めてしまったことになる。
「提出、いつ迄って?」
「明日五時。指定の文献読まねえと出来ないやつっぽい。」
「もしかして私たち、詰んだ?」
「つうか、普通に徹夜だな。」
 私が自らの首だけでなく、諏訪の首まで締めてしまった事によって、テスト期間でもない私たちは無駄に一夜漬けでレポートを完成させるべく、彼の家で珈琲を啜りながら文献を読み進める。気が遠くなりそうなその文献を各項目毎に手分けして、普段から活字に抵抗のない諏訪に七割、私に三割で役割分担をして読み進める。
 時刻は、午前二時。こっそり夜更かしをしている時にはまるで感じない怠さと睡眠に打ち負けそうになりながら、苦手な活字を読み進めるのには中々に無理があった。チラリと横目に諏訪を見ると、少し眠そうにしながらもきちんと自分の担当パートを読み進めている。
「諏訪、ごめん落ちそう。」
「お前夜更かし普段得意だろ。」
「夜更かしのジャンルが違うじゃん。それに事前に把握してないから睡眠足りない。」
「誰に向かって言ってやがる。シバくぞ。」
 口では荒々しい言葉をポンポン言ってくる諏訪は、実際のところとても優しい。シバかれた事はまだ一度もない。このレポートの件に限らず、今まで恐らくものすごく多くの迷惑を諏訪にはかけてきた。けれど、諏訪は一度として私を責めたことがない。これも、事実として、私と諏訪の“不変“だ。
 もう無理だ、と雪崩れるようにテーブルに上半身を預けると諏訪の呆れたようなため息が聞こえてきて、彼はケトルから湯をマグカップに注ぎ入れて、目が覚めるような味の濃いブラック珈琲を私に差し出した。
「十五分休憩したら、今持ってるパートを取り敢えず読みきれよ。」
「わかった。」
 何故、私は中学二年の十四歳の頃からこうして諏訪と一緒にいるのだろうか。たまに分からなくなる。似たもの同士だから、という理由はまずない。私と諏訪は性格的にも決して似ているとは言えないけれど、ものの捉え方だけが強いて言えば似ているところなのかもしれない。平たく言うと、価値観が私たちは似ている。だから、ぬるま湯のようにぼんやりと心地がいいのだろう。
 中学、高校、大学と私たちの関係性は変わらず保たれてきたけれど、そのフェーズ毎に少しずつ何かが変わっていると思う。中学の頃と今と全く同じかと言われたら、そうではない。知り合ってばかりの頃は、お互いもっと無邪気に楽しい事に全力だったし、よく笑った。
 今は、一緒にいても楽しいという感情よりも、一緒にいて素でいられる気を張らないでいい一番の相手という表現の方がどちらかと言えば近しいような気がする。お互い年齢を重ねているのだから、変わっていて当然だろう。
「ボーダー、楽しい?」
「あ?お前、ボーダーがテーマパークか何かだと勘違いしてんのか。」
「語弊ね。メンバーとうまくやってるのかなって。」
「それも語弊だろ。お前のコミュ力と同じにすんな。」
「そうだった。諏訪、そういえばコミュ力高いんだったね。忘れてた。」
 諏訪がボーダーに入った理由を、私は聞いたことがなかった。気づいた時には、彼はボーダーに入っていて、ついでの様に事後報告がついてきた。何となくどういう経緯で彼がボーダーに入ったのかは推測がついていたし、あまり詮索されたりほじくり返されるのも嫌なのだろうと思って結局今日まで聞かずにいる。自分から言わないのだから、きっと私はそれに触れないほうがいいのだろうと思う。
 第一次近界民侵攻で、私の家は半壊した上に、火の海となって燃えた。後日報道で知った死者数と行方不明者数を考えても、ある意味で幸運だったと自覚している。
 確かに怖くなかったかと言えば、それは嘘になる。けれど、トラウマになる程ではない。無事に家族全員でことなきを得たのは不幸中の幸いだった。だからあまり周りの人間にはその事を意識的に言わないようにしていた。それが、逆に諏訪にとっては感じ取る部分があったのかもしれない。彼にそう言えば自惚れるなと言われて、一蹴されるかもしれないけれど。
「…ねえ、諏訪。」
「寝るなよ。」
「珈琲、利かなかったみたい。一時間だけ寝かせて。」
 返事は、聞こえなかった。言っても無駄だと思っているのか、もう受け入れてるのか、どちらかは分からない。きっとどちらも当てはまるのだろう。付き合いの長い私を一番理解しているのは、諏訪なのだから。私がこうなる事をきっと見越していたのだろうと思う。
 寝転がっては本格的に寝入ってしまいそうだからと、あえて姿勢を変えずに目を瞑る。諏訪の狭いワンルームの隅っこに寄せられたベッドの枠を背もたれに、私は眠りに落ちる。少し体を傾けると、諏訪のシャツから煙草の香りがした。私にとっては、日常的な匂いで、安心したように意識を飛ばした。





 私が目を覚ました時、思っている以上に体が軽くて、すぐに一時間以上寝てしまったのだと気づいた。カーテンから光が漏れていない事を考えると、まだ朝にはなっていないらしい。時計を見ると、時刻は五時半だった。
 体を起こすと、隣には顔に文献を載せて蓋をするように眠っている諏訪の姿があった。顔を挟んでいる位置から推測するに、もうほとんど終盤まで読み進めたのだろう。恐らくは、役割分担で私が読み進めていたところも読んでいる様子だった。
「……起きたか。」
「ごめん、すっきりするくらいしっかり寝ちゃった。」
「そりゃよかったな。」
 よかったなと言っている諏訪本人が、非常に目覚めが悪いのか頭が冴えきっていないようだった。ちょうど寝入ったくらいのタイミングで私が起こしてしまったのだろうか。だとすれば申し訳ないなと思い、会話を止めてしばらく黙ってみる。
「おい、話しかけろよ。寝ちまうだろ。」
「あ、うん。何話そうか。リクエスト、ある?」
「何でもいい。思いついた事、言え。」
 何でもいいと言われた時ほど、何も出てこないもので、私は寝起きがけの頭をフルに回転させる。諏訪も中々な無茶振りをしてきたと思うが、彼も眠気で思考がしっかりしていないのだろうから仕方がない。先ほど何を話していたのか少し思い出して、ボーダーの話を聞いてみようと、口を開いた。
「私がボーダーに入ってたら、どうなってたかな。」
 諏訪が今の大学に入ると言った時、私も迷わず同じ大学に行こうと思ったけれど、彼がボーダーに入ったのを聞いた時、私も同じく入ろうとは思わなかった。特別、近界民に対しての憎悪がある訳でもない私に、ボーダーに入る目的はなかったからだ。
「タラレバ好きだな。非現実的というか、理解できん。」
「それくらいしかネタ思いつかなかったし、仕方ない。」
 私はあまりボーダーでの諏訪を知らない。知っているのは、ボーダーの隊員をしていて、防衛任務についているという事くらいだ。もちろん機密事項の多いボーダーの事を、諏訪がペラペラと話すはずもないのだから、私が知らなくて当然だ。
「結構シビアだぜ。ランクだの、金にも関わるしな。」
「それ私辞めるね。病みながらヒーローできないし。」
「辞めるっても一部の人間除いて辞める奴は記憶抹消処理されるらしいからな。」
「平然と言ってるけど、普通に恐ろしい事するね。」
 中々リスクのある仕事だと思う。もちろん普通のバイトをするよりもしかすると儲かるのかもしれないし、儲からなくても名誉や、社会貢献という箔を手に入れられるのかもしれない。けれど、記憶を抹消するとは、それは只事ではない。
「ボーダー入ったら無条件で俺の記憶はお陀仏だな。」
「それは、困る。」
 諏訪なくして、私はどうして生きていけばいいのだろうか。それは大学の授業という小さい枠に限ったことではなくて、全てにおいて私には諏訪がいないと駄目だ。彼なしで、もう息をすることはきっと出来ない。この世で誰が一番大切かと言われたら、私はその名をきっと即答できるだろう。
「いっそのこと俺の記憶ぶっ飛ばしたほうが、新しい気持ちで俺と向き合えたりすんのか。」
 むくりと体を起こした諏訪は、どうやら眠気を通り越したらしい。私はこの展開を知っている。こういう局面は、今までも何度か遭遇していた。
「なあ、」
 そう言って私の肩に腕を伸ばしてくる。振り払わずに固まっていると、暫くして諏訪は離れて煙草に火をつけた。
「お前、別れたんだろ。」
「…言ったっけ、私。」
「お前のそれ、もうパターン化してんだよ。」
 初めて彼氏ができたのは高校一年生の夏の出来事で、同じ年の秋には別れた。そこから幾度となく、諏訪は私のこのパターン化をみてきている。彼氏がいる時でも、諏訪とはそれまでと同じように接していたし、一緒にいた。初めて付き合った時は諏訪自身が遠慮するように距離を少し取っていた時もあったけれど、次第にそれも無くなった。
 そんな事を三回ほど繰り返した時、初めて諏訪の口から付き合おうという言葉が出てきた。私の答えはノーで、迷う事なくそれを口に出して諏訪からの提案を棄却した。
「馬鹿だよね。別れるの分かってて、付き合うんだから。」
 彼氏になるのが誰でもいい訳ではない。寧ろ、誰でもいいのであればそれが諏訪であっても良いはずなのだから、一応の定義は持ち合わせていた。けれど、誰とも長続きしない。私自身がああしたい、こうしたいという欲に乏しい人間だからなのかもしれない。私にとって、唯一欲が出るほどに自分の我を押し通してしまう人がいれば、それは諏訪だけだ。
「だったら最初から俺にしときゃいいだろって何回言わせんだ。アホか。」
 煙草の火を灰皿に押し付けた諏訪は、私の後ろへと回り込んで、覆うように両手を私の肩へと回してくる。抱きしめるとは少し形容が違って、腕をかけて項垂れるように寄りかかる。こうして彼に言い寄ってもらうのは、何回目だろうか。
「だって、諏訪と別れたら誰が私を慰めるの。誰も、居なくなっちゃうじゃん。」
 諏訪と付き合うという事を、今まで一度も考えなかった訳ではない。気も合うし、普通に楽しいとも思う。燃え上がるような恋愛関係にはならないだろうけれど、一緒に時間を過ごすには最適なパートナーだと、そう思う。
「なんで別れる前提で考えてんだ、毎度。」
「付き合った者同士が結ばれないから元カレ元カノが存在する訳じゃん。」
「そうならないようにすりゃいいだけだろ。」
「保証されてないリスク、犯す程の度胸ないもん。」
 今こうしてかろうじて私が何かをしたり、大袈裟に言えば生きているのは諏訪がいてくれるからに他ならない。私の人生には、諏訪という後ろ盾がないといけないのだ。私という人間の物語は、諏訪がいないと進んではいかない。諏訪が、何よりも、誰よりも大切だと思うし、私にとって唯一手放したくないのが、諏訪だった。
 この感情のままを諏訪に伝えても、彼は理解をしようとしない。理解していないのではなく、しようと努めない。考えてる事が一致してるんだから問題ないだろうとそう言うけれど、実の所諏訪が私の言葉の本質を理解していることを、私は知っている。
「ねえ諏訪、聞こえた?」
 返事は、返ってこない。これも今に始まった事ではないから大して気にならない。私たちはずっと堂々巡りをしているのだ。お互いの気持ちと価値観は同じなのに、それが合致することはない。今だけでなく、きっとこれから先も堂々巡りは一生続くのだろう。
「…ねみぃ。」
 背中に感じる諏訪が先ほどよりも、より重みをかけてくる。その重みがどうしようもなく私には必要で、今すぐにでも振り返って、彼の腕の中に飛び込んでしまいたいと思う。けれど、その一方で、その場所を永遠に失う恐怖を想像して、体が冷えるようにゾッとする。
 諏訪は私にとっての砦なのだ。砦というものは、最後まで失ってはいけないものなのだから、私は失う事のない確実なリスクヘッジをしながら、生きていく。お互いにとって生ぬるい残酷を背負いながら、私たちはきっと、そしてやっぱりこれからも一緒にい続けるのだろう。
「私、諏訪いないと死んじゃうから。」
「あほ。」
 こんなにもお互いに依存しているのに、その想いを交える事ができないのは何故なのか。私が前世で徳を積んでこなかったからなのだと、そう言い聞かせる事くらいしかできない。この関係性を世間では何と呼ぶのか、私には分からない。
 

砦 / とりで
( 2021'12'16 )