季節は秋から冬になろうとしている。この小さな部屋から見る秋の景色が酷く名残惜しいように彼女は感じていた。ほんの少し前までは何てこともなかった風景が今は狂おしい程に愛おしい。
「どうしたの。君にしては珍しく浮かない顔だ」
 もしかしてセンチメンタルにでもなってるのか?なんて聞いてくる佐伯に青葉はあえて頷く事はせずに、逆に嫌みのように問いかける。
「虎次郎はサッパリしてるのね。案外」
 すると彼は当然のように首を縦に振り、嬉々とした表情で言う。
「当然だろ。今日は待ちに待った日なんだからね」
 彼のその表情の内に秘めきれない喜びが、より一層青葉をセンチメンタルにしたのかもしれない。彼女はこの家が好きだった。この小さくて、決して綺麗とは言えない、この古びたアパートの一室が好きだった。



「同棲?」
 彼女は耳を疑った。佐伯が突拍子もない言葉を平然な顔つきで言ってみせたからだ。二人は見るからに年季の入った古びたアパートの一室にいた。そんないつもと何変わらぬ二人の日常の中で、この言葉だけが日常から酷く逸脱しており、非日常を齎す。
「うん。もうそろそろいいと思うんだ。同棲しても」
 彼は至って真剣に言って見せた。最初は自分の事をからかっているのだろうかと疑っていた青葉も、具体的な話が進んでいくにつれて彼の言葉が真意からなるものだと理解していた。
「でも」
「大丈夫、おばさんには後でちゃんと説明するから」
 大学に入学してからようやく一年が経とうとしている時の、彼の言葉だった。
 彼、佐伯虎次郎はちょうど一年程前、故郷である六角を飛び出た。一見普通のことのように思うが、彼を知る人間であれば例外なく驚く事でもあった。
 彼は地元愛の強い人間だった。また、六角を故郷とする者の中にはそういう者が多く、青葉もその内の一人であった。
 そんな佐伯の地元への執着を知っていたからこそ青葉は彼が一人暮らしをすると言い始めた時に誰よりも驚いた。まさか、と。考えてもみなかった。
 確かに彼の入学した大学は東京の大学だった。テニスだけでなく勉学でも常にトップであった彼が上位の大学に入学するのは然して難しい事ではなかったようだ。誰もが彼の合格を祝福し、そして自分の事のように誇らしく思っていた。彼が、あの言葉で皆を唖然とさせるまでは。
「俺、一人暮らししようと思ってるんだ」
 衝撃的な言葉だった。きっと青葉だけでなく佐伯を知る者全てが衝撃を受けた。
「此処が嫌いになってしまったの?」
「違う、そうじゃないんだ」
 彼が一人暮らし宣言をした当初、どれだけその理由を聞いても彼は固い口を開こうとはしなかった。適当な言葉であしらわれて、それで終わりだった。次第に青葉も問いかけるのを止めていた。
 卒業を間際に控えたころ、青葉は思い出したように彼にあの時と同じ質問をしてみた。
「違う、そうじゃないんだ」
 やはり彼は同じ言葉を口にした。
「ならあたしに愛想つかした?」
 いつもの青葉であればそこで口を閉じていただろう。しかし彼女は彼が地元を離れてまで一人暮らしをすると言った彼の真意を知りたかったのだ。一パートナーとして、彼を知りたかった。
「それも違うよ」
 ならどうして   。青葉の言葉の後、大きな沈黙を作り上げると彼は見た事もないような不安定な感情をかんばせに浮かばせた。青葉が今までに見た佐伯の中で、一番人間らしいかんばせだった。
「本当の理由は   、きっと青葉に愛想を尽かされるような事なんだ」
 いつだって笑みで本当の感情を読み取らせない男だった。それは彼女である青葉にも同様に。彼女は初めて何かに揺れている佐伯を見て息がつまるようだった。
「こう見えてもあたし虎次郎にゾッコンなんだけどな」
「だろうね」
 茶化す様に言ったつもりの言葉は彼の苦笑めいた頼りない言葉によってかき消される。
「愛想尽かす訳なんかないじゃない」
「いいや」
「ないよ。絶対に。神に誓って」
 そう言った青葉に向かって彼はまた笑った。哀しげにゆれるその瞳は他にも勝らぬ美しさだった。だからこそ嫌な予感がする。彼女の背中に何かが這いつくばる様な言い表せないものが襲った。
「俺にゾッコンな君だからこそ、きっと君は俺を見放すんじゃないかな」
 青葉には彼の言っている意味が分からなかった。彼はいつだって突拍子もなく、おかしな事を言う人だ。しかしまた、必ず理にかなった事しか言わない人でもある。だからこそ青葉には彼の言わんとしている事が理解出来ないのだ。
 佐伯の言葉通り、青葉が彼に心底ほれ込んでいるというのは周知の事実であった。
 二人は所謂幼馴染という恋愛感情とは程遠い関係にあった。昔から。しかし先にほれ込んだのは青葉の方だった。そのきっかけがテニスだった。彼の容姿の美しさをより増長させるようなそのスポーツに青葉は魅せられた。
   君は言った。テニスをしてる俺が好きだって。
 彼の言葉に青葉は、「あ、   」と声を漏らす。そして彼は悟ったように女性のそれよりも長い睫毛をひるがせた。
 確かに彼女は過去にそう言った。そしてこうも言った。   きっと虎次郎がテニスをしていなかったらあたしは貴方を好きにならなかったと思う。と。今思えば酷く残酷な言葉を、言ってしまった。
「そんな俺からテニスを取った時、青葉を俺に繋いでおく要素は何もない。なくなってしまうだろ」
 この言葉で青葉はおおまかな彼の意思を理解した。
「・・・テニス、もうやるつもりないんだね」
「ああ」
 何となく彼がテニスから遠ざかっているような気はしていた。中学までは生き生きとテニスをしていた彼は、高校にあがると少しだけ変わってしまった。きっと自分の限界を、知ってしまった。
「愛想、つかしただろ」
 彼の弱気な言葉に青葉は珍しく癇癪を起こしたように声を荒げた。
「本気で言ってるの?だったら怒るよ」
「だってそうだろ」
「ばか。虎次郎のおおばかやろう」
 彼はいつだかこう言った事があった。
   上を知ると人はもっと上を望んでしまう。現状では満足がいかなくなるんだよ。常に手の届かない物を追いかけて、それに届いたらまた新しく届かない物を追いかけ続ける。人間は、欲張りな生き物だよね。
 何かを悟ったような言葉彼の言葉だった。ちょうど関東での強化合宿が行われた、その頃のことだ。
 佐伯は人よりも優れていた。それは勉学であり、運動であり、歌唱力であり、容姿であり、全てが人よりも優れているように出来ていた。
 人よりすぐれる事に然して努力は必要のない物であり、自ずと気づけば上にいた。それはテニスでも同じ事に違いない。
 しかし彼はテニスというスポーツに魅せられた。青葉と同じように。努力を惜しまず明けても暮れてもテニスをした。幼いころからずっと。同じ志を持った仲間と共に。
 中学までは彼も名の知れた選手だった。もちろん高校でもそれは同じではあったが、彼は少しずつ時間を重ねて変わっていった。唯一本気になったテニスという舞台で、これ以上上に行くことは難しいと理解してしまったから。
 普通以上に出来てしまうからこそ彼はきっと苦しかったのだろう。ある程度トップの力を持っているからこそ知ってしまった上の世界を見る事で自分の限界を見出してしまったのだから。
 高校生活も中盤に差し掛かると、彼のテニスは急速に輝きを失っていった。
 でも、
「もうテニスなんか関係なく好きに決まってるじゃない」
 この言葉を言った女は泣いた。聞いた男も、しとしとと静かに泣いた。



 彼が一人暮らしを始めて暫くした頃、青葉は古びたアパートの一室に居た。お世辞にも綺麗とは言えない年季の入った年代物のアパートだった。王子のような風貌の彼には相応しくないオンボロな外観に青葉は中々言葉を見つけられないでいた。
 青葉が言わずとも何を言いたいのかを理解した佐伯は笑っていた。
「こんな所で悪いね。せっかく来てもらったのに」
 言われて青葉も自分の感情が筒抜けになっていたのだと気づく。
「ごめん。ちょっと驚いたけど」
「まあね。でもまあ、無理言ってこっちに出てきた訳だから仕送りでぬくぬくと生きていける訳じゃないから。実を言うと家具なんかもまだあんまりないんだ」
 そう言われて招かれた佐伯の部屋は驚くほどに何もなかった。
「ほんとに何もないね。すっからかん」
「だろう?」
 そこにあったのはノートパソコンと、掛け布団一枚と、実家から持ってきた少量の衣類や日用品しか見当たらない。
「ベットとかあったでしょ?持ってくればよかったのに」
「帰った時に困るし、そもそも引っ越し代も馬鹿にならないんだよ」
「ふうん」
 そういうものなんだ。青葉はそれだけ言うと何もない木目調のフローリングに腰を下ろした。家具がない分広く見えている筈のその部屋は、何もなくとも酷く狭く感じられた。
「このパソコン使ってもいい?」
「ああ、構わないよ」
 かろうじてネット回線だけは布いてあるという事で青葉は早速あるページを開いて彼に見せた。
「家具、一緒に決めよう」
 お手頃な値札をつけた家具が揃っているサイトを二人で眺めた。「そうだね。一緒に決めようか」彼もそう言って青葉の背の後ろで同じページを眺めた。これから始まる新しい生活に、小さな期待を芽吹かせた。
「バイトはもう決めたの?」
「うん。一つ隣に大きな駅があるんだけど、そこの居酒屋」
「じゃあ夜型の生活になるね」
「そうだなあ。でも深夜給のある所は正直割がいいんだ」
 青葉は少しだけ不安になったがすぐにそんな感情も消え去っていた。きっとマメな性格の彼であれば、音信不通になることはないだろうという確信にも似た自信があったからだ。
 彼女が佐伯の部屋を訪れてから一カ月が経っていた。関係は何も変わらない。やはり青葉があの時思ったようにマメな性格の彼は音信不通になるどころか忙しいアルバイトの休憩時間には必ず連絡をくれた。遠距離になったからという不安は皆無に近い。
「やっぱり最初はベッドじゃない?」
 彼の初めての給料日に青葉は再びこの年季の入ったアパートに訪れていた。最初からそういう約束であり、予算と相談しながら二人一緒に何を買うかを決めるつもりだったのだ。
「でもこの部屋狭いから入るかなあ」
「大丈夫でしょ。やっぱりベッドはないとねえ」
「ベッドがないとしたくないとか?」
 言って彼が笑った。「冗談だよ」と。純粋に楽しいと思える時間だった。六角に居た頃よりも順風な関係になっているようにさえ、感じられる程に。
「じゃあベッド買おうか。青葉が泊まりに来ても困らないくらいのやつ」
 その言葉通り、次に行ったあのアパートの一室にはシングルよりも少し大きめのベッドが置かれていた。
 そこから毎月一つずつ彼の家に家具が増えて行き、必然的に生活感が滲むようになった。家具が何もなかった頃でさえ狭く見えたこの部屋は余計と、月を重ねるごとに狭くなっていった。
「虎次郎は何が欲しい?」
「そうだなあ」
「あたしは白いソファーが欲しいな。虎次郎と一緒に座れるやつ」
 青葉はパソコンの画面に映し出された洒落た白いソファーを指さす。「また大きく出たね」彼は笑っていたけれど青葉は至って本気で言ったつもりだった。
「どこに置こうっていうんだよ」
 言われて初めて青葉はその事実に気づく。
「あ、そっか」
 毎月増えていく家具に何の疑問も感じていなかった青葉にとって、スペースの問題など全くとして概念になかったのだ。そして不意に、小さく呟いた。
「この部屋がもうちょっと広かったらなあ」
 言って青葉は我に返った。「ごめん。ない物ねだりだね」。
「虎次郎は何が欲しいの?」
「そうだなあ」
   俺は青葉と一緒に住める部屋が欲しいかな。
 そして、話は冒頭へと戻る。



「青葉は嬉しくないのか」
 彼女は即座に首を横に振る。瞳に光るものを流さないようにしながらも。本当にうれしいのは違いなかった。青葉は彼と一緒にいる事を望んでいた。そして彼もそれを望んでくれていた。幸せに違いない。
 同棲を提案してくれた彼は、この家を離れる事に寂しさはないのだろうかと青葉は思う。佐伯のかんばせには清々しさしかなかった。
「虎次郎は寂しくないの?」
「寂しい訳ないじゃないか。これからはいつも青葉と一緒にいれるんだ」
 それは事実だ。そしてかけがえのない幸せだ。ついこの間までは感じなかった何かに苛まれる。新しい生活への期待で満ちていた心に影が差したのは引っ越しの前日だった。
「そうだね」
 彼女にとってそう言うのが精一杯だった。
 何もない小さな部屋で彼女の震える声が響き渡った。あまりの狭さと年季の入り方に上手く言葉を見つけられなかったあの日と同じ部屋だった。家具がなくても酷く狭い、生活感のない部屋に。
 あの頃に見た部屋と同じ筈の目の前の部屋は、少しだけ大きく見えた。あの時よりも大きいと。
「今よりももっと広い部屋になるんだ。青葉が欲しがってた白いソファーも置けるね」
 ついこの間欲しいと思った白いソファーと広い部屋はただの欲であって、本当に欲しいものではなかったと青葉は初めてそんな事を思った。
 欲しかったものは、もう既に手の内にあっただなんて。呆れた。青葉は瞼を拭いた。
 彼と一緒にいることの出来る空間だけで本当はよかったのだ。満たされていた自分の心が勝手に高望みをしていただけだという事を失うまで気づかなかった愚かな結末だ。この狭く、小さく、不便な部屋が二人の距離を縮めてくれていたのではないか。
 青葉は佐伯のいつかの言葉を思い出す。
   上を知ると人はもっと上を望んでしまう。現状では満足がいかなくなるんだよ。常に手の届かない物を追いかけて、それに届いたらまた新しく届かない物を追いかけ続ける。人間は、欲張りな生き物だよね。
 彼の言葉はやはり理に適っていて、道理であった。
「ごめん虎次郎。あたし本当は白いソファーなんて欲しくなかった」
 彼の驚いた声が聞こえてくると想定していた青葉の耳元にはそんな言葉は響いては来ない。
「・・・わかってるよ」
 やはり彼はあたしなんかよりも先に到達していたのだ   青葉は思う。
「狭くて、不便で、年季の入ったこの部屋が、あたしは好きだった」
「ああ。俺もだよ」
 青葉はようやく瞳に溜めていたものを綺麗に流し落した。大好きなこの部屋が、部屋から見える枯れかかった秋桜が、歪んで見える。どう見ても狭くしか見えなかったこの部屋が広く、酷く魅力的に見えた。
「でもここでは一緒に住めない。青葉だって分かるだろ」
「・・・分かってる」
 でも、あたしはこの家で一緒に住みたかった。彼女はそう言って佐伯を困らせた。

「我がままだね。青葉は」

 二人はこの部屋に背を向けて新しい道を歩いて行く。
 五畳しかない、この部屋を出た。



 二人は新しい生活に身を投じていた。煌びやかな共同生活を日常にしている。あの家を出てもう、三年という短くもあって長い時間を隔てていた。二人は時折思い出す様にしてあの部屋の話をした。
 そして二人は辿りついた。
 あのアパートが見えるまでの道程は体が覚えていた。
 駅から徒歩十五分。
 大きな栗畑を越えて、次を右に曲がる。
 あのアパートが二人の視界に現れた。実に三年ぶりだった。
「ねえ」
 青葉が口を開く。
「なんだい」
 佐伯もそれに答える。

「きっと忘れないよね」

 青葉の問いかけの少し後に彼は言った。「ああ。忘れないよ」と。
 まるで生活感の漂わなくなったあのアパートには黄色い帯が何重にも渡って覆いかぶさる。keep outと書かれた文字の傍には解体工事のお知らせ板が立ちそびえる。
 部屋に戻ると青葉は白いソファーに腰掛けた。佐伯も続くように隣に腰掛ける。
「泣いていいよ」
 青葉はその言葉とほぼ同時に子どものように泣いた。
 あの部屋には色んなものが詰まっていた。五畳ではとても入りきらないだけの数え切れない思い出があった。それは青葉と佐伯にとって積み木のお城のような場所だったのかもしれない。しかし積み木は、何れは崩れてしまう。そういう運命だ。
 それでも、あの五畳しかない部屋が半年分の思い出を見据えながら二人を見ているようだった。

 青葉は泣くのを、止めた。

( 20101128 )