day 1.
アンラッキーホリデイ


 私のアンラッキーは決まって祝日にやってくる。
 土曜日と日曜日という貴重な休日に加え、時折不意にやってくる祝日には土日以上の優位性があったりするものではないだろうか。正確に言えば不意にやってくる訳ではなく、年間のカレンダーでしっかり定められているのだけれど。
「頼む!」
「頼まれても困る!」
 寧ろ不意にやってくるのは祝日の方ではなく、祝日を優雅に過ごそうとしている私に降りかかるアンラッキーの方だろう。しかしながら最早これも祝日と抱き合わせになっているレベルに近いので、やはりしっかりと定められているものなのかもしれない。
「あいつとはちゃんと別れるから。」
「いやいや別れられても私が困る!」
「二股じゃ格好つかないだろ?」
 状況は想像することを拒絶したいレベルの最悪だ。少なくとも渋谷のハチ公前で声のボリュームをマックスでされたい話ではない。声高々に私がまるで望んでいない言葉を紡いでいるのは、あろう事か私の親友の恋人だ。溜まったもんじゃない………どうしてこんな事になっている?
「そうじゃなくて…!そもそも付き合う気がないって申し上げております!」
 小、中、高の友人の中でも特別親友とカテゴライズされる彼女から相談を受けたのは今から一ヶ月ほど前のことだ。長年付き合っている彼との関係がマンネリ化しているというよくありそうな話から全てが始まっている。
「そりゃそうか……はあいつの親友だし気まずいよな?」
 どこまでポジティブに世の中を生きている男なのだろうか。開いた口が塞がらない。ポジティブな人間がこの世を強く生き抜いていく様を思い浮かべて、先日友人の家で顔を覗かせていた黒光りする昆虫の事を思い出した。昆虫とあえてそう言っているのは、それが昆虫ではない何かと認めてしまうと気がおかしくなりそうだからだ。
「時間はかかるかもしれないけどちゃんとアイツにも理解してもらうようにするから……」
「ちょっと待って!」
「なにを?」
「勝手に話進めないでもらえますか?」
 二人の仲を取り持つ為に一肌脱いだ事実はあったにせよ、どうするとその矢印がこちらに向くことになるのだろうか。そもそも私は貴方の彼女の親友なのですが、それを分かっておられますでしょうか………放たれた言葉を思い出して分かった上で言っている事を理解して、私は同時に彼の頭の弱さも理解する。
「そもそも付き合う気がありませんので!」
「え、って彼氏いたっけ?」
 ポジティブという言葉では最早カバーしきれない範疇かもしれない。度を超えるとそれはポジティブという言葉から空気の読めない無神経へと変わる。
 親友がどうにかして関係を付き合って間もないあの頃に戻したいと切に願っているのが目の前の男なのかと思うと心が痛む。今のこの想定外の告白も、その彼を脳内で留めたとは言え頭が弱いと例えたことも、アパートで颯爽と走り去った黒く光沢を帯びた生き物に重ね合わせてしまったことも………とにかく全てにだ。
 私に付き合っている人がいなければ自分と付き合うことに何も支障がないとでも思っているのだろうか。否、思っているに違いない。何なんだこの男は。そもそも私は名前を呼び捨てされる程あなたと仲がいい記憶はございません。
「いないなら付き合うのも問題ないだろ?」
 親友には申し訳ないの一言しか思い浮かばないが、早々にこんな男とは綺麗さっぱり関係を切った方がいい。多分、これは私だけに起き得ている現象ではないと思ったからだ。こんな場面が、彼女の知らないところで何度も繰り返されていたとしたら?
 親友の恋人、彼氏、大好きな人、大切な人………なまじ傷つける訳にもいかない。この男がどれほど傷つこうが私の知った事じゃないが、間に自分の親友が挟まってくると話は別だ。いずれの結果であっても大なり小なり心に傷を負う彼女のことを考えると、慎重に言葉を選ばざるを得ず滑らかに会話を続けることができない。
 ちょうどそんなタイミングで救世主は現れたのだ。
 通話アプリの着信音が軽快に鳴り響いている。通常のデフォルト音と違い、すぐに誰か判別のつくそのメロディーにこの時ばかりは心底救われた気になる。慌てて小さい鞄の中をこじ開けてスマートフォンを握りしめた。
「か、か、彼氏から電話…!」
「彼氏?」
「電話出るから!」
 ディスプレイに表示されている名前にここまで頼り甲斐を感じたのは初めてかもしれない。常日頃からお世話にはなっているのでそんな事が本人に伝われば一発ゲンコツでもくらいそうなものだが、なんだかんだ言ってデコピンくらいしかできないことも知っている。彼は女子に滅法弱い。辛うじて私の性別もその類だ。
「も、もしもし〜?全然電話してくれないから寂しかったしい〜?」
『ダレ。』
「やだあ〜彼女の声も忘れました?」
『……いや、俺彼女いないんだけど。』
「ひど〜い!」
 可笑しい。恋人からかかってくる電話を取る彼女(風)の口調が分からない。マジで分からない。一周どころか百億周周っても分からない。分かっているのはとにかく頭の悪そうな彼女だということくらいだろうか。頭が悪いという自身との共通点はあるにせよ、普段の私とは三百六十度違う女だ。仮に三百六十度周ったのであれば、何も変わっちゃいない。半周多めに回っております。
「ハチ公前にいるから早く来てって!」
 ようやく本来の私の言葉と、普段の声が腹の底から込み上げるようにして口から出ていった。
 モラルに欠けた人間が目の前にいることで逆に冷静で落ち着いていられたが、状況は混乱の連続だ。私がその状況を自分で作り上げた。よく分からないギャル風の言葉を使って墓穴を掘った形だ。渋谷という街がそうさせているのかもしれない。恨みを向ける先がどうしても欲しいのでそういうことにしておく。
「……お前なにやってんの。」
「リョータ!」
 渋谷駅のハチ公改札からスマートフォンを耳に翳しながら呆れた顔でこちらを見ている救世主を見つけて走り出す。赤いマークを押し込んで通話を切るとすぐにリョータの背後に回り込むようにして、渋谷に溶け込むファッションをしている彼の腕を両手で羽交締めにした。
「うぉ?てかさっきからマジで何なんだよ……」
 まるで状況を察していないリョータは不可解な顔で私を見ている。それもその筈だ。電話をして出たかと思えば、間違い電話をしたか?と勘違いしたくなるような意味のわからないテンションの私が意味のわからないことを言っているのだから。ちなみにもちろん酔ってはいない。まだ。それはこれから実行する予定だ。
「(なにも聞かずに暫く私の彼氏のフリして!)」
「(は?状況読めないんだけど……)」
「(今日奢るからお願い!)」
 耳元でコソコソヒソヒソしたのっていつぶりだっけ。小学校三年生の時にクラスで伝言ゲームやったきりな気がする。成人している男女がその距離感にいるともなれば、きちんと彼氏だと分かってもらえたかもしれない。
「……ドモ、俺の彼女になんか用事ありました?」
「彼女……?」
 即興にしては随分と上手いこと合わせてくれていると思う。人間、飲み代がかかると案外感情を乗せた演技ができるものなのかもしれない。
って背が高くてサラサラの短髪がタイプってあいつから聞いてたんだけど………」
 こいつは一体何を言ってくれているのだろうか。いや、こいつなんて言っては駄目だ。仮にもこれは親友の彼氏だ。現在進行形の事実なのでグッと堪える。しかも私に協力を依頼してもう一度振り向かせたいと想い続けている相手だ。間違っても黒く光沢のある生き物と一緒にしてはならない。あと数週間の間は。
「付き合うのが自分のタイプの人とは限らない…!」
「でも正反対だろ。」
「それを覆すくらいどうしようもなく好きってこと!」
 相手を見る為少しずらされていたリョータの丸いサングラスはカチャッと音を立て、完全に彼の瞳を私たちから隠している。本人都合で曇らせる事が出来るなら今年のノーベル賞にノミネートくらいはされてもいいような気がする。今冷静になっては負けだ。
 言い逃れすることに必死になりすぎて、よくよく考えると随分とリョータにダメージを与えているみたいだ。普通にまずい。ここで怒らせるのは得策ではない。
「寧ろ背が高い人より密着度高いし、そういうことする時すごくいいんだから!」
「ハ?」
「ハ?」
 ハ?という言葉が見事に重なった。漢数字ではなく、カタカナの方だ。今自分でも冷静になって状況を鑑みると、彼らと同じ言葉が私の口からも出そうになった。
 渋谷駅、ハチ公改札、若者が集まる場所。時刻は十六時半、これから飲みに行くのであろう若者たちが多く待ち合わせをする夕方。そう、私はまだ酔っちゃいないし、街にいる若者もまだ酔っちゃいない。ザワザワと騒がしい筈の渋谷で、一瞬シンとなった瞬間があったように思えたのは恐らく気のせいではない。
「……と、とにかく!彼氏いるから付き合うとか無理なので。」
「………」
 納得した表情ではない。けれど、一時撤退せざるを得ないという、そんな顔をさせることには成功したらしい。居心地が悪そうな顔をした親友の恋人(数週間の間には別れさせる)は渋谷駅ハチ公改札と書かれた緑色の看板に吸い込まれるようにやがて消えていった。
「んで?」
 一難去ってまた一難とはきっとこの状況のことを言う。ネット検索した時にことわざや四字熟語の例文が出てくるけれど、この状況は例文に採用されてもおかしくないそんな打って付けな状況だ。どう言語化されるのかは知らないし、知りたくもない。
「チビで天然パーマネントの男ですみませんね?」
「……いやほらさ、事情は飲みながら話しません?」
「今日酔える気しねえし。」
「そんなこと言わないでよリョータくん……」
 状況がまるで分からないまま勝手に彼氏に仕立て上げられ、(第三者から)私のタイプと随分と違うと失礼を浴びさせられたリョータの機嫌が良いはずもない。さっきからろくに会話をしていない。無言で通り抜けていくセンター街は中々しんどいものだ。
「……で、いつまで彼氏のフリすんの?」
 本来怒って帰られてもおかしくはない状態だ。最悪をあらかじめ想定していた私は少し拍子抜ける。機嫌があまりよくなさそうという事実はありながらも、私の都合にまだ乗っかってくれるらしい。どこまで優しい男なのだろうか。人を抱きしめたくなる感情ってこういう時に感じるものなのかもしれない。
「ストーカーされてんの?」
「あ〜、」
「全然そんなこと今まで言ってなくなかった?」
「だってあれ親友の彼氏だし……」
「は?マジ?」
 リョータは高校時代のクラスメイトで、仲の良かった友人だ。中学時代から彩子と仲が良かったということもあり、何かと接点は多かった。高校を卒業して大学生になっても、月に数回は一緒に飲みにいく所謂飲み友達として今も仲のいい友人の一人だ。
「前情報そんな持ってないけどヤベ〜男じゃん。」
「そう……彼女の親友にとか本当にどうかしてる。」
 私が一人で先走っていた訳ではないのだと知れて正直ホッとする。親友が必死になるほど好きな相手だ。慎重にもなるし、簡単に悪くも言えない。けれど、だからこそタチが悪い。自分の立場を弁えていれば絶対にできないことでしかないのだから。彼女にどう伝えるべきか、今から頭が痛い。
「で、俺いつまで彼氏でいればいいの?」
 その場の勢いで随分といろんな事を勝手に決めていたことに気付かされる。フリとは言っても、今リョータは私の彼氏ということになっているらしい。いつまで?なんてまるで考えていなかった。全てが突発的に始まったことだったから。
「なんか執着心ありそうな奴だったし暫くは続けといた方がいいんじゃない?」
「……確かに。」
「あいつがちゃんと帰ったって断定もできねえし、」
 センター街ではさして違和感がないということもあったのかもしれない。ただの仲の良い友人でしかなかったリョータの手の温もりを感じたのはこれが初めてだ。スクランブル交差点を過ぎた先で、少しだけ遠慮がちなリョータの温かい左手に包まれた。
「なんか言えって。」
「アリ〜ガトウ〜ゴザイ〜マス?」
「……ふざけてんならやめる。」
「うそうそごめん!」
 パッと離れそうになるリョータの手を、理由もなく繋ぎ返してしまった。それは彼氏のフリをするということに整合性を取るためなのか、万が一あの男が戻ってきた時に知らしめるためなのか、それともそれ以外の何かがあるのか。
「……背低いと手繋ぐのもちょうどいいだろ〜し?」
「根に持つタイプですよね?」
「根にもつも何も事実じゃん?」
「も〜ほんと今日は諸々お詫びするからご勘弁……」
 辻堂駅までバスで十五分、渋谷駅までは辻堂駅から電車で五十分強、それだけでも私が詫びないといけない理由がある筈なのに。渋谷で待ち合わせて飲むのが当たり前になっていたけれど、それはリョータの協力がなければできないことだと今更ながら気付かされる。
「……今日会うのが俺でラッキーだったね?」
「確かに?」
 仲が良いという自覚はある。でもそれは私がリョータにとっての特別だからという訳じゃない。ただ仲が良いというそれだけで、それしかない理由。
 東京の大学に進学した私に合わせて渋谷に来てくれるのは、彼がミーハーな気質があって渋谷が好きだからとばかり思っていたけれど、もしかするとそれ以外の要因もあったりするのだろうか。
「危ない目に遭われても嫌だし、暫く彼氏でいるわ。」
「お、おう……」
「……おう?返事おかしくない?」
「おかしいことが続き過ぎておかしくなったのかも……」
 ギャルが次々に通り過ぎていくセンター街を、リョータと手を繋ぎながら進んでいく。調子が狂う。完全に私がリョータを巻き込んでしまった側なので文句を吐き出せる訳もないけれど、想定外の出来事の中でも想像と違うことがある。
「……嫌なの?」
「そんなんじゃない!」
「俺と手繋いでるのって恥ずかしい?」
「ちがうって!」
 彼氏のフリをしてもらう相手が誰でも良かったという訳ではない。そこには意思疎通ができるというのが前提にあって、私が心の置ける相手である必要がある。たまたまリョータと今日会う約束をしていただけで、今日他の人と会う可能性だってゼロではなかっただろう。
「こっちがお願いしてるしリョータに申し訳ないと思って……」
 でもリョータで良かったと思うし、そんなことを頼める相手はリョータ以外に思い浮かばない。リョータはそれだけ距離感が近く、心の許せる相手ということだ。そんなお願いが出来る異性の友人が何人いるだろうか?考えて、彼一人しかないことに気づいて変な気持ちになった。
「じゃあいいデショ?中途半端だと周りから変に思われる。」
「う、うん……」
 仲の良い友人のリョータの左手は、本当の恋人のように私の右手をとても温かく包み込んでいた。これが渋谷で、そしてセンター街でなくとも私たちがこうしていることに違和感はないのだろうか。
 そんなことを考えながら、ただ真っ直ぐに道を抜けていくことに集中していた。