day 3.
昔にみた青の果て


 アルコールに飲まれると無条件に人肌が恋しくなるらしい。
 案の定リョータの断言した通りの状況でしかない私の足は覚束ない。このふわふわと宙に浮いているような酔っ払いにしか味わう事の出来ない感覚が幸せだったりもする。何度も学習している筈なのに、翌日の自分が苦しむ羽目になるのは不思議と記憶からするりと抜け落ちている。
「コンビニ!」
「なに?喉でも乾いたの?」
「お酒買って帰らないと!」
「……寝言は寝て言えって。」
 酔っ払いというのは大人が無双モードに入った状態の事を指す。アスリートで言うところのゾーンに近いものがあるのかもしれないけれど、取り敢えず事前にアスリートの皆様には謝っておこうと思う。
「まだまだ飲める!」
「飲めない奴が言う言葉だからそれ……」
 結局ギャアギャアと煩い私にため息をついたリョータはタクシーを降りると最寄りのコンビニでアルコール度数の低い酒と、もう一本はちゃっかり自分が飲むつもりなのかビールと、あとは二リットルの水を籠に入れて会計を済ませた。
「酔っ払いは水飲めって。」
「酔っ払い?誰のことですか?」
「俺の目の前にいるアンタね。」
 コンビニの袋から缶チューハイを見つけた私に、リョータはその缶を取り上げるように私が届かない位置へと持ち上げる。そのまま食器棚の上にポンと置くと、その代わりに大きなペットボトルを持ち上げた。
「コップどこ?」
「グラスならこの上の食器棚にある。」
「グラスじゃなくてコップ、絶対割れない感じのやつ。」
 ふらふらと食器棚からグラスを取り出そうとする私を止めて、リョータは思い出したようにスタスタと洗面台へと向かう。戻ってきた彼の手には想像通り、普段私が歯を磨くときに愛用している水色のプラスチック製のコップが握られている。
「はい、取り敢えず水飲めって。」
「え〜、シラける。」
「起きて俺が水飲ませなかったからって騒ぐのどこの誰だよ。」
「そんな事あったっけ?」
「そんな事しかないんですケド。」
 酔っ払いは時に都合のいい生き物だったりする。都合の悪い事は覚えていないと簡単に嘘を吐き出すことができる。シラフの時にはまず出来ないことだ。なんでもアリな世界に飛び込んだような気分になって、翌朝後悔と反省をする。けれどそれは明日の私が担ってくれる筈なので、今の私が知ったところではない。
「リョータってさ、」
「ん?」
 こうして彼と一緒に酒を飲むようになってから随分経っているのに、いつだって醜態を晒しているのは私ばかりだ。気持ちよく酔っ払っているのに、時々こうして不意に酔いが覚めたように冷静になる瞬間がある。
「酔っ払ったりしないの?」
 酔っ払っていると喜怒哀楽が豊かになるものらしく、急に寂しいような気がしてくる。酔っ払って楽しいのも私だけが感じているのだろうか。急に不安になる。
「……俺が酔ったら誰が介抱するんだよ。」
「分かんないけど、ダレか。」
「ダレだよ、ダレかって。」
「酔っ払いにしても無駄な質問しないで。」
「そこだけマトモになるのかよ……」
 リョータの言う通り、もしかすると酔いが覚め始めているのかもしれない。今この状態でシラフに戻ったらと想像すると、より酔いが覚めていくような気がする。仮初とは言え、リョータが自分の彼氏なのかと思うとアルコールは必要だろう。慣れない環境は、心臓に悪い。
「だから!今日はもうやめとけって!」
「最後の一本!」
「その一本にいつも泣かされるんだろって……」
 そんなことは自分でも分かっている。でも今はふわふわとした酔っ払ったこの心地でいたいのだ。酔っ払っていればいくらでも理由ができるから。ドキドキと鼓動を打つのも、アルコールのせいにすることができる。今の私にはそれがアルコールによって齎らされたものなのか、そうではないのかを判断できない。だから、この酔っ払いの心地を継続する必要があるのだ。
 えい!そう言ってジャンプした瞬間、地面が反転する。酔っ払っている状況を抜きにしても、運動神経の悪さは自覚しているし両方が合わされば鬼に金棒だ。ゴツンと大きな音を立てて、後頭部に鈍痛が走り抜けた。
「ちょっと!平気?脳震盪起こしたらどうすんだよ……」
 心配そうに瞳を揺らしているリョータを見て、私ばかりが弱みを見せているような気がして、暫く頭の痛みを忘れていたような気がする。
?」
「リョータは全然私に弱み見せてくれない。」
「は?なに突然……」
「いつだって私ばっかり。」
 近い距離感を保ちながらも、こうして物理的に顔と顔が近い状況は未だ嘗てなかった私たちの非日常だ。硬い床に転がっている私に、心配したリョータの顔が接近している。ばっちりと視線が合って、妙な間が流れた。
「本心見せてるのが私ばっかりなんてずるい……」
 アルコールに飲まれると無条件に人肌が恋しくなるものらしい。近くにあったリョータの唇に、吸い寄せられるようにキスをした。普段からリップクリームを持ち歩いている彼の唇は、想像以上に柔らかくて、優しかった。
「……忘れるって分かってるのに今言ったってしょうがないでしょ?」
 二度目のキスはリョータの唇が私を巻き込んでいった。





 頭が痛い。二重の意味で痛い。外側も内側も痛い。割れそうだけど、本当に割れたらどうしよう。内側から押し寄せる痛みは数時間前の愚かな自分が招いた結果で、外側から押し寄せる痛みもやっぱり愚かな自分が招いた結果でしかない。最終的に残るのは愚かな自分という不名誉な称号のみだ。
 痛みに頭を抱えながら、近くから規則正しい寝息が聞こえて目を向ける。
 こういう所が本当に律儀だとそう思う。同じベッドに入ることなく、ベッドに両手を伏せながら控えめに眠っているところ。暖房も入っていない真冬の床は底冷えするように寒い筈なのに。
「………」
 随分とセットが崩れているリョータの髪型は、彼を少しばかり幼く見せる。普段あまり他人に見せたがらない等身大のリョータだ。少しばかり彼の素を垣間見たような気がして優越感を感じて、すぐにそれは破れるような鈍痛によってかき消された。
 綺麗に形どられたぷっくりとした彼の唇が不意に視界に入り、走馬灯のように数時間前の出来事がフラッシュバックされていく。多分、恐らく、メイビー……否、絶対に少し前にリョータとキスをしたような気がする。
 どうしてあんな事をしてしまったのだろうか?アルコールは人に幸せと鈍痛と後悔を齎す魔法の水なのだと思い知らされる。いくら人肌恋しいと言っても、それは私とリョータが超えてはならない境界線を超えている。これからもずっと彼と一緒にいる為には、決して超えてはいけないボーダーライン。
「……ん?」
 眠気に抗うように少し目を擦ったリョータの目線はすぐに私を捉えてドキっと血を巡らせて心の臓を揺らしていく。
「お、おはよ……」
「まだ夜中じゃん……どうした、頭痛いの?」
「……多分ヘイキ。」
「そ?なら明日のためにちゃんと寝よ。」
「……うん。」
 リョータも若干寝ぼけていたのだろう。また普段見ない彼の一面を見たような気がして、ドキドキする。ドキドキ……何故するのだろうか。今までそんな感情とは無縁だったし、だからこそリョータとこうして近い距離で仲良くしてきたはずだ。
 二日酔いが先行している割れそうな頭で考えて、より頭が割れそうな気がしている。何故ドキドキするのか、その理由を少しばかり理解してしまったような気がしたから。
「おやすみ、。」
 そう言うと、リョータはすうっと目を閉じて寝息を立てた。
 あまり自分の弱みを見せてくれないリョータの無垢な寝顔を見て思うのだ。ずっとリョータと一緒にいたいと望んでいた自分の事。愛に永遠や不変がないという事。ならばどうすればリョータと一緒にいることができるのか、きっと無意識の内に本当の気持ちや感情よりも一緒にいることを優先していた自分に。多分、気づいてしまったから。
 酔っ払っていたとは言え、誰にでもキスをする訳じゃない。他人が私のことをどう思うかなんて知らないしどうでもいい。どうでもいいと思えない相手は、きっとリョータだけだ。
 何故誰と付き合っても長続きしなかったのかを考えて、気づいてしまった。何をしていても、リョータと比較してしまう自分がいたこと。見た映画も、行った旅行も、些細な日常の会話も……リョータとならもっと楽しめるのにって。
「………」
 彩子という絶対的な存在に、きっと自分でも気付かない内に感情に蓋をしていた。こんな遅効性の恋があるとは思ってもみなかった。自分がしてきたことの全てが、リョータを好きな自分を誤魔化すためだったと気づいてしまったのだ。リョータを好きにならない理由を作るために、きっと無意識の内に新しい彼氏を作る自分に。
「ちゃんと頭痛いしお酒残ってるのに、なんでこんなに冷静なんだろうね……?」
 今日までそんな感情を抱いたこともなかったのに、どうして気づいてしまったのだろう。気付かなかった方が良かったのに。愛や恋は不変ではなく、ほとんどの場合終わりのあるもので、私が彼を好きになった瞬間、私たちの関係性は不変ではなくなるのだ。
 誰よりも彼の恋を応援していた筈の私が、誰よりも彩子のことを羨ましく思っているのだから。揺らぐことがない彼の真っ直ぐな感情を知っているからこその絶望だったのかもしれない。
「おやすみ、リョータ。」
 いつものように、朝起きて何もかもを忘れられていたらいいのと思う。けれど人生はそう私に都合がよく出来ているものではなくて、しっかりとこの記憶が翌朝も刻まれていることをもう今の段階から予測ができた。
 だから、全てを無かった事にしよう。





 結局あれから一睡もできなかった私は、リョータが目覚めるのをベッドの中でじっと息を潜めて待ち構える。昨日酔っ払っていたのは正真正銘の事実であり、普段の私と比較しても何の違和感もないだろう。だから、何も覚えていないという演技にも特別違和感はないはずだ。
「起きた?」
「……ん、はよ。」
「おはよ。」
「てか早くね?」
「帰ってすぐ寝ちゃったからか妙に体が元気でさ。」
「すぐ寝たって…?」
 本当はしっかりと二日酔いの頭の痛みもあるし、後頭部の痛みもあれば、どうしようもない寝不足だ。少し前にコンシーラーでクマを隠してみたが、リョータの目に映る私はよく寝てスッキリしている愉快で能天気な女に映ってくれているだろうか。
「……昨日のこと何も覚えてないの?」
 泥酔していた訳でもないリョータの記憶にあの出来事はしっかりと残っているらしく、試されるような言葉をかけられて一瞬心臓がギュッとなる。
「もしかして何か粗相してた?」
 質問返しをすることで、きっとリョータは何も言えなくなるだろうと思ったのだ。案の定それは的中したらしく、昨日の出来事に言及されることはなかった。
「……別に。」
「そか、じゃあ良かった。」
 何かを言いたそうにしながらも、けれど言葉を飲み込んだリョータを見て確信する。私がそれをなかった事にしたように、リョータにとっても同じなのだと。酔った勢いがあったとしても、私と二度もキスをしたというのは彼からすると本当に事故でしかないだろうから。
「朝マックでも行っちゃう?」
「……マジで元気じゃん。」
「リョータが水飲ませてくれたからかも。」
「そこは覚えてるんだ?」
「ん〜、なんとなく?ね。」
「ふうん。」
 これ以上は墓穴を掘りそうだったので、早々にリョータを部屋から追い出すことにして朝のマクドナルドへと向かう。寝不足で二日酔いの体にはフィレオフィッシュが随分と重たく感じられた。
 自分の本能がリョータとこれから先も一緒にいられる道を無意識のうちに選んでいた筈で、だからこそこの感情に気付くことがなかったのだろう。けれど、今にして思えば何となく感じ取って自分自身の意思でそうしていたのかもしれないとそう思うのだ。
「本当は全部覚えてるんじゃないの?」
「……まさか。」
「目が合わないのって、何したか覚えてるからでしょ。」
 はっきりと自覚させられた自分の本当の気持ちを抱きながら今の関係を続ける訳にはいかない。今までと同じという訳にはいかないからだ。少なくとも、私は今まで通りリョータと接することは出来ないだろうから。
「今はフィレオフィッシュに釘付けなだけ。」
 柔らかいバンズに、昨日の唇の感覚を思い出して掻き消すようにスプライトを飲み干した。