day 5.
新しい君の香り


 ドアを開けると、眉の下がったリョータがいた。あんな勢いで電話をして、チャイムもドアも何度も鳴らした強引さとは程遠く、何だか自信がなさそうな顔だ。これから何が起きるのか。今までの記憶を遡っても、同様のケースなどないのだから私に分かるはずもない。
「……もし嫌だったら蹴り飛ばしても殴り飛ばしても絶対怒らないから。」
「ん?」
 リョータに化粧を落としてしまったからと言ったのは本当で、風呂上がりのスタイルはスエットに眼鏡だ。リョータには何度もこんな姿は見られているし、泥酔して醜態も晒しているのだからどうって事がないと言えばそうかもしれない。
 けれど、こんな丸裸に近い状況を改めて見られるのは恥ずかしい気もするのだ。何にせよ意識せずにはいられない。そして、意図の分からないリョータのその言葉に、構えてしまう。
 普段のリョータなら考えられない光景が目の前に広がっている。
 彼の上着は少しだけ汗でじっとりとしていて、触れた肌からも上気している事がよく分かる。電話から漏れ出ていた音からしか判断できないけれど、きっとここまで全速力できたのだろう。
 バスケをした後や、夏場はあまり近くに寄らせないリョータがそんな状況にも関わらず私を抱きしめているのは何故なのか。
「……蹴らないの?」
「なんでよ。」
「じゃあ殴らないの?」
「私そんなに暴力的じゃないんだけどな。」
 選択肢を与える間も無く、私をこうしてハガイジメにしているくせに何を言っているんだろう。抱きしめるというほど優しい表現は似合わず、ハガイジメという言葉の方が相応しい。仮に蹴ろうにも、殴ろうにも、私は身動きが取れない状況なのだから。
「急所蹴られるくらいの覚悟だったから……」
「ちょっと待って、どんな覚悟?」
 全ての言動に理解が及ばない。突然切羽詰まった感じで電話をしてきたかと思えば、急に抱きしめられて、急所を蹴られる覚悟だったと……マジでどういう状況ですか?少なくとも私の辞書にはそんなパターンの例文はない。
「今から言う事ちゃんと真っ直ぐな意味で聞いてもらいたいんだけど。」
 急に体を離されたかと思うと、両手で私の腕を握りしめながら姿勢を正す。何なんだろう。会って二分も経っていないのに、状況は目まぐるしく変わっていって私を惑わせる。
の事好きだし、凄い大事に思ってる。」
「う、うん…?」
 そんな事を今更伝えにきたのだろうか。言われなくてもそんな事は高校一年生の頃から知っているし、有難いことにヒシヒシと伝わっている。そうでなければわざわざ都内まで毎回飲みにきてはくれないだろうし、酔い潰れた私を介抱もしてくれないだろう。
「私もリョータ優しいから大好きだよ?」
「そうだよね、まあ一回はこのクダリ挟むと思ってたけど……」
「え、優しいじゃ不満だった?」
「そうじゃなくて!」
 終始焦っているように落ち着きがないリョータはとても新鮮で、私まで落ち着かない。そわそわしているのに、それでも目線はずっと違える事なくこちらを捉えている。自分の感情を気取られるのを嫌って、目を合わせる事が苦手な癖に。
「『そういうことする時すごくいいんだから』の相手になりたい方の好きって言えば流石に分かる?」
 なんとなく何処かで聞いた事のある言葉な気がする。しっくり来るのは何故か?それは私から生み出された、私が発した言葉だからだ。あの日まで一気に記憶が戻って、改めて私はなんて事を公衆の面前で声高々に言っていたのだろうかと今更ながら恥でしかない。
「さ、さすがにそれは分かる……」
 流石にそれは分かるけど……だとしたらいつから?まるで分からない。私からしたら随分と都合のいい事なのかもしれない。だからこそその理由は気になる。
「でも何で私?」
「アヤちゃんじゃなくって……って意味?」
「……それもある。」
 リョータは一度深呼吸をしてから、私の知らない事をいくつか教えてくれた。実は彩子に高校時代告白していて、そして振られていたという事。そして、彩子から言われたその言葉を。あれだけ近くにいたのに、まるで知らなかった事実だった。
「私こんなチャランポランなのに?」
「それはそうだね、ホント。」
「……否定はしてくれないんだ。」
「まあ、介抱してるの俺だしね?」
 リョータの言っている言葉の意味は流石に分かるけれど、どうして彼が私をそう思っているのかは思い当たる節がない。高校時代からずっと世話を焼いてもらいすぎて、それが当たり前になっていたのかもしれない。それがただの当たり前と享受してはいけない、特別だったのだと今になって気づいたのだから。
「私多分これからも泥酔して迷惑かけるよ?」
「……善処するつもりはないの?」
「出来たらしてるし。」
 自分の出来る範囲で人に迷惑をかけないように生きているつもりなのに、特定の人物だけに白羽の矢が立つ。それは私が心の底から頼れる相手が、ただ一人だと証明しているのかもしれない。
「寧ろそれは俺の特権でしょ?」
「特権?」
にとってはそうじゃなくても、俺にとってはそうなんだって!……絶対に他の奴には譲りたくないし、俺以外にして欲しくもない。」
 言葉と、状況と、自分の感情と。全てがぐるぐると回って、交わることはない。辛うじて同じ日本で暮らしている日本人なのでリョータの言っている言葉の意味は理解できる。けれど、その言葉の一つ一つを咀嚼することはまだ出来ない。全てが想像できないスピードで、私だけに向けられて滑り込んでくるのだから。
「呼び出されたら何時でも飛んでいくし、どこに居たって迎えに行くし、俺がそうしたいって思ってんだよ。」
 いつからそんな事を想ってくれていたのだろうか。少なくとも私はその予兆すら感じることはなかった。嫌いじゃないからいつもこうして付き合ってくれているのだろうとは思っていたけれど、まさかそんな特別な感情が───私と同じ感情を抱いているなんて知らなかった。
「なんかこんな必死な感じのリョータ初めて見た。」
「必死にもなるだろ。」
「ん?」
「既読無視される事が増えて、電話も出なかったら全部終わったと思うでしょ?てかマジで終わったと思ったし……」
 このまま曖昧なまま疎遠になって、終わらせようと思ったのは事実だ。そうしようと思っていた癖に、相手にそう伝わっていたのかと改めて思い知らされて罪悪感に苛まれそうになる。
「絶対終わらせたくなんてないし、これからちゃんと始めたいって思ってる。」
 リョータへの自分の気持ちを自覚してからずっと辛かった。それが叶わない想いだと思っていたのもきっとある。でも、もう一方で別の大きな理由もあったのだろうと思う。
 リョータとの関係性が友情ではなく、愛情に変わったのならばきっといつかそこには終わりが来る。
「俺じゃ、ダメ?」
 彼の側にいるために無意識の内に本当の感情に蓋をしていた筈なのに、自覚した瞬間から離れようとしている矛盾を理解しながらも、ずっと自分の中で引っ掛かっている事が私の手を止める。
 リョータがダメなんじゃなくて、本当はリョータじゃないとダメなのに。
「いつか終わりが来るのが怖い。」
「……どうしてそう思うの?」
「友達でいればずっとリョータと一緒にいられると思ってたから……」
 失うのが怖かった。今まで付き合ってきた時には感じた事のない感情だ。私にとって唯一で、他に変えられない存在こそがリョータだったから。それを愛や恋にしてしまった時、簡単に終わってしまうのが怖いから。
「俺さ、多分他の人よりもの事知ってると思うんだよ。どういう時に笑うのかとか、何が好きなのかとか、何が苦手とか。」
 それはリョータの言う通りでしかなくて、おそらくは両親を除いて私のことを正確に理解しているのはリョータくらいだろう。それはそれだけ私が自分の内側をリョータに曝け出しているという意味にもなる。
「全部知った上で好きだから……絶対に手放す事なんてないと思う。」
 もう断る理由がなくなって、けれど不安でいっぱいな感情と嬉しいとは言い切れないぐちゃっとした感情が押し寄せて表情の原型を多分保てていないだろう。
「その顔どんな感情だし……」
「私もよくわかんない。」
「てか俺さ、まだ一回も聞いてないんだよね。」
 いつだってポーカーフェイスで感情の見えにくいリョータが、損得感情を抜きにしてこうしてありのままを見せてくれている。それが彼にとってどれだけの覚悟がいるものなのかを分かっているからだろうか。私自身も、驚く程素直に言葉が出ていた。
「リョータがいいし、リョータじゃないと嫌……」
 自覚した上に、もう声に出してしまうと感情を止める術などないらしい。
 アルコールの力を借りないと何もできないと思っていた。そして、それに後悔もしていた。しっかりと自分の意思を示していると、きっと理解してもらえないだろうから。
「今三回目、してもいい?」
「……いいよ。」
 三回目というのは相互認識らしく、どうやら私の記憶は正しいらしい。いつだって記憶が曖昧どころか綺麗さっぱり消えている筈の私の脳みそも、然るべき時にはしっかりと機能するらしい。
 一度目も、二度目も覚えていたその感触がしっかりと私の唇の上に重なって、何度か確かめ合うように、求めるように動く。
「……嘘つき。」
「え?」
「三回目って事わかってるなら、大嘘つきじゃん。」
 痛いところを突かれて、反撃の言葉も出ない。結局の所私はあの時からずっとこの唇が欲しくて、欲しいだけでなく独占したかったのだ。だから知らないふりをしたし、アルコールの力も借りてしまった。
「何回目か分からなくすれば嘘つきじゃなくなるでしょ。」
 今度はアルコールの力を借りることなく素面で自分の意思でしっかりと伝えるように唇に想いを乗せる。四回目とか、五回目とか、そんな回数を数えていられないように何度も重ねてしまえば私の罪はきっと相殺されて、なくなるだろうから。
が好き。」
 何度目か忘れた頃、それを遮るようにリョータの紡いだ言葉が私を幸福へと導く。
 私たちの関係はきっと今後も生きている限りは“絶対”ではないだろう。それは私とリョータだけに限った事ではなく、世の中に“絶対”と確約できるものなんてないのだから。
 だからこそ今は思うのだ。この長く険しい人生を持ってして、絶対を証明してやればいいのだと。何があるかなんて分からないし、きっと何かはある。それが人生というものだろうから。
「……全然足りないし、もっと欲しい。」
「欲張り。」
 少しお喋りをする為だけに置かれたインターバルで、私たちは欲深い望みを口にするのだ。言葉にした分だけ、それを私に与えてくれるリョータだと私が誰よりも知っているから。
「好き。」
 近すぎるからこそ言えなかったその言葉が言えた瞬間、私自身がどうしようもなく幸せな気持ちになれたのだから不思議なものだ。けれど、その不思議と幸を与えてくれたのはリョータなのだから、私は一生彼に頭が上がらない。
 思えば、今日も祝日だ。
 アンラッキーでしかない私の祝日は、ようやくこうしてアンラッキーからラッキーへと変わったのだ。スリルがあるという点においては、もしかするといつも以上の心臓への負担はあるのかもしれないけれど。
 今は取り敢えず自分の心臓に謝りながら、息を沢山吸い込んでから目的の場所へと進むしかないのだと、そう思う。