new day 2.
たったひとつの勘違い


 街を歩いていると不必要なまでに赤が目立っている。いつものコーヒーショップに足を運んでも、スーパーのお菓子売り場でも、寒さを凌ぐため一時的に駆け込んだデパートでもそれは不可避のように私の視界に纏わりつく。ちょっとしたサブリミナル効果に近い。
 ハロウィンが終わると街は一気にクリスマス一色へと変貌を遂げるように、今は世の中チョコレート戦線らしい。世間やトレンドへの関心の低い私でも気づくレベルに街全体がバレンタインに染まっている。
「───という事がありまして、」
「ふうん?」
 めっぽう女子力というものから縁遠いのであれば、標準されている女子力の高い人間に教えを乞うのが早い。彩子とは高校を卒業してからも定期的に会っている、私にとっては親しい友人の一人だ。
「リョータが喜びそうな事なんて簡単じゃない。」
「え、そう?簡単かな?」
「簡単って言い方はちょっと失礼だったけど……アンタほんとに分からないの?」
 私がリョータの事を知らなすぎるのか、彩子がリョータの事を知り尽くしているのか、はたまた私の感受性が壊滅的に浅いのか。全部当てはまるような気がして気が滅入る。もう何度目になるかも忘れてしまったが、よくこんな私をリョータは好きになってくれたものだと改めて思ってしまう。
「アンタが作ったり選んだりするだけでいいのよ。」
 想像していたより何倍もシンプルで分かりやすい言葉だった。本当にたったそれだけの事で?と考えて、この間一緒に料理をした時の事を思い返す。感情をおおっぴろげにするタイプではないリョータが、普段あまり見ない顔で喜んでくれていたのは彩子の言うように、とてもシンプルな理由だったりするのだろうか。
「リョータって服とかアクセすごい拘りありそうじゃん?」
 全方位から誰が見渡しても拘りしかないリョータのファッションはとても彼に似合っていて、センスの高さを感じさせられる。特別何の拘りもない私のファッションセンスではとても太刀打ちできない。別に太刀打ちしようと思った事なんてないけれど。
「最近リョータの服装、ちょっとシンプルになったと思わない?」
「ん〜、どうだろ……でも言われてみればそうかも?」
「アンタ半年前の飲み会でシンプルな服が好きって言ったの覚えてる?」
「いいえ、まるで。」
「でしょうね。」
 多分そんな深い意味はなかっただろうし、酒の席で私の記憶がしっかりしている事の方が少ないのだから覚えている方が逆に違和感が残る。記憶にはないが、恐らく彩子の言うとおり私はそんな事を漏らしていたのだろう。
「修学旅行で鈴のついたダサいキーホルダーあげたでしょ?」
「あげたけど……ダサいって情報必要だった?」
「あのダサいキーホルダー、今もリョータの財布についてるの知ってた?」
「……知らない。」
 リョータが財布を持つたびにチャリチャリと鈴の音が鳴っていたのは何となく印象に残っていたが、まさかそれが私が適当に選んでリョータへ渡したキーホルダーとは夢にも思わないので確認する事もなく長い時が経っている。
「どうよ、これで少しは自覚した?」
「リョータが人の意見を取り入れて、物を大事にするタイプって事?」
「アンタね、」
「うそ……流石に自覚する。」
 自分が想像している以上にリョータから大切にされている事を自覚させられる。付き合う前から十分大切にされていると感じてはいたのだが、まさかここまで特別だとは思ってもみない。いつだってクールで、あまり感情を出力しないリョータだから。
「それだけ惚れてる女から何貰っても嬉しいに決まってるでしょ。」
 先日リョータにも言われた言葉が脳内を駆け巡る。私に対する優しさや面倒見の良さが、誰に対しても平等に行われている物ではないのだと。しっかりと言葉にして、私を特別だと言ってくれた事を思い出していた。
「惚れてる女……私に惚れる要素って何?」
「そんなの自分で聞きなさいよ!」
「自分ばっかり欲しがってるみたいで厚かましくない?」
「私に対しては随分と厚かましいじゃないの……」
 リョータの優しさに甘んじてばかりいてもいいのだろうか。そんな事を付き合ってからしばしば考えている。自分に向けられた好意から成されるものと認識はしつつも、私は彼と付き合う前からずっとリョータにおんぶに抱っこで、今も昔も変わらない。
「そういうのはピロートークの時にでも聞きなさいよ。」
 なぜ私を好きになったのか、どこを好きになってくれたのか。純粋に気になりながらも、まだ聞けずにいる。それ以外の事であれば何一つ包み隠さず思ったままを口にする事ができるのに、その言葉だけは銀紙に包まれたままだ。
「ピロートークがない場合はどうしたらいい?」
「は?」
「え?」
 だから聞くタイミングを逃していたのかもしれない。酷く合点がいってしっくりしてから彩子に質問をしたが、彼女の顔は短い一文字の単語と同じように驚きを表現している。
「ちょっと待って!あんまり下世話な事言いたかないけど……もしかしてまだなの?」
「そうだけど?」
「そうだけどって……もう付き合って二ヶ月経つのよね?」
「うん。」
「中高生でももっと進んでるわよ?多分……」
 会えばキスをするし、時々何かを強請るように好きと言ってくれる。そんな現状に満足していたから気づかなかったのかもしれない。確かにそれは彩子の言う通りで、私もリョータも既に成人している男と女だ。
「アンタ二ヶ月も付き合っててそういう雰囲気になったらとか考えなかったの?」
 彩子から言われて初めていろんな事への危機感が泉のように湧き出してきた。今なら掘れば体内で温泉が沸いて出るかもしれない。キスはしてくるのに、それ以上に発展していない事実は今更ながら私を混乱させる。
「……ちょうどいい機会だしこれを機に自分の気持ちしっかり伝えてみたら?」
 二月十四日、思えばリョータには一度も渡した事がなかったかもしれない。





 二月十四日を迎えてしまった。彼女のいる初めての二月十四日。アヤちゃんと晴子ちゃんからバスケ部員全員に配られた正真正銘の義理チョコをもらったくらいしかそれを貰った記憶がない。あとは妹のアンナから倍返しの期待の込められた重いやつ。
 自分が本当は誰が好きなのかを知ってから何度この日に期待と、その期待が乗っかった分だけの落胆を経験してきたのだろうか。チロルチョコですらから結局貰えたことはなかった。
 彼女から貰った唯一のものと言えば、修学旅行の時に何かの気まぐれでくれたキーホルダーだけだ。別に物乞いしてる訳じゃないけど、本当にそれだけ。そもそも一緒に修学旅行に行ってるのにお土産とかでもなく、どういう事か不思議でしかなかったけどそれ以上に嬉しかった。ものすごい不細工な面構えした見た事もないキャラクターだったけど。
『今日用事あって地元帰るんだけど、少し会える?』
 すぐに帰れる距離だからこそ、そのうち行くと滅多に神奈川に戻ってこない彼女にしては随分珍しいことだ。
 俺は少しだけ練習を早く切り上げて、一度家へと戻る。別に特別深い意味はないけど、一度シャワーを浴びてもう一回髪を乾かしながらセットしようとした時、鏡の端からニヤっと笑みを浮かべるアンナが視界に入って気が散った。
「……んだよジロジロ見んなし。」
「ついに逆チョコするんだ〜と思っただけじゃん?」
「ハ?」
 悪い顔をしながら、しっかりと俺に見えるよう鏡越しに綺麗な包装紙に包まれたそれが映り込んでいる。家に帰ったら誰もいない様子だったので冷蔵庫から出してテーブルの上に財布と一緒に置いてたけど……完全にミスった。
「今年は気合い入ってるね〜リョーちゃん?」
「おい、返せよ馬鹿!」
「馬鹿とか言ったら大事な事教えてあげないけどいーの?」
「あ?」
 まだ乾き切らずセットの終わっていない状態の俺をぐいぐいと引っ張って連れてこられたのはリビングだ。大昔、まだ幼かった頃誕生日ケーキを用意されている居間に引っ張られた時のようなアンナの様子が何だか妙な感じがしてリビングの先に視線をやると、思いもよらない人物をキャッチした。
「は!??」
 想定外の出来事に全然平気なふりを決め込めないでいる。心臓がバクバクするどころか心臓飛び出てきそうなんだけど、一体これどういう状態?
「何回か電話したんだけど出ないし、今日家に誰も居ないって聞いてたから直接来たら妹さんが出てくれて、」
 母ちゃんは今日夜勤で明日の朝まで帰ってこないし、アンナは大学の講義の後予定あるって聞いてたから誰も家に居ない確認はしてたけどまさか彼女が直接訪問してくるかもしれないイレギュラーな選択肢は考えてなかった。
「ヒュ〜!」
「茶化すなって!てかお前元々用事あるって言ってただろ!」
「休講なったから一回帰ってきたんだって。」
「帰ってくんな!」
「え〜、自分の家なのに酷くない?」
 物凄い理不尽なキレ方してるのは少し冷静になって自覚したけど、全てにおいて間が悪すぎる。シャワー浴びてる間にアンナが帰ってきていて、その間にが訪問している。俺はと言えば髪もセットできていない状態で、何の準備もなくこの余裕のなさをに全て見られてしまっているという状況だ。
「勝手に来ちゃって迷惑だったよね……ごめんね?」
 しかも彼女に完全に気使わせてるし……最悪だ。いや、わざわざ家まで会いに来てくれたのはめちゃくちゃ嬉しいけど、色々感情が整って無さすぎて困る。いつもと会う前は、冷静な自分を装えるように目一杯平気なふりが出来るよう準備してたから。
「(どっちの意味でも勘違いされないようにコレ、見せてないから)」
 俺のふくらはぎにコンと軽く蹴りを入れてきたアンナはそう言って、テーブルの上に置いてあった筈のそれをこっそりと俺に手渡した。こういう所、自分の身内ながらも気が利いて、ちょっとばかりあざといと思う。
「(お礼はスイーツビュッフェでいいから)」
「………」
 しっかりと功績を残しているからこそ断ることができない絶妙なラインでの交渉術。もしかしてこいつは魔性の女なのかもしれない。心強いのかそうじゃないのか、中々判断しづらいところだ。
さん来てくれたのに茶菓子の一つもなくてごめんね?私テラスモールで買ってくるからゆっくりしてて?」
 そう言ってアンナは再び俺の正面に立って、ハイと右手を裏返しにして差し出している。親切ぶってるだけでやってる事はほとんどカツアゲに近い。一体今日だけでいくら実の兄から回収しようとしているのだろうか。背に腹は変えられないので、財布に入っていた千円札を二枚渡した。
「テラモの往復三十分はかかるからゆっくりしててね!」
 三十分の猶予は与えたからな、という二千円の対価となり得る時間をしっかりと言葉にしてアンナがガチャンと音を立てて家を出た。取り敢えず不測の事態に備えて、チェーンロックをかけておく。
「ごめん、多分というか絶対来ない方が良かったよね?」
「……いや、別に…そんな事ないし。」
「そ、そう?」
 何だか妙に気まずい。結果的に逆チョコなるものを用意して、背中に手を回したままタイミングを見計らっている気まずさと、自分の家に彼女がいるという大きな違和感。全てがいつもと違うような気がして、表現し難い感情に苛まれる。
「リョータうちに泊まっても頑なに髪のセット取らないから久しぶりにこの感じ見たな。」
「……変でしょ?」
「いつもの感じも好きだけど、この感じも柔らかくて好きだよ?」
 こうして俺の事を当たり前に、とても自然に受け入れてくれるところ。絶対に否定せずに俺を肯定してくれるところ。それでいながら、しっかりと自分の意見や芯を持っているところ。とんでもなく危機管理能力は低いし、俺の寿命をすり減らすような事をする彼女だけど、それを帳消しどころかプラスにしてしまうくらいにありのままの俺をしっかり見てくれるところ。
「コレ……貰って。」
 自分の悩みなんてちっぽけなような気がして、彼女の言葉が俺を素直なままの感情に戻してくれる。背中に張り付かせていたその包み紙を彼女に渡すと、何で?と聞かれるよりも前に包装紙を開けているの姿が見えた。
「これ私が前食べたいって思ってたやつ!……知ってたの?」
 ずっと余裕のある男に見られたかった。そうしないと、彼女が俺を選ぶことなんて永遠にないと思っていたから。誰よりも一番近くにいたのは俺で、けれど誰より一番近くにいてもに選ばれなかった俺だったから。
「知ってるに決まってる。」
「そうだったんだ?」
「……何年もの事見てきたから全部知ってる。」
 普段の俺なら絶対に言えない言葉。こうしたらどう思われるかとか、これを言ったらどう受け取られるかとか、自分が言動に移す前にその結果を予測して自分の行動を制限してしまう。意識的にしている訳ではなくて、潜在的に無意識のうちに働く自己防衛本能。
「リョータって昔から私の近くにいてくれたのにどこか本心が見えなくて、もっと思った事を言ってくれたらいいのにって思ってたから、」
 またこうして俺を受け入れてくれる。それが格好付けたい俺であっても、今みたいに全てを曝け出して少しみっともない俺でも、どんな俺でも絶対に否定する事なく笑っていてくれる。俺が一番欲しかったものを全て持っているのが多分、彼女だった。
「少しだけリョータの本音が聞けた気がしてちょっと嬉しい。」
 我が家の食卓で椅子の縁に手をかけながら立っている彼女の隣の椅子を引いて、俺は腰を下ろす。ストンと重力に逆らう事なく座り込んで、そのまま彼女の腰に目一杯腕を回した。俺の中にある余裕のある男であれば絶対にしないような、そんな余裕のない本来の俺が顔を覗かせているのかもしれない。
「……俺が好き。」
「あ、ありがと?」
が思ってる以上に好きだから!」
 我ながら余裕がなくてダサいと思うのに、「そうなんだ?なら良かった」そんな声が聞こえてきて、今までずっと悩んだり格好付けてきたことがただの憂きだったのだと気づく。もっと俺は、俺をしっかりと見せてもいいのかもしれない。彼女になら、今まで誰にもできなかったそれが出来るのかもしれない。
「ちなみに今日は私から伝える日だよね?」
 彼女は俺から受け取ったチョコレートと一度それを比較するように気まずそうにしながらも、俺の両手の掌を引っ付けて長方形の箱をそっと置いた。
「リョータは高価な物だと気使うと思ったから、気持ちだけど食べて。」
 ピンクと茶色が山の形になっている馴染みのあるチョコレート。気を使いすぎる俺のことをしっかりと分かっているそのチョイスが何よりも嬉しい。俺が思っている以上に、ちゃんとは俺の事を見て、知ってくれているのかもしれない。
「……ちょっと無理かも。」
「え、やっぱりちゃんとしたチョコの方が良かった?」
 このシチュエーションであれば、おそらく十人中九人は理解するこの言葉。けれど彼女はその十人中の一人に該当する人だ。でもそれでいい。多分、俺はそんなところもどうしようもなく好きらしいから。
「膝から崩れ落ちそうなくらい嬉しいって意味!」
 アンナから二千円で買った短いこの幸せな時間を、しっかりと堪能しようと思った。
 今日地元に帰ってきたのがこの百数十円のチョコレートを俺に渡すためだと聞いて、だったら俺が東京まで会いに行ったのにと愚痴を言いそうになって、でも辞めた。
 もしかするとこうしてお互いの気持ちを確かめ合って、触れ合う時間は俺が都内へ出向いたほうが長かったかもしれないし、間違いなくそうだろう。でも、彼女がわざわざ俺だけの為に会いにきてくれた事実の方が何百倍も価値があって、俺を幸福にしてくれる。
「……好き。」
 きちんと言葉にしないと伝わらないような気がして、珍しく何度もそう言いながらアンナから買収した二千円分以上の三十分を堪能した。