知らぬ間に始まっていた 前略、珍しいこともあるものでまだまだ人生未知との遭遇だなと思っている今日この頃です。割と毎日そんな事を感じながら生きている気もするので、もはや珍しいは珍しくないのかもしれません。私にも分からないので、きっと誰も分からないことでしょう。 スリルの多い人生です。ポジティブな思考はとても大事だと、私の人生が身をもって教えてくれるそんな人生でもあります。 仮に、急な雨に見舞われたとしましょう。 これは私の人生ではしばしば繰り返されている事なので珍しいと表現するにはイマイチパンチが足りません。我ながら味付けが薄いと感じてしまう。ならばもっと味付けが濃くなるとどうなるのか? 答えは至ってシンプルなのです。私のアンラッキーなホリデイが幕を開けるという、ただそれだけのやはり私の日常なのです。かしこ。 小学生のお小遣いでも購入できるチョコレートを本命の恋人に手渡した成人女性とは私の事だ。気持ちはお金じゃ買えないなどとは言うが、事実としてそれを渡す為に使った片道分の電車賃の方が嵩んでいる。 決してお金がないという事でも、愛が軽いとう事でもなく、総合的な判断によって初めてリョータにチョコレートを渡したが注ぎ込んだ金額の何十倍かは喜んでもらった気がする。嬉しい気持ちが七割、あとの三割は少し気が引けている。その三割は今この瞬間の私の気持ちだ。 「……あのさ、リョータ。」 「なに。」 「この見慣れないゴッツイ車は何ですか?」 「なにって、車?」 「うん、それは分かってる。」 リョータへ渡すチョコレートを安価なものにしたのにはこういった懸念を払拭するためでもあったのだが、見事私の懸念は確信へと変わる。ぶっきら棒に見えて誰よりも気遣いの精神に溢れているリョータに、「これくらいのものだから気を遣わないでね」という意味を込めて選んだチョコレートは、結果としてその効力を発揮してくれなかったらしい。 「前ドライブいいなって言ってたじゃん?」 「言ったけどそれは話の流れというか……」 確かにドライブに行きたいという気持ちはあったし、その気持ちを漏らした事もあったような気もする。けれど、たかだか数百円のチョコレートのお礼としては釣り合いが取れていない。天秤だったら振り切れて壊れてしまう。 「え、いやだった?」 「もちろんそりゃ嬉しいけど…!」 結局のところ早い話がリョータは優しくて、相手を喜ばせる為に自分を後回しにできる人なのだろうと思う。彩子にバレンタインの相談をした時、彼女から言われた科白を思い出す。 『アンタが楽しんでたり喜んでるのがリョータにとっての幸せなんだろうし、自分を犠牲にしてまでアンタに尽くしてるのとは違うんじゃない?』 その真意をリョータに言葉で確認していない今、それが正解かどうかは分からない。 けれど、リョータと付き合って二ヶ月が経ってようやくリョータの本質的な部分に触れたのかもしれない。結局のところあくまでただの仮説でしかないが、それは私の希望的観測なのだろう。 「普通にめっちゃ嬉しい。」 「…ふうん、そ?ならよかった。」 私の家の前で待ち合わせをしたとある祝日の昼過ぎの事だ。家を出ると、そこには大家族でキャンプにでも出かけられそうなサイズ感の車とリョータの姿。車のナンバープレートを見る限りレンタカーのようなので一安心しながらも、大学生にとってのレンタカー代は負担が大きい。 平然な顔をしているリョータの顔は少し綻びていて、何かの拍子にくしゃりと崩れていきそうだ。恐らくは、こうして私が嬉しいという本心を言葉にしたのは間違いではなかったらしい。 助手席の扉を開けてわざわざエスコートしてくれたリョータに、私も流れに身を任せて席へと乗り入れる。随分と車高の高い車だ。 「ねえ、リョータ。」 「なんだよ?」 私からある程度どんな言葉が出てくるのかは想像に容易いのか、疑念の含まれた疑問符が私に跳ね返ってくる。私がこう言えばリョータがなんと言うのか、それも何となく私自身も予測がついていた。 「お金の事とか絶対に聞かないでね?」 「は、はあ……」 先手を打たれる形で阻止が入る。予想通りの言葉ではないにしても想像は大いにできる言葉だ。そしてこの言い方から推測するに、きっと結構な金額がそこに注ぎ込まれているという事だろう。部活のない時にピンポイントで単発のアルバイトしかしていないリョータにはかなり大きな出費に違いない。 「……別に借金とかしてないから。」 「そりゃあね?そうだろうけど。」 「単発のバイト増やせばいいだけだしさ。」 貯蓄していたお年玉でも使ったのだろうか。リョータはトレンドに敏感だが、私と違って自制が効くので、無駄遣いをあまりしない。だからこそなんとか月に数回やっている単発のバイト代だけでもやりくりしているようだ。 「そしたら会える日が減るね?」 不意にポロリと口をでた言葉。それは何かを意図して出た言葉というよりも寧ろ感想に近いものだったのかもしれない。高校時代のように学校に行けば毎日会える訳でもなく、約束をして会わないとリョータとは会えない。そう、直感的に私の脳が感じたのだろう。 何故だかポカンとしたリョータの顔が目の前にはあって、暫くするとみるみる余裕を失っていく。その表情を見て、この言葉が別の意味を含んでいる事に気づかされてしまう。 「……それって俺と会いたいって意味で合ってる?」 聞くまでもないのに、こうして確認を挟んでくるあたりがやっぱりリョータらしいなと思う。この二ヶ月しっかりとリョータは私の彼氏で、私はリョータの彼女だというのに。でも、そんな所は嫌いじゃない。 「え?普通に沢山会いたいけどリョータは違った?」 本心をそのまま伝えると、更に狼狽えているように見えるリョータは私がまだあまり知らないリョータだ。いつだって平常心のリョータばかりを見てきていたから、付き合う事になったあの日以来、私はどんどん新しいリョータの一面を垣間見ているような気がする。 「……めちゃくちゃ会いたいけど、」 「けど?」 「そういう不意打ち出来ればやめてくんない?」 「意図的に不意を突いた訳じゃないから難しいかも?」 思った事は口からすぐに出てしまうタイプなので恐らくは人生をやり直さない限りは完全阻止することは難しいだろう。 「心臓が足んないから勘弁してよ。」 付き合う事になったあの日、今までのリョータをど返しされたように強引なリョータも初めて見たけれど、余裕のなさそうなこんな顔も付き合ってから初めて見たリョータだ。 「……でもやっぱ嬉しいからやめなくていいかも。」 「難しい純情な感情?」 「茶化すのやめない?」 「…はい。」 助手席に座る私の手はリョータの左手にしっかりと絡み取られていて、合図のように目を瞑るとすぐに唇に最近は慣れた温もりが乗っかってきた。これはリョータの合図のようなもので、付き合って以降ずっとキスの前兆として確認できるスキンシップだ。 「ねえさ、今日どこに連れて行ってくれるの?」 「……チューした直後にムードなくない?」 「そんな事言われても……どうするのが正解か分かんないし、いく場所も気になる。」 仮にもレンタカーの中でそれ以上の事があってもよくない。倫理的な話だ。実際どうすれば正解で、どうすればリョータにはしっくり来るのだろうか。正直全く分からない。できる限り、いつだって私の要望を叶えてくれるリョータに私も恩を返したいとは思っているのだけれど。 「山。」 「海じゃなくて?」 「なんで海?」 「リョータ沖縄の人だし?」 そんな本当に他愛もない話をしている間に車は発進する。リョータが免許を持っているのは知っていたけれど、安心して乗車していられる程の優良ドライバーだとは知らなかった。別に運転が荒そうと思っていた訳でもないが、想像以上に静かで優しい運転だ。 「……俺に興味持ってくれてんの?」 「さっきチューしましたよね?」 ついさっき確認されてそれに回答した筈なのに、また同じような質問が飛んでくる。ほんの数分前にキスをした記憶をそのまま何処かに落としてきたのだろうか。だとしたら運転を任せるのはリスクが大きい。 「運転に集中できないような事言うが悪い。」 「なにが?」 「もっとチューしたくなるでしょ……普通わかんない?」 「へ?」 私までテンポが狂う。リズムが乱れる。心臓に負荷がかかる。できるだけかけたくないと思っているのに私は私の心臓をいつだって労われないでいる。 でもそれもやっぱり悪くない。いつだか酔っ払った時に言った言葉を思い出すのだ。「本心見せてるのが私ばっかりなんてずるい……」と。今まで見えなかったリョータの本心が漏れ出しているような気がしたのは、どうか思い過ごしではない事を祈りたい。 「……別にいつされても嫌じゃないし。」 「だから!今運転中って言ってるじゃん!」 そんな会話から始まったドライブは最初の五分程は微妙な空気を醸し出していたが、十分が経って見知らぬ道へと入った頃にリョータがプレイリストを流し始めた。どれも私が好きな曲や、高校時代よく一緒に聴いた私の耳に馴染む曲ばかりだ。 「起きてから飯食った?」 「出かける前に有意義に食事決めてる私の絵、想像できる?」 「ムリ。」 「でしょうね?そういう事です。」 いつからリョータは私の事を今と同じように想ってくれていたのだろうか。今でもそれが不思議に思える瞬間があるのだ。気づいた時にはリョータは私にとってとても近しい友人で、そして誰よりも一緒にいて心地のいい人だったから。でもそれは、きっとリョータの私への思いやりで作り上げられていた環境だったのだろうと今ならそう思う。 「てか食べて来られてたら無駄になるし。」 「なにが?」 「サンドイッチ。」 「もしかしてリョータ作ってくれた?」 「だって好きでしょ。」 高校時代、私が飽きる事なく食べ続けていたサンドイッチをきっと覚えていたのだろう。「ん」そう言ってリョータが指差した後方には小さな保冷バックが鎮座している。少し体を捻ってから手を伸ばして取り上げてチャックを開いてみる。卵がぎっしりと詰まっている卵サンドがいくつか顔を覗かせていた。 「リョータさ、」 「なんだよ。」 今日は山でピクニックという事なんだろう。絵に描いたような素敵なデートだ。少し違うのは、役割の部分なのかもしれない。今一度考えてみて欲しい。 「こういうのって本来私がやるべき、だよね?」 尽くしてもらっていると、そう思う。安価なチョコレートをバレンタインに贈った見返りがこれなのだから。私が漏らした些細な希望のドライブを叶えてくれただけでなく、私の好きな曲ばかりが入っているプレイリストに、私の好物までリョータが手作りしているこの状況を尽くされるという言葉で以外、私は表現の仕方を知らない。 「出来る方がやればいいし、別に俺がやりたくってやったし?」 先ほどとは打って変わって、リョータの表情には幾分も余裕がある。寧ろ余裕がないのは珍しくも私の方だ。そのリョータの余裕には、きっと長年の経験が宿っているのだろう。私にはない経験だ。高校生の頃から、リョータは私が心地のいい環境をきっと作り上げてくれていたから。 「ほんとに私の事好きじゃん?」 「さっきチューしたんじゃなかったっけ?」 つい数分前の私の言葉がリョータの口から紡がれる。ちょっとした皮肉も含まれているのだろうけれど、不意に私の右手にリョータの左手が絡んだ。 「分かってないんならもう一回しとく?」 「運転中!」 保冷バックからリョータの作ってくれた卵サンドを慌てて取り出して、彼の口にそのまま突っ込んだ。やや熱を孕んだリョータの視線はムスっと眉でその感情を表現している。誤魔化すように私も一つ取り出して、はむっと齧り付く。甘くて優しい卵サンドの味が口いっぱいに広がっていた。 私がサンドイッチを一つ平らげる頃には周りの景色も緑が目立ち始め、改めて遠出しているのだと自覚させられる。リョータとの付き合いは長いが、こうして遠方まで出向くのは初めての事だった。 初めての遠出には相応しい程のかんかん照りの中、車はどんどんと進んでいく。 |