足りない言葉 / 前編 雨女、という言葉を年に数回耳にする事があるがそれは恐らく高確率で私の事だ。国によっては女神と称えられる事もあるかもしれない。その国が日本ではない事だけは分かっている。雨が降ると大抵同伴者にジトっとした目で見られるが、私も呼びたくて呼び寄せている訳ではない。 「早く!」 車を降りて少し先にある広場でちょうどサンドイッチに口を付けた辺りで、頭上に雨粒が掠れた。雨か?と両手を広げて確認する仕草を取ると、まるで雨乞いをしたとでも言わんばかりの大粒の雨がびちびちと攻撃を仕掛けてくる。 「待って!そんな早く走れない!」 荷物を持ったリョータは私の手を引いて遠くに見えている車へと急ぐが、リョータのスピードに合わせて走れる筈もなく、足を取られそうになる。家を出る前のテレビでにっこりと満面の笑みを浮かべたお日様マークが終日照らされていた天気予報は一体何だったのか。もはや天気予報は信じちゃいないけれど。 「これ被ってて!」 「でもそれじゃあリョータが……」 「いいから早く!」 リョータの厚手のコートで私の視界は薄暗くなり、パタパタとコートを弾く雨の音が耳に劈く。再び私の手を取ったリョータに先導されて私たちは大雨の中を走り抜け、急ぐように車に乗り入れた。 「大丈夫?」 「え、あ……うん、」 「寒いよね?ああ、もう早くエアコン付けって!」 車に入っても然程気温は変わらず、とても寒くて体が小刻みに震える。服は幾分か濡れてしまっているけれど滴るほどではない私はなんとか凌げるほどの寒さだ。大丈夫と言おうとした私の言葉を遮るように、リョータが言葉を紡いだ。 カチャカチャと色々弄ったところで早くエアコンが効く訳ではない事くらいリョータも分かっている筈なのに、まるで余裕のない慌てぶりだ。 「タオル使ってないやつだからこれで拭いて!」 後ろの席に置いてあったリョータの鞄からはミニサイズのタオルが出てきて、私へと手渡される。私なんかよりもリョータの方がよっぽど雨に濡れていて、ご自慢のヘアセットもすっかり崩れてしまっている。 「早く拭いてって、風邪ひいちゃうだろ?」 ぼけっとしている私に痺れを切らせたのか、リョータはタオルを広げてわしゃわしゃと私の髪から水分を拭っていく。メイクの施されている部分は優しくぽんぽんと叩くようにしながら、恐らく滲んでしまっていると思われるマスカラの跡をサッと拭われた。 「リョータ、靴……」 「え?」 「泥だらけになってる。」 「ああ…そんな事今どうだっていいから。」 そう言ってリョータは私の体を回しながら他に濡れているところがないか確認する事に必死のようだった。以前、久しぶりに奮発して買ったのだと言って、このスニーカーを自慢げに見せてくれたのを思い出す。リョータにとってとても大切なものだと知っていたのだ。 「……?」 何よりも私の事を大切に想ってくれているという事が無性に伝わってきて、胸が苦しくなる。これ程自分を後回しにして、私を大切にしてくれる人は一体何人いるのだろうか。 どんな言葉でこの感情を伝えられるのか考えて、適切な言葉を見つけられずにいた。時に言葉という物をもどかしく思ってしまう。胸の中に渦巻いているこの表現しようもない温かい気持ちをそのまま言葉にして、リョータに伝えられたらいいのにと。 「……したくなったから。」 「なんで?」 「……なんでも。」 この感情を言葉にまとめ上げられる程のボキャブラリーはなく、とても近くにあったリョータの顔を両手で挟み撃ちにしてそっと唇を乗せてみた。それが一番確実にこの感情を表現できるような気がしたから。 ぎゅうっと抱きつくとリョータの冷たい体は小さく震えている。 私なんかよりもリョータが寒さに弱い事、私はよく知っていた。高校時代から毎年人よりも早く厚着になるリョータは冬が苦手だ。苦手というよりは、耐性がないのだろう。温暖な気候で育ったリョータにとってそれは馴染みのないものなのだろう。 「震えてるね。」 「震えてね〜し。」 「ぶるぶるじゃん。」 「……そういうの言わないでくれる?」 「だって本当の事だもん。」 「格好つかねえじゃん……」 昔から「寒がりだよね?」と言うと強く否定してきたリョータにとっては格好のつかない事なのかもしれない。けれど私にはそれ以上の意味が存在するのだ。 迷う事なく私に上着をかけてくれた事。濡れた衣服でとても寒かった筈なのにまず私を気遣ってくれた事。一度たりとも寒いと言わずに私の心配ばかりしているリョータが私も誰よりも一番に大切だと改めて再認識する。 「すき、」 「……うん、嬉しい。」 いつも言われてばかりのこの言葉。自分が受け取る時は素直に嬉しいと思えるのに、自分が発信側になると、たった二文字で今のこの感情がリョータに伝わるのだろうかと不安になる。 「俺も。」 ぐっとリョータの胸を押すように体から離れると、もう一度どちらからともなく唇が交わっていく。いつも会うたびにしている筈なのに、まだ慣れていないような気がしてドキドキする。 普段と違うのは、それが止まらないという点のみだ。サイドブレーキを挟んで私たちはどんどんと熱に溺れていく。ぬっと顔を覗かした舌を絡みとりながらリョータとの距離を詰めていた時の事だ。止める事のできないものが込み上げてくるようだった。 「くしゅん!」 私たちが車に避難してから五分もしない内に再び太陽が戻っていた。このまま雨が続けばいいとは思わないが、実に複雑な心境だ。車のエアコンでかろうじて暖を取ってはいるが、それでも手が悴んでいる。 「あの……リョータくん、」 移動している車の中で、私はチラリとリョータの方に視線を向ける。気まずい、とても気まずい。 「いやほんと……ごめんね?」 「わざとじゃないって分かってるし、まあなんとか生きてるから。」 危うく恋人の舌を食いちぎるところだった。取り敢えず最悪の形で殺人者にならなかった事にだけは安堵しているが、普通に気まずい。キス、それも初めてリョータとディープなキッスをしている時にくしゃみで舌を食いちぎりそうになったなんて今までそんな前例聞いた事がない。 「死んでたら洒落にならない……」 「流石に俺も成仏できる気しねえわ。」 現実にそんな事があり得るのだろうかと未だ不思議に思いながらも、リョータの舌をくしゃみの勢いと共に挟み込んでしまったのが今の私達の事実だ。そして、寒い。濡れている先から芯まで冷えているが、私がそうなのだからきっとリョータはもっと寒いだろう。 「とにかくこのままだと俺ら風邪引くしどっか適当なとこないのかよ?」 とにかく暖かい場所に一刻も早く一時避難したいところではあるが、生憎山奥まで来ていた私たちは適当な喫茶店どころか一面に広がる緑色の景色をただひたすら視界に映している、という状況だ。 「リョータあそこ。」 「ん?」 「休憩の看板出てる、五十メートル先、左折!」 「お〜、マジか助かった〜。」 アクセルを踏み込んだ車は少し速度を上げて走り、次の道路を左折していく。それらしき場所がないかと、今度は速度を緩めて二人してキョロキョロしながら現れたのはピンク色をした城だ。 「歴史上にピンクのお城ってあったっけ?」 「……ねえよ。」 「そうですよね……」 私が『城』と表現したそれは立派な佇まいをしている。どちらかと言えば和ではなく、洋の方だ。どちらかと言わずとも完全なる洋であり、それは城と言うよりはキャッスルというのが正解だろう。昭和の匂いが漂ってきそうな、旧時代的な建物だ。 「……確かに休憩、ではあるね?」 「…………」 車を中へと招き入れる駐車場は謎のヒラヒラとしたカーテンが揺れているものだが、例外なく私たちの前にはそれが揺れている。正真正銘、その城が何かを理解させようとしていた。リョータは黙りを決め込んでいる。 「喫茶店よりもあったまれそうじゃんね?」 「……どういう意味?」 「いやいや普通に部屋の温度とかお風呂の話でしょ?」 「……ふうん。」 私とリョータは歴とした恋人同士なのに、どうしてこうも可笑しな雰囲気になっているのだろうか。それに何だか私が強引にホテルに連れ込もうとしている感じの会話になっていないだろうか?完全なる誤解だ。 「じゃあいいの?入って。」 「う、うん……てかそれ以外に選択肢ないじゃん?」 このまま帰れば都内に着く頃には二人して風邪を引いているに違いない。雨に濡れて張り付いた髪も凍てつくように冷たくて、濡れた衣類はベッタリと引っ付いて気持ちが悪く体の暖をどんどんと奪っていく。 「……が言ったんだからね?」 リョータはそう言ってアクセルを踏んで、ハンドルを左に切った。 古い埃の匂いとどことなく煙草の匂いがする古いラブホテルは異世界に来たような気持ちにさせて、少しばかりはしゃいでしまう。 丁寧に置いてあったバスローブを一着手にとって、私は脱衣所で着替えを済ませる。そこには数々のアメニティーが置いてあって、無駄に開けて確認してみたくなるのが人の心理というものだ。ヘアクリップで濡れた髪をまとめ上げる。 着替え終わると風呂場のドアを横に開いて、カラフルなタイルの貼られた四角い風呂場が視界に入る。お湯が溜まるまでは随分時間のかかりそうな大きな浴槽で、温まるには暫くかかりそうだ。 「リョータお風呂すっごい大きかったよ。」 「そっか。」 何だかそっけないような気がして、ベッドの縁に腰掛けているリョータの近くまで近づいてみる。リョータ、と名前を呼んでもいつものようにこちらを向く事もない。 「さっむ〜。」 濡れた服を脱いでバスローブに着替えても、一度芯まで冷え切っていた体は早々温まるはずもなくピトっとリョータの肩に顔を乗せて体を寄せた。バスローブ越しに感じたリョータの肌もまだ温まり切っておらず、ひんやりと冷たい。 「はさ、」 「ん?」 「俺がちゃんと男だって、分かってる?」 「え?うん。」 突然何を言いはじめるのだろうか。今日のリョータは分かりきっている事を何度も確認するように尋ねてくる。その言葉の意図を図りかねていた時、ようやくリョータの遠慮がちな視線と目が合った。 「……前に言ったよね?俺の好きってそういうことしたい方の好きだって。」 付き合う事になったあの日の夜、リョータから好きだと伝えられたその意味を異性としてのものと認識していなかった私に対してリョータがそう言ったのを思い出したのだ。元はと言えば、私が場を凌ぐために言った言葉が発端ではあるがそれを引用された形だった。 「ホテル来て平気でいられる程紳士でもないし、人間出来てないから。」 一度は合った筈のリョータの視線は再び別の方向へと流されていく。付き合って二ヶ月以上が経過して、少し不思議に思うことがあった。会う度にキスもするし、家に泊まる事もあるのに不思議とそれ以上先に進まなかったという事実。その事をリョータはどう思っていたのだろうか、ずっと気になっていた。 「あってるよ、リョータ。」 「…は?」 「私の「好き」もリョータと同じ。」 逆にその言葉を聞いて少しばかり安堵している自分がいる事に気づく。その感情が自分だけの一方的なものではないと知れたのだから。キスから先に進展しないのは、リョータの思いやりと優しさなのだとこの瞬間確信を持つ事が出来た。 「リョータが私の事すごく大切に思ってくれてるのも分かるし、実際大事にされてると思う。でももっとリョータを近くに感じたいと思う時くらい私にだってあるよ。」 嘘偽りのない気持ちを言葉にして少しだけ胸の支えが取れたような気がする。私はいつもリョータから色んなものを貰ってばかりだ。だからこそ、そんなリョータにはしっかりと自分の今の本心を伝えておきたいとそう思った。 早く入れるようにと目一杯蛇口を捻ってきたせいか、湯が溜まる音が少しだけ静かになる。もしかすると溢れているのかもしれない。確認するようにベッドから立ち上がって足を進めようとしたその時、ふいにリョータによって腕を引かれる。 「そういう事はもっと早く言ってよ……」 地面が回転したように、私の視界には天井とリョータの顔が映し出されている。強い力でリョータに縫い付けられている手首はしっかりと固定されて、私を完全に捉えている。 「……そんな積極的にならないとダメなの?」 子どもじゃないので、この先の展開を私は知っている。ようやくその時が来たのだと、そう思った。仲の良い友人だったリョータが、本当の意味で自分の恋人になったのだと。 「……なら今度から俺が積極的になっても文句言わせないから。」 静かに、リョータの視線が私を捉えていた。 |