ざく、ざく、ざく。
 今年の冬は、例年に見ないほどに寒く、よく雪を降らせる。寝つきが悪く、冷えるなと窓の外を見てみれば、そこには一面に広がる銀世界があった。一切の色を纏わず、何にも染まらないその純白を視界に映して思ったのは、少し先の自分の未来。
がこんな時間に起きてるから雪降ってるのか。」
「めっちゃ感じ悪いね。」
 夜勤明けの迅に連れ出された私は、散歩という名目を得て雪の道を歩く。水気を含んでいない雪はふわっと柔らかく、私たちの足を簡単に沈めていく。誰の足跡もついていない新雪に足跡をつけていくのは、存外大人になっても楽しいものだと気づく。大人気なく、足跡をつけて、上からその雪を足で固めた。
「なに、結構ご機嫌な感じ?」
「雪ってテンション上がるじゃん。迅さんは違うの?」
「いや、普通に上がるよね。やっぱ。」
 迅には、私の事など手にとるようにわかるのだろう。こうして一緒に雪道を歩く未来でさえ、迅には見えていた未来だ。まだ未熟で、とにかく強くなりたいと思っていた頃は、彼のサイドエフェクトを羨ましく思う事もあった。その能力がある分強くて、そして苦悩があるだなんて当時の私は考えもしなかった。私には見えない未来が見えている迅の苦悩なんて、私には想像する事は出来ても理解する事は出来ない。
 彼のサイドエフェエクトに、私は幾度となく助けられてきた。少なくとも私がそう認識しているだけで何度もあるのだから、私が認識していない間もきっと何度も助けられてきたのだろう。いくつにも分岐して見えるその未来は私たちにとっては示しになっても、迅にとってはきっと違う。見たくもないものを見せられて、そして時に非情な行動を強いられる。その辛さが如何程のものなのか、やっぱり私は想像は出来ても理解はできない。
「千佳ちゃんが人を撃てない事を、私はどこか理解できなかったんだよね。」
 自らの意思でボーダーに入っておきながら人が撃てないという彼女の存在は、私にとって疑問でしかなかった。ならば何故、ボーダーに入ったのかと。責め立てることまではしないけれど、心のどこかで撃たない事に対して不満を持っていたのだと思う。
「でも、今はわかる。きっとこういうリスクを事前に理解してたんだ。」
 今の私は、愚かでしかない。私は彼女と違って、そういったリスクを事前に理解できていなかったという事だ。それは少しの差に見えて、雲泥の差がある。私も彼女のように、しっかりと自分を理解した上でリスクを想定していれば、こうはなっていなかったのかもしれない。
「なに、突然。随分話が飛躍するね。」
 今の私は、ボーダーではまるで価値がないお荷物でしかない。私は、人を撃てなくなった。
 幾度となく近界民を殺してきたけれど、人を殺したのは、はじめてだった。近界民を撃つことにはなんの躊躇いもなかった筈なのに、それが人だと認識した瞬間、今まで張り詰めていた糸がぷつりと切れてしまったように、私は自我を保つ事ができなくなった。今まで近界民を数え切れないほど葬ってきたのに、人を殺したという事実は私の中で想像以上に生々しく、そして戦意を喪失させた。
「私ね、今ちょっと迅さんの事呪ってる。」
「人に感謝される事はあっても、呪われるような事をした覚えないんだけど。」
「嘘つき、なんで呪われるかすら知ってるくせに。」
 こうなる私の未来なんて、割と濃く見えていたはずだ。それを回避させる術は、きっとあったのだろう。私以外の人間に、近界民を殺させるように仕向けることも出来なくはなかっただろうし、私を戦闘からあえて外す事もできたはずだ。それに私が了承をするかと言えば、少しの疑念が残るものの、絶対的な効力がある迅のサイドエフェクトを前に、きっと私は反抗しつつもその指示に従っただろう。
「なんで、私を止めてくれなかった?」
 いつだって私の事を考えて、その度に私を止めてくれた迅が、どうしてこんな私を作り上げたのだろうか。あの日以来、私は人を撃てなくなった。それがボーダーで何を意味しているかは、分かっている。千佳のように撃てずともボーダーにとって価値ある人間もいるけれど、私にその価値はない。撃てないというレッテルを差し引いた時、私に残るものは何もなかった。
「迅さんの言う事は結構聞いてきたと思うんだけどな。」
「そうか?は、小南くらい聞き分けないぞ。」
 私の仕事は、もうボーダーにはない。オペレーターに転属しようと思えばできなくもないけれど、戦意を失っている私にとって、その任は相応しくない。あれほど好戦的で、第一線にいた自分が?と問いかけて笑ってしまうくらい、私はもう何もできない。
「でも、呪われても当然かもしれない。あの時、俺がそう仕向けたから。」
 やっぱり彼のサイドエフェクトは正確で、そして時に残酷だ。それを言葉にせずとも、私にも彼の思考など分かっているのに、私はあえてそれを言わせてしまう。あの時、私をあの任に当てがうのが、被害や諸々の事を考えて最善だったに違いない。第二次大規模侵攻の時に千佳を守ることではなく、最小限の被害に止める事を優先した彼であれば、やっぱりこの判断をしたのだろうと、そう思う。
「そうだよ。」
「でも、俺はこれでよかったと思ってる。」
 近い未来、私はボーダーを辞めることになるだろう。林道支部長であれば、私にそれなりの任を与えて、ボーダー内に残る理由を作ってくれるかもしれない。けれど、それは余計に自分を苦しめるだけと分かっているから、彼がそう提案してくる前に、私はしっかりと答えを出そうと決めていた。
「迅さんの知らない、になっても?」
 ボーダーを辞めれば、きっと私は今の私ではなくなる。何のお咎めなしにボーダーを辞められるほど、無知ではない。玉狛支部が本部だった頃からのメンバーである私を、今の幹部勢がそのまま手放しに辞めさせてくれるはずはないだろう。迅ほどではないにしても、私は色々と知りすぎている。自分がボーダーを辞めるという未来など考えた事がなかったのだから、そんなリスクも想定していなかった。
「良し悪しで言えば、よくはないな。普通に寂しい。」
 こんな未来を事前に理解していたはずの迅が、何故この未来を私に歩ませたのかが私にはわからなかった。どうして、止めてくれなかったのだと。その任に私が適任だったにせよ、もっと他に方法があったのではないかと思わずにはいられないのだ。色んなパターンの未来が見えている迅には、私がこうならない未来もきっと見えていたはずだろうから。
「でも、そうすればもうが苦しんだり、傷つく事もないと思ったんだ。」
 何となく、迅からこんな言葉が紡がれることも想像はしていた。サイドエフェクトなんて大層な能力は持っていないけれど、この男がどれだけ他人を思いやり、そして優しいかなんて、いやでも知っている。ボーダーとしての責務を果たしながらも、日々悩んでいた私を、彼は知っていたのだろう。だから、見えていたにも関わらず、あえてこの未来を阻止しなかったのだろうと思う。
は正義感強いから。だから、普通の人間に戻った方がいい。」
「私がそれを望んでいないと、知っていても?」
「まあ言ってしまうと、多分これは俺のエゴだ。」
 頭では、迅のその言葉が正論で、もしかすると私にとっての正しい結論なのかもしれないと理解しながらも、私に残ったのは、玉狛支部に残りたいという明確な意思だった。私にとって、玉狛は家族に近い。幼い頃からボーダーに属して、迅や小南と共に過ごしてきたこの場所を、私は失いたくなかった。自分がボーダー隊員として戦うことよりも、私にはこの環境が何よりも大事で、一番失いたくないものだった。
「私から一番大事な物を奪った迅さんは、罪な男だ。」
「はは、俺罪作りな男だから。」
「全然、笑い事じゃないんだけどな。」
 自分の心の負荷考えれば、彼がしたことは、きっと正しい。けれど、私にとって一番大切なものを奪った彼は、やっぱり罪深い。彼と一緒に生きてきたこの環境を、私は彼に奪われた。私がここに居たいと、居続けたいとそう願った理由になった男に、私はその場所を奪われたのだ。
「迅さんに、未来変えて欲しかったなぁ。」
「俺は見えるだけで、未来を変えられる訳じゃない。」
「それでも、私が辞めない環境は作れたじゃん。」
「そうかもしれないけど、別に未来はこれからでも変えられる。」
「すべて、忘れるのに?」
 多分、数日後には、私はボーダーを辞めて全ての記憶を忘れるだろう。十二の時からいた、私の人生の大半を占めるボーダーでの記憶を全て失って、私は新しい私になる。そうなった時、私に残るものは果たしてあるのだろうかと、少し先の自分を私は案じてしまう。それくらいに、私の記憶の大半はボーダー内で起きたことだ。この男にうっすらと色づいた感情を抱いていた、その感情すら、私は忘れるのだろう。
「また作り上げればいい。俺はそのつもりだけど、は違うのか?」
 やっぱり、記憶を失うことは怖い。誰だってそうだろう。六年分の記憶を失うことは、恐ろしいし、忘れたくない。この男にいつまで経ってもあらゆる面で敵わなかったという悔しい記憶ですら、今となっては愛おしい。私が何を求めているかを熟知しながらも、一歩手前で踏みとどまる迅を、私はいつだって待っていた。けれど、今回のことで、逆によく分かったことが一つだけあった。
「どうかな。全て忘れた私が、迅さんを相手にするかなんて分からない。」
「いや、は絶対に俺を相手にするよ。」
「“俺のサイドエフェクトがそう言ってる“っていう決め台詞は、やめてよね。」
「わあ、手厳しいなぁ。」
 未来が見えるからこそ、迅は迂闊に、簡単に自分が思ったことを言えないのだろうと思う。彼の言葉には、いちいち意味を持ってしまうからだ。だから、私が求めていた言葉をわかりながらも、迅は最後までそれを言わなかったのだろう。
 彼の形として見えない優しさに、悔しさまで感じてしまう。あまりに私を理解している彼からのその優しさは、嬉しさを超えて、やっぱり憎い。私を知りすぎているが故に、その優しさが本当に憎たらしい。彼のエゴが、何より私を思いやっていて、そして温かい。
「もう高校も卒業だし、恋に勤しもうかな。」
「いのち短し、恋せよ乙女。」
「やめて縁起でもない。私の人生まだまだこれから。」
    ざく、ざく、ざく。
 私たちは、玉狛支部に続く白い道を歩いていく。恐怖は、まだ拭えない。けれど、私はこの雪のように真っ白に、純白に戻るのだ。血で汚れた、見なくてよかった世界を忘れて、綺麗な世界を歩んでいくのかもしれない。それでも、私はここに残りたかった。このどうしようもなく辛い自分の現状を踏まえても、ここに居たかった。
「また私を見つけてくれなかったら、一生呪い続けるからね。」
「そりゃ大変だ。呪い殺されないようにしないと。」
 初めて繋いだ彼の手のひらは、忘れたくないと思わせるほどに、どうしようもなく暖かい。私の不安を全て多い隠すような、大きな手のひらだった。忘れるという恐怖と同時に手に入れたのは、私が求め続けた彼からの答えで、私にとっての幸せだったのかもしれない。
「俺のエゴに、俺は後悔するかもな。」
 その言葉だけでも、私がここに居た六年に、価値があったのだろう。

失った明日へ
( 2022’02’21 )
BGM - Only Human