きっと私がこう言えば彼は驚くだろうと思った。

 奇妙な繋がりで私と幽助は巡り合った。幽助に比べると幾分も非力ではあったけれど、私は彼が霊界探偵に任命されるまえからその任を担っていた。力関係は時が経てば経つほど先輩と後輩という関係の元に反比例していったが、それでも私がずっと彼の強大な力に怯える事無く傍にいれたのは、きっと、彼が私と同じ人間だったからと思うのだ。
「んだよ。オメーなんか絶対怒ってんだろ。」
 私はそんな幽助の言葉にもただ沈黙を繰り返した。別に怒っている訳ではなかった。ただ、自分の中に渦巻くこの感情をどう表現していいのか的確な言葉を私は知らないのだ。嫉妬とも憎悪とも妬みとも、きっと感情と名のつくもの全てが該当するような、私にとっては壮大な感情だった。
「うんともすんとも言いもしねえ。―――ってここでうんだのすんだの言ったら吹っ飛ばすからな。」
 私の唇がその言葉を模ろうとしたのと時を同じくして、幽助のこんな言葉が私に飛びかかってきた。そして私は思わず笑ってしまった。彼ならこう言うだろうなとなんとなく予測できていた自分に、そしてお決まりな言葉をお決まりのタイミングで吐きだす幽助に。
「別に。怒ってはいないよ。」
「だったら何でだんまり通してんだよ。」
「ちょっと自分の感情を整理したくて。」
「なんだそれ。」
「…さあ。私もよくわかんない。」
 幽助が霊界探偵になって、私にとっての初めての後輩が出来たのがまだつい最近の事のように思い出される。しかしそれと同時にそれは長い年月を隔ててもいた。幽助とももう随分と長い付き合いになっていた。私はその短くもあって長い年月の中で、彼に、淡い未知な感情を抱いていた。きっと自分でも自覚しえないほどに本当に微かな、微量の感情を。
 別段彼と気が合う訳ではなかった。喧嘩っ早い彼に比べて私はどちらかと言えば平和主義者であり、彼が動なら私は静の役割に違いない。私達は同じものを目指していながらも決して交わる事を知らない両極端な位置で生きてきた。私と幽助は似ても似つかない、似て非なるもの。
がそうやって黙り込む時は対外決まってんだよ。」
 幽助が半ば諦めたような乾いた笑いと同時にそんな言葉を漏らした。そうだ。私が彼との付き合いが長く、彼を知っているのと同じだけ、彼もまた私の事をよく知っているのだ。未だ嘗て考えた事もなかったけれど、彼は、私が思っている以上に私の事を知っているらしい。
「言いたい事、あんだろ?気なんざ使わねえで言ってみろよ。」
 今度はその通りすぎて私は言葉を失った。確かに自分の中に渦巻くこの感情を口にしてしまえば少しはすっきりするのかもしれない。しかしそれは私にとって少なからず大きな意味を持っていた。今までの過去が、変わってしまうような気がしていたのだ。
「幽助、私は貴方が少し羨ましかった。」
「羨ましいだあ?」
 そう言うと彼は笑った。自分の体のあちこちをじろじろと眺めてから、最早人間ではないそれを指さして「こんなもんが羨ましいかね?普通。」なんて本当に呆れたように笑いながら言っていた。私が妬んだのは彼の力ではない、彼の自由気ままな性格そのものだった。私は幽助のようになりたかったのだと、長い付き合いながらも本当に今更気が付いたのだ。
「いつでも真っ直ぐで、自制心もきかなくて、好き放題、自分の思うままを行動に移せる幽助が羨ましいんだよ。」
「……一応聞いといてやるが、馬鹿にしてる訳じゃあねえよな。」
「まさか。私はいつだって大真面目だよ。こんな馬鹿げた嘘なんてつくはずないでしょ。」
 暗黒武術会が始まって間もなく、私は幽助が自分を越えていくのを感じていた。元々私にはない素質を、幽助は持っていた。ただそれだけのはなし。彼は当然のように私を抜いて行った。別にそれを妬んだりした事は一度だってなかった。幽助が私を越えて行くのは遅かれ早かれいつか通る道であって、私自身それが自然だと考えていたからだ。
 しかし私は徐々に自分という人間に悩まされるようになっていった。元々妖怪である蔵馬や飛影はもちろん、同じ人間である桑原にさえ遠く力及ばなくなった時、私は自分を酷く人間臭いと感じた。酷く無力で、いつしか守られる立場にいた、自分に。
「私はいつも一歩手前で自制心によって自分の行動を止めてしまう。何の歯止めもなく、例えば仲間の為に全力で戦える幽助が羨ましくて、そして私には妬ましかった。」
「…それで大変な目に合うって分かってても、か?」
「それこそ本望でしょ。私はそれで死ねるんだったら別に構わない。」
 あと一歩の所で私はいつだって正気に戻ってしまう。幽助のようにはなれない。いっそ幽助のようになれないのであれば、私も彼と同様の力があればよかったのに。さすれば私はきっと、こんな感情と戦う事はなかったのに。
「…行くんでしょ?魔界に。」
 確信的な言葉を、私はいつも止めていた。聞いてしまえば、彼の口から言葉を聞いてしまえば、その真実を変える事ができなくなってしまうからだ。けれど無情にも幽助の首が縦に揺れて、優しい彼の声が私の耳の奥底で木霊した。胸が急激に疼きだしたように、熱を持った。
「まさか行って欲しくないとか言うんじゃねえだろうな。」
「言ったとしても行くくせに。」
「まあな。」
 俺の事よく分かってんじゃん。彼の冗談めいた笑みが私の心を余計に疼かしていく。微量にしかなかったあの感情が急激に肥大して、今にも爆発しそうだった。
「まあ、ただ、行かないで欲しいってせがんでくるは悪くないんじゃねえ?」
 私が霊界だとか妖怪だとかに何も関係のない何処を取っても普通極まりない一般的な女であれば、そうするのも悪くなかっただろう。そうすることだって、出来たのに。私は酷く人間臭いくせにもう普通の人間でもない、何処か宙に浮いているようにちゅうぶらりんな存在のようだった。
 もし私が幽助程の力を持っていれば、私も戦いに夢中になる事が出来ただろうに。もし私が人間ではなく妖怪であってもそうであれたのに。人間にも妖怪にもなり得ない私は一体何なのかが分からなくなった。
 幽助との力の差が開いて行く中でも、私はやはり何処か彼と近いものを感じていた。それは彼が純粋な人間であり、少し一般的ではないというだけであって、私と同じ存在であると思っていたからだ。しかしその環境が変わってしまえば、私と幽助を繋ぐ手立ては何一つなくなってしまう。彼は魔族で、私は一介の霊界探偵でしかなくなった。私と幽助は決定的に違う存在、生き物になってしまったのだ。
「…馬鹿。私、そんなに可愛い趣味はない。」
「暫く会わねえってのにほんと可愛げのねえ女だなあ、お前は。」
 初めて幽助の懐に身を寄せた。一つ年下だから、とばかり思っていた彼がいつの間にか私を越えていた。その懐から心音は響いてこなかったけれど、それを覆い隠す程にどうしようもなく暖かくて私は耐えきれず泣いてしまった。男の人に抱きしめられているというよりは、嘗て幼いころ母親に抱きしめて貰ったような妙な安心感が勝っていた。嘗て同じ匂いを感じた幽助だからこそ、そう感じたのかもしれない。
「女ってもんは甘え方の一つや二つくらい知ってるもんだろ。」
「…身勝手な偏見ね。」
「俺の周りの女は可愛げがなくていけねえ。俺が帰って来るまでにそれが改善されてなきゃぶっ飛ばすからな。」
 いつしか私は幽助の後ろ姿ばかり見ていた気がする。彼が霊界探偵になってばかりの頃は、彼が私の後ろ姿を追っていたのに。私はいつの間にか自分を越え、逞しいほどに安心感の漂う幽助の後ろ姿に見惚れていたのだ。我武者羅で、無鉄砲で、ちょっとだけ隙のある、酷く愛橋のある後ろ姿を。
 そして私はまたしてもその後ろ姿を見ている。彼を、送りだすために。
「…必ず私をぶっ飛ばしに帰ってきてね、幽助。」




 あの後ろ姿が人間界から消えて数年、私は結局甘え方の一つも覚える事無く以前と変わりない生活をしていた。霊界探偵としてそこそこに指令をこなし、そこそこに生きている。誰かの後ろ姿を追う事もなく、新しい後輩に後ろ姿を追われるのも悪い気分ではなかった。私は自分が思っている以上にこの生活を気に入っている。
 けれどふいに私の視界にあの後ろ姿が現れた。我武者羅で、無鉄砲で、ちょっとだけ隙のある、酷く愛橋のある後ろ姿だった。久しぶりに見る、どうしようもなく懐かしいその後ろ姿を確認しようとすればするほどに視界が滲んで霞んだ。
 もう時期に彼は私の顔を見るために振りかえるだろう。酷く逞しく、成長したその面持ちを、私に自慢するかのように。
 しかし私はそんな隙さえ与える事無く、いつかに見た懐かしい後ろ姿めがけて走り出した。大して得意でもない、甘えの一つでも実践してみようかとでも言いたげに。

    優しい後ろ姿が、太陽のように眩しく輝いて見える。
    あの後ろ姿が、ついに私の元へと帰って来たのだ。

後ろ姿
( 2011,05,10)