あの女はどうも俺の言う事を聞いてくれない。鬼の副長という二つ名を持つ俺にも動じるどころか牙をむけるように、何があっても意思や信念を曲げる事の出来ない女だ。実に女らしくない、酷く強い女だった。
 女の癖に、と言えば明らかに身を強張らせて睨みつけた。彼女、青葉に信念があるように俺にも揺るぎない信念があった。女は精神的にも肉体的にも男には及ばないと。女とは男に守られるものであると。太古からそれは常識的に人々の脳内に根付いている考えに違いない。
 しかし青葉は頑なにそれを認めようとしなかった。そして俺のその考えが古いと言っても見せた。柔軟な思考を持ち合わせ、並大抵ではない根性の座っている彼女だからこそ俺は青葉の強さを認めた。精神的な強さの面でのみを。所詮肉体的には何をどうした所で女が男に及ぶ事はありえない。


 青葉は試衛館にいた娘だった。道場主である近藤によって妹のように育てられ、次第に剣術へと魅了されていった彼女はいつしか自然に剣を振るうようになった。土方達と何違う事無く。
 そんな折に持ち込まれた上洛の話に他の者と同じように彼女もそれに飛びついた。もちろん最初は彼女にとって兄のような存在である近藤もやんわりとした形で断りを入れたがそれでも青葉が首を縦に振る事はなく、近藤は渋々ながらも彼女を連れて上洛する事を許可したのだった。この頃より発言力を持っていた土方であれば彼女を止める事など容易い。しかし彼は曖昧な感情のままに彼女を連れて行ってしまった。それが後に後悔に繋がるであろうと確信しながらも。
「お前は戦闘には出さない。近藤さんの小姓でもしておけばいい。」
「………それは侮辱?」
 上洛してまだ間もない頃の二人の会話。いつだって青葉には何処か甘かった土方から出た言葉に皆が息を飲んだ。しかしそれは至極妥当な言葉であり、その場にいた者の大方の希望でもあったに違いない。しかし青葉は納得しない。敵意を丸出しに土方を睨みつけた。
「私が女だから?」
「そうだ。女を戦場に連れてく事はできねえだろうが。」
「私の戦闘能力が高いのは土方さんが一番よく知ってる筈じゃなかったの?」
 一遍の曇りもない青葉の表情がその言葉を放った。
「実践ではその能力とやらは何の価値もなくなる。鍔迫り合いになれば確実に負ける。いくらお前が強かろうが性別が女であることには代わりないんだ。力無き者は戦場では必要ない。足手まといだ。」
 青葉も土方のその言葉を聞くと反論の言葉を見つけられず唇を噛みしめて黙り込んだ。彼女は賢い人間だ。土方の言った言葉の意味を一番理解しているのもまた、青葉に違いなかった。頭では理解出来てもそれを納得出来ないそんな青葉と土方の論争はその後暫く続く事となる。
 お互いに妥協という言葉を知らない二人は、結局の所正確な答えを出せずにいた。
 そんなとある日に土方は中庭の縁側で夜景色を見ている青葉を見つけると、彼自身も自然と隣に腰を降ろした。
「ねえ土方さん。」
 上洛して以来顔を合わせては言い合いばかりしていた二人にとってそれはとても穏やかな時間だった。江戸にいた昔の頃のように青葉の優しい声が土方の耳を掠めていく。ふと、懐かしさに駆られた。
「最近よく思うの。どうして私は女に生まれたんだろうって。」
 土方は特別驚く事もなく彼女の話に耳を傾ける。青葉がそう思う理由は想像に容易かった。続けるようにして「だからね、最近は総司が羨ましい。そして、妬ましいの。」そう言って悲しげに笑った。早くに両親を亡くし、内弟子として試衛館に引き取られた青葉と総司は兄弟のように育った。だからこそ自分の性に囚われない総司が羨ましいのだろう。土方は青葉がそれを言葉にする前になんとなく中りをつけていた。
「運命なんか信じちゃいねえが……お前が女に生まれてきたって事は何かの意味があるんだろ。」
「そうかなあ。私が男だったらきっと総司にも負けない剣の使い手になれたのに。」
 私を女にするなんて本当に勿体ない事するよね。そう言って青葉は再び悲しそうに笑った。土方は「そうだな。」と小さく聞こえるか聞こえないかの声で呟いた。それは気休めではなく彼の本音だ。それ程までに青葉の腕は確かなものに違いなかった。
「武士って尊敬している人に尽す生き物なんでしょう?」
 語弊はあったものの武士という本質的な考え方は自分と同じで、土方は「ああ。」そう答えた。彼は武士になりたかった。それは幼き頃からだ。しかし一度は諦めた夢でもあった。百姓という身分上というのももちろんあったが、何よりも武士となりたい確信的な理由が見当たらなかったからだ。ただ彼は出会った。自らの命をかけられると思える相手に。だから武士というものに再び憧れ、志した。
 青葉は言う。「土方さんはずるいよ。」って。土方も儀式的に言う。「何がだよ。」って。青葉の口から出るであろう言葉なんて本当に、本当に、いつだって容易に理解できるというのに。
「武士って男の人にしかなれないもの、……なんでしょ?」
 言って青葉は表情を歪ませた。自らを呪っているような、どうすることも出来ないという分かり切った現実を垣間見ているようでもあった。
「私にだっているのにね、そういう人。土方さんが近藤さんを押し上げたいと武士になったように、私にも。」
 今まで知っていながらも何処か気づいていないように、そして聞かないようにしていた青葉の言葉を土方も今日ばかりは止めようとはしなかった。思う事くらいは、自由であっていい筈だ。
「私は武士になりたい。腰に大小をつけた、武士に。」
 彼は知っていた。自分が近藤を慕うが故に武士になったように、彼女も自分と同じように慕う者の為に武士になりたいと思っていると。そしてその対象が自分である事も。だからこそ彼は青葉の申し出を聞き入れる事が出来なかった。自分の為に得る事の出来る幸せを放り出して傷を負ってしまう、その事が許せなかった。
 最初から江戸においてくれば、それだけでよかったのだ。そんな事は分かっている。今も、その当時も。しかしそれでも土方が彼女を連れてきてしまったのもまた、青葉をただの妹のような存在として見ているだけではなかったからであった。
「……諦めろ。青葉、お前は女だ。」
 上洛してから初めて見る青葉の泣き顔だった。昔はよく彼女が泣いていた事を思い出した。そんな遠い記憶の彼方で泣いている青葉の姿が浮かび、酷く大人になった青葉の泣き顔に女を感じた。彼女は立派に大人になっていた。女として見れる程に、いつの間にか、なっていた。
 泣くな。そう言って緩い力で青葉を引き寄せると一度は強がって拒絶したが、もう一度有無を言わせずに抱き寄せると今度は大人しくその泣き顔を埋めた。


 浪士組から新撰組という新しい名を授かると嘘のように忙しくなった。幕府からの正式な預かりともなれば仕事の量だって増えたし、血なまぐさい事も以前には比べられない状態だった。最近では大人しく小姓として働いていた青葉もそんな状況を嫌でも感じ取り、そして何かを動かされているようでもあった。
 隊士が一人、また一人と傷を作り、そして死んで逝く姿を目の当たりにして居ても立ってもいられなくなった青葉は少し前に逆戻りしたように土方を睨みつける。
「駄目だ。許可出来る訳ねえだろうが。」
 そしてまた、土方が青葉に向けて紡ぐ答えも、少し前のあの頃と何一つ変わらない。
「それでも今は一人でも人手が欲しい時でしょう?」
 そして状況は再び繰り返しを続ける。必死に言葉を並べる青葉にも土方の心が揺らぐ事を知らない。青葉の決心が硬い以上に、土方の決心は彼女以上に強いものであった。それは何を言った所で変わらない土方の信念でもあった。
「確かに鍔迫り合いになれば負けるかもしれない。力にだって限界がある。それでも戦い方一つで私にも活躍の場はきっとあるでしょう?私は足手まといになる程弱くない。」
 言いきって青葉は土方の返答を待つ。希望に満ちた答えを。
「……許可できない。」
 またしても青葉の言葉を土方の言葉が圧し掛かった。結局のところ、その後青葉が何度となく、そして何を言おうとしてもその希望が叶えられる事はなかった。「だったら何で私を上洛させる事にもっと反対してくれなかったの?」青葉のその言葉に土方も答える事が出来ずに。
 それから程なくして全面的な戦争が始まった。旧幕府軍が圧倒不利の状況はどうした所で覆せないものになりつつあった。戦争が始まって間もなくの事だった。
 土方から待機を命じられていた青葉の居た屯所に新政府軍の数名が押し入り、彼女は上洛してからも一日たりとも鍛錬を欠かさなかった剣を振るった。思いのほか呆気なく人を殺してしまった事に震えつつも彼女は爆音の響き渡る戦場へと繰り出した。
「土方さん!」
 土方の九死に一生に立ち会ったのは青葉で、そして犠牲になったのもまた、彼女だった。
 数日後青葉は目を覚ます。それこそまさに九死に一生だった。誰もが助からないと思った青葉はかろうじて小さく息をし、生きていた。しかし日に日に衰弱していくのは必須とでもいうかのような弱弱しい青葉の姿が残された。
「土方さん、私夜景色が見たいです。」
「駄目だ。お前俺が駄目っていうの分かってて言ってるだろ。」
 はい。今にも消え入りそうな青葉の笑顔だった。それでもやはり青葉はいつだって聞きわけの悪い女だった。駄々を捏ねる子どもに近いような、そう、試衛館に居たころのまだ幼い青葉とぴしゃりと重なりあった。
 土方の着流しを弱弱しく引き寄せる青葉に、おそらく上洛してきてから初めて、土方が青葉に折れた。「……少しだけだからな。」そう言って。彼が今回折れたのは、青葉には甘いと言われていたあの頃の青葉のように、彼女が酷く幼き童のように見えたからなのだろうか。
「……ほんと、土方さんは甘い人だなあ。鬼にならなきゃ、もっと厳しい鬼に。」
「うるせえよ。外、行きたいんじゃなかったのか?」
 コクコクと頷く青葉に土方は肩を貸してゆっくりと歩きはじめた。彼女がずっと好んでいた、中庭から見える夜景色が違わず二人の視界いっぱいに広がっていた。上洛して何かと言い争いの続いた二人が肩を並べてこの中庭で夜景色を見ていたのがまるで遠い昔のようであった。
「土方さん怒ってるでしょ?」
 青葉は罰が悪そうに、土方を見るとほのかに頬を緩ませた。
「……聞くまでもねえだろ。」
「ですよね。だと思った。」
 それでも青葉は軽い口調で言ってのけた。土方もそれ以上は怒りの言葉を紡ぐ事もない。ただあの時のように、無限へと広がる景色を共有するように見上げているだけだった。
「私、きっと土方さんじゃなかったら命なんて掛けられなかった。」
 青葉が初めて人を斬ったあの日、きっと青葉がいなければ傷を負っていたのは土方だっただろう。どれだけの剣客であろうと人数が勝れば厳しいものに違いない。青葉はそんな自分を誇らしげに、語ってみせたのだ。
「……俺は命を掛けられる程の人間じゃねえよ。」
「そんな事言わないで下さいよ。もう、掛けちゃったんだから。」
 笑えないね、なんて言いながら青葉は笑っていた。そしていつになく柔らかな、幼き頃の彼女を彷彿とさせるような、彼女の心からの笑顔で言葉が紡がれた。
「あの時、私はちゃんと武士だった?」
 土方はそんな青葉に向けて小さく返事をした。「ああ。」と。そんな土方からの答えを聞くと安心しきったように顔を綻ばす青葉の姿があった。酷く満足気であって、そんな自分を誇っているような彼女の姿に土方も笑った。「馬鹿な奴。」って。
 冬ではなかったが外は冷え込む。怪我人、それも重傷である彼女の体を冷やしてもいけないと思い、土方は部屋に戻るように言おうとしたが、やはり何処までも頑固である青葉を思い、上着を取って来ると一声かけて彼は重い腰を上げた。







 俺は部屋に戻って羽織を持ちだして再び中庭へと向かう。きっと青葉は寒がっているだろう。あいつは昔から寒がりだった。あんだけ細い体をしているなら当然だ。そのくせいつだって強がって言う事を聞いてはくれない。何事に関しても。
 でも今だったら少しは気も緩んでいるだろうから少しは言う事を聞くかもしれない。俺はそんな淡い期待と共に青葉の後ろ姿を映した。
「青葉。」
 あいつは振り返らない。意地を張っているのかそれとも本当に振り向く気力もないのか、もう一度俺が名を呼んでも青葉は振り返らなかった。
 俺は青葉の隣に再び腰を降ろして持ってきてばかりの羽織を彼女に被せた。昔はずるずると引きずるほどに大きかった俺の羽織も、今の青葉には少し大きい程度に留まっていた。それでも十二分に、それは大きいのだけれど。
 ふいに青葉の頭が俺の肩に落ちてきた。甘えろと言っても撥ね退けるような青葉にしては珍しく、甘えているような姿だった。柔らかく閉じられた目を見て、俺も目を閉じた。
「私は強くなりたい。土方さんみたいに、強くなりたい。」
 昔に青葉が言った言葉だ。俺みたいな武士になりたいと、青葉は言った。上洛してからはそんな青葉を馬鹿呼ばわりしていたが、やっぱり彼女の言い分は変わることなくいつだって俺の耳を掠めた。
「武士になんてならなくても気持ちを示す方法はいくらでもあるだろうが。」
「……女として貴方を待っていても私は一生報われない。でも仲間として、そして武士として、貴方についていけばその志だけは私の中で生きていける。私は女の幸せよりも武士としての道を取ったの。」

 だってそうしないと土方さんへの想いが報われないでしょ?あいつはそう言って笑っていた。正論すぎる青葉の言葉に俺は何一つ返す言葉もなかった。
 青葉が頑固なのは仕方のない事だがそれでも彼女は気立てのいい女だ。女として幸せに生きる道はあった筈だ。それを奪ったのは、他でもない俺に違いない。俺みたいな男に見当違いな気持ちを覚えなければ全ては未然に防げた事だった。青葉が武士になりたいなんて可笑しな事を言う事もなかっただろう。
 俺はあいつに好きと言ってやる事が出来なければ、言わせてやる事も出来なかった。それでもあいつは俺に尋ねた。自分は武士であったか?と。女としてよりも武士としての道を選ぶだなんていかにも青葉らしい。
「最後くらいもっと甘えればいいだろ?変な所で気を使うのは昔から変わらねえんだな。」
 暖を育まない左肩に圧し掛かる青葉の重しに涙が伝った。あいつは死ぬ事でしか甘えられない女なのだと。もっと甘えさせてやりたかった。最後くらい、もっと派手に甘えてくれればいいものをどうしてこの女はこんなにも控えめな甘え方しか出来ないのだろうか。

 俺はやけに静かになった青葉を強引に抱き寄せる。煩わしく思っていた、俺を拒絶する右手もお座なりにぶらさがる。素直すぎる青葉の体を痛いくらいに抱きしめてやった。最後くらい、武士としてではなく女として。
 青葉の体から俺の羽織がふわりと漂い、中庭に舞い落ちた。
 見上げた夜景色には春の満の月、青葉の命日には相応しすぎるほどの、美しい夜だった。

( 20110221 )