今日こそは、彼を捕まえることができるだろうか。
 ここ最近、彼には久しく会っていない。会おうと思えば、緊急時を除いて二週に一度定例会議に本部へとやってくる彼と会うことはできる。業務の兼ね合いもあり、最近は中々そのタイミングを狙って彼への接触を図ることができていない。そして、彼が私を待ち伏せてくれるという状況もない。
 以前は、今よりももっと彼は私の身近な人だった。もちろん上官と部下という変えがたい距離感はあったにせよ、物理的にもっと距離が近かった。私は半年前まで、玉狛支部の防衛隊員だった。大学院の卒業と同時に、私は防衛隊員をやめてボーダーに就職した。
 出来ることならばずっと防衛任務をしていたかった。辞めたいと思う理由もなければ、玉狛支部は私にとって居心地がいい。何より、彼の近くにいる事ができるのも不純ながら大きな理由の一つだったと思う。
 成人してから幾分か年数の経っている私のトリオン器官は成長を止めた。それでも戦力的に引けを感じるほど役に立たない訳でもなかったし、何より経験値がある分それなりに役には立っていた筈だろう。けれど、防衛中心の体力勝負の仕事にあと何年も従事できるかと言われたら、きっとそれは難しいだろう。大学卒業のタイミングで区切りをつけるのが、自分の心理的にも一番しっくりと腹落ちさせる事ができた。
「ボス、待って。」
 私が玉狛を離れてから半年、彼に会うのはこれで二回目だ。



 表情の読めない彼のかんばせが、久しぶりに私の方へと向けられる。ボーダー本部基地の裏側にある駐車場で、私はようやく彼を捕まえた。久しぶりだからと言って、特段彼の表情は変わらない。表情の読めないかんばせに、薄らと塗られている笑みはいつもと何も変わらない。
「本部の仕事はどうだ、もう慣れたか。」
「随分と他人行儀な挨拶ですね。」
 瓦礫に腰をかけて煙草に火をつけた彼の隣に、私も腰掛ける。本部の仕事に慣れたかどうか聞いてくれるのであれば、もっと早い段階で声をかけてくれたらいいのにと思う。小南と同じ時期にボーダーに入った私と彼の付き合いは相当に長いものなのに、私が本部へと結果的に転属する形になれば、他の隊員と同じような関係性になるものなのだろうか。
 大学院へ進んだのは、まだボーダーに就職する覚悟も辞める覚悟もなかったからだ。東のように研究したい明確な内容があって進学した訳でもなく、ただ単に自分が自由に選択できる時間を増やすための手段だった。金銭的な問題で大学進学すら出来ない人がいる中で、私のとった手段はかなり下劣だろう。それでも、私には玉狛にいたいという明確な理由だけはあった。
「声かけてくれたら部屋でコーヒーでもご馳走したのに。」
「いやいや、そんな事したら変な噂が立つよ。」
「私と一緒にいる事は、ボスにとって恥ずかしい?」
「むしろ逆だろ、お前にとってのメリットがない。」
 ボーダーを完全に辞めて一般企業へ就職する道もあった。肩書としても院卒で、かつボーダーで防衛任務をしていたという履歴書は結構ウケがいい。きちんとした学歴と、そして忍耐力のある人間と判断されるらしい。自分のスキルを考えた時に、とても分不相応な好条件や、大手企業からの誘いもあったけれど、どこにもあまり魅力を感じなかった。結局、私にはボーダーで生きていくという選択しかなかったのだと思う。
「いつになったら玉狛支部に私の役割、作ってくれるんですか。」
 今のところ、ボーダーに就職するとなれば本部での配属となるのがルールだ。支部である玉狛には、私が働けるようなポジションはない。この男の傍にいる事を望むばかりにボーダーに残る選択をした私には、結局の所玉狛を離れるという未来しかなかった。ボーダーとの関係を絶ってしまうよりは、まだ同じ組織内にいる未来の方がマシという消去法だった。
「うちは少数精鋭部隊だからね。組織が広がると、うちの良さが死ぬ。」
 正論でしかないそんな言葉を、私はどう受け止めればいいのだろうか。この誰から見てもわかりきった感情は成就しないからとやんわりと振られていると受け取るのか、それともただ事実を述べているだけなのか。そのどちらであっても、私が望む方向へは進む気がしない。
「補佐くらい置いたって邪魔にはならないでしょ。」
「俺割と器用だから。全部一人でできちゃうんだよな、これが。」
 例え玉狛支部に私が残っていたとしても、この今の現状と然程変わらないのかもしれない。事実として、長い間玉狛支部に在籍しながらも、この男と今以上の関係があった訳ではない。あのまま玉狛にいたとしても、ただ惨めで苦しい思いをしていたのかもしれない。その分、今のこの環境は私にとっては都合がいい。離れているから仕方がないと、自分を言いくるめるだけの材料を手に入れたのだから。
「ボスは優しいけど、意地悪だね。」
「別に優しかねえし意地悪って訳でもないぞ。」
「意地悪だよ。人の気持ち知って言ってるんだから。」
 長い年月の中で、私の気持ちが彼へと動いていた事など手にとるようにわかっているに違いがない。分かっているのなら、もっと私との適切な距離を守ってくれていれば良かったのに。私の気持ちを知りながらも、この男は一度だけ私の気持ちを受け入れるような素振りを見せた事があった。だから、私も引くに引けなくなったのだろうと思う。
「会えない時間が、俺の価値を引き上げてるだけだよ。それは、色恋じゃない。」
 ならば何故、一度ばかりでも私に期待を持たせたのだろうか。その意図が、何年経っても私には理解が出来ない。寝付く事ができず、基地の屋上でぼうっとしていた私に温かいココアを差し出してきた彼は、一度だけ私にキスをした。その意味を、どう捉えるべきなのか。私以外の人間であれば、それを正しく処理できるのだろうか。
「そうかもしれないけど、でも私の感情は私のものでボスのものじゃない。」
「お前も言うようになったねえ。」
「ボスが意地悪だから反論することに慣れたんだよ。」
 私があのまま玉狛に残っていれば、彼は私を飼い殺しにしてくれたのだろうか。役に立たなくなった私を、死ぬまで養ってくれたのだろうか。もしそれが事実だったとしても、私はきっと哀れだろう。飼い殺しにされるというお情けで生きていける程、私のプライドは死んでいない。彼の女には、どうしたらなれるのだろうか。
「お前が俺に何求めてるかは知らんが、今の俺には何もできないよ。」
 今の彼にはできないだけであって、いつかは出来るかもしれないと言うメッセージだと自分に都合よく受け取ることもできたけれど、私もそこまで強靭なメンタルを持ち合わせている訳ではない。彼のその言葉は、私の内臓を抉るように突き刺してくる。もう可能性はないのだと、今日ばかりははっきりと言われた気がした。
「じゃあ何もかも終わったら、私を貰ってくれるの?」
「話が飛躍したな。お前に結婚願望があるとは知らなかったよ。」
「別にしてもしなくてもいいけど、そうしないとボスとは一緒に居られないから。」
「健気だねえ。支部長って肩書きとったらただの中年のおっさんだぞ、俺。」
 彼が私を受け入れないのは、何故なのだろうか。単純に女としての魅力を感じないと言うのであればそれは致し方ない理由だ。ある程度諦めもつく。けれど、そうなるとあの出来事はいったいどう説明するのだろうか。不意に魔がさしたのか、それとも不憫な私を見かねた情だったのか、それとも、
「それに何もかもが終わったらボーダーも解体、俺は晴れておっさんニートだ。」
 お前そんな所に嫁に来るのか?とおちゃらけた様に言って見せるのはあまりに卑怯だ。私がどうやって断りやすくするのかだけを考えて、出てきた言葉だとわかるからだ。
「じゃあ私が中年のおじさん、養うよ。だからボス、」
 私のこの気持ちが一生成就しないのであれば、一体どこで供養してもらえればいいのだろうか。この男を想う事で膨れ上がった感情は、きっと他の誰にも癒せない。結局のところ、私を苦しめるこの男にしか、この苦しみは癒せないのだ。それを分かっている私は、この詰みな状況を一体どうすればいいのだろうか。
「もうお前のボスじゃないんだわ、俺。」
 彼の言うように、私は今のこの境遇に彼の価値を見出しているだけなのかもしれない。過去は美化しがちだと言うけれど、本当にその通りなのだろう。息をするくらい一瞬の出来事が、いつまでも私の中で生き続けて、そして日々美化されていく。歴史を重ねるだけ、この男との距離が離れるだけ、その思い出は美化されて、そして美しい時間へと脚色されていくのだ。
「そういうところ、本当に嫌い。」
「同感だな。」
 思ってもみないところで、美化された記憶と現実が重なる。こうして再び私に混乱を与えるこの男は、一体どんな目的で同じことを繰り返すのだろうか。今にも崩れ落ちそうな私への同情だったら、あまりにも残酷だ。
 けれど、この男によって付けられた傷は、この男にしか癒せないのだから皮肉な話だ。抉られてパックリと身を出している所を丁寧に舐め取られているようなそんなぬるい地獄で、少しだけ癒された気になった私は本当にどうしようもない人間だ。

美しい時間
( 2022'01'22 )