行った全国大会の決勝戦。そこには光り輝くほどに美しい男が居た。それまで名も、存在すらも知り得なかった私の脳内が彼の事で埋め尽くされたのは、その試合が終わってからの事だった。名を、不二周助と言うらしい。今まで一目ぼれなど、ただの迷信としか思っていなかった私も、いとも簡単にその迷信へと誘われる事になった。
 全国大会が終わると同時に、彼も部を引退してしまい、結局私が彼のテニスを見たのはあれきりになってしまった。
 あまりにも神秘的で、美しい、あの試合を忘れる事が出来ない。一目ぼれという事象は、時に人を大胆にするものであり、例の如く私もそれに乗っかったように気が付いたら大船に乗っていた。どうにかして彼に会いたいというその想いが、私を青学へと突き動かしていた。青春学園高等部の説明会という枠に、託けて。



 彼に会いたいという一心で、大して興味もない青学に来てはみたが、まさか彼に会えるなどとは自分ですら思っていなかったけれど、神様という存在は時折本領を発揮するらしい。高等部説明会の手伝いをしていたのは、私の脳内の大半を占めている、不二周助に違いなかった。
 説明の後、一人ひとりにパンフレットを配って回る彼に、結局私は何も言わずに佇んでいた。性別を越えた美しさに、私は言葉を発する事すら出来なかった。
 ただ、同時に、それでよかったのだとも思った。こちらが一方的に知っているだけで、向こうはこちらを何も知らない。言わば、芸能人とそのファンの状態に近い。そんな状態で私が行き成り声をかけてもただの変な人という印象しか残せないだろう。そうなるよりかは、彼をもう一度見る事が出来ただけでもよかったのだと、そう言い聞かせる事にした。
 説明会も終わり、教室を出ようとした時、資料をまとめている彼と、ふいに目があった。
「…君、ウチに来るのかな?」
 初めて聞く不二の声があまりにもしっくりと馴染んでいて、それが自分へ宛てられた言葉である事に、一体どれくらいの時間、私は気づいていなかったのだろうか。
「あれ、違った?」
 そこで初めて、彼が私に話しかけているのだと気づいて、辺りを見渡した。そんな挙動不審な私に、彼はくすりと小さく笑っていた。とても気品のある、笑いだった。
「普通こういうのって友達と来たりする人多いから。一人で来るなんて、よっぽど青学に来たいんだね。」
「…やっぱり一人で来るのって、可笑しいかな。」
「どうだろうねえ。可笑しいというよりは珍しいかな。僕はそういう真剣な人、嫌いじゃないけど。」
 会話をしているのが、まるで夢のようで、何処かふわふわと地につかないような気がするほどに、自分とは違う所で事が過ぎていくようだった。
「応援してるよ。頑張って。」
 幾ら単純と罵られようが、誰に何と言われようが、それでいいと思った、夏の終わり。私は、青学高等部を目指す事になった。



 あまり頭が良い方ではなかったけれど、不二と同じ学校に通えると思えば、何も苦痛はなかった。自分の学力では到底縁のなかったであろう青学に、私は執念のような意地で入学するに至った。晴れて、彼と同じ学校に通う女子高校生になった。
 結局彼と同じクラスになる事はなかったけれど、それ以前に青学に入学出来たことが私にとっては十分すぎる、一生分の幸せを使い果たしたような出来ごとに違いなかった。私は彼の彼女になりたい訳ではない。ただの片思いで、それでいいと思った。
「おめでとう。本当に入学出来たんだね。歓迎するよ。」
「不二くん。」
「あれ、もしかして僕の事知ってたのかな。」
「青学の不二くんともなれば、他校でも知ってるよ。」
「へえ。それは初耳だ。」
 思ってた以上に、普通に会話が出来た事が、何よりうれしかった。そして、たった一度会っただけの私を覚えていてくれたのが、私を、何とも言えない幸福感へと誘ってくれた。これだけで、私は青学に入学した意味があったのだと、そう思えるほどに。
 覚悟はしていたけれど、エスカレーター式の学校ともなれば、受験組は中々に友達を作りにくいものだった。それなりに悩みもしたけれど、そこまで重大な悩みにならなかったのは、きっと、不二がすれ違う度に話しかけてくれたからなのだろう。私は、不二と、俗に言う友達という関係を築く事に成功した。
「私、本当は不二くんの事、入学する前から知ってたんだ。」
 こうして、本当の事を打ち明けられるくらいに慣れてきた頃、私の中で高望みという欲望の渦が、渦巻きはじめた。人間という生き物はつくづく贅沢で、欲張りな生き物なのだなと、自分を嘲笑ってしまうような、無謀な事を。
 それがただの一目惚れではなく、そして、一時の憧れでもなく、本当に彼に対しての何かを私は自覚し始めていた。自分なんかでは到底相応しくないと理解しつつも、何処かその気を持たせるような不二の態度に、私も無謀な賭けに出ようとしていた。もしかすれば、と高望む自分の心を、解き放った。
 振られるとしても、物腰の優しい彼であれば、きっと振り方も優しいのだろうな、なんて自分勝手な事を思いながら。青学に入学して半年、時は満ちた。
「沢田さんが僕の事を好きだっていうのは、知ってたよ。」
 ベタな場所に呼び出して、最初に口を開いたのは私ではなく、彼の方だった。何処か自信に満ち溢れたような、口角のあがった笑みが、今までの彼からは想像もできない程に、刺々しく、まるで違う人のようであった。
「そんな驚いた顔しなくてもいいじゃない。だって、告白しにきたんだろう?」
「…そうだけど。」
「もしかすると付き合えるんじゃないかって思ったりした?」
 そう言って、可笑しそうに笑う不二は、私の知らない部分の顔をした彼だった。今まで彼に惹かれながらも感じていた違和感の正体が、これだったと言わんばかりの態度が、何処かしっくりときた。
「じゃあ聞くけど僕の何が好きなの?一目ぼれって、要はそれ顔って事でしょ。」
「最初はそうだったかもしれないけど、今は違うよ。」
「そんなに好きだって言うんなら、思いつくだけ言って見てほしいな。」
 何も言えなくなった私を見て、彼は得意げに「ほらね。」と言って笑った。それが悔しくもあったけれど、確かに答える事の出来ない自分が、何よりも一番理にかなっていないと思った。
「人の事大して知りもしないのによく好きとか言えるなあ。僕はそういう人間が、一番嫌いだ。」
「それでも好きだって言ったら?」
「そうだなあ。上っ面だけで人を好きになる君はそういう対象に見えないな。出直してくるしかないんじゃないかな。」
「じゃあ、出直してきたら可能性はゼロじゃないって事?」
「さあどうだろうね。そうかもしれないし、そうじゃないかもしれない。」
 その言葉を言いきって、彼は私の前から姿を消した。普通であれば、この時点で彼が憎悪の対象に変わるのだろう。騙された、酷い人、と。けれど、生憎私は普通の枠にはまる人間ではなかったようだ。それが良い事なのか、悪い事なのか、自分でも分からない。けれど、彼の全てを見て、とてもしっくりと来たのだ。全て、なんて言えばまた彼は「上っ面しか見ていないくせに。」と言うのだろうけれど。

 私は再び、恋をした。

 天使と悪魔の皮を被った、その美しき男に。


うつくしいひと
( 20120201 )