「手、荒れてんね。」
 案外、自分の手荒れなんて自分では気づかないものなのだろうか。私の手荒れも、引っ掻き傷も、リョーちゃんは必ず私よりも先に見つけてしまう。どこに行くのかと見ていれば、ベッド隣に置いてある棚の上から二番目を引っ張って、丸い缶を持ってきた。
「ぼうっとしてないで早く出して。」
「ん〜、寝たら治るよ。」
が良くても俺が良くないの。はい、貸して。」
 出会った時からリョーちゃんは私に甘い。それも過剰に。でもそれは多分、普通の甘いとは少し違う。四六時中ベタベタするという甘さではなく、私の細部までを全て丸裸にしているように、私に対して過保護なのだ。言葉数が多くない分、私への思いやりと労りは果てしない。
「リョーちゃんはいつも深爪だね。」
 私の右手を取って、青い缶からちょんと油分をとると、それを丁寧に両手で伸ばしていく。少しだけがさがさとしている瘡蓋のある親指には、塗りつけるようにゆっくりと指を動かした。風呂上がりということもあってか、程よいマッサージ感と温かさでどんどんと瞼が重くなる。
「男が爪伸ばしてたらキモいでしょ?」
「でもリョーちゃんのは短すぎ。」
「バスケ部の連中なんて多分みんなそうだし。」
「ふうん。」
 そんなもんなんだ〜、と私が言えばそういうもん!と言って、次は左手を要求される。されるがままにリョーちゃんにハンドクリームを塗ってもらっている私は、きっと間違いなく大切にされている。大切という言葉で表現出来ないほどに、とても、とても、大切に。
 それでも私は、まだ彼からのプロポーズに明確な返事が出せないでいた。
 今までも何度か予兆はあったし、それにははっきりと気づいていた。けれど、そんなジャブをなんとなく交わした末、リョーちゃんが私と結婚したい理由と、彼の逞しい心の中にも少しの不安と臆病さがある事を知った。だから、もっと好きになった。
「伸びてると相手傷つける事もあるからさ。」
「あ〜、そっか。思いがけず凶器。」
「そう。俺もそろそろ切らないとな。」
「え、それで切るの?血出ちゃうよ。」
「出ないって。」
 なんとなく、本当になんとなくだけれど、リョーちゃんはバスケをやっていなかったとしてもきっと綺麗な深爪に爪を切っていたんじゃないだろうかと、そんな事を考えた。人を傷つけることがどれだけ容易く、そしてそれを取り戻すのがいかに難しい事かを知っているから。私の壮大な妄想である可能性は全くとして否定できないものの、そんな気がした。
「はい、おわり。」
「ん〜、なんか懐かしい匂いがする。」
「そうなの?何の匂い?」
 ここ最近思うことがある。まず一つに、やっぱり私はリョーちゃんが誰よりも好きだという今更すぎる事実。そして、あまり多くを望まないリョーちゃんの口からでた結婚という二文字について。私は現状を維持できればいいけれど、リョーちゃんはそうじゃないと、そう言った。数え切れないものを貰い続けている私にとって、彼が唯一願ったそれをあえて先延ばしにする事もないのかもしれない。
 リョーちゃんがしたいんだったら、してもいいとそう思った。
 してもしなくてもよくて、してもしなくても変わらないのであればしなくてもいい私と違うリョーちゃんがたった一つそれを望むのであれば、もうそれは私の望みであるようにさえ思えるから不思議だ。けして、折れてとか仕方なくではなく、リョーちゃんの希望を叶えたい。それが、両手で抱え切れない、しかし目に見えない何かをもらった私に唯一出来ることだからだ。
「おかあさんの匂いかな〜?なんとなくだけど。」
「なんか分かるかも。石鹸の匂いとかもそうだよな。」
「そう。もう顔も思い出せないけどね、不思議だな。」
 母のことを思い出すのは何年ぶりだろうか。もういつ思い出したのかすら思い出せない程、私の記憶の中で母の姿は薄れて霞んでいた。でも、それできっとよかった。思い出すのが辛くて、私自身が勝手にそうしたのだから。
 私の母は、とても優しい人だった。と言っても、あくまで記憶の中での話だ。それも消えゆく記憶の中で。だから本当のことは分からないし、今となってはどうでもいい。母親を頼りたくなる年齢でもなくなった今、私にとって母はいらない人になった。
「香料ついたやつとかじゃなくって、こう…無香料で素朴なやつってお母さんって感じするよね。お母さんって全国共通なんだね。」
 私の母も、全国に共通するような母親だったのだろうか。   そうだったら、よかったのに。そう思ったのも多分最初の一、二年だったと思う。
 十になる頃、母は私を残して家を出た。理由が明確に分かっている訳ではないけれど、親戚や大人の顔色を見ていて何となく男と家を出たのだと理解した。まだ十の小さい子どもの癖に物分かりのいい自分を恨めしく思っていた。
 暫くは父親と一緒に生活したけれど、結局は違う男と出ていった女の子どもとしか見れなくなったのか、私は祖母の家で学生時代を過ごした。それでも引取り手があっただけ恵まれていた事は自分でも理解していたし、言葉にすることはなくとも感謝はしていた。感謝を、誰に?と言われるとその相手が誰なのかは私にも分からなかった。
、もう遅いから寝よ。」
「うん。寝よっか。」
 リョーちゃんに母のことを話した事はほとんどない。ただ、私にもう母がいないという事実を知っているだけ。詮索されたことは一度もなかったし、詮索されたくはなかった。きっと、こうしてもう寝ようと言ってくれたのは彼の優しさだ。これ以上聞かなくていいように、私が話さないといけない状態を作らないように。
「明日東京は雪だって、こっちは積もるかな?」
「どうかな。海沿いは降っても積もらないよね。」
「積もればいいのにな。」
「リョーちゃん雪好きだっけ?」
「どうかな。あんま好きじゃないと思う。」
 まだ大学生の頃、初めて付き合った年のクリスマスに雪が降った。周りがホワイトクリスマスだと騒ぎ立てる中、リョーちゃんは「やっぱ雪ってゴミみたいだよな〜」とそう言った。少なくとも雪を見てそんなネガティブな発言をしている人は初めて見たし、言われてから見上げると私にも同じように視界に映ったのを思い出す。
「じゃあなんで?」
「電車止まって会社なくなったら最高じゃん。」
「ウケる。学生じゃん、それ。」
「たまには学生に戻りたいじゃんね?」
「はは、そうなんだ〜。」
 雪がゴミという発想自体私にはない感性だったけれど、そう言えるリョーちゃんの言葉は不思議と私を安心させてくれた。全てのものが皆同じように見えている訳ではないのだと、そう証明してくれたような気がしたからだ。何が“普通”か分からないながらも“普通”に憧れた私にとって、それはとても画期的だったのかもしれない。
「早く来なよ、寒いでしょ。」
 結局のところ、私はサイレントマジョリティーを装っていただけだった。マイノリティーになるのが恐ろしかった。だから、自分が思ったことをそのまま言葉にしたリョーちゃんが私には少し羨ましかった。同時に、久しぶりに呼吸が出来たような気分にもなった。
「あれ、やっぱうそ。」
「ん、あれって?」
「学生に戻りたいってやつ。」
 私の感性や感情が人に比べやや欠損しているのは、きっと母の事と、自分自身が経験した過去が起因しているのだろう。自分の人生が上手くいくイメージが持てなかった。だから、今が一番辛いのだと考えて、それ以下になる事がないように現状維持を望むようになったのかもしれない。何故そんな思考になったかという本当の理由なんて、私にも、誰にも、分からない。
「…今がいい。今が一番幸せだ。」
 布団で私を覆い被せたリョーちゃんは、優しい眼差しで私を視界に入れてくれた。やっぱり、幸せは恐怖と表裏一体だ。幸せすぎて怖いと言えば、リョーちゃんは何が怖いのかと聞くけれど、これ程的確な言葉は多分存在しないだろうし、この一文節だけで言えば芥川賞を受賞できるような気さえした。
 ぷっくりと、少し腫れぼったいリョーちゃんの唇が優しく重なって教えてくれる。夜が来て、眠る時間が来たのだと。それは幸せすぎる日常でもあって、リョーちゃんと出会うまでは介在し得ない温かい時間だった。
「おやすみ、。」





 天気予報で散々雪が降ると言ったので、いつもより少し早く起きた。
 雪が降れば交通網が死ぬのは分かってたし、そうなった時に遅刻しないようを起こしてやろうと思っていれば自然とアラームなしで目が覚めた。布団から剥き出しになっている顔だけが、鼻の先っぽまで寒くて、息をする度に鼻筋が凍るような気がした。
 隣を見てみると、はまだ寝ているようだった。
 リビングへと移動して、カーテンを開ける。あれだけ雪が降ると言っていたのに、その先の景色はいつもと大して変わらない。確認するようにテレビを付けて音量を下げて天気予報を見ても、どうやら雪が降ったのはごく一部、それも短い時間で積もるまでは至らなかったらしい。
 人の貴重な睡眠時間を削りやがってと思う反面、もう少しを寝かせてやれる事に安堵した。子どもを育てる親でもないのに、毎度自分のことながら不思議な感情だと思う。
 家を出るまではあと一時間半もある。テレビの脇に出ている遅延情報を見る限り、電車も通常通り動いているらしい。もう一度寝ようかと考えたけど、妙に目が冴えたような気もして、少し厚着をしてボールを持って外に出ることにした。

 こうしてボールに触れる事自体、とても久しぶりという訳じゃない。数ヶ月前までは触れない日がないくらい触ってきたからか、数日触らないだけでも久しぶりに感じるもんらしい。自分にとってそれだけの価値と存在意義があったバスケから、俺は少しだけ距離を置いた。
 距離を置くことに、自分でも驚くくらいに迷いはなかった。それはいつまでもバスケに関わってられる訳じゃないと分かっていたのもあったとは思うけど、自分にとって今何が一番大切なのかを考えた時、それは簡単に俺の手を離れていった。
 バスケは自分の意思でいつでもできるけど、を繋ぎ止めておく事は俺の意思だけでは叶わない。そう考えた時、もっとの近くで、彼女を困らせないだけの稼ぎが欲しいと思った。バスケは、もう充分やったと自分の中で思えたのも大きかったのかもしれない。

 初めて雪を見たのは、高校に入ってからだった。沖縄の時に想像していた神奈川は俺のイメージとは少し違っていて、あんまり雪は降らなかった。自分の人生の中でも雪を見たのはまだ数少ないけど、その度にやっぱりゴミみたいだと思った。それを言って、笑ったり変な顔をしなかったのはだけだった。言われてみればそうだね、そう言ったのも一人だけだ。

 ソーちゃんが死んだ時、俺には後悔しかなかった。自分の言葉一つで何かが変わったとは思わないけど、言わなかったら変わった事もあったんじゃないかと思う。自責の念に囚われて、そこからは自分がソーちゃんのようになる事で、罪の意識を少しでも軽減しようとした。
 結局、俺はソーちゃんにはなれなかった。あたりまえだ。俺はソーちゃんじゃないし、誰もソーちゃんにはなれない。代わりになる事なんて物理的に無理なんだと知った。
 親父が死んだ時、自分がこの家のキャプテンになると言って、俺を副キャプテンに任命したソーちゃんの気持ちが今ならよく分かる。あれだけ気丈に振舞っていたソーちゃんが、二人だけの秘密基地で啜り泣くように声を殺して泣いていたのを思い出した。

 強がって生きていくのはかっこいいように見えて、実はかなり窮屈だ。結局俺はバスケに縋る事でソーちゃんの事とか、一歩踏み出せない自分とか、何かしらの理由を作ってた。けど、いつからかそうじゃないと思えるようになってからずっと人生が楽になった。
 迷いや不安を楽しみに変えればいいと、そう思った。そして、やっぱりそれを教えてくれたのもバスケだった。
 だからバスケを辞めるのが怖かった。怖いと思ってた。

 大学の時、大事だと思える家族以外の人が初めて出来た。
 高校の時の部活の連中だって大事だし大切だったけど、自分の手でしっかり守りたいと思えたのはが初めてだった。なんでかなんて聞かれると困るけど、最初は顔が可愛いとかそういう下心も多少はあったと思う。でも、なんとなく感性が似ているような気がしての前では飾らない自分でいる事が出来た。
 未だかつてそう思えた人は誰もいなかった。だから、大切にしたいと思った。

 過去に囚われている自分が、どうしたらもっと人生が生きやすくなるのだろうか。多分、そんなことを考えたのは中学くらいの時だったと思う。その時の俺に答えは出せなくて、とりあえずバスケをする事がソーちゃんを忘れずにいられる事だと思った。
 生きにくい人生だと思ったのは、やっぱりソーちゃんの事があったと思う。その後の家庭環境とか、母さんとの関係とか、沖縄から見知らぬ地へ行った事とか、多分他にもたくさん。それでも、ソーちゃんを忘れるのが生きやすい人生になると思ったことはだけは一度もなかった。
 忘れるのが怖かった。忘れていく自分が、もっと怖かった。
 だから思った。ソーちゃんに囚われて生きるんじゃなくて、誰かの為に生きれたらいいなって。それはそれを思った当時じゃなかっただろうし、ソーちゃんの為でもなくって、ソーちゃんの代わりになれなかったという負い目のある母さんの為でもなくって、前に進めない可哀想な俺の為でもなくって。
 いつか、その人のために生きたいと思える人と出会えたら、きっときっと大切にしようと思った。大切なものは沢山なくていい。少なくていい。自分の掌で守れるくらいでいい。だから、その分大切にしたい。そんな人に出会える日が俺に来るのかなんて分からなかったけど、漠然とそう思ってた。
 だから、と結婚したいと思った。
 どれだけ大事にしても、もしかしたら明日いなくなってるんじゃないだろうか。にはそう思わせるような雰囲気が昔からあった。もう付き合って何年にもなるのに、それが不安で仕方がなかった。だから、結婚したいと言った。
 今も充分幸せで、結婚しなくても好きだと言うにそれでも俺は不安を隠せなかった。確かに結婚してもしなくても、が言うように何も変わらず同じなのかもしれない。だったら今のままでいいんじゃないかっていう、その気持ちも分からなくもない。

 最近、ようやく分かったことがある。
 結婚したいと思っていたのは、俺の不安や弱さであること。それは紛れもない事実だ。でも、それ以上にそれを形にしたかったんだって気がついた。自分でもなく、他の誰でもなく、彼女のために生きていきたい、それを形にしたかった。そうする事で、自分がずっと信じて進んできた道も、正しいと証明される気がして。
 押して、押して、押して、根負けさせてでも早く結婚したいと思ってたけど、本当に欲しいものはそんなもんじゃないと最近ようやく分かった。だから、もう言うのは辞めた。に同じように思ってもらって、初めてその価値があると思ったから。
 だから今は何も怖くない。そう思えるのかもしれない。





 パチ、パチ、パチ。音が聞こえる。
 私にとってこの音は、もはや朝の日常の一部だ。きっとリョーちゃんが爪を切ってるんだろう。カーテンを開けて、ティッシュを置いてパチパチと。リョーちゃんは指の爪と一緒に必ず足の爪も切るから、きっと今日もそうだろう。
「リョーちゃんまた爪切ってるの?」
「お〜、起きたの?おはよ。」
「おはよ。」
 まだセットされてないリョーちゃんの髪は、少しだけぺったりしていてバスケをしてきたんだろうなと思った。
 私は高校時代のリョーちゃんを知らない。大学時代のリョーちゃんは知ってるけど、バスケをしてるリョーちゃんは知らない。試合を見にいった事はあるけれど、直接それに関わって生きてきた訳じゃない。
 大学の先輩でもある三井さんから、少しリョーちゃんの高校時代の話を聞いたくらいだ。リョーちゃんも積極的に自分からその話をしない。したら過去の栄光を誇っているように思われると思ってるのだろうか。聞きたいな。そう思いながらも、聞かなくてもなんとなく分かるような気がして、いつも聞かず仕舞いだ。
「ゴミ、積もんなかったって。」
「雪ね。」
「そう、それ。」
 爪を切ってる背中があんまりに丸くて、猫のように見える。だから、私も暖を求める猫のようにその背中にのし掛かる。多分重いだろうなと思いながらも、特に遠慮することもなくずっしりと重心を乗せた。
「リョーちゃんバスケしたでしょ?」
「そーだけど、なんで?」
 私にはリョーちゃんがバスケでどれだけすごいのかは分からない。ただ、素人目で見ても上手いのだけは分かる。上背のないその身長で目一杯頑張ってるのが分かるリョーちゃんのバスケが好きだ。だから、たまにリョーちゃんがバスケをしたと分かる朝は、少しだけ嬉しい。
「お日様の匂いがする。ひなたの匂い。」
 きっと、バスケから離れたのは私のことを思ってなんだろう。聞いた事もないし、リョーちゃんの口から言葉として聞いた訳でもない。でも、長い付き合いでよく分かっているその性格上、きっとそういう事なんだろうと思った。それは嬉しくもあって、でも少しだけ寂しい。
「俺は猫か犬かなんかかい。」
「性格は犬だけど、この丸い背中は猫かな〜。」
 構うことなくパチ、パチ、パチ、規則正しい音。この音が、どことなく心地いい。また今日も私はリョーちゃんと日常的な朝を迎えられたのだという幸せを噛み締めているのかもしれない。
「リョーちゃんさ、なんで絶対朝に爪きるの?」
「あ〜、それね。」
 爪を切り終わったリョーちゃんは、元々短くたいして幅のない爪をティッシュに落として、それを丸めた。まるでバスケットマンとでも言わんばかりに、その丸い物体を少し先のゴミ箱に投げ入れた。わざと腕を高くして、弧を描くようにして。
「夜に爪切ると親の死に目に会えないって言うでしょ。」
「そうだっけ?」
「そうなの!そうじゃなかったとしても、そーなの!」
「ふうん。そうなんだ。」
 そう言うと、リョーちゃんは罰が悪そうな顔をして立ちあがろうとする。邪魔邪魔と、照れ隠しなのか背中にでろんと乗っかった私を追いやってキッチンへと向かう。じいっと何をするのか見ているとその視線に気付いたのか、逆に怪しむような目で見られてしまった。
「飲む?コーヒー。」
「うん。」
 コポコポと音を鳴らして、コーヒーを作るリョーちゃんはやっぱりまだ少し罰が悪そうだ。さっきの丸い背中も、少し罰が悪そうな遠慮がちな背中も、どっちも愛おしい。罰が悪くなることなんて何にもないのに。
 暫くすると、リョーちゃんはコーヒーとトーストを二人分持って食卓にやってきた。オーダーした訳でもないのに、私のマグカップにはミルクの分量の方が明らかに多い白っぽいコーヒーが注がれている。
 いつだか大学の時の三井さんとの会話を思い出す。ゼミの教授が学会で急遽休講になった時、次の授業まで時間もあって暇だからと三井さんがジュースを奢ってくれた事があった。少しだけ高い、ミルの自販機でミルクたっぷりのボタンを押した時の事だ。そんなのはコーヒーじゃないと彼は言った。
 その言葉に特に悪意はないし、気分が悪かった訳でもない。言われ慣れていたからだと思う。リョーちゃんと同棲した初日、コーヒーについて聞かれた時、彼は何も言わずに私の分量に合わせてコーヒーを作ってくれた。それからは、毎日このマグカップに私の好きなコーヒーを作ってくれている。
「あれって迷信じゃないの?」
「……まだその話したいの?」
「興味あるんだもん。」
 あまりリョーちゃんはその事に言及されたくなさそうだったけど、そうなると余計と気になった。親の死に目に会えないからと、そんな迷信でしかないものを信じていなかったとしても、しっかり守っている恋人があまりにも愛おしくて。
「大事なモンは少ないけど、全部大事にしたいから。」
 リョーちゃんの事をどこまで知ってるのかと聞かれたら、全てを知っていると答える自信は毛頭ない。私が知らないリョーちゃんはきっと存在するし、それでいいと思う。
 私が母の事を多く語らないように、リョーちゃんもお兄さんの事を多くは語らない。私にはもう母がいないと言った時、自分にも兄がもういないと、そうぽつりと呟くように言っただけだ。私にそれ以上の情報はない。でも、きっとその裏側には後悔や自責の念があったのだろうと思う。それが今の、私の大好きなリョーちゃんを形成しているのだと思うから。
「リョーちゃん、ごめん。」
「なに、突然。」
「なんか結婚したいと思っちゃった。」
 驚きの声が来ると想定していたのに、その後に続く言葉は聞こえない。何度もプロポーズされておきながら交わし続けたから、もう呆れられたのだろうか。ミルクたっぷりのマグカップからリョーちゃんに視線を移すと、想像してない姿が映った。
「え、今なの?」
「そう、今なの。すごく結婚したくなった。」
 声は、少しだけ震えていたように聞こえた。リョーちゃんの為だったら、それが唯一の彼の願いなのであれば結婚すべきだと思っていた。でも、そうじゃなかったとようやく今気付かされた。結局、私がこの心優しい青年と一緒に生活することを望んでいるのだ。今だけでなく、これから先もずっと。その証が、急に欲しくなった。
「朝起きてチューして、ご飯だべてチューして、一緒に出かけるのに行ってきますのチューして、お帰りのチューもしたいと思ったから。」
 欠損してる心が、徐々に息を吹き返しているのかもしれない。幸せになればなるほど、それ以上はないと怯えていた数秒前までの自分がわからなくなるくらいに。表裏一体だったはずの幸せと不安は、今この時を持って仲違いをしたのだ。
「それしてるね今も。んで、今日もするね。」
「そうだね。だから結婚しようか。」
 マグカップを持つリョーちゃんの手、少し震えてる。でも少し拍子抜けたようにガクっとしてる。散々プロポーズされてたのは私の方なのに、何故か私はその返事をどきどきしながら待っているという変な図式だ。うそ、ドキドキなんてしてない。答えなんて分かっているから。そう、自惚れているとなんと言われようとも。
「なんでそれから言っちゃうんだよ〜。」
「ごめん、言っちゃった。」
「そんな衝動的なプロポーズ、ある?」
「ごめん、あったね。」
 はぁ、リョーちゃんのため息が聞こえた。ため息は幸せが逃げていくよと言ったら、そんなの迷信だしと言われた。でも、迷信でもなんでもしっかりそれを守る事を知っているから、多分二回目のため息は聞こえないんじゃないかな。
「なに、俺彼女にプロポーズされた男になるの?」
「そうだね〜、嫌でした?」
 いつも気丈で、どんな時でも私の頼れる存在なのに、こんなにヘナヘナとしているリョーちゃんは初めて見るかもしれない。こんなになるまで、思ってくれていたと知れただけでもう何もかもが充分な気がして、泣けてきた。何回もプロポーズしてきた時は、なんて事ないいつも通りの顔だったくせに。
「控えめに言って、最高。」
 テーブル越しに、私の頬を拭うリョーちゃんの手。そのまま首筋に降りてきて私を引き寄せる逞しい腕。ぷっくりとした腫れぼったい唇。全部好きで、全部私のものだと声を上げられるのが結婚するという事だったらいいなと、そう思う。
 今幸せな理由なんて、そんなちっぽけな事でもなんだって良いような気がした。




美しき執着 / 2023’02’10
BGM - There will be love there / the brilliant green