そこには一つの終焉があった。一組のカップルの終焉が、あった。別れを切り出す女とそれに応じる男はたった今関係を終焉へと持っていかんと最後の話をしていた。今まで付き合ってきた決して短くはない二人のそれなりの思い出に馳せ、二人は別れには相応しくない程の穏やかで、そして平穏な最後の時を共に過ごしていた。
「案外最後はあっけないって本当だ。」
「せやな。あっけなかったわ、笑えるくらいにな。」
「でも侑士とこんな和やかに別れるとは思わなかったよ、付き合った当初」
「もっとドロドロな愛憎劇でも想像しとったか?」
「愛憎劇というよりは…まあそうだけど、もっと女絡みで喧嘩すると思ったから。」
 本当にそうだった。思った以上に和やかなこの雰囲気に到底一組のカップルが終焉を迎えようとしているようには見えなかった。忍足侑士の彼女という役割をもうすぐ脱ぐであろう沢田青葉は特に何の変哲もない、取り立てて語れる事もないような平凡すぎる別れに唖然としていた。自ら切り出した別れであったから尚更そうだったのかもしれない。
 今から近くない過去、彼女は眉目秀麗である忍足侑士という校内でも有名な男と男女の交際を開始した。きっかけは男からの何気ない告白から機縁するものだったと記憶しているがそれすら定かではない、それくらいに二人にとって付き合う事は自然であり何一つ躊躇う事のない要素だったのだ。
 眉目秀麗であるということが災いしてか彼の異性の噂は青葉と付き合う前から事の他目立っていた。だからこそ彼女はそんな彼にずっと目を光らせてきた。彼はいつ浮ついた心で自分以外の他の女を見るのだろうかと。
 でも彼は何もしなかった。寧ろそれどころか付き合う以前よりも異性との交流も減っているように彼女には見えていた。
 その点においても彼、忍足侑士は彼氏として最大で最高の役割を担ったと言えよう。しかし二人は終焉へと誘われてしまった。当初彼女が思い描いていた別れ際とは正反対に事を動かしながら。
「侑士は女たらしじゃない。付き合う事でそれが知れてよかったよ、私。」
「せやから言うたやん。俺思とる以上にきっと青葉を大切にすんでって。」
「うん。本当にそうで吃驚してるの。私の完敗だった。」
   悔しいくらいにね。青葉は笑いながらそう語尾に言いつける事で自らの敗北を認めた。
「ならなんでそんな俺を振るんや。」
「さあ、何でだろうね。」
「ま、青葉の事やから大体の理由は想像つくけどな。」
 忍足は度の入っていないお飾りなそれを少しだけズラし、呆れたように細めた瞳を覗かした。彼は本当に彼女、青葉の事をよく理解していた。それは忍足本人ですら驚くくらいに、酷く鮮明だった。だからこそ彼は何も言わなかった。
「丁度昼時や、最後の晩餐といこか。」
「最後の晩餐だなんて不吉。私、まだ死にたくないんだけどな。」
「あほう。別に振られたから殺そうっちゅう訳やあらへん。」
「冗談はメガネだけにして。」
 付き合っていた頃から何も変わらない相変わらずな二人の漫才のような会話に今日だけは笑い声がついてこなかった。二人はそんな日常的な会話に日常定期な反応が得られない事でようやく各々が違う道へと誘われていくことを実感していた。
 今日で決して短くはない彼との時間に彼女は終焉を告げる、もちろん彼もそれは同様に。
「ねえ。私達って別れ話は済ませたけどもう別れたっていうのかな」
「正式にはまだやろ。」
「なんで?」
「青葉が俺の部屋の玄関を出た時、それが別れた瞬間や。」
「よくわかんない。だったらもう今から他人でいいじゃない。」
「あかん。俺の美学や。」
「ふーん。」
 忍足の訳のわからない美学に青葉は疑問を持ちながらも素直に従う事にした。自分の我がままを腐るほどきいてくれた彼に最後くらいはその役目を譲ってやろうと思った。
 彼女は考える。では今この瞬間、彼と自分は赤の他人なのだろうかと。しかし考えれば考える程思考の糸が絡んで解けなくなる。そもそも結婚をしている訳でもない、ただの学生同士の恋人というだけの関係は家族と呼べるものでは到底ない。血液の繋がりがある訳でも到底ないそんな自分たちはいくら付き合っていようが最初から赤の他人同士ではないのだろうかと。考えれば考える程それは複雑であり、逆に至ってシンプルな答えだった。
「最後に青葉の作ったオムライス、食べたいわ。」
 付き合った当初から彼はよくオムライスといういかにも彼に似合わない単語を口にした。酷く想像しにくいことではあるが、彼の好みはオムライスという案外幼稚染みた可愛らしいものだった。
「卵四つ使うた半熟のやつな。」
「わかった。」
 青葉も最後とだけあって腕によりをかけて具材を慣れた台所のまな板で躍らせた。彼の好物であり、彼との思い出が多く詰まっているオムライスを徐々に完成させていく。
 卵を四つ割って彼の好きな半熟卵をバターと絡めてオムレツ型に固めて炒めたケチャップライスの上にそっと乗せた。あり合わせの材料で彼の好みであるデミグラスソースも最後ということもあり作り上げて卵の上にベットリと乗せた。今までで一番手の込んだ、そして愛情の籠った手料理だった。
「懐かしな。よう作ってくれたよな、オムライス。」
「お陰で上手くなったよ。オムライスだけ。」
「青葉はお世辞にも料理が上手いとは言われへんかったからな、オムライス以外」
 彼女はオムライスがさして好きではなかった。ただ彼が異常なまでにオムライスという言葉を発し、そして所望したせいで彼女は下手だった料理の腕前をオムライスという一点だけの為にあげる必要があった。後から彼に聞いた話によると彼女に作ってもらいたい手料理がオムライスであったのだとか。今思えばどうでもいい話である。
 最初は失敗の連続で何もかもが上手く行かなかったオムライスが今ほぼ完成系となって目の前に映し出されているのが青葉には皮肉に思えて仕方がなかった。忍足との関係を終わらせるこの時、ようやくオムライスは完成系という完璧な姿を体現したのだから。
「ねえ侑士、私分かった。」
「なんや。」
 それは卵を四つ割ったあの時と同じような感覚だった気がする。
 彼には本当に大事にされてきた。想像していたよりも、想像もできないくらいに手厚く大切に扱われてきた。しかし青葉は彼に告白された当初、今のような現状を微塵にも想定していなかった。大切にするというその彼の言葉すら信じる事が出来なかった。
 女遊びが激しいと噂の多かった彼に青葉はある一定の線を引いていた。決して彼に本気になってはいけない。自分は彼にとっての一番ではなくていい。大切にされたいなどとは思ってはいけない。彼の傍にいれるだけでいい。それ以外の事は贅沢であり、到底彼に望んだところでどうにもならないことである。そう、思っていた。
 しかし彼は違った。そんな青葉の仮説とは間逆に酷く彼女の事を大切にした。それが青葉には複雑だった。
 彼の事は間違いなく好きだった。きっと今まで付き合った誰よりも好きだった。でもだからこそどうしたらいいのか、またどうすべきなのかが青葉には分からなかった。
 青葉と忍足が付き合う少し前、二人の距離が近づいたのは青葉が失恋したことにあった。
 彼女は昔から男運のない人間だった。少なくとも周りは彼女のことをそう認識していた。そしてそんな自身を青葉も理解していた。自分は都合のいい女であるのだと。キスを求められれば拒まずに、それ以上の事を強要されても断る事が出来ない自分には都合のいい言葉が本当に心底お似合いだと青葉は心の片隅で自分を蔑むように思っていた。
 丁度そんな時に青葉の前に現れたのが忍足侑士という男だった。
 青葉とはそれなりに仲のよかった彼は彼女が別れたと知った瞬間に目の色を変えていた。友情でしかなかったその目線に、しっかりとした恋心という異性に向ける何かをしたためながら。
 そんな忍足からの告白を青葉はすんなりと受け入れた。きっとこの人も自分の事を都合のいい女であると思っているに違いないとそう思って、特別取り立てた理由もなく彼との交際を青葉はスタートさせた。
 しかし彼は違った。男運がないとばかり嘆いていた自分には不釣り合いな程にいい男だった。
「私達は卵と似てる。割れた卵はもう二度と戻らない」
 彼女は幸せに不相応な心配をしていた。果たして自分に幸せになる資格はあるのだろうかと。幸せすぎた実情が彼女をそんな不相応な不安への底へと誘っていたのだ。彼女は幸せに戸惑い、対処できなくなっていた。友達だったあの頃のように、素直に彼と話せなくなっているのではないだろうか。自分を偽っているようなそんな錯覚だけが日を重ねるごとに増えていくだけだった。
「…言うてくれるな。」
「だって、似てるでしょ。」
「思い出の詰まったオムライス一緒に食えば青葉の気も少しは変わるんとちゃうかと思ってんけどな」
 女は幸せに満ちるこんな台詞にやはり胸をときめかせながらも、決して首を縦に振る事はしない。割れた卵の行方を探るかのようにただ半熟に震えるオムライスを見つめているだけだった。
「最後の俺の作戦やってんけどな。俺がアホやったちゅう訳か。」
 最後の晩餐に手を付け始めた彼を見届け、女は幸せに満ちたこの部屋の玄関に立ち向かっていた。自らこの男との幸せな結末を投げ捨て、赤の他人になる選択を事実にする、その為に。

割れた卵の行方
20100816