カーテンを開いてみる、雨はまだ降っていない。
 なんとなく付けてぼんやり見ていたテレビの左上に小さく出ていた傘マークは多分見えていたと思う。でも、それはあくまで予報でしかない。私たちは予報が外れても天気予報士を問い詰めないし、お天気お姉さんに暴言も吐かない。
 だってそれは事前に対策を講じるための手段であって、確実性のあるものじゃないんだから。何ならワイドショーの最後にこぞってやっている占いコーナーくらいの信ぴょう性だ。
 ここ最近遠征続きだったリョータは珍しく疲れているのか、大して情報量のないテレビにうとうとと船を漕いでいる。こうしてソファーでリョータが寝ているのは珍しい。
 パスタの分量を間違えて茹でたら三人前くらいの量のナポリタンが出来上がった。一生懸命それを食べてくれたのもあってか余計眠くさせてしまったのかもしれない。満腹と睡眠の親和性は高い。
「……もうすぐ歯医者の時間か。」
 時計を見ると一時半、歯医者の予約は二時からだ。
 もう一度カーテンをめくって外の様子を確認する。何も悪いことはしてないはずなのに、堂々とカーテンを開いてみることができない。チラっとめくってみた外の様子はそこそこな感じで、今のところ雨は降っていないらしい。
 思い立ったが吉日、私は鞄を持って少し早めに家を出る。
 リョータが起きないように、静かにドアを閉めた。
 駅の向こうにある歯医者は歩いて十五分といったところだろうか。ちょっとした運動と思ってスニーカーを履いてみたけれど、数分ごとに靴紐が取れて人生が前に進まない。やっぱり履き慣れた靴が一番らしい。
 最初の交差点で信号待ちをしていた時だ。
 突然豪雨に見舞われた。普通パラパラと降り始めてから……とかそんな前ぶれがあるはずなのに、本当にそれは突然頭上から降ってくる。というか、刺さってる。とても痛い。
 近くのコンビニで傘を買ってももう全然手遅れなほど雨に降られてしまったので、ならばもうあってもなくても同じような気がする。お金がない訳じゃないけど、昨今のビニール傘は結構高い。
 雨が降っている時に手持ちの傘がなければ買わざるを得ないという心理をとてもうまくついた商売だと思う。そのカモになるのは私のように傘を持たずに家を飛び出る人間だ。全人類が該当する訳じゃない。うまいビジネスだ。
 小走りしながら何とか歯医者に辿り着いた。
「こんにちは〜………え?ずぶ濡れですけど平気ですか?」
「えっと……今とっても雨降ってまして?」
「ですよね?今日この時間から豪雨って言ってましたし……」
 歯医者の受付で見た目の恥晒し以上の恥を晒してしまった気がする。最悪だ。大人として恥ずかしい。びしょびしょに濡れている大人というだけでも結構恥ずかしいのに、大雨の中傘を持たずにきたことを自分で申告してしまった形だ。
 後悔。後悔。公開処刑。
「よかったらこのタオル使ってください。」
「あ、ほんとに……なんかすみません……」
 人の善意で私は生きてると思い知らされる。みんな優しい。受付のお姉さんも、「大丈夫?寒くない?」と聞いてくれるマダムも、みんなみんなとっても優しいので日本は平和だ。
 これから私の歯をゴリゴリに削る歯科医師はあんまり優しくないけれど。
「とりあえず先に診察券お預かりしますね?」
「あ、はい。」
 タオルでおおかたの水分を拭き取った私をみた受付のお姉さんの言葉に、私は鞄を開く。ごちゃごちゃと無駄なものが入っている私の鞄からすぐに財布は見つからない。何も驚くことじゃない、いつもの事だからだ。
 いつもの事だから焦らない。だっていつもの事だし?見つからなくてもいつかは鞄の奥底から出てくるの私知ってるし。何だかんだ言いながら出てくるの知ってるけど?
「えっと………」
「はい。」
「すみません財布忘れたみたいです。」
 診察券は出てきません。何故なら私が財布を忘れたからです。もうここまで来たら逆に落ち着いてる自分がいる。何も驚くことはなくて、私の性格を考えた時十分に起こり得る事実に納得してるからだ。
 一応これでも大変情けなく思ってはいる。
「本当にすみません今日の予約キャンセルできますか?」
 泣きそうになる自分を留めて目一杯平気なふりをする。気を抜くと涙が出てくるから。とても恥ずかしい。今日したことと言えば、歯医者に来てお金も払わずタオルを借りて、さっきまで心配してくれていたマダムの顔を若干引き攣らせたくらいだ。
!」
「……リョータ?」
 私の作ったナポリタンを過剰摂取して健やかに寝息を立てていた筈のリョータがそこにいる。私のカーキ色をした二つ折りの小さい財布と、ビニール傘を二本手に持って。
「すんません、これで診察お願いします。」
 私の財布から歯医者の診察券を取り出して、受付の青いトレイに置く。リョータはまるで雨に濡れていなくて、そして私をじとっとした目で見てくる。
「……天気予報見たよね?」
「うん。」
「出かける前は財布とスマホあるか確認してって言ったよね?」
「それも言われました。」
「もう……ほんっとに……」
 歯医者の待合室でリョータがドカっと大袈裟に座り込む。両手を組んで。多分ちょっとだけ怒ってる。でも私の財布も、私の分の傘もしっかり持ってきてくれるこの彼氏の完成度の高さは一体なんだろう。
「あんまり俺の寿命すり減らさないでよね。」
「ごめんって。」
「もう俺以外じゃ駄目でしょ、の彼氏って。」
 ちょうどそんな言葉が耳を掠めて行った時、「さ〜ん、こちらにどうぞ。」そう呼ばれ、返事がまだない私にやっぱりじとっとした目で見ている。不可抗力だし、後で存分にお礼も私の気持ちも表現するので許して欲しい。
 一緒の傘に入って帰りたいと言えば、許してくれるだろうか。
 私に優しくない歯科医師のゴリゴリの治療を受け涙目で戻った待合室にはリョータの姿と、とても爽やかに晴れ渡る青空が窓から見えている。
 私はとても幸せ者で、少しついていない。



忘れ物の代償
( 2023’05’20 )