春眠暁を覚えず。 これは春にまつわる言葉だ。春の夜は短い上に、気候がよく寝心地がよく夜の明けたのも知らずに眠りこんでなかなか目がさめない、そんな意味なのだが回りくどくない直接的な言葉で表現すると、寝坊した。 ちなみにこれは古文ではなく漢文だ。日本人なのに中国の文化や詩を学ぶのは何故なんだろうか。春の朝は頭がよく回らない。 新学期のメインイベントと言えば、なんといっても一年に一度しかないクラス分けだろうと思う。掲示板を見た瞬間に明暗が分かれる。本来であれば友人たちと手を握りながら見る筈だった掲示板を、私は一人ぽつんと眺めている。二組と書かれたところに、自分の名前があった。 泣いても笑ってもあと一年で高校生の自分ともお別れだ。この制服に袖を通せるのもあと一年かと思うと名残惜しい。少し嘘をついた。毎日洋服を考えるのが面倒な私にとっての便利アイテムがなくなってしまう。来年の四月以降、それはただのコスプレにしかならない。 恐る恐る二組の教室に入ると既にみんな着席していて、ひと席だけぽつりと空席が目立っているのが私の席らしい。新学期初日から〜と新しい担任と思しき成人男性が何か言っているようだったけれど半分以上聞き流していたのであまり内容は覚えていない。 「初日から遅刻かい。」 「春眠暁を覚えずってやつ。」 「なんだそれ。」 席に付くと宮城くんが後ろを振り返って声をかけてくる。彼と同じクラスになるのは一年生の時以来だ。さっき掲示板で自分の名前の近くに彼の名前が並んでいたのは見ていたので、この展開や会話はある程度事前に予想が立っていた。 新学期最初のホームルームが始まって、前から順番にプリントが配られてくる。宮城くんは自分の分を一枚とると、振り向きざまに残りの分を私に手渡した。 「…なに。」 「なんかこの感じ懐かしいなと思って。」 「そうだっけ?」 「うん、なんかすごい久しぶり。」 「ふうん。」 私も自分の分を一枚取って、残りの分を後方へと回していく。再び視線の先に、宮城くんの背中が見えて懐かしい気持ちになる。確か高校一年生の最初の席も今と同じような並びだった筈だ。気怠そうに少しだけ丸まっているその背中が、なんだか懐かしい。 懐かしいのと同時に、丸一年間こうして教室から彼の背中を見る事もなかったので記憶の中にあった彼の背中よりも大きく見えて少しだけどきどきする。 「委員会なにはいんの?」 「え〜、全然決めてないけど楽なのがいいな。」 「図書委員とかでいいじゃん。」 「図書委員とかイメージ無さすぎてウケる。」 「本くらい読むし。」 「例えば?」 「上司が鬼とならねば部下は動かず、とか。」 「え、サラリーマン?」 宮城くんは体を半分捻って、私の方へと椅子の足をぐらぐらと揺らしている。この光景も、私は知ってる。また一年前の日常が戻ってきたんだなと、そんな事を考えていた。それにしても随分と変わった本を読んでいるらしい。部下の育成に困っている役職付きのサラリーマンくらいしか読まないであろうタイトルだ。 「で、図書委員やるの?やらないの?」 「ん〜、やろっかな。」 それを聞いて納得したのか、彼は半分捻られていた体を戻して、そして少し前屈みになって背中を丸くする。春の心地いい気候の中で、微睡んでいる猫のように見えた。これも私が知っている一年前までの日常だ。 一つあの頃と変わったのは、その背中を見て高鳴る自分自身の感情だ。確かにどくどくといつもよりも少しペースの早い心音が、この教室に入ってきてからずっと継続されている。それが、確実にあの頃と違う今の私の感情。 クラス替えに少しばかりの期待をしていたのは事実だ。彼と同じクラスになれたのなら。あの頃見ていたあの懐かしい背中をもう一度近くで眺められたのなら。そんな淡い期待を抱いて教室の扉を開いたくせに、実際のところ私は結構いっぱいいっぱいだ。 高校二年生の冬、初めての彼氏ができた。同じ学校の人だ。元々クラスメイトで、会話の波長や趣味趣向が似ていて仲のいい友人だった人。ぶっきら棒に見えて、人一倍気遣いのできる男の子。 付き合ってから見るその背中は、あの頃とは少し違うように見えて、そしてやっぱり私をどきどきさせる。一緒のクラスになれたらいいなとぼんやり考えてはいたものの、実際毎日これが続くとなると自分の身が持たないかもしれない。大好きな人の背中が、登校するだけで必然的にずっと見られるようになるのだから。 「宮城くんがやるならね。」 振り向いて、少しだけ得意げなかんばせを見せつけた宮城くんに、思わず普段呼んでいる彼の名前が出そうになって口を噤んだ。 いつまでシラを切っていられるだろうか。 隠す必要もなければ、けれどあえて公言する必要もない私たちのこの関係性は二人だけが知っていればそれでいい。それに、思っていた以上にこの秘密のような関係がより私の胸の高鳴りを助長させているのかもしれない。 スパイスが必要なのはカレーだけではないらしい。若干のスパイスというものが、恋をよりスリリングにするのだと早速知った今日の学びである。
わたしの背中 |