本日の夕刻、一枚のパンツを購入した。パンツと言っても種類がいくつか存在するが、一瞬卑猥な気持ちになったのであれば恐らくは想像している履き物の方であっていると思う。面積の小さい布の話をしている。
 パンツから少し話を切り離して、そのパンツを購入するに至った経緯を話してみようと思う。
 ここ最近、私には気になる人がいる。
 その人の何が気になるのかと言えば、言語化するのは中々に難しい。意図して意識していた訳ではないので分からない。そわそわするこの感情の正体を知りたくて、小学生の時以来使っていない国語辞典を引っ越しの時から開けてもいない段ボールの中から探し当てた。スマートフォンという文明の発展が生んだツールがあると気づいたのは、埃まみれになった国語辞典を見つけて三度くしゃみをした後だった。誰かが噂をしている。
「それって恋じゃん。」
「え、これが?」
「いや、今まで恋くらいした事あるでしょ。」
「これが恋なら経験ないかもしれない。」
「逆に今までどんな恋してたの。」
 私にはまだ俄かに信じられないが、私が宿しているこの感情はどうやら恋というものらしい。モンタギューとキャピュレットという対立関係にあるロミオとジュリエットが陥ったそれと同じ“恋”なのか。一言一句違わずそう聞いてみたけれど、話が飛躍しすぎていると友人に呆れられた。私の話が飛躍しているのは今に始まった事ではないらしいので、彼女も私も想像しているよりはずっと冷静だ。
「そういう時ってどうするの?」
「え〜、なんだろ。イメチェンするとか?」
「イメチェン……」
「普段と違うと気になるじゃん?」
「あ〜、そうか。」
 そして、話はパンツへと戻る。
 パンツはショッピングモールのちょっと高そうなランジェリーショップで購入したものだ。パンツという表現が正しいのかは分からない。ショーツが正式名称だろうか。恐らくパンティではない事はギリギリ理解している。
 何故それを購入するに至ったのか。そのヒントは友人との会話にひっそりと息を潜めるように存在していて、イメチェンという単語から連想したのがパンツだったというだけの事。思いつきがうまくいった試しはほとんどない。
 下着(パンティ)を見せる行為を前提としない限り何の効力も発揮しないことに気がついたのは、自宅でファッションショーをするようにスキニーパンツから重ねてパンツを当てていた時だった。人間、志を立てるのに遅すぎるということはないと異国の政治家が言っていたけれど、これに関しては既に遅いだろうと思う。異国の政治家もまさか自分の格言が後世でパンティに謳われているとは思うまい。
 なんとなく履くのが憚れて、タグをハサミで切り取ってから洗濯機の中へと投げ入れた。洗濯ボールを突っ込んで、あとは蓋をしてボタンを二度押すだけだ。洗濯が終わるまではゆっくり湯船にでも浸かっておけばいい。秋田の四月は、時々まだ寒い。
 ほかほかに温まった体をバスタオルに包んで、既にピーピーピーと三度ほど雛鳥が鳴くようなか細い音を奏でていた洗濯機から中身を取り出していく。クリップが沢山ぶら下がっている未だ名前の分からないそれに、今日買ってばかりのパンツの端っこを止めていく。少し先にあるコンビニの明かりが結構鮮明に見えるくらいには透けている。
 高校から同じ大学へと進学した友人に、先ほど写真に収めていたコンビニが透けて見えるくらいには透明感のあるそれを添えて、送信。そして、一仕事終えた私はそのままベッドに転がり込む。返信を待つ前に、ベッドに沈んでいく体が気持ちよくてそのまま眠ってしまったらしい。





 少し、肌寒い。
 風呂上がりそのまま髪もろくに乾かさず寝てしまった気がするし、比較的薄着で眠りこけてしまったらしい。目を覚まして、もう一度布団を被り直して二度寝をしようとした時だった。
 気配が、する。
 何かはよく分からないし、あまり分かりたくもない。泥棒だったら最悪なんて言葉では済まされない。けれど不思議なのは圧倒的な気配はあるのに、物音がしている訳ではないという事。
 何事もなかったようにして振り返る事なく布団を被りなおす。寧ろこれが夢なのかもしれない。随分とタチの悪い夢だ。
「起きるぴょん。」
「……ぴょん?」
「だぴょん。」
「不審者だぴょん?」
「黙るぴょん。」
 寝起き早々、うさぎが沢山飛んでいる。うさぎ語とも思えるようなぴょんの応酬だが、うさぎは喋らない。そして恐らくはその動作を例えられているだけで、きっとうさぎ当人も思ってもいない事を勝手に代弁してくれるなと言いたがっているに違いない。
「ちょ、え、深津?なんで?」
「鍵が空いてたぴょん。」
 自分の不用心さを恨めしく思いながらも、そもそもこれはどういう状態なんだろうか。寝起きじゃなくてもあまり仕事をしない私の脳みそは、寝起きだとより一層仕事をしない。一つだけ分かったのは、昨日買ってばかりのパンツを早々に履いていなくてよかったという事だ。
「これについて五十文字以下で答えるぴょん。」
「えっ…あ!ちょっと、え!それは私の……」
「私の、なにぴょん?」
「それはセクハラ!」
「自分から送ってきておいてよく言うぴょん。」
 そもそも深津がここにいる理由が掴めていない訳だけど、もっと分からないのは彼が両手で私に見せつけるようにして持っているパンツのことだ。どうでもいいけど、パンツ越しに虚無な深津の顔が透け見えているのでなんともシュールな状態だ。
「ちょっと!どういう趣味?返してよ……」
 深津は我が家のローテーブルに一枚のパンツをそっと置く。そして、自分の鞄の中からとても綺麗に磨かれているスマートフォンを取り出した。何をしようとしているのか想像もつかない。幼馴染の私でも、深津の言動はまるで予測がつかない。いろんな意味でどきどきさせられっぱなしだ。
「これは?」
「……ん?えっと、どういう事?」
「こっちの科白ぴょん。」
 深津のスマートフォンに映し出される写真に見覚えしかなく、血の気が引いていく。紛れもなく、私のパンツだ。それもさっき深津が両手持ちしていた、おろしたてのパンツだ。大学一年生の男子大学生のスマートフォンには透けたパンツの一枚や二枚、入っているという事を敢えて私に見せつけているんだろうか。冷静に考えてそんな訳はない。
 ピンときて、自分のスマートフォンでアプリを起動する。一番直近のやり取りには、深津のアイコン。震えながらそのトークをタップすると、私の視界に映し出されたのは、しっかりと送信されているパンツだ。もう一度、震えた。
「誤爆はごめん。でも起きたら深津がパンツ持ってる意味は未だに理解が追いつかないんだけど?」
「堂々と干してたらすけべな女が住んでるって言ってるようなものだぴょん。」
「…ここ三階なんだけどね?」
「男子大学生の本気の動体視力は侮れないぴょん。」
「それ深津だけだから、たぶん。」
 とにかくこの状況が恐ろしく恥ずかしいという現状は夢でも幻でもなさそうなので、ベッドから飛び降りてローテーブルへパンツを争奪しに向かう。生まれてから十九年、パンツを奪取しようとしたことも、ましては争奪しようとしたこともない。猫じゃらしに翻弄される猫のように、私はパンツに翻弄されている。こんな為に買った訳じゃないのに。
「五十文字ぴょん。」
「へ?」
「買った理由。」
「ん〜、イメチェン?」
「これは使用済みかぴょん?」
「言い方にはデリカシーが欲しい。」
「答えるぴょん。」
 声に出すのは気が引けて、両腕をクロスして大きなバッテンを作って見せる。昨日購入してばかりのパンツが軽く宙を舞って、ようやく私の手元へと戻ってきた。あれだけ必死にパンツを追いかけ回していたのに(男子中学生ではない)、いざ戻ってくるとなるとどうしていいものだろうか。居た堪れなくなって、とりあえずササっと右ポケットに捩じ込んだ。
「懲りたら気をつけるぴょん。」
「……なにに対して?」
「鍵と、誤送信と、パンツ。」
「パンツは関係ないんじゃ……」
 まさかこんな形でパンツが功を奏するとは思ってもみなかった。これが功を奏したと言えるのかどうかは当人である私にも分からない。神のみぞ知るという言葉はあるけど、今回の件については神も匙を投げているだろうと思う。神はきっとパンツに興味がない。
 私は年頃の青少年へパンティという爆弾を誤爆した罪を犯したけれど、鍵を閉めていないこちらに非がありながらも許可なく部屋へと上がり込んできた深津にも罪はある。多分、チャイムは何度か鳴らしているのだろうけれど。起きない私に非はない。少しだけしか。
「すけすけは心臓によくないぴょん。」
 心臓によくないと言っている当の本人は、いつもとまるで変わらない虚無顔だ。表情でも口調でも語尾でも、なにを持ってしても彼の動揺や心の内を窺い知ることはできない。物心ついた時から彼を知っている私が分からないのだから、他の人間に分かる筈がない。分かられて、たまるか。
「パンティ〜は一成くんでも動揺する?」
 第三者からこの感情を“恋”と名付けられたところでしっくり来ないくせに、人一倍しっかりと独占欲だけは持ち合わせているらしい。その感情を自覚した瞬間に、突然私は恋に目覚め、そして駆け引きをするのだ。私ばかりが一人感情に揺さぶられているのは気に食わない。あの眉ひとつ動かさない深津の動揺した顔を見てみたいとそう思う。
「……くだらないべし。」
「べし?」
「ぴょん。」
 やっぱり眉の位置ひとつ変わることはなかったけれど、それでも深津にしてはワンテンポ切り返しが遅い。そして、一昔前に使っていた彼の深津語録「べし」を聞けて私はそこそこ満足だ。そこにきっと彼の動揺が詰まっているはずだから。
 中学生に上がってから次第に呼ばなくなっていた彼の名前。久しくそう呼んだ私の声帯が少し震えていたのはご愛嬌だ。痛み分けという事にしておく。
「売った喧嘩は返されると覚えとくぴょん。」
「もうとっくに返されてる。」
 大学に入ってから久しぶりに髪を伸ばし始めた彼に、私は既に恋という名の喧嘩を売られているのだから。私が気を引くために普段と違う事をしたように、彼の伸び始めた髪もそうだったらいいのに。
 幼馴染という関係に、続きと始まりを求めた。



災い転じて福となす
( 2023’04’19 )