諏訪洸太郎、十八歳。
 この時の彼はまだ咥えタバコをしていない。

 今にして思えば金髪が彼のガラを更に悪く仕立て上げているというだけで、彼をそのように見せているのは髪の色だけが全てではないと気づく。高校時代の諏訪は漆黒とよべるほどの黒髪だったけれど、やっぱり三百六十度どこからどう見てもガラの悪い少年だった。強いて言うならば今現在の諏訪洸太郎本人比でまだ可愛らしいかもしれないが、それも強いて言うならという補足が無くしては成り立たない。
「は?聞いてねえぞ。」
「だって言ってないし。」
「いや、言えよ。」
 何故いちいち事前に伝えておかないといけないのだろうか。いつから私はあんたの彼女になったんだ?口から出かけて、ギリギリのところでその言葉を回収した。別に諏訪と付き合ってる訳じゃない。友人としての付き合いが長いという訳でもないし、もちろん好きな訳でもない。
 諏訪には悪いが私はイケメンが好きだ。かつて諏訪にそう言った時、“告白もしてねぇのに勝手に振るな”そして続けるようにして“シバくぞ”と諏訪頻出単語が飛び交った。ちなみにその単語は頻出する割に一度も実行されておらず、諏訪は私を一向にシバかない。
「試験合格したのに諏訪の許可制とか逆に聞いてない。」
「いやだから言えって。」
「もう済んだ事だしいいじゃん。」
「いや、言え。」
「しつこいな〜、じゃあ……ボーダーでもよろしく!」
「なんかすげえムカつく。」
 お前は俺をイラつかせる天才かと言って、そこからはもう諦めたように言及はされなかった。懸命な判断だと思う。諏訪が言及しようが、聞いてないと喚こうが私がボーダーの一員になるのは既に決定事項なのだから。
 諏訪は単なるクラスメイトの一人だった。高校三年のクラス替えで初めて同じクラスになった。クラス替え翌日の英語の授業、私は教科書を丸ごと忘れている事にも気づかず授業を迎えてしまった。廊下に一番近い壁際の最終列に座っていた私の隣には諏訪しかいなかった。それが最初のきっかけだった。やむ無しと机をつけて教科書を見せてはくれたけれど、クラス替え初日からそれを揶揄う野次に諏訪少年はイライラしているように見えた。
「てかお前、何で俺がボーダーなの知ってんだよ。」
「なんでって……急にこそこそ何かやってるなって後つけてみたらボーダー本部に着いたから、あ〜ボーダー始めましたって感じかな?と思うじゃん。」
「何で後半ノリが冷やし中華なんだ……」
 知り合いがいないんじゃボーダーに入るなんて無謀な事は多分思いつかなかっただろうし、単身乗り込む程の動機もない。実家から近いというその理由だけで三門大の指定校推薦を勝ち取っていたので丁度暇を持て余していたというのがことの真相だ。深い意味はない。
「お前は俺のストーカーか?」
「馬鹿言わないでよ、私面食いだから。」
「俺のハートがダイヤモンドで出来てるとでも思ってんなら即刻改めろ。」
「注文多いな。」
 誰に対しても諏訪のように振る舞える訳じゃない。特に女子同士の付き合いはしがらみが多い。自分の行動が制限されるような人間関係は普通に面倒で、諏訪にはそういう面倒がまるでなかった。だから自然と一緒にいる事も多かったんだろうし、それ以上の感情に発展する事はないと安心していたのかもしれない。
 何度も言うが私はこう見えて面食いだ。隣のクラスの寺島雷蔵のような塩顔スマートイケメンが好みだ。今となっては当時の面影はなくもちろんそんな気持ちは蘇らないが、人間何がどうなるかなんて分からない。スマートだった雷蔵がこんなビッグな男になろうとはきっと本人すら想定になかった未来だろう。
 数十分先の事だって分からないのに、数年先なんてそんなもの分かる筈もない。諏訪への感情が友情から違う何かに進化を遂げることがないとも雷蔵のことを思えれば言い切れないのだろうか。しかし今時点で数年経っても私の感情はやっぱり変わっていない。数十分先の未来は見えなくても、数年先の未来はそこまで大きく予想を裏切らないという事なんだと思う。
「つうか何でボーダーなんだ、突然。」
「諏訪がいたから?」
「お前本当に面食いか?」
「自分がイケメンじゃないって認めちゃうんだ。」
「お前は性格の悪さを改めろ。」
 まだ正隊員になっていなかった諏訪と同じ訓練生になったのが大体今から三年ほど前の出来事だ。結果論にはなるが、諏訪とはこの三年間ほぼ毎日どこかで顔を付き合わす関係性だ。それはボーダー本部基地内で、大学の敷地内で、コンビニのアルコールコーナーで、最早私の日常に諏訪が当たり前のように存在していた。
 諏訪は卒業と同時に髪を金髪に染めた。大学デビューダサいと一言冗談のように言った後、諏訪の口には咥え煙草が挟まれるようになった。
 三年程前の回想をしている訳だが、まだ話の軸は現在には戻らない。




 話は今から一年ほど昔の回想に移る。
 とても焦っている。平日の昼間、私は美容室にいた。
 酒が抜けきらない状態のシャンプー台は結構地獄だ。

 人は新しい事に対しての免疫がない生き物だ。
 酒は飲んでも飲まれるなということざわが存在するが、いざ自分が飲まれてみないと人はその真の意味を理解できないのだとその時痛感した。新橋のサラリーマンを小馬鹿にしてはいけない。何事も経験が全てだ。
 時刻は六時二十分。朝だ。
 私の酔いも夜明けと共に少しずつ覚めていき、何故途中で帰るという選択肢を選択できなかったのだろうかと後悔していた。酒は冷静な判断力を全力で奪ってくる。
 少しだけ冷静さを取り戻しつつある自分と相談をした結果、居酒屋から大学へと直行する事にした。もちろんほぼ手ぶらに近い。大学なんてペンとルーズリーフさえあれば、後ろの席で難をしのぐことは結構容易い。こういう事に関してはどんどん免疫がついてくるものだ。
 幾分かボーダーでの任務や指令を優遇してもらえるとは言え、それでもかなり瀬戸際の出席日数だ。前回教授にも警告という名の実質イエローカードを出されてしまった。行かない訳には行かないのだ。家に帰って風呂だけでも入りたい気持ちに無視を決め込む。過去にも全く同じ状況があったと記憶しているが、家に帰って成功した試しはない。風呂に入った後はベッドに身投げして終わりだ。単位も人としての尊厳も含め色々と終わる。人は失敗に学ぶ生き物だ。過去の失敗を教訓に可能性の高い失敗を回避できたのだから自分を褒めてやってもいいだろうかと考える。まだ酒の抜け切らない足りない頭でも、すぐに答えは降りてきた。“あと一杯飲んだら帰る”この言葉は飲みの場においてはほぼ詐欺師の言葉であり、それはペテンなのだ。そもそもそんな大事な日の前日に朝まで飲みに行っている時点で愚か者でしかない。

 九時に始まる一限を受けるため大学へ直行した私はコンビニで迷う事なく決まったものを手に取って籠に放り込む。
 ルーズリーフ、三色ボールペン、おにぎり、ポカリスエット   買って気づいたが、カモフラージュの為に三色ボールペンは贅沢すぎたと思う。残りの二色を使う日は到底やってこないので、百円の一色ボールペンで充分事足りた。
「あの、本当にシャンプーだけでいいんですか?」
 二限の授業が終わって駆け込むようにして美容室に入った。美容室に来ているというのに、私は招かざる客のようだった。髪も切らず、トリートメントやヘッドスパをする訳でもなく、ただただ“シャンプー”だけで予約が入ったことはないらしく日々いろんな人間がやってくる美容室でも異例の事態らしい。
 昨晩から今に至るまでの経緯を説明し、風呂に入れていない現状と入れなかった事情を恥を背負いながら隠す事なく話すと、何とも言えないキョトン顔の美容師さんと鏡越しに目があって居た堪れない。美容師歴十年になる彼は、自分の美容師人生でもそんな美容室の使い方をしている人間は初めての経験らしい。行きつけの美容室をあえて外して正解だったと心底思う。多分、彼と再会することは二度とない。
「申し訳ないんでカットもお願いします。」
「シャンプーだけでいいならそれでも平気なんですが…」
「申し訳ないんで前髪一センチ程揃えて下さい。」
 恥でしかない一連の流れを体現したのには理由がある。授業自体は三限までだった。何とかやり過ごして終わった瞬間家に帰れば美容室で恥を晒す必要もなかっただろう。何を隠そう、十五時から防衛任務が入っている。前日の自分を殴りたい。
 単位取得にイエローカードを出された後の無い授業、その後の防衛任務。何を間違えば朝まで飲みに行こうと思うのだろうか。自分でも皆目見当が付かない。酔っ払いの考える事は恐ろしいと思ったが、飲みに行こうと判断した時のシラフの自分の方がもっと恐ろしかった。いつか本気で空が飛べると言い出したらどうしようと心配する今の私もやっぱりどうかしている。いつか酔って言ってそうで怖い。

 死にそうになりながらシャンプー台を終え、切る必要のない前髪を切り揃えた。寂しい財布の中身をより涼やかにさせて三限の授業の為に大学へと戻る。普段なら平気で歩いて行く距離だが、堪らずタクシーを拾ってボーダー本部に向かった。防衛任務を終えた後は、食堂のテーブルに腰をかけたのが最後。石像の如く動けなくなってしまった。
「おい、そこの馬鹿女。」
 諏訪の声はちゃんと耳には届いていたが返事はしない。返事をすれば諏訪の言う“馬鹿女”に成り下がってしまうからだ。同時に返事をする気力すら私には残されていない。
「どこに瀕死の状態になるまで飲む奴がいるんだよ。」
「諏訪が同じシフトで代わってくれる人いなかったんだから仕方ないでしょ。」
「この後に及んで俺のせいにすんな。」
 昨晩私が飲んでいた相手は雷蔵だ。別に何もない。朝まで飲んで、それだけだ。私がかつて密かな恋心を抱いていたのは雷蔵ではなく、隣のクラスにいたスマートで塩顔イケメンだった寺島雷蔵なんだから何も起きる筈はない。
 かつての同級生は私たちより一足先に社会人になっていた。高校卒業のタイミングで雷蔵は防衛隊からエンジニアへとシフトチェンジをしてそのまま就職した。研究職というものは私が想像した通りに過酷らしく、泊まり込みでやっていた作業がようやく終わり、飲みに行ったという流れだった。
「いい加減学習しろ。」
「誘われたら断れない優しい性分なの。」
「それを優しいとは言わねえんだよ。」
「諏訪が薄情なだけじゃん。」
「ならレイジも風間も薄情もんだな。」
 深夜零時前、私たち同級生組のグループラインに入った連絡に返事を返したのは私だけだった。雷蔵自身も何が何でも飲みに行きたい緊急召集ではなかったんだと思う。文章からするに、誰か捕まればラッキーくらいの誘い方だった。けれど、丁度防衛任務を終えて帰宅途中の私には魔力のあるメッセージだった。痕跡を残すのが躊躇われて、私はその後すぐ雷蔵へ直接電話をかけ、帰路の途中にあった居酒屋で集合することになった。そして、その結果がこれだ。死にそうだ。
 ボーダーには二種類のシフトが存在する。介護職に似たようなシフトで、四時間ほどの任務と夜から朝までのロング夜勤の二種類だ。大学生以下の隊員が概ねを占めるボーダーでは、大学生はかなり過酷な勤務を強いられることになる。雷蔵のメッセージに反応しなかった他三人は私と違って最低限の常識を持ち合わせているということだ。
「諏訪に言われなくても反省してるからこういう時は慰めの言葉が欲しい。」
「自業自得だろ。」
「憐れむ気持ちがあるならちょっと家で寝かせてよ。」
「どの辺りに憐れむ気持ちを感じたんだ。」
 そう言いつつも、ボーダー本部に近い場所で一人暮らしをしている諏訪は文句を言いながらも私を部屋へと上げてくれる。断れないと知っていて言う私も相当タチが悪い。諏訪は私の最後の砦のようなものだ。
 空腹ではあるが、食欲も食べる気力もない。口に放り込むだけで食べる気力がなくても食べられるサンドウィッチを途中のコンビニで買って諏訪の部屋へと上がり込む。時刻は二十時前。サンドウィッチのビニールを剥いている途中で眠りそうになった所を諏訪にデコピンされて何とか意識を保って口に運んだ。
 三種類のサンドウィッチを食べる時、私は意識的に右側から食べ進める。右、左、そして真ん中の順番だ。ちゃんと意味はある。
 ビニールを剥いだ右側に入っているツナサンドは私が二番目に好きな具材だ。一番左にあるタマゴサンドは自分の体調次第で美味しくも重たくもなる。シャキシャキとした食感とハムとチーズが絶妙なハーモニーを奏でる王道のレタスサンドが私は一番好きだった。ふと、私にとって諏訪の存在はツナサンドのそれに近いような気がした。
「ツナサンド………」
「今咥えてんだろ。」
「諏訪サンド………」
「勝手にサンドすんな。」
 何かを伝えようとした筈だったけれど、忘れてしまった。もう本当に気力も体力も限界だ。ツナサンドを口に含んだ食べかけの状態のまま、結局私は寝入ってしまったようだ。寝入る直前の記憶はあまり定かではない。覚えているのは、酒を飲まなくても人は睡眠不足で記憶を失うということだ。諏訪のベッドを占領していた私は、自分の体重分だけ沈んでいく諏訪のベッドに記憶を手放した。
 もう一度くらいデコピンをかまされた気がする。私は睡眠耐久レースをしている訳ではない。一度落ちかけてしまった意識は、そんな温い刺激では戻ってこられない。諏訪もそれをわかっているのか、私が二度目のデコピンで意識を取り戻せずにいると、追加の温い刺激は感じられなかった。




 普段から寝起きはとても悪い方だ。
 それを加味しても、今回の目覚めは最悪だ。

 紙が燃えた重たい匂いがする。寝起きにはあまり嗅ぎたくない諏訪の吸う煙草の匂いだ。恐らくは少し眠っていた筈なのにまるで体力は回復していないし、壊滅的に空腹だ。私に爽やかな目覚めと言うものはこの先も一生やってこないのかもしれない。
 そんな最悪のコンディションの体を起こすと、そこには風間がいた。風間に表情の四季はない。ボーダー無表情選手権という私が勝手に定義づけた中では、二宮くんと風間がトップ争いをしている。だから私には今風間がどういう気持ちで私を見ているのかは分からないが、恐らくは遠い目をして私を見ているのだろうと思う。
 どこぞの素人が書いた異世界ファンタジーに、寝て起きたらどこかへトリップしてしまっているなんて下手な展開が存在するが今はそんな状況なんだろうか。私の記憶が正しければ私は諏訪と二人のはずだったが、自分の記憶が正しいという自信は残念ながら皆無だ。
「おはよう風間。」
 眠い眼を擦ってもやっぱりそこにいるのは無表情の風間だ。二宮くんと風間はボーダー内でも群を抜いた無表情キャラだが、こういう時は諏訪くらい表情に四季があった方が助かるものだ。雷蔵にしてもレイジにしてもボーダーは無表情な人間が多すぎる。とても困る。
「いつからお前は諏訪の女になったんだ?」
「え、私寝てる間に諏訪の女になったの?」
「だとしたら趣味が悪い。」
「それが事実なら確実に趣味悪いね。」
「お前らシバくぞ。」
 なんだ、いつもの悪い冗談か。無表情がタチの悪い冗談を言うのは本当にタチが悪い。取り敢えず私はどこぞの異空間へ小旅行をしている訳ではなさそうだ。
 私はその真実を知らないが、風間ビジョンの解説はこうだ。
 防衛任務後に酒を持って諏訪の部屋を訪れた風間は、妙な表情をした諏訪を目にする。ドアを半開きにして、その隙間から顔を覗かすようにして用件を確認され、酒の入ったコンビニ袋を見せつける。
「開けろ。」
 いつもならすぐに開くドアは半開きのままだ。それに対する相応の返答も返ってこない。諏訪に構う事なく顔の分だけできている隙間から容易にドアをこじ開けると女物の靴が並んでいる。
「………天変地異か?」
「おい、どういう意味だ。」
「そのままの意味だ。」
 明らかに諏訪の様子がおかしい。不可思議な気持ちを覚えながらも、邪魔をしたなと帰ろうとする風間を引き止めたのは他の誰でもない諏訪だったらしい。ドアは開こうとしなかったというのに、帰るとなるとそれは困るらしい。辻褄が合わない。
「女がいるんだろう。俺もそこまで野暮じゃない。」
「お前が思ってる展開じゃねえよ。いいから上がれ。」
「情緒不安定なのか……?」
 情緒不安定気味な諏訪に通された先には、泥のように眠り息をしているか不安になるような私がベッドを占領している。言い方を最大限工夫すれば、鼠色の上下セットアップを着て眠っている私がいる。もちろん諏訪のスエットだ。
「状況を説明してもらいたいのは俺の方だろう。」
 勝手に諏訪が状況をややこしくしただけだとまだチカチカとしている頭でも理解できた。全くもって余計な事をしてくれる。諏訪に寝込みを襲うという趣味がなければ、多分私と諏訪はどうにもなっていない筈だ。今のところの事実を整理すると私は諏訪の女にもなっていないし、諏訪は私の男にもなっていない。
「天変地異は起こってないと思う。まだ地球は丸い。」
「そうか。それを聞いてお前の趣味には安心した。」
 一番の被害者である諏訪はもうツッコミという本来の仕事を放棄したのか、風間が持ってきたコンビニ袋から二本目になるビールのプルタブを開けて喉へと流し込んだ。時刻は午前零時を少し過ぎている。丁度あの間違えた選択をしてから二十四時間が経っていた。寝ても覚めても私の周りにはアルコールが蔓延っている。
「風間もお酒強くないのに懲りないね。」
「お前のように無計画には飲まん。明日はオフだ。」
「お前らは俺の都合に少しは気を遣えよ。」
 もう完全にアルコールは消え去っている。まだ睡眠は足りないにしろ、目の前で開催されている酒宴に自分一人だけ飲まないという選択肢はない。やっぱり私はシラフの時の自分が一番恐ろしい。もう既に充分に悪い自分の頭をこれからもっと悪くしようとしているのだからそれを形容する言葉は見つからない。新橋のサラリーマンなんかよりもよっぽどタチが悪い。
「お前はやめとけ。こういう時は酔い回んの早えぞ。」
「私も明日オフだし?」
「てめえらがオフでも俺はオフじゃねえんだよ。」
 結局諏訪の言葉の通り、私は一本飲み切る前に地球を回し始めてしまった。ついさっき風間に地球はまだ丸いと天変地異を否定したような気がする。自分の言葉には責任を持つべきだと改めて感じさせられる。ふいに顔を上げると、風間も地球を回しているようだったので別にいいかと思い改まった。地球は酔っ払いによって簡単に転がされるらしい。
「まじでもうやめとけって。」
「え〜、ちょっと酔ったくらいからが本番じゃん!」
「情けないぞ諏訪。」
「お前らは一生本番をするな。」
 地球は転がされている訳だけれど、まだまだ夜はこれからだ。ボーダーで基礎体力をつけたつもりでいたが、こんなところでそれを披露することになるとは思わなかった。体力の無駄遣いというのは多分こういう事を指している。辞書の参考例文にされそうだ。
 諏訪はポストと格闘するタイプの酔っ払いと、翌日の予定も顧みず朝まで酒を喰らうタイプの酔っ払いを部屋に飼っている。詰んでいる。この時の私はそんな諏訪を憐れむ事はできなかったが、回想の中では最大限憐んでいる。他人の部屋での出来事であればおいそれと捨てて自分だけとんずらしてしまえるものだが、ここは他の誰でもない諏訪の部屋だ。“御愁傷様”という言葉の意味を検索して、この時の諏訪のために用意されていた言葉のように感じられた。
「もう勝手にやってろ。」
「それじゃあつまんない。諏訪が困ってるのが一番のツマミなのに。」
「ぶっ殺されたいか。」
 まだ諏訪にシバかれた事はないが、ついにシバくの最上級の言葉が諏訪の口から飛び出した。そんな事出来るはずもないのにと思えば、充分諏訪が困っていると認識できて少しだけ腹が膨れた気がした。空腹の状態で目覚めたはずの私の胃袋にはロング缶一本分のアルコールと、大量にバラ撒かれているイカゲソの一部しか入っていない。酔って当然だ。
「諏訪、煙草ちょーだい。」
 酒と煙草というものは親和性が高い。普段私に煙草を嗜む習性はないが、酔っ払うと時折こうして諏訪に煙草を強請る。寝起きに察知した諏訪の煙草の匂いは確かにいい気がしなかったのに、こうして酒が回ると少し吸ってみたくなるのが不思議だ。煙草を欲している時点で、私が警戒レベルにまで酔っ払っているということが証明される。
「やめとけ。ハマったら抜け出せなくなんぞ。」
「諏訪みたいに依存しないもん。メンヘラじゃない。」
「勝手に俺をメンヘラに仕立て上げんな。」
「いいからちょうだいよ、一本でいいから。」
 到底正常ではない脳が諏訪の煙草を取り上げる。一度私が届かない所にその箱が突き上がったが、ふらつきながらも起き上がればすぐにそれは手に入った。諏訪もそれ以上は止めに入らなかった。
「まじで一本だけにしとけよ。」
「そんな脇酸っぱくなる程言わなくてもわかってる。」
「そんなとこ酸っぱくするな。」
 諏訪から取り上げた煙草を持って着席する。いつもソフトタイプの煙草を携帯していた筈の諏訪の煙草のパッケージがボックスに変わっていた。まじまじと見つめながら一本取り出すと、フィルターに丸い紋様が描かれている。煙草の事情に疎い私にはその用途が分からなかった。
「潰せばメンソになる。お前レギュラー嫌いだろ。」
「メンソール……」
 煙草が好きか嫌いかで言えば、多分好きじゃないんだと思う。だからたまに貰う諏訪の煙草は美味しくない。いつだかの飲み会で誰かからメンソールの煙草を一本もらったことがあったけれど、煙草独特の重たい感じが幾分か軽減されて爽やかに感じられたのを思い出す。ちょっと歯磨き粉の味に似ている。何故今になって諏訪は煙草を変えたのだろうか。
「た、たばこのIT革命や〜!」
「あほ。」
 何故諏訪は煙草を変えたのだろうか。そんな事を考えると少しばかり酔いが覚めていくようで、必死にピエロを演じるようにどこかの誰かの決め台詞を応用しておどけてしまった。丸い紋様をぷちっと潰した煙草は、いつも諏訪が吸う煙草よりも爽やかだった。
 諏訪も私から箱を奪い返して一本取り出すと火をつける。特段その丸い紋様を潰す様子もなく、煙を肺の奥深くへと流し込んで、そして吐き出した。
 中学二年の時、合唱コンクールの課題曲で『春に』を歌った事を思い出す。この気持ちはなんだろう?と自分の事なのに人に尋ねるこの曲は逆に一体なんなのだろうと思っていたし、メロディーに乗せて伝えるほどの事なのだろうかと思っていた。今なら『春に』の歌詞に共感できるかもしれない。出だしの冒頭部分だけだけれど。そんな気持ちだ。
「酔ってんのか?」
「酔っ払いに酔ってるか聞くのは愚問だよ。」
「それもそうだな。」
 既に風間は部屋の隅っこで小さく猫のようになって眠っていた。今日はポストと戦い始めるような奇行を働かずして寝てしまったらしい。煙草を吸い終わった私も残りのロング缶を飲み干して諏訪のベッドに飛び込んだ。
「寝る!おやすみ!」
 奇行を働いているのはどう考えても私の方だった。
「おー、寝ろ寝ろ。アラームかけろよ。」
「二時には起きる。」
「人ん家で何時間寝るつもりだ……」
 ベッドに入っても『春に』の冒頭部分が無限ループしていて煩い。子守唄にしては些か壮大すぎて眠れない。布団に潜り込むと、諏訪はおやすみと声をかけて電気を消した。部屋中が真っ暗になって、その後は案外すぐに眠ることができた。疲労は一番睡眠の導入には有効だ。
 ちなみに私はレム睡眠に入っていたのか全く気づかなかったが、深夜二時に私のアラームがけたたましく鳴り響いて、諏訪はそこからよく眠れなかったらしい。
 起きた頃には既に外は明るくなっていた。当初私が言っていた通り、起きたらちょうど二時になっていた。徹夜をした上に酒で二連続に虐め倒した体は想像していた以上に疲弊していたらしい。さっきのアラームのくだりは、諏訪からのラインで知った。付け加えるように“いつかシバく”と書かれていたけれど、いつか本当に諏訪にシバかれる日はやってくるのだろうか。
 目が覚めて冷静になると『春に』の冒頭部分はやっぱりおかしいと思う。昨日のあれはなんだったのだろうか。やっぱり酔っ払いは恐ろしい。空を飛べると言わなかっただけマシか。
 ラインのトーク履歴を見ながら、私は今直感的に感じている事をフリック入力で打ち込みそのまま送信した。部屋がイカ臭い。すぐに既読のついたラインからは再び諏訪の決め台詞になっている言葉が繰り返されていた。


 ようやく回想は終わり、現在の私の話に移ろうと思う。
 諏訪が可笑しな事を言っているけれど、彼は酔っているのだろうか。ここから先は回想ではないので私にこの結末は見えていない。数十分先の未来ですらどうなるか分からないのが人生なのだから、到底私にその結末が分かるはずもないだろう。
「お前の彼氏になるにはどうすればいいか教えろ。」
 そんなの私自身が一番知らない事だ。


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