前言を撤回して、ほんの少しだけ回想を続ける。
 就職に関わる話なのでもう少しだけ付き合って欲しい。

 就職活動というものは大凡大学三年生のうちに始めるものらしい。私がその常識を知ったのはここ最近の話だ。閉鎖環境試験を終えて落ち着いてから知った。自分の常識のなさと察知能力の低さは認めるが、それもこの環境に身を置いていてはある程度は仕方ないと理解してもらえるだろう。明日から私は大学四年生になる。
 大学に属していながらも、私にとってのホームは大学ではなくどちらかと言うとボーダーになる。ボーダー内でも同じ大学に通う人間は一定数いるし、ボーダーでのシフト状況を考えても純粋に共通項が大学という媒体しかない友人はあまりいない。人間関係の軸はボーダー内になってしまう訳だが、ボーダーの同級生はまるで就職への動きを見せていなかったのだから私がそんな常識に気づく筈もないだろう。
 レイジは玉狛支部で引き続き防衛任務を続けるようだ。ボーダー唯一のパーフェクトオールラウンダーとして彼は必要とされているし、少数精鋭の玉狛にとって彼は必要な人間だ。一般企業への就職という概念はもともと持ち合わせていなかったのかもしれない。
 風間に関してもほぼレイジの理由に近い。一学年下の二宮くんと太刀川を除いては実質トップに君臨している男だ。戦略的な部分に関しても風間は頭が回る。幹部からも恐らくは時期幹部候補生として視野に入れられているのだろうと思う。スーツを着て一般企業に面接に行っている風間なんて想像できない。ただしどんな風に面接で受け答えをするのかには興味がある。
 雷蔵に関してはもう既にボーダーに就職しているので、ここでは特質して取り上げる必要はない。
 残るは私と諏訪の二人だ。共通項は、私も諏訪もB級という点だろうか。このまま防衛隊として残っていく事は金銭的な部分で考えても現実的ではない。生活が出来ないという事はないけれど、最低賃金が保障されている訳ではないのだからどこかで決断は必要だ。大学に通わせてもらっている身分としてもそこはある程度慎重にならざるを得ない。
 取り敢えず私は生え際が伸びてプリンになっていた中途半端な髪を黒髪に戻した。いつだか風呂に入れていなかったが為にシャンプーだけをしに行ってついでに一センチ前髪を揃えた美容室ではないので、それは事前に伝えておこうと思う。
 事情を話して防衛任務も少し減らしてもらった。
 髪を染めシフトの調整をしたまでは良かったが、実際問題私が本当に一般企業に就職をするつもりなのかと言われると返答に困る。念のために保険をかけているだけなのかもしれない。上手くいかなければ最悪防衛の任を離れてボーダーに就職すればいいのだから。流石にそれすら断られる程の役立たずではないつもりだ。
 手始めにエントリーシートなるものが何たるかをネットで調べるところから始めた。ボーダーで三年以上この国を守る任についていた事が“学生時代に注力したこと”として優遇されると思っていたが現実は厳しいと改めて思い知った。就職浪人なる学生が存在している理由にも頷けた。
 調整してもらっているボーダー任務に支障をきたさない範囲で就職活動を続けて二ヶ月ほど経った時、ようやく初めて内定という仮のゴールに辿り着いた。その内定を承諾する前に、取り敢えず美容室に行って髪の色を戻した。
 ただ集まって飲みたいだけの連中が私の内定を理由に、久しぶりに五人で集まっていた。
 五人全員が揃う事は実質今までもほとんどなかった。今日この場で全員が顔を揃えられたのは諏訪を慕う後輩達が今日くらいは全員で集まって飲みにでも行ってくださいという善意から実現した。諏訪の力が大きいとは言え、皆私の事を思ってくれての事なので実質後輩たちはみんな私に優しい。今日くらい自惚れてもいいだろう。雷蔵は今まで一日たりとも使えていない有給を糧に鬼怒田さんを脅してきたらしいから恐ろしい。
 全員で集まった上、多くの後輩の善意によって皆明日もオフだ。雷蔵については知らないし、この間の一件があるので配慮は必要ない。
「よりによってなんで営業職なんだ?」
「私唐沢さんからも営業センスあるって言われてたし。」
「お前は世辞というものを知らんのか。」
「風間は今日どういう会か分かって言ってます?」
 別に営業になりたかった訳じゃないし、唐沢さんの言葉を鵜呑みにしていた訳でもない。営業力の高い唐沢さんだからこそ世辞の一つや二つも気が利いていることくらいは私にだって分かる。
 事実を言えば、営業職以外で内定を取れる気がしなかったから途中からは営業に絞って就職活動をしていた。有効求人倍率と給料の面を総合的に考えると、人が選びたがらない職種で戦うしか約一年就職活動に出遅れた私には選択肢がなかっただけのことだ。
 中小企業の営業職でようやく勝ち取った内定だった。営業職に限らず、その会社に魅力があったのかと言われるとよく分からない。けれど、皆同じようなものだろうと思う。どんな一流企業へ就職しても辞める時は皆辞めるのだから大差はないというのが私の考えだ。
「営業なら唐沢さんの下でも良かったんじゃないか?」
「命運背負わされてメンタル病んで終わりでしょ。」
「唐沢さん何考えてるか分かんないから普通に怖い。」
「大凡お前が言った通りになるだろうな。」
 みんな言いたい放題言ってくれる。結局私を心の底から祝いたいのではなく、皆んなで集まれる口実と後先気にせず飲めるという大義名分が欲しいだけだ。この会を開いてくれた事に若干の感動を覚えていた筈の私は、今どうしようもなく腹を立てている。普通にムカつく。男所帯はこういう配慮に欠ける。
 そんな中、いつもは輪の中心で話す諏訪の口数が少ない。馬刺しを食べ進める箸と煙草を吸う作業の繰り返しで会話に入ってこようとしない。
 レイジから今日全員で集まる場をセッティングしたという連絡を受けた時、それは諏訪が企画したものだと疑うこともしなかった。実際それを企画したのは諏訪ではなかったらしい。
「諏訪のくせに静かじゃん。」
「くせには余計だ。」
「ツッコミの性分はどこいったの?」
「俺はお笑い芸人じゃない。」
 諏訪も自分の現状に焦っているのだろうか。そんな素振りはなかった筈だが、私が内定をもぎ取った事で状況が変わったのかもしれない。
 今更そんな事で焦るのだろうかとも思う。私が髪を黒くしたのは二ヶ月も前のことだ。焦るのであればその辺りから焦るべきだろうけれど、諏訪は今も金髪のままだ。もちろんこの出立ちで就職活動をしているはずもない。
「お前にはそういう所がある。」
「…どういうところ?」
「あえて言う程の事でもない。」
 そう言った風間の言葉に雷蔵はうんと一度頷いていたし、諏訪はそれを聞くとより一層立場がないように気まずそうにしている。私は今なんの話をしているのか理解に苦しい状況下に置かれていた。なんの話をしてらっしゃるんですか?そのまま聞こうと思ったけれど、場の空気を読んでやめた。
「酒の場で風間がそれっぽい事いうのムカつく。」
「別にお前にムカつかれたところで支障はない。」
 良くも悪くも私たちのムードメーカーは諏訪だ。基本的によく喋るのは私と諏訪の二人だ。風間は酔いが回ると意味のわからない事を永遠言い始める癖はあるものの、そこは私も似たような所があるから何も言えない。空を飛べると私が言い始めるとすれば、それは風間がいる時だろうと思う。一緒に地球を転がせる人間は風間しかいない。
 酒自体はきちんと飲んでいるくせに諏訪は一向にテンションを上げない。ちなみにレイジも雷蔵も自分を犠牲にして場を盛り上げようとするタイプではない。もちろん、今日は盛り上がらない。なんの為に開かれた会なのかよくわからなくなっていた。キャラじゃなかったとしても今日くらいは盛り上げる気概で頑張って欲しいものだが、レイジも雷蔵もマイペーすぎる。なんなら元を辿ると諏訪を含めみんなマイペースすぎる人間だ。だからこそこうして一緒にいられるのかもしれないけれど、協調性に欠ける。
 結局、雷蔵の「眠い。」という一言によって私たちは居酒屋を出た。
 きっかけとなった雷蔵はそのまま寮でもあるボーダー本部に帰るのかと思ったが、休みの日まであの場にいるのは心底嫌なようだった。そして、眠いだけであってもう飲みたくないという訳ではなく、いつ寝てもいい状態で飲みたいという意味だったらしく無条件で諏訪の家で飲み直す事になった。いつだって誰も諏訪の都合は考えない。
「諏訪の部屋狭いんだけど。」
「到底押しかけた人間が言う言葉とは思えねえな。」
 結局いつも通りの展開になる。風間は家に着くと早々にレモンサワーのプルタブを開けて一口もそれに口を付けず猫のように丸まって部屋の隅っこで眠ってしまった。雷蔵はいつでも寝れる環境を確保して安心したのか、「起きたら飲むわ」と諏訪のベッドを占領して寝てしまった。
 唯一顔色を変えず飲んでいたレイジに、ゆりさんの話を振ってみると都合が悪かったのか、残りの酒を煽るようにして無視を決め込まれた。
「迅と修達が明日いないらしい。ヒュースの見張りもあるので俺はタクシーで帰る。」
 明日は全員オフだと言った張本人は、理由をつけて帰ってしまった。話題が不都合だったらしい。そんな言い訳が通用すると思っている時点で、レイジも珍しく酒に酔っていたのかもしれない。
 床に転がっている二人を除いては私と諏訪だけが起きているという現状に繋がり、ようやく私の回想と現状が重なった。
「……煙草でも吸うか?」
「そうだね。」
 禁煙を求められているわけではない部屋を出て、私と諏訪は大通りにあるコンビニへ煙草を吸いに出かける。もう既に私は喫煙者として認識されてしまっているのだろうか。だとすると困る。残念ながら今は煙草を吸いたいほどに酔えてはいない。
「今日諏訪酔ってないね。」
「今日に限らずお前より酔った試しはねえよ。」
 いつもの面子の中でも一番諏訪との関わりは深いし、何でも思ったまま話せるのも諏訪だ。なのに今日は変な感じだった。緊張とはまた違う。この居心地の悪さはなんだろうか。もう少し私の酔いが回っていたらまた『春に』の冒頭部分が脳内で再生されていただろうが、やっぱり私はまだ大して酔えていないらしい。
「お前本当に就職すんのか?」
 そんな質問を投げかけないでほしい。私だって内定を貰ったという仮のゴールに一時は喜びを感じたものの、こうして冷静になるとそれが正解だったのか分からないのだから。
「するでしょ。そのために就活してたんだし。」
「ボーダーから離れる必要あんのか?」
「唐沢さんの下で営業やったらどうせボーダー辞める羽目になる。」
「営業以外にだって仕事あるだろ。」
「……あ〜、それもそうか。」
 諏訪に一本煙草を渡されて、口に咥えると諏訪のジッポライターが追うように火をつけた。丸い紋様をぷちっと潰すと、ほろ苦さがありながらも歯磨き粉のような爽やかさが広がる慣れ親しんだ味がした。美味しいとは思わない。諏訪がこの煙草に変えてから一年が経つけれど、どれくらいこの味を摂取しただろうか。私の肺もいよいよ真っ黒になっているかもしれない。
「諏訪はボーダーに就職するの?」
「さあな。今んとこは現状維持ってとこか。」
「ふうん。」
 あと十ヶ月後には私もボーダーを離れるのか。就職活動をしてみたまではよかったが、それを現実にするとボーダーを離れるということに繋がるのは考えていなかったのかもしれない。果たして私は今まで慣れ親しんできたこの環境以外で、役目を全う出来るのだろうか。そう考えながら、その役目を全うできるかどうかに不安を覚えている訳ではない事はなんとなく理解してしまった。こういう時にこそ酔っ払いは体がいいのに、冷静な自分が憎い。
「ならお前と会う理由もなくなるな。」
「そうかもね。」
「それでも就職すんのか?」
 諏訪はそう言って、肺の奥深くへと忍ばせていた煙を上に向かって吐き出した。私の方は見ていない。澄んだ黒い空を見たままだ。諏訪にこんなシリアスな盤面は似合わない。
「わかんないけど、するんじゃないかな。」
「わかんないって何だよ。」
「わかんないけどするんだよ、就職。」
 そう言い聞かせないといろんな事に辻褄が合わないような気がした。だから声に出していう必要があったのだと思う。ボーダーの仕事を減らして髪まで黒くして挑んでようやく手に入れた内定だ。ここで手のひらを返したようにボーダーに残ると言うのは反則のような気がした。
「わかった。」
 ここで欲しいのはそんな言葉じゃないのに、なんで諏訪は簡単にわかったと了承してしまうのだろうか。いつだって私の欲しい言葉をくれる筈なのに、今日の諏訪は意地が悪い。諏訪が一言辞めるなと言えば、私にはボーダーに残る理由ができるのに。そんな言質すら取らせてはくれない。
「なら教えろ。」
 一体何をそんな偉そうに問うのだろうか。諏訪のくせに。
「お前の彼氏になるにはどうすればいいか教えろ。」
 酔ってはいないと言いながらも諏訪は酔っているのかもしれない。シャキッとして見えてはいるけど泥酔しているのだろうか。言葉の意味が分からなくて、でも確実にあの曲の冒頭フレーズが脳内で再生されていく。やっぱり私も酔っているんだろうか。
「諏訪やっぱり酔ってるんでしょ。」
「酔ってた方が楽かもな。」
 この気持ちは本当になんなのだろうか。まるで諏訪に誘導されたように気付かされるのが酷く癪に触る。結局私が一番最初に手をつけるツナサンドのように、やっぱり諏訪はツナサンドなのかもしれない。最後のとっておきよりも、すぐ手が伸びてしまうツナサンドの方が私にとっては一番確保しておきたい具材なんだろうか。諏訪のくせに生意気だ。
「会う理由くらい作らせろ。」
 それは、こっちの台詞だ。




 珍しく回想ではなく、未来の話をしようと思う。
 通称コンビニ煙草事件から約一年後の未来の話だ。

 数年先の未来は大凡想像を超えて変わりはしないと言ったような気がするが、やっぱり数十分先の未来もわからないのだから数年後の未来なんてもっと分からない。人生は分からない。だからこそ、人生はやめられない。
 いつだか諏訪の部屋で瀕死の状態だった時にサンドウィッチを咥えながら寝落ちしたことがあったけれど、あの時の答え合わせをついこの間諏訪とした。
 諏訪曰く、私はツナサンドを咥えたままガンとしてそれを手放さなかったらしい。これは諏訪の虚言や捏造、そして願望が含まれている可能性があるので私は認めていない。

 煙草とアルコールの親和性が高いことは前述している通りだが、煙草は甘味とも相性がいいらしい。知らなかった新情報だ。私はもう煙草を吸わなくなった。多分諏訪と煙草の親和性も高いのだろうと思う。もう私に煙草は必要ない。二宮くんの言葉を借りるとすれば、つまりはそういう事だ。
「二日酔いだから夜勤シフト変わってよ。」
 結局私は例の中小企業に就職はしていないし、ボーダーにも就職してはいない。今までと同じように防衛隊にいた。諏訪の最大の誤算はそこにあるだろう。
「馬鹿言ってんじゃねえよ。こっちも二日酔いだ。」
「二日酔いの彼女一人救えなくてどうする諏訪洸太郎。」
「……シバくぞ。」
 結局私はまだ諏訪にシバかれてはいない。この先何回もこの言葉は諏訪の口から出るだろうし、私も耳にするはずだ。多分諏訪が私をシバくことは今後もないだろう。それは私に限った事じゃない。諏訪は結局誰もシバいた事がないのだから。
 あの時ボーダーを辞めると言っていなければこんな未来はなかったのかもしれない。あったとしても、もう少し先の未来だっただろう。これはこれでいいのだとそう思う。
 もうあの曲は流れない。もう疑問に思う事はないからだ。
「…酒くさい。」
「お前もな。」
 おまけに煙草の味がする。
 諏訪は再び煙草をソフトタイプのものに戻していた。


End.
2022/06/17 ~ 2022/06/19
wrap up( 終わらせる )