人間の精神は想像以上に脆くできているらしい。
 自分のことは、至って普通の人間だと思っていた。取り立てた特徴もなければ、目立つほどに出来が悪い訳でもない。シンプルに普通の人間だと、そう思っていた。

 たった一人の男が、私を変えた。
 今までも彼氏がいなかったという訳ではない。だからこそ、自分自身がそこまで脆い人間だとは思わなかったのかもしれない。どっぷりと依存することもなく、いてもいなくてもいいくらいの温度感。強いて言うなら、居た方が友人との会話のネタに困らないという程度だろう。性格が淡白なのかもしれないという自覚はあった。
 自分の事を案外皆理解していないものなのだろうと思う。もう子どもじゃないし自分との付き合いもそこそこ長い分、自分の事を完全に理解していたと考えていた私も、数ヶ月前と今の自分とでは全く考えは逆行しているからだ。
ちゃん、最近元気ないね?」
 最初は些細なことがきっかけだったような気がする。大学での交友関係があまり上手くいかないとふと思ったり、ボーダーの仕事で授業にあまり顔を出せていなかったのも影響しているのだろうかと考えたり、たいして取り留めてもいないような小さなものが次第に積み重ねて大きくなっていった。
「そうかな。元々こういう感じだと思うけど。」
「これでも心配してるんだけど、クールだな〜。」
 心配されて迷惑という訳ではない。自分を気にかけてくれる人間がいるのは間違いなくプラスに働く。けれど、犬飼というこの男に限ってはあまり当て嵌まらない。私が彼を苦手としていたからだ。明確な理由はない分、本能的に無理だと判断していたのだと思う。
「犬飼くんはいつも優しいね。」
 素直な感情のままを見せているようで、彼の張り付いたような笑みが逆に胡散臭く見えていたのかもしれない。だからか、いつも当たり障りのないような上っ面な言葉しか出てこなかった。
「そんなことないよ、相手は選んでるつもり。」
「大学の友達の中でも犬飼くんファン多いし。」
「そうなの?」
 同学年ということもあったし、高校を卒業してからは同じ大学に通っている共通点の多い関係性だ。けれど自分自身の中で、彼との距離は以前よりも遠くなっているように思う。接点が多くなった分、関わる頻度が高くなったからだ。
 誰に向かっても一定の笑みを浮かべていながらも、その目の奥がしんと静かに一点を見つめるように冷静で、私には何かを見定めているように見えた。雰囲気と、私が勝手に持っている彼へのイメージがあまりにも乖離していて、何を考えているのかよく分からない。
「嬉しくないって言えば嘘だけど、沢山の人に好かれたいって訳じゃないから。」
 こちらが当たり障りのない適当な会話をしているのに、いつだって意味ありげな言葉で私に絡んでくる。彼のこういうところが苦手だった。
 それこそ彼と話したい女なんて掃いて捨てるほどいるだろうに、なぜ私のような特徴もなければ、執着されるような覚えもない女に声をかけてくるのか理由が全くもって理解できないからだ。その分警戒心と、苦手意識ばかりが高くなっていく。
「モテる人の言葉だ。」
「真面目に言ってるんだけどな〜、茶化さないでよ。」
 彼との会話は、いつだって私が一方的に交わすような形でしか進行していかない。捉え方によっては会話が成立していないようにも見えるが、彼は全く気に留めていないように会話を続けてくる。
ちゃんって案外いじわる?」
「どうかな。相手によるかも。」
「手厳しいな〜、俺のメンタル鋼だと思ってる?」
 正直に「思ってる。」そう答えそうになって、踏みとどまった。彼は人の感情に聡い。簡単にいえば空気が読める。けれど、それに反比例するように空気を読みながらもあえて空気を読まない節がある。だから、怖い。
「普通の人よりはちょっとタフだとは思うけどね。」
 この状況が相手にどう伝わっているのか、聡い彼なら分からないはずがない。私が苦手意識を持っている事を間違いなく理解しているはずだ。誰よりも空気が読めるくせに、空気を読まないのは一体の何の目的があるのだろうか。
「心臓も毛だらけだったりして。」
「やだな、俺そんなに毛深い方じゃないよ。」
「そっか。」
「ここは笑って欲しい所なんだけど……」
 会話の流れを読めばここで少し笑っておけばいい事くらいは理解しつつも、私も同じようにあえて空気を読まずに受けかわす。私たちの会話は端から端まで隈なく探しても、きっと本音はどこにも見つからないだろう。
 お互い腹の探り合いをする為だけの会話だ。腹の探り合いをしないといけない関係性でもない以上、不必要な作業でしかない。
「まあ、気が向いたらいつでも相談してよ。」
「ありがとう。」
 それが私の悩みになるであろうことも分かっている癖になんて白々しい男なのだろうと思った。彼のせいで人の言葉にフィルターをかけて斜めに見るようになってしまった気がする。
 相談する訳がないと思いながらも、すでにこの時から私は彼にマインドコントロールされていたのだ。そう断定するにはきちんとした理由が存在する。
 今現在、この男が私の彼氏だからというのが明確な理由だ。
 “事実は小説より奇なり”とはよく言ったもので、ホラーのような現実は存在するのだと私自身が証明してしまった。
 犬飼澄晴は、そういう男だ。




 私の味方をしてくれるのは、世界でたった一人だけ。
 そんな錯覚に陥り始めたのは、先ほど会話した頃からもあまり遠くない。それだけ私の中に彼が入り込んでくるのは早かった。潜在的にあった苦手意識はそのままの筈なのに、どんどんと彼を受け入れざるを得ない状態になっていくホラーのような状況が続いた。
 気づいた時には、大学でも浮いた存在になりつつあり完全に孤立した。そんなタイミングを狙ったように、彼は私に唯一声をかけてくれる存在になっていた。
 大学だけでなく、次第に居場所であった筈のボーダー内でも取り残されていくようになった。一体私が何をしたというのか。まるで自覚がない。けれど、孤立しつつある私にはそれを確認する手段すらもなかった。
「俺は君の味方だよ。」
 人の弱音に漬け込んで来る様な感覚を覚えつつも、気がついた時にはもうそこにしか私の居場所はない。全てが胡散臭く感じられた彼のその言葉にこそ、縋らないと精神的に崩れそうな状態に追いやられていたからだ。
「だからもっと頼ってほしいな。」
「もう充分頼ってるよ。」
「もしそうなら全然足りない。」
 どんどんと孤立していく私に反比例するように、彼だけが私に限りなく寄り添っていた。あれだけ苦手だった筈の犬飼という男に、私は依存せざるを得ない。けれど、だからと言ってその居場所が私を安堵させてくれるという訳でもなかった。どうしようもなく依存しながらも、いつも居心地の悪さと得体の知れない恐怖が蔓延っていた。
「じゃあ、どうしたらいい?」
 捨てられるかもしれないという恐怖ではない。恐らくは彼が言うように、今後も彼は私の味方をしてくれるのだろうと思う。そこにだけは嘘がないだろうと、私が唯一断言できる彼への信頼だ。
 彼と付き合うようになってから暫くして分かった事がある。
 犬飼澄晴は私にとっての唯一の味方であり、そして最悪なこの状況を生み出している私自身にとっての最大の敵であるということだ。
「俺が君を好きなのと同じくらい俺の事好きになってよ。」
 どんな内容の噂を流され、孤立する羽目になったのかは分からない。けれど、その状況を作り出したのが彼である事は日が過ぎていく毎に分かるようになった。恐らくは、うまく間接的にそんな状況を作り出していたに違いない。私に悩みとなる原因を作り出して、そこに漬け込んできたのは間違いないだろう。
 もっと恐ろしいのは、その経緯が既に私に割れている事すら彼が理解している節があるという点だ。そこまで固執する程好きなのだと、それすら見せ球にしているように感じられた。
 それを理解した上で、私には解決しない疑問が二つある。
 一つ目は、彼が私にそこまでして固執する理由だ。私にはまるで思い当たる節がなく、何がそこまで彼を突き動かしているのか見当もつかない。
 二つ目は、味方でもあり元凶となっている私の敵でもある彼のことを受け入れてしまっている自分自身に対してだ。本来であれば憎むべき相手に違いない。彼がいなければ私の人生は少なくとも今とは違う未来だっただろう。そう思うのに、不思議と彼を恨む気にはならない。寧ろより一層どっぷりと依存していくように泥に沈んでいく。
「澄くんよりもっと好きに決まってる。」
「それ証明できる?」
 私の唯一の居場所のくせに、私の事を好きだと大切だと言いながらも、誰よりも彼が私を追い詰める。当然居心地は悪いのに、どうして私はこの関係をやめられないのだろうか。何を捨ててでも、彼のことだけは捨てられないとそう考えてしまう私はどうかしている。
「そんなの無理に決まってるじゃん……分かってよ。」
 もう私には彼以外何も残っていない。大学でも全て彼と行動を共にして、同じ授業を受けて同じ食事を取る。
 辛い思いをしてまでボーダーに残る必要もないと、結果的にボーダーも辞めるよう勧められて辞めざるを得なかった。長い時間をかけて得てきたものを一瞬で全て手放した。
「どうしたら許してくれる?」
「別に責めてる訳じゃないよ。」
 その狂気に満ちた執着した愛に答えるべく、私はこの不安定な心と居場所を守ろうとする。自分でも自分がわからない。そこまでして守る価値のあるものなのかを私自身が判断出来ないほど彼に侵食されているのだと思う。
 その状況が全て分かっていながらも、やっぱり私は不安定な心を繋ぐために今日も自ら不安定を買ってでている。
「ごめんね、好きすぎて。」
 この言葉が私を貶めて、そして救ってくれる。
 彼が何を考えているのかは未だ何一つわからないし、これからもきっと分かる日は来ないだろうと思う。唯一分かっているのは、彼が私に固執していて、そしてそれを愛と呼んでいることだけ。
 それが彼の持つ病なのであれば、永遠に寛解しない事をただ願うばかりだ。



2022.11.03
( 病は気から )