折角の修学旅行だというのに、リョータの機嫌はすこぶる悪そうだ。
 リョータ本人も随分と修学旅行を楽しみにしていたようだったが、何が彼の機嫌を損ねているのだろうか。私にはその理由となるものがまるで分からない。まだ自由行動前なので同じクラスの友人と一緒に行動しているけれど、まさかそんな事で怒ったりはしないだろう。流石に。
 もう一度確認するように、少し後方で安田くんと歩いているリョータを見てみる。私の見間違いという訳ではなく、しっかりと不機嫌そうな顔をしているリョータがいた。安田くんはリョータの不機嫌な理由を知っているんだろうか。
 昼を目前にして、ようやく自由行動となった私はリョータと合流する。今まではお互い部活もあって中々こうしてゆっくり一緒に過ごす事も少ないからと、私もリョータもとても楽しみにしていた筈だった。
「リョータ、どこ行こっか?」
 少しでも重い空気を軽くしたくて、何も気づいていないふりをして切り出した。
「………なんで怒らないの?」
「ん、なにが?」
「ああいうのほんと無理なんだけど。」
「だから何の事?」
 本当に彼が何の事を言っているのか見当もつかない私に、リョータは私の右手をとって、そして私自身にその手を見せつけるようにしている。私の手が一体どうしたと言うのだろうか。
「なに、突然……」
のそういうとこ嫌い。」
「き、嫌い?」
「何でも許して受け入れるところ。」
 自分自身の手を見せつけられても何の心当たりもなければ、お互いあれ程楽しみにしていた修学旅行の自由行動で合流して「嫌い」という言葉まで出てきてしまった。まるで理解が追いつかない。
「なんかあったっけ?」
「あったでしょ。」
「全然心当たりないんだけど。」
「俺はめちゃくちゃ思い当たってる。」
 思い当たっているから怒っているんでしょうね、それは分かります。でもだからって何故リョータが怒っているんだろうか。私がぷんぷんと怒るのならまだ理解できるかもしれないが、ぷんぷんしているのは私ではなくリョータの方だ。
「さっき女子力ないって言われてたでしょ?」
「あ〜、なんかそう言えばそんな下りあったかも。」
「かもじゃなくて、あったんだよ!」
 言われてみれば、くらいの微かな記憶を辿る。そう言えば話題がネイルの話になって、そして私のあまりにも色気のない爪に女子力がないと言われたのを思い出した。それを聞いていたらしい。
「まあ事実だし、あんなの笑い話じゃん。」
 実際言われた張本人が忘れているくらいなので怒る事でも傷つく事でもない。事実私の爪は友人達と違ってとても短くて、そして色気がない。
 最後の夏を終えて部活を引退すると、どんどん周りが派手になっていく。アクセサリーがついたり、髪が明るく染まったり、爪にカラフルな色が乗っかったり。そんな周りの様子にはもちろん気づいていたけれど、どうしてその事に対してリョータが怒っているのかは未だに分からない。
の事なんも分かってないじゃん。」
 リョータのその一言で、何となく彼の言わんとしている事に気がついた。一緒にこうしている時間は決して長くないけれど、リョータはしっかり私の事を見ているんだとそう思った。それはとても贅沢で、そして幸せな事だ。
「だからってリョータが怒ることないでしょ?」
が頑張ってんの何も分かってないから普通にムカつくじゃん。」
「短気は損気。」
 流行りやお洒落に興味がない訳じゃない。良く見られたいという人並みな気持ちだってある。でも、それ以上に大切なものがあった事を思い出した。もう部活も引退してある程度の自由が増えても、ネイルをしようとは思わなかった。けれど、その理由が自分の中でも不明瞭で、リョータのその言葉でぼんやりと答えが出たような気がした。
「リョータだけが分かってくれたらそれでいいじゃん。」
 リョータは自分が何かを言われてもあまりそれに頓着しないくせに、私の事になると急にこうして感情的になる。同じようなことが過去にも何度かあった気がするけれど、その度にリョータの事が好きになっていく。
 短く切り揃えられている爪を見てから、スッとリョータにその手を差し出した。「ん?」と最初は驚いていたようだけど、なにも言わずにそっと大きな手のひらで包み返してくれた。
「リョータの手ガサガサしてる。」
「そう?」
「マメもあるし。」
「嫌なの?」
「バスケしてるな〜って手だよね。」
 ガサガサしている手のひらも、短く切り揃えられたその爪も、その全てがバスケに対して真摯に向き合っているのが分かるから。大好きでしかないけれど、あえてその言葉は心の中に押し込んでおいた。言葉にすると好きが溢れてしまいそうな気がしたから。
「私だけが知ってるなんてなんか贅沢。」
の贅沢安くない?」
「高いよりはいいんじゃない?」
「そりゃそっか。」
 その贅沢を存分に味わうように指の間に指を忍ばせると、ぎゅっと力強く握り返された。隣を歩いているリョータの顔を見ると、先ほどよりも随分と穏やかな表情だ。これで機嫌も治ったかもしれない。
 そう思っていたら差し込んでくるように、「さっき女子力ないって言った子とは友達やめてね?」なんてしれっと恐ろしい事を言ってくるので油断は大敵だ。このままのペースでいくと、私の友人は一人もいなくなりそうだ。



やさしい境界線
( 2023’07’17 )