シーズン中のリョータは忙しい。
 自主練を含めると一日の活動はほとんどバスケ尽くめで、食事と睡眠を除いては日常的にバスケと共存している。リョータの中でバスケが日常化していて、きっとバスケの方もお前が日常化されていると言っているに違いない。幼い頃に出会ったバスケを、大人になってもこれほど大切にできるのは素敵な事だし、だから私は純粋な気持ちでリョータのバスケを応援する事ができる。

 一緒にいられる時間が短いとか、そもそもバスケの事ばっかりとか、そんなことは特に思った事がない。それは例え一緒にいられる時間が短かろうと、普段は頭の中をバスケでいっぱいにしていたとしても、その分一緒にいる時はその時間の限りを私にくれるからだ。何も文句はないし、それだけ貴重なリョータの時間を仮にも彼女とはいえ私が占領できるのはバチがあたる程贅沢でしかない。

 いつだかリョータに一緒に住みたいと提案された事があったけれど、私はそれをやんわりと断ったという過去を持つ。
 常に一緒にいられたら幸せだろうなと、心の底からそう思う。リョータの事だから、間違いなく尽くしてくれるだろう。デメリットやマイナスの要素は考えたところで思い浮かばない。けれど、頻繁に会えないからこそ一時的とはいえリョータを独占できているこのなんとも言えない特別感が、私は好きなのだろうと思う。
 実のところを言えば同棲の提案は一度だけに留まらず、恐らくは五度程はあったと記憶していて、その度に「もう少ししたらね。」と言う私にリョータは右の眉毛をぴくりと歪ませる。そして、ぽってりと厚みのある唇を少しだけ尖らせる。無意識だろうけれど、私はそんなリョータの表情で多幸感に襲われる。たちの悪い趣味である事は自覚しているけれど、やめられない。
「随分と急だね?」
『なに、迷惑なの?』
「いやいや、そんな事言ってないでしょ。」
『じゃあ行っていい?』
 数日前から騒がれてはいたものの、どうやら明日の天候は大荒れらしい。電車の運行状況も怪しいと言われている中で、今シーズンの好成績を讃える意味も含めて今晩予定していたミーティングと翌日の予定が丸々なくなったのだとリョータは電話越しに教えてくれる。それが分かってすぐ私に電話をかけてきている、そんな状況らしい。顔を見ずとも、今リョータの唇が少し尖っているのは想像がついた。
「全然いいんだけどさ、今日女子会なんだ。」
『こんな日に飲みに行くの?』
「今日在宅でそのノリでオンライン飲み会。」
『それいつ終わる?』
「分かんない、外と違って時間関係ないもん。」
 昨今の文明は随分と進化していて、生身が現地になくてもネットワークを駆使してバーチャル空間で飲み会ができる時代らしい。文明の利器というものは想像以上にすごい。子供の頃、実家の壁に画鋲で刺されていた連絡網を見ながらカチカチ音を鳴らせてダイアルを叩いたものだが、文明の進化は著しい。誰が出るだろうかとドキドキしながらコール音を聞かずとも、今は直通で連絡が取れる時代だ。リョータと一緒に暮らさずとも幸せに生きていられるのは、きっとこの文明の進化もあっただろうと思う。
『……とりあえず行くのは駄目じゃないって事?』
「うん、それはいいけど。」
『てかなんでそんなに冷静なんだよ。』
「興奮してたら逆にキモくない?」
『そうじゃなくて、嬉しくねえの?って事。』
 もう付き合って何年にもなるのに、変わらず私の事を初々しい気持ちで好きでいてくれるリョータがどうしようもなく好きで、ずっと見ていたくなる。それが故に私はあまり感情をストレートに伝える事ができなくなってしまった気がする。
 好きという言葉を伝えるのは簡単な分、薄っぺらくも聞こえてしまう。もっとしっかりと重みがあってペラペラせずに感情を伝えられる言葉があればいいのにと思う。代用できるいい言葉を知らない私は、ひとまずはそれを乱用させない事で言葉の尊厳を保っている。
「お風呂沸かせて待ってるよ。」
『……ん、あんがと。』
 元々は高校時代のクラスメイトだったとは思えない、このリョータの言動がたまらない。直接的な言葉がなくても、熱烈な愛の言葉がなくても、情熱的な抱擁がなくても、リョータのこの一言でそれらを凌ぐ愛情を感じて、私もどうしようもない感情を抱えられるのだから不思議だ。コスパがいいのか悪いのかは、正直なところよく分からない。





 三週間ぶりに会ったリョータは言葉数こそ多くはないものの、玄関先で迎え入れた時から些か機嫌がよさそうだ。一緒にバスルームへと向かって、リョータは鞄の中からTシャツやバスパンを取り出して洗濯機に入れ込む。「あ、悪いけど洗濯してもいい?」丁寧に確認してくれる所が妙に律儀だったりする。洗剤ボールを一つ投げ込んで、スイッチを押す。
「これ、バスタオル使ってね。」
「…ん、ありがと。」
 お気に入りの柔軟剤でふわふわに仕上げたバスタオルをリョータに手渡すと、お礼と一緒に顔が近づいた。私が今も尚構えてしまう距離感だ。どうしたものかと無言でリョータを見上げると、鏡に映る私たちをバスタオルで隠すようにして、そして小さく触れた。
「飲みたかったら冷蔵庫のビール、飲んで。」
「一緒に飲みたいんだけど。」
「飲み会終わったらね、飲もうよ。」
「じゃあ飲み過ぎんなよ。」
「うん。」
 なるべくゆっくり時間をかけてお風呂に入ってもらえるよう、友人からプレゼントでもらっていた入浴剤を浮かべてきた。これできっとリョータも長風呂をしてくれると期待のようなものを抱きながら。
 オンライン飲み会を提案してきた会社のメンバーを考えると、どうにも終わりの時間が読めない。外で飲む時は時間制限や終電という暗黙のルールがある分良心的なのかもしれないと思う。きっとリョータの頭の中には“飲み会”という言葉よりも“女子会”という言葉がインパクトとして残っているだろうから、いつ痺れを切らすのではないかと私は早々に不安を抱いている。長風呂作戦には、そんな私の意図が含まれていた。
 冷蔵庫からビールを取り出して、テーブルに置いてあるパソコンを起動させる。時間は八時ぴったり。画面越しにはお酒を片手ににこにこしている会社の同僚が映り込んでいる。金曜日という開放感からか、画面越しからでも今日は飲むぞ〜という無言の圧を感じ取った。
「乾杯〜!」
 私がビールを半分程飲み終えたところで、想像よりも少し早くリョータが風呂から上がってきたようだ。二、三分ゴウゴウとドライヤーの音が響いていたけれど、タオルを首からかけてリビングへとやってきた。
 私の方を見て、口をパクパクして何かを伝えようとしているらしい。どうやらお茶を飲んでいいかと聞いているようだ。私は人差し指と親指を合わせて合図を送る。しばらくソワソワしながらリョータを見ていると、私から少しだけ距離を置いてソファーに座り込んだ。ワイヤレスのイヤフォンを嵌め込んで、どうやら動画を見ているようだ。
 あと一時間は何としても暇を潰して欲しいと思っていたけれど、私のビールが三本目に差し掛かろうとした時、時間にして一時間二十分が経過した辺りで痺れを切らせたリョータの声が響いた。
「ねえ、いつ終わんの?」
 明らかに全員に聞こえるように言っているのだから、本当に痺れを切らしているのだろう。画面上の二人がざわつく。予告もしていなかった男の声が突然聞こえてきたのだからそれも当然だろう。
『え、今の声誰?』
「……ごめん、彼氏。」
『え〜!ちょっと!』
 酒の勢いもあってか、画面越しの二人がきゃっきゃしている。対するリョータの方を見やると、自分の言葉への明確な返事が聞こえないからかいつも以上に眉毛に傾斜をつけている。私がリョータを見ている途中でも、イヤフォンからは女子特有の黄色い声が飛んでいる。人の色恋沙汰が相当に好きらしい。
「みんながリョータと喋りたいって、入る?」
「女子会だし俺が入ったら意味わかんないっしょ。」
「女子ってそういうの好きらしいよ。」
 どうするのか反応を伺っていると、ソファーから立ち上がって床へと場所を移す。私の隣を陣取っているリョータは、いつも通りの顔で特別愛想もなく淡々としている。
「…ども、いつもがお世話になってマス。」
!彼氏めっちゃイケメンじゃん!』
「あ、うん…ありがとう。」
 そこからはリョータへの質問攻めだ。私とはいつ出会って、いつ付き合ったのか。どちらから告白して、それはどこでしたのか。最近はどれくらいのペースで会っているのか、一緒にいる時は何をするのか。一問一答のように、際限なく質問が飛んでいくる。ちなみにリョータが参加してから私は一度も口を開いていない。
『彼氏さんも一緒に飲みましょうよ。』
「俺はやめときます。」
『え〜、お酒飲まない人?』
「こいつと二人で飲むって約束したから。」
 聞いているこちらが恥ずかしくなって、画面から視線を逸らしてしまう。こういう事をしれっと言わないでほしい。パソコンのスピーカーからは声にならない声が漏れている。これが無意識なのか、それともマウントなのかは分からないけれどいずれにしてもタチが悪い。
 リョータはテーブルに置いてあったヘアバンドを首に通して、前髪を上げる。風呂上がりのリョータは基本このスタイルだ。ふわふわとしていて、それでいて少し目にかかる前髪が鬱陶しいらしい。私からしたら当たり前の事で気づかなかったけれど、急に二人の雰囲気が変わっている。
『え……の彼氏って宮城リョータ?』
「お、知ってくれてるんだ。」
『知ってるも何も……だってプロじゃん。』
「そう、俺プロなんすよ。」
 突然の自慢かと見ていれば、どうやらそういう訳ではないらしい。暫く画面上でざわざわしている二人から、バスケのことについて質問されていたリョータはキリのいいところで話を区切って、そしてやっぱり淡々と話し始める。
「明日久しぶりのオフだから普段中々会えない彼女に会いにきたって訳……、そろそろ察してくれると嬉しいんすけど?」
 一度慄いたように二人してお喋りな口を閉ざして、そして一時停止している。たまに会議中に起きるネットワーク不具合によるフリーズ現象かと思うくらいに、それはもう綺麗にフリーズしている。「どう、察してくれた?」リョータが確認の意味を込めてもう一度そう聞くと、どうぞどうぞと両手を差し出された。お礼の言葉を述べたリョータは通話終了の赤いボタンをクリックすると、そのままパタンとノートパソコンを閉じた。
「……次から誘われなくなったらリョータのせい。」
「いいじゃん、俺がいるでしょ。」
「それとこれとは話が違うしそもそも強引すぎ!」
「だって、ずるいだろ?」
 何がずるいと言うのだろうか。まるで意味がわからない。そもそも先に約束をしていたのは彼女たちの方だし、リョータにもいつ終わるかわからない女子会という名の飲み会がある事は事前告知していた筈だ。
「一緒にいる時はの事しか考えてないから、も俺といる時くらい俺だけの事考えてよ。」
 歯の浮くような科白に、暫く思考が停止する。付き合ってばかりという訳でもないのに、リョータは私を彼女として迎え入れてからずっとこの調子だ。倦怠期どころか、常に私に対してどうしようもない独占欲を覗かせている。そんなリョータに、私は心地のいい自分の心音を感じながらも、何年経っても慣れる事のないそれに忙しい。
「もしくは俺と一緒に住むかだな。」
「隙あらばその話するよね。」
「一緒にいないと余計考えてしんどい。」
「それずっとじゃん。」
「そう。」
 お気に入りのクッションを抱き抱えている私に、静かにリョータの手がそのクッションを取り払う。次の展開がなんとなく察知できて恥ずかしくなっていた私を見て、リョータは満足げに少し悪い笑みを浮かべている。少しイタズラっぽく、あどけない少年のように。
「…やっぱりまだ先かな。」
「マジでなんでそんなに鬼畜な訳?」
「ん〜、内緒。」
 こんなことが毎日続くようなら確実に私の心臓は破けてしまうだろうと思う。ぎゅうぎゅうと音が出そうな程に私を強く抱きしめるリョータに、私もこっそり腕を回した。
 これから飲むビールは、酔いを加速させそうだ。



やわらかなる頽落
( 2023’03’26 )