つい先週季節外れの雪が降ったかと思えば、桜の開花まではあと数日を切っているらしいが、世の中はどうなっているのだろうか。ついこの間当たり前だと思っていたことが、簡単に変わる世の中だ。順応していくのにいっぱいいっぱいで、すぐに気持ちは追いつかない。私の中の季節はまだ冬なのに、空を見上げれば澄んだ青にピンク色の桜が重なって、春を告げている。私の心境も、まさにそんな感じだ。
 二宮からの今日の誘いをどう捉えるべきなのか、私はいまいち掴みきれていない。まだ衣替えさえ終わっていない私の季節感の中に、いきなり二宮が飛び込んできた。今までの同期という関係性を飛び越えて、より私に近い存在になった。   のだと、思う。
 “俺にしとけ”
 彼にそう言われたのはついこの間の出来事で、そして言われるのは二度目だ。一度目は私が若かりし十代の頃から憧れていた東さんに失恋した二十歳の誕生日翌日に、二度目は二週間前だ。
 もう二週間と思われるかもしれないが、私はあれ以降も今までと何も変わらない日常生活を送っていて、特別関係性に変化もなく二週間が経過したというのが正しい注釈だ。結局二宮が自分にとっての何たるかを今の私は理解できていない。彼女になったのかもしれないし、今まで通りのただの同期のままなのかもしれないけれど、それを確認する術もよく分からない。
 同じく本部に勤務している人間同士、会話をしようと思えば別に難しい事じゃない。現にそこら辺を歩いていれば簡単に二宮には会うことができる。もう長い間同期として接してきた二宮に“この間のあれは告白だったのか” “私は今あなたの彼女になったんでしょうか”などと確認する事ほど恥ずかしいことはないし、癪に触る。何なら俺にしとけと言われたのは私の方なのだから、私があたふたする必要はないはずだ。けれどいざ蓋を開けてみれば二宮はいつも通りの仏頂面で何も変わらず、私だけがペースを乱されているこのザマだ。告白されていたとしても、トータルの収支を考えるとなんだか気に食わない。
 私は多分、二宮のことが好きだ。一度目に同じことを言われた時よりも、確実に今の方が好きだと思えることだけは確かだ。元々一緒にいて気を使わないでいい関係性だった二宮の隣は昔から心地よくて、そして私が何一つ隠すことなく本当の自分を出せる数少ない知人だ。
 一度目の時、私は東さんに失恋してばかりで正直その言葉は耳には入っていながらもするすると逆側の耳から抜けていくように留まらなかった。二宮に対して感じていた“好き”は東さんに対するそれとは違って、私にとっては憧れだった。東さんに選ばれる素質を持った二宮が羨ましくて、私は二宮になりたかった。だから、その言葉は右から左へと消えてしまった。二度目に聞いた同じ台詞は、何度でも聞きたくなるような不思議な感じがした。けれど、それだけだ。これから燃えるような恋愛を私達がするのか?と言われたら、多分そんなことはない。気恥ずかしさが勝るし、お互い多分甘えるのは苦手な方だ。二宮が折れるのも、私が折れるのもなかなかに想像し難い。
 彼との今の関係が継続されるのであれば私にとってそれはそれで悪くない。男として彼のことを見ようと思えばそれもできるだろうけれど、どちらかと言えば元々人としての彼が好きだからだろう。だからあえてこの宙ぶらりんな関係に、自分から確認をする事をしないのかもしれない。
 普段はあまり意味がないからと特別つけない口紅をポーチの奥底から引っ張り出して、鏡の前で唇をなぞってみる。どうせ一口目のビールでその半分以上がグラスに移って、一杯目を飲み干す頃には肌なじみの良い元々の色に戻るだろうに。そんな意味のない口紅を塗ったのは二宮に会うからではなく、社会人として誰に見られても恥ずかしくないようにという尤もらしい理由をつけて駅前の公衆便所から一歩踏み出した。
 改札を出た先に聳え立つ柱の前でその仏頂面が待っていて、私はひょいと右手を上げて極力いつも通りの自分で行こうと最後に一度言い聞かせた。
「お待たせ、早いじゃん。」
「……大人だからな。」
「私だって一応五分前行動なんですけど。」
「別に俺は何も言ってない。」
「…あ、そう。」
 思っていた以上に、自然といつも通りの会話になってどこか安心した自分がいた。私たちの関係性が変わっていたとしても、私と二宮が変わる訳じゃない。冷静に考えればこれが当たり前の今の私たちの在り方で、正しい会話なのかもしれない。そう思うと急に口紅が恥ずかしくなって、唇を少しだけ舐めとった。
「どころで今日どこ連れてってくれるの?」
 いつものパターンであれば馴染みの居酒屋か、もしくは焼肉の二パターンが濃厚だが果たして今日はどのプランなのだろうか。あるいは、第三の新しいパターンがあるのだろうかとあまり期待しないで待っていると、おおよそ想像通りの言葉が耳に飛び込んできた。
「肉だ。十九時に予約してある。」
 いつもと変わらず二分の一の確率を引き当てた私は、特別何も感じない。第三の選択肢が特になかったことも、いつもと同じ選択肢でしかなかったことに対してもだ。これが私たちにとっての今までの在り方で、別に変える必要はない。だから特別落ち込むこともなかったのかもしれない。
「肉の気分じゃなかったらどうすんの。」
「どんな気分だ、それ。」
「たまにはお上品な口になる時だってあるでしょ。」
「お前にもそういう時があったか、覚えておく。」
 この男は私が変な気を使わないようにあえて親切心でこんな憎まれ口を叩いているのだろうかと一瞬考えて、普通にいつも通りただ喧嘩を売られているだけだと理解する。けれど、これが通常運転だったと思い出して特別それ以上反論はしない。
「…遅れる、早く行くぞ。」
 一度こちらを振り返った二宮は、さっさと進行方向へと向かってその長い足でさくさく歩く。いつもと同じように、私も少し駆け足になりながら二宮の後をついて行った。
 結局その日は焼肉を食べて、また明日本部でと何もなく解散した。
 その日私が収穫したのは、私達が燃える様な恋をすることはやっぱりないという事だ。私も二宮も、何も変わらない。変わる必要性もない。それが恋である必要は、どこにもないのだとそう思った。




 ボーターには年に数回、幹部を含めた本部運営陣で食事会なるものがある。ただでさえ夜も昼も関係なく働き疲弊しているのに、そんな事をするくらいなら帰って寝たいのが本心だ。酒は飲む相手や環境によってもその旨味を変えるものだと思う。全然飲んだ気がしなかった。
 玄界を守るために日々命懸けで働いているというのに、そんな面々が“お食事会”という呑気なものを開いているなんて普通に考えて間抜けだと思う。誰がこんな間抜けな企画を考えたのだろうか。ボーダーにそんな気の利いた福利厚生や、社内イベントはなかったはずだ。少なくとも私が防衛隊員から卒業し、正式にボーダーへ就職した時の概要にはそんなものは載っていなかった。早く家に帰って寝てしまいたい。
 下っ端の私は下座についていたが、外回りで遅れてきた唐沢さんがそのまま空いていた私の対面に座っていた。こんな下座じゃなく上座の方へと皆で促したが、まるで気にもしていないのかポケットの中から煙草を取り出してその場で寛いだように煙を潜らせた。
「私が目の前に座ったら困るか?」
「そんな事ないですけど、この場合はそう言うしかないんじゃないですか。」
「それではまるで私が言わせているみたいだな。」
 パワハラに当たらない事を願ってるとそう言って、唐沢さんは不敵に笑いながら肺の奥の奥の方へと煙を深く吸い込んでゆっくりと吐き出す。私は一つ先のテーブルに置いてあった灰皿を少し横着をして手を伸ばして掴んで、上司の前に置いた。
 唐沢さん自身はそこまで苦手タイプではない。話しやすいタイプかと言われたら多分そうではないけれど、建設的な話が出来るところを考えれば他の幹部よりも話がしやすいのは確かだろう。直接的な関わりはあまりないものの、たまに本部内で会えばコーヒーを片手にお喋りくらいはする関係だ。
「そんなうんざりしなくてもいいだろう?」
「うんざりもしますよ、何話されるか分かってますし。」
 この半年ほど、私は彼から何度か誘いを受けている。誘いと言うと如何わしく聞こえるだろうがそうではなく、純粋な仕事の誘いだ。とりあえず最初はまずオペレーター配属でという事で今は沢村さんの下で働いているが、唐沢さんからの誘いは営業へ転身しないかという内容のものだった。言われた当初から断り続けて、そして今も継続される誘いだ。うんざりもするだろう。
「向いてると思うんだけどね、君。」
「どんなところがです?」
「そういうしたたかなところとか、まぁまとめるとタフネスなところかな。」
 褒められている気がしないのは気のせいだろうか。この人も二宮と同じ無意識的に喧嘩を売るタイプの人なのかもしれない。唐沢さんのように、ボーダーの運命を背負って世間のお偉方に対して営業するなんて考えられない。そんな精神をすり減らす仕事をしたいと思うはずもないだろう。
「ざっくり言うと、個人的には好みかな。」
「それ、ギリセクハラなんじゃないですか?」
「単純な意見にセクハラもないだろ。」
「…半分は、私の反応見て面白がってますよね。」
 個人的に好みと何か含ませるような感じで表現したのはあえてなのだろうと思う。もちろん唐沢さんが私を女として好きでないことくらいわかっている。彼の隣に座っていた職員はあたふたしながら私の方を見ているけれど、好きというのは前提人としてということ事であって、含ませていっているのは私の反応を見て面白がりたいだけなのだ。だから私は、あえて無表情を貫き通す。
「こいつ冗談通じない奴なんでほどほどにしてやってください、唐沢さん。」
 どこまで私たちの会話を聞いていたのかもわからない二宮が、何もなかったかのように私の隣に荷物とスプリングコートを置いて腰を下ろす。座席を見た時に今日は二宮がいないんだという事には気づいていたが、仕事が終わってからやってきたらしい。
「彼女は優秀な逸材だよ。」
「普通に考えて俺の方が優秀です。」
「こと営業に関してなら多分彼女の方が上だ。」
 私の話題のはずなのに当の本人が口を挟めないほど、なんだか変な方向性に話が向いてしまっているのは何故だろうか。そもそもどうしたらこの会話の流れで、俺の方が優秀ですという返しになるのだろうか。正論すぎて何も言えないのが悔しいけれど、二宮らしいといえば二宮らしい。
「あまり買い被らない方がいい、こいつは優柔不断だ。」
「人を惑わす魅力はあると思うけどね。」
「…だとすれば、惑わされる側の人間に問題がある。」
「そんな事はないだろ、君だってその口じゃないのか。」
 私にはまるで理解できない二人の会話だったが、痛いところを突かれたのか二宮はそのまま仏頂面で黙ってしまった。いや、むしろこの仏頂面こそ二宮にとってはデフォルトのようなものなのだから別に痛いところを突かれた訳でもないのかもしれない。
「分かってるなら、今後そういう語弊のある言い方は控えて頂きたい。」
 二宮はそう言い放って、先ほど脱いでばかりのスプリングコートに再び腕を通して立ち上がる。突然やってきて、突然嵐のように去っていくつもりだろうか。一体何がしたいのだろうかと傍観者として眺めていたら、当たり前のように私に視線を向けて言い放つ。
「…何してる、早く行くぞ。」
 一番の下っ端として、会社の行事を途中で気まぐれに帰る事なんてできる筈もないだろう。しかし、二宮には全くもってそんな私の常識は通用せず、一向に帰り支度をしようとしない私の腕を強引に引っ張り上げると、連行するように私を外へと連れ出した。
「二宮、…ねえちょっと二宮聞いてる?」
 引かれる手に逆らえず、自分の上着と近くに置いていた荷物だけを手に取って私は夜道を歩く。二宮は、私の問いかけにも答えず自分の歩幅に合わせてずんずんと早いスピードで進んでいく。
「二宮ってば!」
 もう何度目になるかもわからない彼の名を呼ぶと、ようやくその呼びかけに足を止めて私の方へと振り向いた。普段から仏頂面で、機嫌の良し悪しを図ることが難しい彼のかんばせは、明らかな不快感を纏っているようだった。
「あれじゃあ私たちが付き合ってるみたいじゃん。」
「付き合ってる事実を言って何が悪い。」
 なんだ、私たち結局付き合ってたのか。なんだか突然拍子抜けしてしまったように力が抜けていく感覚に陥った。別に何もなくてもいいと思いながらも、どこか二宮の彼女になった自分を早く確認したい自分がいた事に気がついた。友人のままでも良き理解者であればそれでもいいなんて、建前で本音じゃない。もうそれでは済まされないくらいの感情を、私はしっかり二宮に抱いてしまっているのだと自覚した。この脱力感が、おそらくはその答えだろう。
「それとも違ったか。」
「…違くないけど、ああいう言い方は流石にない。」
「違わないなら別にいいだろ。俺の勝手だ。」
 初デートらしからぬあの初デートで何も進展がなかった事を考えても、今日の展開は想像にもできない。ずっと長い間私を想い続けてくれていた事実は知っているけれど、気持ちに応えない私に対しても辛抱強く時間をかけて接してくれた二宮だからこそさっきのやり取りには驚かされてしまった。私の間違いでなければ、あれは恐らくは嫉妬の感情だ。それに、あれでは私が自分のものであるとギャラリー全体に知らしめているようなものだ。
「急にこんな感じで来られても困る。」
「お前が自分の状況を理解してないからだろ。自覚してればあんな隙だらけにはならない筈だからな。」
 ぐうの音も出ないとはまさにこの事だ。二宮の言うとおり、私は多分隙だらけだろう。自分ですら覚えがある。けれど、やっぱり私の中ではまだ季節は冬で、春に移行できていない。だから、突然こんな展開になってもただただ準備不足でどう対処していいのかわからない。
「はやく上がれ、今日は冷える。」
「…いや、普通に帰るよ。」
「一応これから帰る理由を聞かれるだけありがたく思え。」
 急に彼氏になった二宮に、私はいつも通りの返しができない。二宮にはいつも自分の思ったことをそのままぶつけられる筈なのに、今はそうじゃない。このむず痒い感情を二宮に対して感じているのが既にむず痒い。
「明日、早朝シフトだし…?」
「起こしてやる。」
「いや、そういう問題でもないでしょ。」
「じゃあなんだ、言ってみろ。」
 言い訳にしかならない理由を並べては見たものの、やっぱり二宮を突破できるものではなく普通に私は追い詰められる。今こうして彼の家へ上がることを拒む理由はなんなのかを自分の中でも噛み砕いて咀嚼してみたけれど、多分冷静に頭が機能していないからか正しい分析結果は出てこない。私が二宮の彼女なのであれば、断ることへの理由などないのだ。そんな事は分かっている。このむず痒さに耐えられないと言うのが本音でしかないが、これはいずれ時が来れば解消されるのだろうか。恋をしたことはあっても、ここまで何もかも知り尽くしている二宮のような男と恋をしたことはない。
「付き合ってるって言っても、まだ実感ないから。」
 二宮が恋人になったという事実は、これから少しずつ自分の中で咀嚼していかないといけない。もちろんそれが受け入れられないのではなく、受け入れるために時間がかかると言うだけのこと。私には準備が必要なのだと思う。だから、今日は付き合っているという事実を知って、それをしっかりと受け止めて認識するところから始めたい。
「なら、はやく自覚しろ。」
 離していた私の腕を再び強く引き寄せると、さらりとした二宮の唇が触れてしばらく状況が掴めない。粘着のない触れるだけのキスのくせに、やたらと熱を帯びて触れられた部分が熱く感じられた。
「言葉足らずだし、いつも二宮は急すぎる。」
 悔しくて、まだ熱が冷め切らないうちに今度は自分からその熱を確かめにいった。
 衣替えなんてしなくても、案外人間の体はうまく順応するよう作られているらしい。




 結局、あれだけ不安だった筈の私はしっかりと眠って二宮に起こされて目覚めた。なんなら自宅のベッドよりも寝心地が良くて幾分もすっきりした目覚めだ。七時前にセットされていた二宮のアラームにも気づくことなく、ペチペチと何度か頬を叩かれてようやく目覚めたくらい本当に良く眠った。多分、二宮は呆れていたんじゃないかと思う。ムードのかけらも無い朝だった。
 私は昨日の私服のまま、職場に顔を出す。一足早く出ていた沢村さんに「聞いたわよ。」と言われて面倒な展開になりそうだと覚悟した。どうやら昨日の出来事は、既に話題になっているらしい。私の知らないところでグループラインでも存在しているのだろうか。
 事情を知っているのなら早いと、躊躇うことなく沢村さんに化粧ポーチを借りて私は出勤前のわずかな時間を使って身支度を済ませる。プチプラで化粧品を揃えている私と違って、沢村さんのポーチからは有名ブランドの化粧品がぞくぞくと出てきてなんだか気負いしてしまう。心なしか、いい匂いがした。何本かあったリップから、どうせなら自分が普段着けなさそうな色をつけようと思って唇をなぞる。ふと、初めてのデートの時にも口紅をつけたことを思い出した。
 十時頃になると二宮もいつもと変わらない顔で出社してきて、沢村さんはこれでもかと言うくらい必要以上にぐいぐいと私の方に肘を入れてくる。そんな事をしなくても二宮が来たことには気づいているし、何をどうしろと言うのだろうか。
「おはよう、二宮。」
「ああ。」
 いつも通りの、まるでさっきまで一緒のベッドで寝ていたとは思えないくらいあっさりとした何も変わらない二宮がそこにいる。動じないなと少し悔しく思う反面、これでよかったのだと思う。こうしてどっしりと構えていてくれている事で、私も動じずに済む。例えば、ミーハーな沢村さんの野次にも動じずに済むとか、そういう事もある。
 無駄に多くの視線を感じながら午前中の仕事を終えて食堂に向かう。昨日は結局ほとんど食べれずじまいだった事をふいに思い出すと急に腹の虫がぎゅるぎゅると騒ぎ始めた。
 ボーダーには十代の若者が多いという事もあって、結構なガッツリ飯が用意されている。腹が減っている時はそんな若者飯にそそられもするが、いい大人の女がそんなものを食べていると思われるのも恥ずかしく中々手が出しにくい。そんな中でももう一度答えを出すかのようにぎゅうと鳴った腹に応える為、私は牛丼大盛りの食券を手に取って伏し目がちにそれを渡して、現物を受け取った。
 誰にも見られる事なくこっそり食べようと角の席で箸を割ると、すっと私の隣に人影がよぎった。タイミングが悪いなと横を見ると、涼しい顔をしながら蕎麦をトレイに乗せた二宮が早々に箸を割ろうとしているところだった。
「蕎麦で足りるの?」
「お前の胃袋とは構造が違う。」
「…職場でぎゃあぎゃあ言いたくないんだけど。」
「なら言わなきゃいい。」
 私との会話なんて気にしないように、二宮は目の前の蕎麦を啜る。いつものやりとりとは言え、やっぱり普通になんだか納得がいかず二宮には苛々させられる。けれど、いつもであれば正面に座るはずの二宮が、今日はあえて隣に座ってくるところを見ると彼も一応は意識してくれているのだろうか。
「隣に座るとか、なんか彼氏みたい。」
「事実そうだろ。」
「こういうベタな事するんだ。」
「どこかの馬鹿が自覚が足りないみたいだからな。」
 言葉のインパクトは強烈だけれど、結局なんだかんだ言って二宮は私に優しい。この事実だけは出会った頃から変わらず、私にだけ特別に与えられた特許だ。昨日までの自分が嘘のように、私は今二宮の彼女を満喫している。今朝、無駄に感じた視線すら本当のところを言えばそこまで苦痛でもなかった。
 私たちを見つけた小荒井と奥村がトレイを持って、手を振りながら正面に座る。元々東隊で一緒に防衛隊員として切磋琢磨していた二人は、私と二宮の座り方に違和感を覚えたようでキョロキョロと見渡している。こういう時、奥村はきちんと場の雰囲気を読むが小荒井はそのままストレートに疑問を口に出すタイプだ。
「なんで恋人座りしてるんです?」
 どうやってこのストレートすぎる質問に回答しようか考えていた頃、私が言うよりも先に珍しく口下手で言葉数の少ない二宮が口を開いて、確信的な一言を言い放った。
「恋人だからだろ。」
 唇をぎゅっと噛み締めると、沢村さんの高級なリップの苦い味がした。


夜更けのブーケ
( 2022’04’03 )