男の携帯が高らかに鳴り響く。時刻は、午前二時過ぎ。かろうじてその着信音で目を覚ました男は電話の向こうでやけに明るく振る舞う女を不思議に思いながら、暫くなんてこともない談笑を交わす。普段、自分から決して電話などかけてくることのなかったその彼女に、何かの変化があったのだと、それは告げていた。そして、それが何であるのかさえ、忍足には分かっていたのだ。
「……で、や。本題は何や?」
 過去の話に高らかな笑い声をわざとらしいまでにあげていた、彼女の声が、止まる。まるで気を紛らせる為の様なその笑い声を、彼女自身、最早忍足には通用しないのだと悟り、もう一度、自嘲するような薄ら笑いを浮かべた。
「私、電話する人、間違えたかもしれない。」
「いいや。的確な人選やと思うで。」
 そう言えば、彼女は観念したように、一度、ため息を払って重たい口調で告げる。忍足が長年望んでいた事であり、そして、彼女、青葉自身きっと過去に想像もし得なかった、その事実を。
「別れたの。景吾と。」
 忍足は何度、この言葉が青葉の口から出てくるのを待っていただろうか。ずっと、そうなればいいと、そう思っていた。跡部と彼女が別れる事を、ずっと、望んでいたのだ。
 内心、騒ぎ立てる自分の心を、強引に抑えつけ、忍足は告げる。まだ若く、思春期真っ盛りであったあの頃に、青葉が行きたいと常々口にしていた、あの場所を。
「海、行かへんか?もちろん、今からな。」
 最初はやんわりと断りを浮かべていた青葉に、彼は半ば強引に行こうと誘った。いい気分転換になると、適当な口実を打ちたてて。自らの私欲の為だけに出た、その言葉を何度も繰り返した。そうでもしなければ、きっと、青葉は来てくれないのだと、本能的に彼は知っていたからなのだろう。何度も何度も言う事で、弱っていた青葉はその誘いに乗った。辛い現状から、一歩、踏み出せると信じて。
「今更なんだけどさ。私、何で侑士に電話したんだろうね。」
「そりゃあ、あれや。俺が、話を聞くんに適任やって青葉が無意識に思っとったからやろ。」
「ほんと、自惚れ屋。下手すると、ただのナルシストになるよ。」
 青葉がこれだけ口を回すのは珍しい。受話器の向こうで聞こえる青葉の声が、心なしか、酒を帯びたように甘く響いた。柄にもなく、振られた女が辿るやけ酒という、いかにも彼女らしくない、そんなルートを辿ったのだろうか。だがしかし、それだけのルートを辿らなければ到底やり切れない青葉の心情を、忍足もまた、知っていた。青葉にとって、跡部が全てであった事を。自分が入り込む隙すら与えてもくれない程に、満たされていた、それを。
「ただのナルシストって…それ、完全に跡部やんか。」
「うるさい。景吾は、本当に自惚れてしまうほどに格好良いからいいの。」
「自分ら、別れたんとちゃうん?」
 自分の言葉に、後悔はない。こうして、青葉をからかうようにしていたのも、いつもの事だったから。けれど青葉の返答は、ない。ただ重々しい沈黙だけが続く中、一度大きなため息を払った青葉から告げられた、言葉。
「本当に電話する人、間違ったみたい。」
 その後に響いた青葉のため息交じりの笑い声で、彼は救われたように心が軽くなっていくのを感じていた。やはり、青葉ならそう反応してくれるものであると、彼は、確信していたからだ。
 三十分後に待ち合わせ、車で迎えに行く。マンションの下でちょこんとしゃがみ込んでいた青葉は、忍足が想像していた以上に、いつもと変わりない青葉の姿だった。青葉は、跡部に魅せられていた。それは誰の目から見ても、明らかな程に。そして、そんな青葉に、跡部自身も魅せられていたのだ。それを人は、相思相愛と呼び、理想の恋人という。忍足は、決して叶う事のない感情を抱いていた。跡部に魅せられた女に、魅せられていたのだ。
「私、夜の海って初めてだな。夜と昼の海は、まるで違う顔。」
 そう言って、青葉は車から降りると静かに砂浜へと歩いて行く。二つの顔を持っていた、跡部と、海を見比べるようにして。波が届かないぎりぎりの所まで歩みを進めると、彼と待ち合わせた時のように、腰をおろし、膝を抱えた。そんな青葉の隣に、彼も腰かけた。
「……侑士にこんな事言うと、意外かもしれないけど。私ね、景吾とはこうなること、なんとなく分かってた。」
 波の音にかき消されるほどに小さな青葉の呟きが流れ込んだ。彼女が言うように、それは忍足にとって本当に意外な言葉に違いなく、彼は暗闇の中、彼女には見えないように静かに驚きを胸に宿した。見ているこちらが妬いてしまう程に、跡部にぞっこんであった青葉が、この結末を知っていただなんて、ただの後付けの理由にしか思えない。
「この期に及んで強がりか?」
「ううん。違う。」
 跡部グループの御曹司である彼にとって、結婚とは絶対的なものであり、自由を許さないものである。つい最近、そんな彼に婚約者が出来たのだという噂が大学内をにぎわした。その時に謀らずとも騒ぎ立つ胸の内を、何度彼は押し殺したであろうか。そして、それが真実になった今、忍足はそのポーカーフェイスの裏側で、よからぬ喜びを感じていた。長年抱いた理想が、現実へと導かれたのだ。
「本当にね、あっさり振られちゃった。婚約者が出来たから、もう、付き合えないって。三年も付き合ったのに、あっけないでしょ?あまりに味気なくて、涙も出なかった。」
 まるで笑い話でもするかのように、あっけらかんとした表情で告げる青葉を見る事無く、忍足は海で揺れる波を見ていた。結局、今尚青葉が真に望んでいるものが何かを、知っていたからかもしれない。別れたところで、自分の想いが成就されるわけではないのだと、改めて知るに至った。
「…最後くらい、冷たく突き放して欲しかったなあ。」
「意味、分からんで。」
「もういっその事嫌いになって、憎んでしまうくらいに、冷たくされたかった。そうだったら、こんなに未練ったらしい感情と戦う事だって、きっとなかったのに。」
「ドMやなあ、自分。」
「そうでしょ?もちろん、侑士にはそうじゃないけどね。」
 茶化してそう言えば、彼女も茶化してくれる。そして、茶化しながらも、それが彼女の本心であるという事が分かってしまう心が、痛い。到底自分では敵わない、大きな存在が、そこにはあった。
「今日呼んだちゅう事は、少しは期待してええんか?青葉。」
 茶化しついでに、本音交じりの言葉を彼女に告げれば、青葉は驚く事もなく、ただ真正面にある海を見ながらに、答える。
「聞いてくる時点で、無理だっていう事知ってるくせに。侑士、悔しいほどに感、鋭いじゃん。」
「そんな所で鋭い感なんて、ほんま難儀でしかないねんけどな。」
 言って、青葉が笑った。その笑い声と共に流れきた風に、甘いアルコールの匂いを感じた。柄にもなく、得意でもない酒でも呑んだのだろう。まるで振られた女を体現しているかのような、正しいルートを辿っているかのようなやけ酒を食らったのだろうと想像に堅くない。そうすれば、いつもよりも饒舌になっている青葉にも、酷く合点がいく。
「ほんなら何でや。何で俺なんかに、電話したんや。」
 尋ねると、一度、青葉の肩がぴくりと揺れ、沈黙を生んだ。ただ、波の音だけが、二人を支配していた。何事かと振り向いた先にいた青葉の髪が風に流され、それを左手で抑える、そんな青葉の姿が、いつかに見た彼女よりも、幾分と大人びて見えた。
「……景吾の捨て台詞だった。侑士に、話でも聞いてもらえって。」
 青葉をこれ程までに美しい女にしたのは、跡部であったのだと、ようやく気づく。到底敵わない。敵いっこない。
「話を聞いてくれる人、他に居ないとでも思ったのかな?私、いつも景吾と一緒に居て、友達少ないの知ってたからかな。」
 わざとらしく笑う青葉を、もういっその事この腕で抱きしめられたらよかったのに。彼女と会うまでは、そうしようと、そう思っていたこの腕が、今は動かない。本当は青葉が跡部と別れたのを良い事に、彼女を自分のものにしようと考えていた。心が弱っている青葉であれば、少しは心が揺れるかもしれないと。卑怯であるという事を自覚しておきながらも、そうすることへの躊躇いは一切なかった。けれど、今は違う。青葉が表面上は笑っていながらも、心の奥底で泣いているのを、分かってしまったからだ。そして、彼女が今尚思い続ける跡部に、完敗したという事実も相まってのこと。
「友達かいな。期待の欠片もあらへんってか。」
「唯一の友達っていう確固たる地位に文句つける気?」
「……よう言わんわ。」
 暫く、互いに口を閉ざした。それは気まずさからくる沈黙ではなく、二人にとって思い思いに過ごす時間であった。そんな空気が嘗て二人の間にあったのだと、思いだす。まだ、青葉が跡部と付き合いを始める少し前、そんな少し昔の事が忍足の脳裏に蘇るように舞い戻っていた。
 今よりも幾分も若かった忍足に付きまとうのは、いつだってよこしまな噂ばかりだった。特別、女関係にはその噂が尽きる事はなかった。それは彼に、彼女という存在があっても尚、付きまとう事となる。その噂の真相は、結局彼とその彼女であった人間にしか分からない。
 結局その噂のいくつかが真実であった事を知った忍足の彼女は、それを知りながらも、目を瞑ったように彼との関係を続けていく。自分は何も知らないと、まるで、言い聞かす様に。けれど、それをいい事に全く改善の余地が見受けられない彼に、ついに女は彼から離れる決断を下したのだ。そんな彼女を、救いだした男と、新たな恋愛を、スタートすべく。
 そして彼は知るのである。本当に大切であった、その事を。そこから、彼女への片想いが始まる。決して叶う事のないと、薄々答えの分かり切った、恋心を抱いて。それ以降、一度だって甘い誘いに釣られる事無く、彼女を思って。
 徐々に日が昇っていき、雲から零れる木漏れ日が二人を包み込む。「朝だね。眩しい。」そう言う青葉に、忍足も、過去との決別をつけたように、「せやな。」すぐに返事を告げる。ひんやりとしていた砂浜が、徐々に熱を帯びていくのを感じながら。
「本当に、侑士にこんな話するなんて見当違いだよね。」
「今頃言うか?遅いっちゅうねん。」
「元カレに、失恋の相談を持ちかけるなんて、私、夢にも思わなかったよ。」
「俺かて、元カノに失恋話持ちかけられるなんて思わんかったわ。」
 まるで天気と連動するように、二人は晴れ渡ったように、笑った。もう、青葉を自分のものにしたいと、そんなよこしまな感情も、薄く消えていくような気がした。もちろん、青葉への気持ち一切が無くなったのではなく、今はその時ではないと、そう感じたのだ。弱みに付け込むようにするのではなく、正々堂々と、青葉と向き合いたかった。
「でも今は侑士に電話してよかったと思ってる。やっぱり、景吾の言う事に間違いはないね。」
「一言余計や。なんや、腹立つわ。」
 なんて事ない談笑を交わし、そして、昔の話もした。以前忍足と青葉が付き合っていた頃の、話を。決して楽しい思い出ばかりではないけれど、今となってはどれもこれも笑いの種の一つだった。時間が解決するというのも、強ち間違いではないらしい。
「綺麗になったな。」
「海の事?」
「アホか。そんなとこでちょける必要ないやろ。」
 付き合っていた頃に二人で見た海とは違う、姿。それが、今の自分達を示しているかのようで、忍足は苦笑した。あの頃に見た海は、もっと皆に見られ、賑やかで、華やかだった。けれど今は、違う。もっと孤独で、それでありながらも、幻想的で、美しい。まるで、今の青葉そのもののように。
「俺がそうしたりたかってんけどなあ。」
「何を、今更。」
「今からでも遅ないやろ?俺達なら。」
 その答えは、結局のところはぐらかされたように「どうだろうね。」という曖昧なものでしかなかったけれど、今はどうでもよかった。青葉が、ようやく心の底から笑う姿を見れた事に、聊か満足してしまったからだ。あのよこしまな気持ちが、嘘のように、本来在るべき場所へと、戻ってきた。彼女が幸せでない事に幸せを見出す彼は、もう居なかった。
 完全に日が昇った頃、砂浜が熱を持ち始める。サンダルの合間をぬって入り込んでくる砂がどうしようもなく熱くて、青葉はとび跳ねるように砂場を離れていく。靴で彼女を追いかける忍足も、わずかに入り込んだ砂に、熱を感じ、彼女と同じように、駆け足で追いかける。
「侑士、帰ろう。」
 熱い熱いとサンダルに入り込んだ砂を取り払い、振り向いた青葉にどうしようもなく、忍足は恋焦がれる。付き合ってる頃に見る事の出来なかった、とびきりのその笑顔は、まるでデートから帰る彼女そのもののようだった。過去に見る事の出来なかった青葉の表情を、もっと、と望む忍足は、今日のところはその欲を押さえこみ、車のキーを取りだした。

20110819