私という人間が私の事を一番理解していると思っていたが、それはどうやら誤認だったらしい。今、自分という人間が全くもって分からないからだ。二十年以上の付き合いになるはずのこの体も、感情のコントロールも、思考も、何もかもが分からない。それが恋だなんて陳腐な言葉は聞きたくないし、もしそうなら恋愛は麻薬だ。気づいた時には既に、もう後戻りができない状態の自分に仕上がっていたのを認めざるを得ないだろう。 今まで付き合ってきた男は三人ほどいる。どれも半年も続かなかった。理由は自分自身でもしっかりと認識していて、私が恋愛に対して酷く冷めているからだ。勝手に告白してきて、勝手に振られる。これが三度続いたというのが私の歴史だ。いてもいいし、いなくてもいい。到底私にとって彼氏という存在が夢中になる対象ではなかった。 地元の友達との定期的な情報交換、大学のサークルでの飲み会、身内しかいない楽なバイト、そしてたまに顔を出す大学の授業。やる事は沢山あって、暇はない。これを一言で表現するのであれば、私の生活はとても充実している。だから彼氏という存在はあくまでプラスアルファにしかならなかったのだろうと思う。そう、これは全部過去形で進行しているはなしだ。 「ねえねえ、次の休みどっか出かけようよ。」 「ん?どうした、突然。」 「突然じゃないし、もう一ヶ月も出かけてないじゃん。」 私と過去に付き合っていた男は、きっと今の私と酷似している。今なら彼らの気持ちが分かるような気がして、今更ながら申し訳なく思った。 付き合っているのに、どこか遠い。間違いなく私は仙道彰の彼女である筈なのに、その手応えを感じる事ができないでいる。蔑ろにされているという訳ではないけれど、私が思い描く普通のカップルではなかった。私と同じくらい、彼も私を思ってくれているという手応えと確証が欲しかった。 「来年就職だよ?そしたら今みたいに会えないしさ。」 仙道彰を彼氏として手に入れた私には幸福感よりも不安が常につき回っていた。 仙道彰と出会ったのは、今から一年程前だ。私が所属しているバスケサークルとは名ばかりの活動のメインが飲み会という治安の悪いサークルと、経験者が多く揃う仙道の入っていたサークルの練習試合がきっかけだった。 その後に開催された飲み会でたまたま隣の席にいた彼と話しているうちについつい酒が進み、頭に鈍い痛みを感じて目覚めた先にいたのも彼だった。 「おはよ。」 昨日初めて会った男とは思えない程当たり前な挨拶に、逆に私の方がかしこまってしまったのを今もよく覚えている。もう未成年の子どもでもないのだから酷く動転する事はないにしろ、やってしまったという後悔の念と気恥ずかしさに苛まれた。 「…ここ、仙道くんの部屋?」 「うん、そう。」 「なんかごめん。途中から記憶ない。」 「そっか、それは残念だ。」 大して残念そうでもないニコニコとしたその表情にはとても余裕があって、私とは正反対に見えた。ベッド下に無残に散らかっている衣類と下着をもぎ取って最速で身支度を済ませて立ち上がった。多分、もう彼と会うことはないだろう。 「もう帰るつもり?」 「え、うん。長くいても迷惑じゃん。」 「案外淡泊なんだな。意外だ。」 「私だったら早く帰ってほしいと思うだろうから。」 自分で言っておきながらまるで女らしからぬ解答だと思った。多分こんな冷めた返しをするであろう女を私は私以外に知らない。けれど人は変わる事の難しい生き物で、自分との付き合いが長くなればなるほど困難になる。だからこんな自分は絶対に変わる事はないという諦めと、よく分からない自信があったのかもしれない。 「じゃあ俺がそうじゃなかったらどーする?」 決して、もっと一緒にいてほしいという断定的な言葉は使わない。それが仙道彰という男を語る上で最も特徴的だろう。本能的に駆け引きが上手いのだろうと思う。はっきり一緒にいてほしいと言われるよりも、こうして問いかけられた方がより考えてしまうからだ。結局その言葉の真意をずっと考えて、私の脳内を支配するのだから。 「仙道くんはずるいし、うまいね。」 「はは、全然褒められてる気がしないな。」 「だって褒めてないから。」 終始ペースを乱されているのは私の方で、彼の顔は私が目覚めてからずっとニコニコと余裕で変わらず私の方を見ている。彼の本質的な狙いがなんなのかを把握できず、とても居心地が悪い。 「昨日は積極的だったしもっと情熱的な子かと思った。」 昨日の私が何をしでかしたのかを知りたいようでもあって、やっぱり知りたくない。多分ろくな事じゃないだろうし、なんとなく薄らとは想像が出来て朝から何度自己嫌悪に陥ればいいのだろうかと気が滅入った。大人になると何が怖いって、酒が怖い。好きな分だけ、恐ろしい。 「…からかわないでよ。」 「そんなつもりはないんだけど、昨日みたいだったらいいのになって。」 酷く抽象的で、具体的な言葉は言ってこない。全てこちらに委ねられている気がして、一歩後ろに下がると逆に彼は私に一歩歩み寄った。 「もうちょっと一緒にいたいって意味なんだけど?」 さんざん抽象的な言葉で焦らした後のこの言葉のパンチ力は大きい。おそらくこれが緩急というものなのだろう。それは昨日見た彼のバスケのプレースタイルに酷く似ていた。 「もっとさんの事知りたい。」 もうこの時点で、私たちの優位性は決まっていたのかもしれない。結局私の事を知りたいと言ってくれた彼よりも、もっともっと私の方が彼を知りたいと思ったのだから。今まで感じた事のない感覚を覚えて、この歳になって初めて恋愛をしたのだと悟った。 「俺の彼女になってみない?」 目覚めてからたった数分で、私はこの男に全てを持っていかれた。 彼と付き合って一年が経って分かったのは、私が酷く孤独に弱いという盲点だった。いつも隙間なく誰かと一緒にいた私にとって、それは気づきようのない事だったのかもしれない。仙道は私のライフスタイルまで変えてしまった。 変えてくれと頼まれた事などもちろん一度たりともない。全ては私が自己判断で下しただけのことで、私がそうしたいと思っただけだ。 あれだけ生活の中心になっていたサークルにもほとんど顔を出さなくなり、朝方まで営業している居酒屋のバイトも辞めた。全部私が下した勝手な判断で、いつでも仙道に予定を合わせられるようにした結果だ。日常は変わってしまった。いつだって周りに溢れていた友人は、いつしか疎遠になっていた。 「じゃあ来週出かけようか。どこに行きたい?」 多分どんな正解に近い言葉が出ていたとしても、今の私には受け入れられなかったのかもしれない。全ては私が言ったからという言質を取られているような錯覚に陥って冷静でいられない。 「…本当は行きたくないんでしょ?」 「そんな事ないって。」 「…もういい、帰る。」 意味のわからない理由でヒステリックを起こしている自分を自覚するのはこれで何度目だろうか。理不尽なのは完全に私の方だと自覚しているのに、いつも自分を止める事ができない。 かつて付き合っていた男から記念日と称して貰っていたアクセサリーになんの感情も持たなかったのに、今となってはそれが欲しくてたまらない。それが私への気持ちの証になるような気がしたからだ。何度かそれを貰った時の感情とは程遠い。 付き合いが始まったきっかけこそ仙道が作ってくれたものの、蓋を開けてみれば夢中になっていたのは完全に私の方だった。今までの日常を捨ててでも彼に尽くしたいとそう思った時点で、すでに関係性は対等ではなかったのかもしれない。 付き合う事で得られるものは心の安定だと思っていたのに、彼女になった今の方が精神的に不安定なのは何故なのだろうか。蔑ろにされている訳でもないのに、それでもいつだって満たされた気がしなかった。まるで私が一方的な片思いをしているような、そんな錯覚に陥る。 今までもこうして怒りに任せて彼の部屋を飛び出てきた事はあったけれど、一度たりとも仙道が私を追いかけてきた事はなかった。追いかけてきてくれさえすれば、それだけで私は満たされるのに。 海沿いの国道を歩きながらしばし考える。 こんな彼女に愛想を尽かせて別れると言い始めたら。もう到底やっていけないと言われたら。自らそれに近い言葉を投げ捨てて飛び出てきたくせに、結局私にその覚悟も度胸もない。仙道と付き合う事で手放した多くの物を考えた時、彼を失ったら私には何も残らないと思った。 来た道を引き返して彼の部屋に戻ると、鍵はそのままになっていてドアノブを引くと先ほどと同じ顔をした仙道がそこにいた。 「ごめん、もうこんな事しない……」 「そっか、それは助かる。」 「お願いだから嫌いにならないで……」 「ならないよ。」 こうして泣きじゃくる私を優しく抱きしめてくれる仙道は一体私のどこを好きなのだろうか。もういっその事、愛想をつかせて私のことを振ってくれたらいいのに、いつだって自分勝手でわがままな私を迎え入れてくれる。この時ばかり得られる瞬間的な安堵感に、私は全てを持っていかれてしまう。 「のこと、好きだよ。」 この魔法のような言葉で、私は全てを忘れてまた新しい自分を始める。それは魔法のようでありながら麻薬のような中毒性と依存性があるのだ。結局彼が私を切り捨てない限り、私の緩い地獄は永遠にループするということだ。それを分かっているのに、私はその沼から抜け出す事ができない。 「私も、好き。」 彼を好きでい続けるという不安定を取るべきなのか、彼を失って何もなくなる自由を得るべきなのか、どっちも幸福であって不幸でもあるその選択肢を私は迷い続けて、そしていつも選択に失敗する。今日もまた、その先へ一歩を進めてしまったのだから。 「来週どこ行こうか。」 何が正解で不正解なのか、もうそれを判断する冷静な思考を私は持ち得ていない。
指先の空腹 |