女は、少し前にあった日常を思い出していた。その日常の中でも、格段に彼を特別に感じたあの日の出来事を、ゆるりと脳内に浮かびあげる。手を伸ばすと、まだそこにあるような、酷く現実的な幻を抱いて。
 好みの別れる医療関係の香りの漂うこの場所で、彼女は長く伸びた白衣を、ひるがえす。過去に想定すらしなかった今を受け止められないかのよう、小さく身震いさせた体をくるりと背けた。医者である彼女にとって一つ、不変の、ルールというものがあった。それは“情”という、人間であれば皆誰しも持ちえるもの。彼女は、あえてそれを捨てる事を選んだのだ。医者という道を歩みだした、その頃から青葉はその信念にのっとって今までを生きていた。



 が医者を志したのは、今から随分と昔、彼女がまだ親を縋る様な甘えたいさかりの歳の頃。彼女は両親を失った。医者を志す尤もすぎるその理由がベタであると、彼女自身もまた理解し、苦笑せざるを得ない。絵に描いたような動機に、時折嫌気がさしながらも、彼女は望むままに自らの意志で道を切り開いた。
 そこに不要なものは一体何であるのだろうか、彼女は医者である月日を重ねていくごとにその答えに近づき、ついに辿りついた。
 “情”というものは青葉にとってやっかいな存在であった。情を移せば集中できない自身に、彼女は気づきはじめる。人を元ある姿に戻したいと渇望しながらも、人との関わりを極力避ける事、それがにとっての急務となっていく。情を移せば、得るものの大きさよりも、失うものの大きさの方が、断然に多いのだと知ったからだった。
 そんな経験を経て導き出した答えを疑いもしなくなった頃、青葉は、一人の男に出会う。酷く血なまぐさい、殺気で燃え上る様な、彼女が一番得意としない、男と。
「先生はあれかあ?処女だろ。」
 一見、酷く常識知らずそうでありながら、実は誰よりも常識人である彼からは想像に難い単語が紡がれ、は思わず目を白黒させた。突拍子もない質問に、珍しくも、冷静さを欠いて。
「……行き成り聞いてくるかと思えば。」
 暗殺部隊であるヴァリアーに、青葉が着任してからようやく半年ほどが経った頃、今までこつこつと気づきあげてきた少なからずもある信頼関係だとか、人柄を、全て覆してしまう程のスクアーロの質問だった。
 スクアーロは、よく怪我をしては医務室にやって来る、謂わばここの常連だった。選りすぐりの部隊の中でも、特に剣に長けている彼が、こうも毎回怪我をしてくるのが可笑しいと、が気づく事に掛った時間はそう長くはなかった。治療と託けて医務室にやってくる彼に、かすり傷一つなく、大げさに飛び散った返り血を傷と言いはるのが、概ねの彼の訪問理由だ。きっと彼はそうすることで、この部隊で異質な存在である自分を弄んでいるのだと、はそう考えていた。
「じゃあ逆に聞くけれど、何故、そう思う?」
 恐る恐る聞き返す葉に、彼はニッと笑うと、さも得意げな目をして人差し指を翳した。
   そういうとこだ。何をしても、何を聞いても、先生は怯えてるだろう?そういうところがウブで、男を知らねえ女って、思わせんだよ。」
「怯えている?一体何に?私には、スクアーロの言ってる意味、分かんないけど。」
 気丈に振る舞いながらもの声が僅かに上ずり、空気を揺らした。医療従事者になってから、人と接することが怖くなった事実を悟られまいと、彼女は何度も臆病に震える自らの言葉を飲み込んだ。まだ知り合って間もない彼に、そんな自らの深層部分を探られる筈は、ないと。
「なんだあ、俺の口から言ってもいいのかあ?」
「……なにが。」
 彼女の体に久しく出ていなかった鳥肌が、覆いかぶさる。彼が聞きたくない言葉を口にするのではないか、そう思いながらも。やはりそれはありえないと彼女は背筋を伸ばす。自分自身をさらけ出しているつもりなんて微塵もない、医者になった、あの日から、一度だって。けれど不安に心が揺れる。
「はい、怪我もないんだからもう用事はないでしょう?私もそんな他愛もない話に付き合ってる暇はないし、そもそも此処は本当に怪我や病に冒されてる人間が来る場所。スクアーロには無縁でしょう?」
 結局彼女は、最も容易い保険を手札にしたのだ。聞いておいて答えさせないという、いかにも彼からしたら、不可解でしかない、方法を。
 それでいいのだと、それが最良であるとは自身に言い聞かす。人と深く関わるのは、自分で設けたルールの上ではタブーでしかない、この男はそれを犯すギリギリのライン上を彷徨っていた。今だけでなく、いつだって。
「先生は逃げるのが好きだなあ。」
「今日の貴方はどうかしている。頭でも打ったのかしら。」
「だったら手厚く看病してくれんのかあ?」
   人を馬鹿にするのも体外にして。」
 喜怒哀楽の差がほとんど見受けられない青葉にしては、随分と焦りと、苛立ちが募っているように見える。自らの感情を奥底へと沈みこめ、それを悟られぬよう、いつだって秘めるように生きてきた彼女にとって違いなく、それは緊迫した状況だ。触れてほしくないその場所に、彼のなにかが、届いてしまうような、そんな恐怖感に青葉は苛まれていた。心なしか語尾がいつもよりも、数段早く響く。
「なあ、先生よォ。」
 ようやく観念したのかとスクアーロを見上げた青葉は、何食わぬ顔をして、医務室の簡素な椅子にどっかりと腰掛ける彼を見て、やはりこの人に自分の言葉は通じないのであろうと痛感した。それは引くどころか、今から何かを仕出かす様な、彼の鋭い眼差し。 「下らない事だったら今度こそ手が出るよ。」
 脅しにすらなっていないの言葉にも、やはり彼は怯えるどころか、先ほどと何一つ違わぬかんばせで、至って真面目に呟く。そのかんばせと発言に酷くギャップのある、謎めいた言葉を。
「抱いてやろうかあ?」
 一瞬、気が抜けたようにの体から力が消え去った。今にも倒れて行きそうな体を、なんとか垂直に保たせる事に必死になる程に。
 彼の言葉に、きっと、先ほど彼女が言ったように、手が出ても可笑しくはないだろう。彼の言葉は世に言うセクハラというものに違いない。けれど彼のかんばせがソレではないのだと語る。悪ふざけをしているようでもなく、至って真面目な表情に変わりは見られない。平常を保っていた心拍が、酷く煩い。
「…どうしてそんな事を?」
 不思議と未だ怒りや馬鹿にされたのかという、哀しみもない。ただそこにある感情は、未知であって、限りなく無に近い。は彼の口から紡がれるであろう言葉を、ただぼうっと放心しながら、待つのみ。そしてスクアーロのその言葉が、妙にを納得させていた。
「アンタいつも一人ぼっちだろうがよ。」




 そういえばあの日以来、彼が同じような言葉を言う事はなかったと、はふと考える。だとすれば、やはり、あれは単にいたずら心から為された言葉だったのだろうか。今となっては、その真意を確かめる相手も、いない。
 スクアーロが死んだと、が聞かされたのは、二週間ほど前の事だった。遠い日本の地で、死んだのだと言う。彼の亡骸は未だ帰って来ない。その骸が本日付で届けられる、そう報告があったのが二日前。はらしくもなく落ちつきなく、己の感情と向き合っていた。恐れていた事が、ついに、起きてしまったのかもしれない、と。
 本当は分かっていた感情を、彼女は抑え込む事でないものであると思い込んでいた。彼に情は移していないのだと、そう、思っていた。必要最低限の距離は、保っていた、けれど今が感じているのは表現しがたい虚無感だった。その虚無感が何処からやってきたものであるのか、彼女は、知っていたのだ。
 彼の眠る医務室に手を、かける。長く伸びた白衣を翻しながら、震える手で、ドアを開ける。その先に待ち受ける、虚無感の根源が、彼女を、見つめていた。

“先生”



××××



「よォ、先生。」
 そこに居たのは、瀕死の重傷を負いながらも、生を司るスクアーロだった。死んだと言われていた彼を前にして、は信じられないように固まりながらも、先ほどとはまた別の、虚無感に苛まれる。
「……泣くのは止めろ。処理に困んだろうが。」
「別に、泣いてない。」
 自分の意志とは逆に、彼の言うモノが頬を伝っていく。医者を初めてばかりの頃に、流して以来、久しく見ていなかった、それを。瀕死の重傷でありながらも、彼の姿が、どうしようもなく逞しく見える。きっと修羅場をくぐり抜けてきたのだろうと、そう、思わせる、眩い程の美しさで。そこに立ちそびえる彼は、酷く、美しかった。
「もっと素直でいろ。何も隠さずに、前だけ向いてりゃいいんだ。」
 そう言って彼は、続ける。
「先生はただの臆病だろうが。人と関わる事を酷く恐れているくせに、本当は心の何処かで人との繋がりを求めてる。だったら、繋がりゃいいだろう。」
 彼女が今まで一番奥底に隠してきた心情を、彼は、見事言い当てた。にとって、一番聞きたくなかった筈のその言葉は、不思議と彼女の中に入り込むよう、自然と溶けていく。酷く臆病な自分を、そのままに受け止めて行くように。
「…心理学者だった?」
「つう事は当たってるって事だろ?観念して、大人しくしてろ。」
「どうして、分かったの?」
 彼がそれ程感の鋭い人間には思えなかった。確かに、酷く頭の切れる人間であっても、彼女が奥底に隠し置いた思いを見破れるとは到底思えない。しかし彼は、綺麗にそのままを、見抜いていた。
 そっと抱き寄せられたスクアーロの衣類からは、鼻を劈くような、医療品の香りが漂う。それが、逆にを安心させ、大人しくさせたのかもしれない。
「そりゃあ、あれだ、アンタの事ずっと見てたからなんだろうよ。」
 その言葉に未だかつてない感情が、どくどくと、に流れ込む。とても辛いようで、どこか心地の良い、不思議とそれだけで価値を感じる、そんな感情に抱かれて。
 結局彼女は捨てた筈の、女である自分を、捨てきることが出来なかったのだ。奇しくも、スクアーロがそれを、彼女に思い出させていた。

 は暫く、時を忘れたように、彼の薬品の香りの漂う隊服に身を寄せる。今まで、医者であるという事に託けて制限していた人間関係を、余すことなく体現して。今にも地に伏してしまいそうな、彼の体に、気遣う事もなく感情のままに縋りつく。それはまるで、ただの童に戻ったような、彼女本来の姿だったのかもしれない。


 暫くの後、スクアーロがようやく口を開いた事で、二人の沈黙が解かれる。この間と同じ質問を、彼の口が紡ぐ。彼女は、戸惑う事もなく、その言葉を耳に留めた。
、抱いてやろうかあ?」

 ゆるりと、白衣を翻した青葉の、かんばせが、変わる。
 女の答えは、もう、決まっていた。

( 20110615 )