懐かしい音が耳に木霊する。俺は少し昔の事を思い出していた。 両親は、俺が六つの時に離婚した。母親に引き取られた俺は近くに住んでいた母方の祖母の家で一年ばかり生活していたが、俺が八つになると新しい父親だと名乗る男が現れた。俺はまた新しい家族を得た。九つの春の事だった。 俺は、両親の離婚の原因を知らなかった。そんな事を理解出来る歳でもなかったし、言ってしまえば関心がなかった。本当の父親と名乗る男に、俺は半年に一度だけ会う事になっている。それが別れた時の条件だったらしい。 「赤也、母さんは好きか?」 ちょうど年頃だった俺は素直にならない。自分の母親が嫌いな筈はない。反抗することはあっても母親とは一番の肉親であり理解者である。きっとそれは、誰もが同じ事であるに違いない。 しかし、そんな事が俺の口から出るはずもないだろう。 「…あんたには関係ねえだろ、つうか分かんねえし。」 そう言うとあいつは笑っていた。俺のその答えに、何度も頷くと嬉しそうに笑った。 まるでそれでいいのだと言わんばかりの顔だった。幼いながらに俺はどうしてこの男が笑っているのだろうかと、純粋に疑問に思った。母の事が嫌いなのだろうか。離婚すれば、皆こうなってしまうのだろうかと。その表情で伝わってくる父親の意思に、俺は少し心が痛んだ。母の事を否定されているように、そう思えて。 「お前の母さんは不倫したんだ。そういう奴なんだよ。」 不倫という単語に俺は、ただただ驚く事しか出来なかった。 不倫を知らなかった訳ではない。深くまでを知っている訳ではなかったけれど、大体の意味は知っている。母は他の男を好きになってしまったのだ。父との間に生まれた俺という存在が、ありながらも。不倫とはそういう事だろうと、なんとなく理解を示した。 「あいつは捨てたんだよ。俺と、お前を。」 こいつの言いたい事はざっとこうだろう。愛し合って結婚して、愛し合ったうえで生まれた俺という存在がいながらも他の男に走った母は、夫を捨てた。つまりその遺伝子を告ぐ俺も捨てたのだと。 初めて知る事実に、俺は茫然としていた。特別涙は、浮かんではこなかった。 ただ、自分の存在が分からなくなった。俺は一体誰に愛されて生まれて、そして今生きているのだろうかと。 最早赤の他人同士の元に生まれた俺は一体何の必要があるのだろうかと。でもそんな事はどうでもいい。言ったところで何がどうなる訳でもない。俺がまた新しい俺になる訳でも、消えてなくなってしまう訳でもないし、何も変わらない。 「赤也。俺と、暮らさないか。」 他の男に逃げた母の元で暮らすよりは、理にかなっているのかもしれない。尤もな誘いなのかもしれない。でも、俺はけして首を縦には動かさなかった。 俺はこの男との新しい暮らしを、全力で断りつけた。 新しい家族との生活が、ひっそりと始まっていく。 母親の元不倫相手である新しい父親と名乗る男は、俺と同じくらいの歳をした女を連れてきた。そこで初めて向こう側も不倫だったのだと知る。そんな事実を知ってか知らずか、その連れ子の女はバカみたいに能天気で明るかった。 「赤也くん。ねえ、赤也くんっていうんでしょ?変な名前。」 連れ子同士が、こうも普通に話しかけてくるものなのだろうか。俺は純粋に疑問に思った。こいつは、真実を知っているのだろうかと。 ねえねえと俺の気になど構わずに問いかけてくる女に、俺は母の背後に回ると床に伸びた長いスカートの裾を握りしめてそっと覗きこむ。相も変わらず能天気に楽しそうに笑う、その女の表情が不思議だった。 「どうしたの?恥ずかしがり屋さんなの?私達これから家族になるのに?」 「………」 酷く幼く聞こえる声は、はっきりとした現実を語っていて、異常なまでに大人らしいとそう思った。 「私は青葉って言います。」 もう一度にこっと柔らかな笑みを浮かべて、青葉は笑った。どことなく優しい雰囲気を帯び、誰よりも強く揺るがない意思を持ったその瞳に、俺はどうしてもそれが家族のようには思えなかった。 「今日から私が赤也くんのお姉さんになるんだよ。」 戸籍上の事実ではあっても、俺はその時素直に現状を理解することが出来なかった。 俺は一方的に強く誘ってくる彼女と、いつしか遊ぶようになっていた。遊び始めてよく分かった。青葉は面白い奴だ。そんな青葉に俺はすぐに懐いて行き、後を追うように付いて行くようになった。 日が暮れるまで毎日遊んだ。二人だけの鬼ごっこ、かくれんぼ、砂場遊び、本当に色んな事をした。 でも青葉は決まって水曜日だけは俺と遊んでくれる事がなかった。どれだけ必死に遊ぼうと誘っても、ただ謝られるだけだった。「また明日遊ぼう」と。 青葉は当時よりももっと幼いころからテニスをしていた。この時点で相当な腕前の青葉はジュニア大会なるもので様々な名誉ある賞を受け取っていた。俺は、青葉のテニスが見てみたかった。 「テニスやってくれよ。俺も見てみたい。」 最初はただの好奇心だった。テニスがどんなスポーツなのかを知りたいという、そんなただの好奇心。 「どうして。」 「別にいいじゃん。俺が見たいって言ってんだろ。」 「見たい、ねえ。」 いつだって青葉は妙な顔をしていた。話をあからさまに反らしたり、何事もなかったようにしたり、つまりは俺にテニスを見せたくない様子だった。それでもめげずに言い続ける俺に、十回目にしてようやく青葉は口を開いた。 「だって赤也に教えたら、きっと私より上手くなるでしょ。」 俺に負けないものが欲しいのだと言った。まさかの理由だった。それでも言って聞かない俺に観念したのか青葉は次の木曜日、黄色いテニスボールとラケットを用意して与えてくれた。俺は言うまでもなくテニスの難しさに直面しつつも、その楽しさにいつしか夢中になっていた。 「ほら、赤也はすぐに私を追い抜いちゃうから。」 それでも俺が青葉に勝る事はなかった。一度だって。 「次は絶対、負けねえ。」 俺は青葉とは違うスクールに通い始めた。九つの時だった。 テニスを始めて数年が経つと俺もジュニアと付く大会でその名を欲しいままにしていた。 青葉に勝負を挑む日々だった。それでも青葉はさらにその上を行く。いかに俺がテニスが上手くなったという事実があっても、青葉には勝てない、それもまた事実だった。どんなに技を習得しても、青葉には勝てない。俺はいつしか青葉にテニスで勝つ事を目標に生きていた。 「マジでむかつくんだけど。何でそんなに強い訳?」 涼しい顔で青葉が笑う。 「赤也に負けたくないから、じゃない?」 挑発的な言葉はいつもの事だった。それが余計に俺を強くしていくと知っていながら。 青葉が俺の家族となってから既に五年の月日が過ぎていた。姉となって五年が経っていた。でも違った。どうしても俺には青葉が姉だと思う事が出来ない。それは一方的なライバルであり、目標であり、誰よりも親しい友人でしかなかった。 それから時はまた同じように過ぎて行き、青葉は一足早く中学に上がっていく。 俺が十二の時だった。 立海大付属に入学した青葉を追うように、俺も次の年に立海に入学した。 既に青葉は女子テニス部で二年生にしてエースプレイヤーになっていた。別に驚く事ではない。いくら立海に強い人がいようと、青葉の実力は群を抜いたもので、立海の有名人の一人になっていた。 「絶対次は負けねえ、俺は立海でトップになってやる。」 男子テニス部で化け物と呼ばれるあの三人と同じ、化け物有名人だった。 俺の目標が増えた。俺が越えたいと望む相手が、四人になっていた。それでも変わらない日常。俺は部活が終わって家に帰ると青葉にラケットを振りかざして懇願する。そしてそれも変わらない日常。俺はまだ、青葉を超えられなかった。 結局俺は中学の間、青葉を負かすことがまた出来なかった。十四の時だった。 青葉が高等部に入学すると、より部活にのめり込み忙しくなった。俺も中学最後とあって、より部活にのめり込み忙しくなった。いつしか俺は、青葉とテニスをしなくなっていた。 最後の夏が終わり、俺も当然のように立海高等部に進学する。 家に帰れば青葉がいる。家族だから当然の事だ。そして、この頃俺はようやく自分の中にあった不確かな感情を、確信の物へと変えて行く。 家に帰ると、よく仁王がいた。 仲が良さそうにしている青葉と仁王の姿は見るに堪えなかった。もしかして付き合っているのではないだろうか、そんな空気さえ醸し出す二人に俺はあからさまな嫉妬を抱く。 「あ、赤也おかえり。もうすぐご飯出来るって。」 「あ、そ。」 「なんじゃ?ご機嫌斜めやのう、赤也。」 「そーッスか?」 しらばっくれていながらも、自分でもそう分かるように悪意を込めて言ってやった。嫉妬交じりの、言葉。 「赤也もご飯出来るまで話そうよ。」 嫉妬も何もない青葉の言葉に、俺は余計に嫉妬を深めていくだけだった。 「俺は暇じゃねえの、勝手にやってればいいじゃん。」 青葉が姉だと認められないのは、俺が認めたくないからだった。いくら戸籍上はそうであっても、家族と思えなかった。俺は自分の中にあった不確かな感情が何であったのか気づく。 姉ではなく、一人の女として好きだった。 俺が十六の時だった。 青葉はどういう事だかテニスを辞めて、外部の大学を受験した。見事希望の大学に合格した青葉は家を出て行く。少し離れた東京で、一人暮らしを始めていた。 それから半年が経った。夏休みを利用して、青葉が一時的に帰ってくる。 俺は急いで家に帰った。バカみたいに全力疾走で家に帰った。青葉が帰ってきていると思うと勝手に体が動いていた。慌てて家のカギを回し、俺は玄関で靴を脱ぎ捨てた。「何?あんたどうしたっていうの?」 「おかえり、赤也。」 いつだって青葉は慌ただしく階段を下ってくる。特別急いでいる訳でない時も何故か小走りで、パタパタというその音で俺はよく青葉がいるのだと確認したものだった。そんな足音だった。 「…よう。」 テニスを辞めた青葉の肌はびっくりするように白く、そして細かった。 「赤也は、変わらないね。」 「青葉は、変わったな。」 そう言うと、青葉は笑った。「そう?」って。満足げな表情だった。まるでテニスには何一つ未練はないんだと、そう言われているような笑顔だった。 俺は青葉が外部の大学を受験してテニスも辞めると聞いた時、その理由を問う事が出来なかった。聞くのが怖かったからだ。今までずっとテニスに人生を捧げていた青葉が、テニスを辞めるという事に一体どんな理由があったのだろうか。疑問に思いつつも、ついには聞かずじまいだった。 「なあ、青葉。」 「なあに。」 俺には一つ考えがあった。青葉がテニスを辞めた、今なら。 「勝負してよ。」 青葉は、俺のその言葉がようやく出たのかという様に笑った。 「いいよ。」 夕暮れがかったテニスコートで、俺はようやく青葉にテニスで勝った。初めてのことだった。何年越しの目標だったかはもう忘れてしまう程長い長い目標が、ついに叶ってしまった。 俺が十八の時だった。 俺にはもう一つ決めごとがあった。青葉にテニスで勝つ事が出来たら、言おうと決めていた言葉。 母親は過去に不倫をし、父を裏切った。青葉の父親も過去に不倫をして彼女の母を裏切った。それは共通する罪だ。俺たちは一緒に住むようになって、いくら親密になろうとこの事実だけは口にした事がなかった。 俺は小走りに階段を上っていく。目の前にある、青葉の部屋をノックする。 「どうしたの、何か用事?」 「まあね。」 部屋でくつろいでいる青葉を見つけると、俺も正面に腰を下ろした。 「母さん達が不倫してたって、知ってたか。」 青葉が初めて俺の前に現れた時の事を思い出していた。もう十年も前の事だ。あの時俺にふつうに話しかけてきた青葉は、真実を知っていたのだろうかと。知っていながらも普通でいたのだろうかと。俺がこの十年間、ずっと疑問に思っていた事だった。 「もちろん。」 当然のように青葉は答えた。動揺すらしないその瞳に、俺は吸いこまれそうになる。 「母さんが泣いてた。裏切られたって、毎日泣いてたから。」 青葉は強い人間だと思った。きっと辛かっただろう。俺だって少なからず当時は辛かった。それでも青葉はそれを表情に出す事もなく、俺の目の前に現れた。複雑な心境を浮かべていた俺とは、対照的だった。 俺は父親との同居を拒否した。けれど同時に、母親に対する不満も持っていた。 何故不倫をしたのか、どうして父を裏切ったのか。その父の子である俺はいい気がする筈もないだろう。不倫に対しても本当はどこか許せないものがあった。 でも今思うのだ。母達が不倫をした事をもう許してもいいのではないかと。そして分かるのかもしれない、世の中には我慢できない事があるのではないかと。 「そしたら自分は一体何の為に生れてきたんだろう。そう思ってた事だって、あった。」 俺と同じだった。 「でも私は恨んでない。二人を許した。」 「奇遇じゃん、俺も同じなんだよね。」 母と父が不倫をしたおかげで、青葉と家族になった。言い方を変えれば、家族になってしまった。青葉と出会う為には二人の不倫は必要だったけれど、青葉に恋心を抱くには二人の不倫は不要だった。しかし所詮俺たちは赤の他人だ、戸籍上は同族であっても血は嘘をつかない。 「あんたを姉ちゃんと思った事はないけど。」 「奇遇だね、私も。」 まるで展開を読んでいるような青葉の言葉に、俺は決心した。 「なら俺があんたの事を一人の女として見てるって言ったら、どうする。」 「私がテニスを辞めて家を出た時点で、もう気が付いてるのかと思ったけど。」 青葉は言う、それは姉としてではなく、一人の女としての言葉だった。頭の悪い俺でもこれがどういう事を意味しているのかくらいは理解できる。きっとこれは、青葉にテニスで勝った褒美であるのだと。 「今なら少し父さん達がした事を理解出来るかもなあ。」 「俺も。」 俺は初めて青葉をそっと抱きしめた。禁断という言葉の上に生まれた恋慕に俺は震えるような感覚を覚える。でもそれを止めようとはしない。ようやく青葉を手に入れた瞬間は禁断を勝るから。 「姉ちゃんとか、笑うわ。」 母達が引きつけられたように、俺たちが惹きつけられたのもまた必然の事だったのかもしれない。 「上等だ。」 残像はまだ輝いているか |