人の髪を染めるのは初めての経験だ。自分の髪を染める事は今後もしかするとあったのかもしれない。可能性の話だ。他人の髪を染めるというのはそれだけ滅多な経験だろうし、それが自分より二つ年上の女性の髪を染めるのはもっと滅多な事だろう。俺は美容師の見習いではない。
「トリマル早くしてよ〜。」
 事前準備の一環として百均で買ってきたであろうヘアクリップをいじっている彼女は美容師ごっこでもしているつもりなんだろうか。俺には彼女の意図は分からない。アッシュにしてみたと、トリオン体まで今の髪色と同じように作り替えたのはまだ記憶に新しい。そんな彼女は、俺に黒染めをして欲しいと依頼をしてきた。数時間前の話だ。
「文句言われても嫌なんで自分でやったらどうです?」
「絶対根本まで塗れないしめっちゃムラできるでしょ。」
「多分大差ないですよ。俺は美容師じゃない。」
「トリマルなら器用だからできるよ。多分。」
 全く褒められている気がしないのは恐らく気のせいではないだろう。いくら器用とはいっても、自分の髪を染める大役を後輩に任せる人も珍しい。“出来てしまう”と“出来る”という言葉の間には天と地ほどの差があるのをこの人は知らないのだろうか。
「気安く頼めるのトリマルしかいないんだもん。」
「そもそも気安く頼まないで欲しいっすね。」
 図々しいという言葉が脳裏をよぎって、そして消えていく。どこまで図々しいのかと呆れる一方で彼女の髪を櫛で梳かしている俺は、断ることをせずに美容師ごっこを始めてしまっていた。人の心を弄ぶ天才がいるとすれば、それは彼女以外にいないだろう。
「この間染めてばかりでしょう?その髪色気に入ったって随分浮かれてましたよね。」
 嬉しそうに美容室から帰ってきた彼女は俺にその髪色を自慢するように見せつけてきていたが、どういう心境の変化だろうか。女心と秋の空という言葉があるが、まだ季節は夏にさしかかってばかりだ。本当に女心は分からない。分かっていれば、とっくに俺は彼女を手に入れているはずだ。
「固いこと言わないで早くモブ女にして。」
「あなた程自我が強い人はモブにはなれません。」
 そっかぁ、と残念そうなフリをしているこの女性のことを俺はまるで理解できない。好意的に感じているその原点には、“理解できない”という感情が絡んでいるのかもしれない。だからこそ知りたくなるという人間の心理を突いている。どうしてそんな仕組みになっているんだろうか。あまりに不条理だ。
 彼女自身も、自分が想像できない未来に恋をしていたのかもしれないと漠然とそんなことを思った。そうでなければ恐らくは俺に黒染めを依頼したりはしなかっただろう。
「自分で染めた方が身のためですよ。」
「なんで?」
「斬新な色のいれ方をするかもしれない。」
「それは勘弁してほしいな。」
 鏡越しに俺との目線を合わせてきた彼女はいつもよりも少し控えめに笑った。らしくないじゃないですかとそう言おうと思って、やっぱり止める。何となく今彼女に何が起きているのかを察知しているからだ。
「黒髪清純派目指すんですか?」
「まあそんな感じ。就活するには必要でしょ。」
 一番就職活動には縁遠い人だと思っていた。小南先輩ほどではないにしても、彼女は自由奔放な人だ。就職をするなんて思考を持ち合わせているとは夢にも思わない。ボーダーを離れる結末があるなんて、微塵にも思わなかった。
「一般企業に就職できると思ってるんですか?」
「ボーダーにいた事言えばなんとかなるでしょ。」
「思ってるほど就職活動は簡単じゃないと思います。」
 そうだよね、私もそう思う。彼女はそう言って、逆に爽やかな笑みを鏡越しに見せつけてきた。自分でも簡単ではない事は理解しているらしい。そんな彼女がボーダーを離れて就職をする理由なんて、俺には一つくらいしか思い浮かばなかった。
「迅さんにでも振られましたか。」
 元々彼女は本部所属の防衛隊員だった。俺と同じ境遇の人間だ。そんな彼女が突如玉狛に籍を移すと言った時、なんとなくその真相は理解できた。理解できない鈍感な自分がいれば随分と気持ちは楽だったのかもしれない。人の性分というものは変えられない。
「クリティカルヒットきついな。」
「なんで今更自分の気持ち伝えたんですか。」
 彼女が迅さんのことを好きだという事実は分かっていた。直接聞いた訳じゃない。元々彼女がボーダーに入ったきっかけが迅さん絡みだったというのを知っていただけの話だ。
 きっと彼女は迅さんの事が好きだろうし、それは俺がどう振舞って何かを変えようと努力しても変えられないことだと。俺が彼女への気持ちを変えられないように、彼女の気持ちも変わらないことを知っていた。こんな事を考えて、いつもどこにも着地しない。
 迅さんにはサイドエフェクトがある。それは彼女もよく知っている事で、ボーダーの隊員なら誰でも知っている事実だ。
 彼女は先の大規模進行の時、兄を亡くしている。その現場にいたのが迅さんだったらしい。結局彼女がボーダーに入ったきっかけはそこにあるのだろうと思う。直接聞いたことはないが、今の彼女を見れば火を見るより明らかだ。
「しょうがいないじゃん。好きなんだから。」
 彼女が転属してしばらくした後、俺も玉狛支部に転属した。理由は彼女のことだけじゃない。他にも色々と理由はあったが、それでもそのトリガーになったのはあえていう必要はないだろう。
 A級一位に君臨する部隊にいながら、誰にも認められていないような気がしていたのがなんなのか。それを認めたくなかった。けれど、認めざるを得ない。百人に認められるより、認めて欲しい一人に認められることの方が重要ということだ。何故そこまで彼女を好きなのかと問われると回答に困る。人を好きになることに理由などいるのだろうか。甚だ疑問だ。
 今まで生きてきて人を好きになった事はない。家族は大事だ。そのためにボーダーに入ったし、それ以外は必要ないと思っていた。幸か不幸か自分の見た目を好んでくれる女は何人かいたが、好意を受けているからといって幸せとは限らない。
さん俺のこと大好きじゃないですか。」
「あ〜、それは否めないな。」
「じゃあそれでwinwinな関係築けますよね?」
「そこまで世の中上手くいかないよ。」
 どうしたら彼女を手に入れられるのだろうかと考える。いつもその答えはでない。隙を見つけて付け入ろうと思ったこともあったが、結果的にその隙がないことを知ってより惨めになった。
「京介のことは大好きだよ。」
 櫛が引っかかって通らない。少し力を入れるとギギという音を立てて、再び櫛は通っていく。今日こそはきちんと振られて玉砕しようと思っていた俺の気持ちを簡単に蘇らせる彼女はタチが悪い。
「四捨五入で繰上げしといた方がいいんじゃないすか。」
「…そうだね。」
 いつからか彼女は俺のことを京介という名前ではなく、どこかの誰かが間違った伝承をしたトリマルという名で呼ぶようになった。元々は京介と呼んでいたものがトリマルに変わった事で諦めの念は感じていたはずだった。
 玉狛への移籍話をモノにして追ってきた俺が得たのは精々そんなものくらいだ。プラスの収支はまるでない。
「それが出来たらそれこそwinwinだ。」
「じゃあすればいい。」
「出来たらいいのにね。京介、そうしてよ。」
「ならその前に俺の名前を統一してください。」
 トリマルとあだ名で呼ばれる毎に遠く感じていた気持ちが、時折ふいに出てくる京介という自分の名前にいやでも反応せざるを得ない。人は一度呼び名を決めてからそれを変えるのだろうか。わかりやすいサインのように、それが指標になってくれた方が幾分も心は穏やかだ。けれどこの人は、素になった途端に俺のことを名前で呼ぶ。
「あなたの好きなイケメンが鏡越しに写ってますよ。」
「随分自信あるじゃん。」
「自己評価じゃないですから。」
「確かに。京介はかっこいい。イケメンだ。」
 二十代後半や三十代の恋愛じゃない。ミーハーな彼女が俺を選んでくれないのは何故なんだろうか。他人からの評価が高いこの顔を活かせるチャンスは他にない筈だ。少なくとも彼女も俺のことは好きなはずだが、それが異性のものとしての感情か、人としての感情か、それとも友情や後輩としてのそれかどうかは考えたくない。俺にとっては、初めての人だ。執着できる、初めての人だった。
「俺にしといた方が世界は平和だと思います。」
「地球背負ってるじゃん。」
「それくらい俺のこと好きじゃないですか。」
「そうだったらいいんだけどね。本当に。」
 そしたら多分こうして髪を染めるお願いはしてないと続けるように言われて耳が痛い。自分でも分かっていた未来だ。結局俺はこの人の一番になれない。例えその想いが通じなくても、簡単に迅さんから俺に鞍替えできる人じゃない。そうあって欲しいと願いながらも、そうじゃないからこそ俺は彼女を好きなのだろうとそう思う。
「普通に未来覆したくなっただけなんじゃないですか?」
「それは否定できないけど、京介も私にムキになってるだけだから多分同じでしょ。」
 その言葉に、一度何も言い返せなくなる。この感情を正しく伝える方法は一体何なのだろうか。簡単であってそれはとても難しいことのように思えた。言葉一つで伝わることもあれば、俺のこの感情のように伝わらない事もあるのだと知った。
「ムキになったらいけませんか。」
 一度櫛を置いて、彼女をこちらへと引き寄せる。拒むこともなく、彼女は俺を受け入れてくれた。それが贖罪からくるせめてもの慰めか、それとも他の何かなのか確認したいようで答えは知りたくない。
「なんでキス拒まないんですか?」
「好きだから。」
 そのまっすぐな眼差しに一時の快楽を得ながらも、果たしてこれで満足していいのだろうかと自問自答の時間が始まる。
「じゃあもう俺でいいじゃないですか。」
 体から搾り出すような本音が出て、自分でも気持ちが悪かった。自分の本音や本心を人に悟られるのは苦手だ。それを知っている彼女に対して、そのありのままを曝け出すのはある意味勝負でしかないだろう。自分の羞恥を取っ払った先にあるものを、信じたかった。
「京介が好き。でも、迅さんの方がもっと好きだから。」
 そんな決定的な言葉なんて、俺にとっても彼女にとっても収益はない。いつも満面の笑みを浮かべてばかりのその顔は珍しく泣いていた。
「泣きたいのはこっちの方です。」
「そっか。」
 言葉を紡ぎ終わった後、躊躇することなくお互い唇が吸い寄せられるようなキスをした。結局、彼女は迅さんにこんなキスをすることもされることもない。迅さんが彼女を振ったということはそういう事だ。彼女が望んだ未来は実現しない。そして俺が望んだ未来もやはり実現はしないのだろう。
「こんなに京介が好きなのに。」
 泣いている女性を見るのはあまり気分がいいものではない。その涙が自分に向けられた感情ではないと分かっているからだ。もはや拷問に近い。彼女のその言葉がこんなにも嬉しくて、そして嬉しく無い。今までの経験にないアップダウンだ。 ある意味彼女から得る学びは多い。俺は振り回されてばかりだ。
「迅さんともこんなやらしいキスするんですか。」
「分かんないけどしないと思う。」
「なら俺は特別ですね。彼女になりますか?」
「なりたいな。」
 京介とめずらしく俺の名前を呼ぶこの女性に、俺はきっと解放されないだろう。完全に切り離してくれる訳でもなく、ある程度には縋り付く彼女を俺はやっぱり嫌いになれないんだろうと思う。
「迅さんとはこんな事できない。本当に好きだから。」
 地獄へと突き落とされる言葉をかけられても彼女を嫌いになれない理由はどこにあるのだろうか。とても静かに涙を流す彼女に、俺は吸い寄せられるように距離を詰める。誰にとっても幸福を呼ばないと分かりながら。

 結局俺は彼女がボーダーに入るきっかけにも辞めるきっかけにもなれない。
 彼女は来週、ボーダーを辞める。


ざらつく塩味
( 2022’06’25 )