いつかの冬の事を思い出した。呪術高専に通っていた私たちは、夕食を取って皆が部屋へと戻っていくのを確認すると逃げるように手を繋いで敷地内から飛び出して、夜の街へと出た。街と言っても、何か急な任務が入った時のことを考えてそう遠くへは行かない。学校から少し離れた国道沿いにある、古びれた一軒のホテルに入った。
「“野猿“とかセンスのない名前つけるよね。」
「昭和に建ったって感じだな。この道“野猿街道“だから多分、それで。」
「ああ、それで。ますますセンス感じない。」
 商売っ気をまるで感じない、そのダサいネーミングセンスを背負った、緑色に文字が光った古びたホテルに文句を言いながら入ると、年季の入った家具の匂いがした。きちんと清掃はされてきれいに保たれているけれど、何処かカビ臭く、古い匂いがした。間違ってもいい匂いとは言えないけれど、不思議と嫌な気はしない。多分、日常ではあまり出会う事のないその匂いが、非日常というスリルとわくわく感を私に与えていたのかもしれない。
「一緒にいるのが目的なんだ、今日の所はこれで勘弁して欲しい。」
「うん。卒業したらもっといいホテル泊まりたい。」
「いいホテルって、例えば?ベッドが回ったり、水に浮かんでたり?」
「そんなホテルに今まで行ってきたって訳だ。」
 傑と付き合って初めてのイベントに、私たちはこっそりと外泊した。今までもお互いの部屋を行き来する事はあったけれど、朝まで一緒にいる事はなかった。高専の寮に住んでいる私たちにとって、それは少しスリルのある行いだ。一階と二階で男子寮と女子寮は別れており、いちいち人目を気にするのも億劫だったし、一度一緒にいれば朝まで一緒にいたいと、特にこんな寒い冬の日には思うものだろう。
 最初は、規則を乱す事もあり乗り気でなかった傑を、「一日だけでいいから傑の隣で寝て、朝まで一緒にいたい。」と隠す事なくストレートに気持ちをぶつければ、それ以降反対する言葉は一度たりとも飛んでは来なかった。
「そう言えば嫉妬しそうと思って、あえて言ってみた。」
「そういう所あるよね、傑。たまに性格悪い。」
「好きな子が困ってるの見るの、結構好きなんだ。」
「趣味も悪い。」
 わざわざ聞き出す事はしないが、きっと過去にも付き合ってきた女の人がいるんだろうなとなんとなくそう思う。女の扱いに慣れているというのが、その根拠だ。腹の底で少しだけしくしくと何かが疼くような感覚を覚えるけれど、それを上回るくらいに傑は私に優しい。時折、先刻のようにわざと私に嫉妬を覚えさせるような事をするけれど、少し私を揶揄うだけで、具体的な話はしないし、その分私を存分に甘やかしてくれる。
「ねえ、お風呂おっきいよ。」
「二人で入る事を想定した作りだから、大きいよね。」
「淡々と言うね。ロマンがないなあ、傑。」
が一人で入るとか言い出さないかと思って。」
 こんな古びれたラブホテルでも、きちんとそれなりのアメニティは揃っていて私はいくつか用意されていた入浴剤を手に取ってどれにしようか思案する。ピンク色の粉が入ったそれを入れようと思ったけれど、如何にもこれからいやらしい事をするようなそんな妖艶な色がついた入浴剤はやめようと思った。簡単に泡風呂ができるという、もう一つの袋を破いて浴槽に流し入れて、蛇口を捻った。
「入るよ?折角だし一緒に背中の流し合いしないと。」
「合宿に来てる訳じゃないんだけどな。」
「じゃあ、なにする?」
「それは後で、実践形式でお披露目するよ。」
「言葉がピンクいよ、傑。」
 ラブホテルの大きなお風呂は、湯を貼るのにも時間がかかる。その間、私たちはベッドに腰掛けて大きな壁にかかったテレビでクリスマス特番を見る。どうって事のない内容なのに、二人で見ればそれだけで楽しいような錯覚になるもので不思議だった。
 今までも恋をした事はあったし、傑以外と付きあった事もあった。高専に入る前という事もあって大した付き合いでもなかったけれど、傑と付き合う事で初めてこれが恋というものなんだと認識したような気がした。形式的なものではなく、しっかりと傑とは心が通い合ったような暖かさを感じたからだ。
「後ろからこうやってギュッてするの好きだよね。」
「前からだと恥ずかしがるからね、君が。」
「だって、いちいち覗くように顔見てくるから。」
「それが醍醐味だから仕方がないだろう。」
 そう言うと、後ろからひょっこりと前へと顔を突き出して私を張り付いた笑みで見つめてくる。私が困る事や、恥ずかしがる事を傑は喜ぶ。そんな時の傑は、意地が悪い。付き合うまで知り得なかった傑の一面だ。逆に言えば、付き合わないと知れない一面で、私だけが占有している傑の一面だ。
「でも、後ろからこうするの好きなのはほんと。」
「一応聞くけど、なんで?」
「すっぽり収まるのと、こんなに小さいんだなと改めて思う所が。」
 だから自分が守ってやらないと、守ってあげたいと思うのだと傑は言った。歯の浮くような甘い科白に、私は暫く正しい返事を思いつかず、顔が見えないのをいい事に黙りこくって幸せを噛み締めていた。私を守る事が彼の使命になっているのであれば、それはとても幸せな事で、私自身の中でも己の価値をあげてくれた。
「あ、もうお湯びたびたになってる!」
「じゃあ、入ろうか。」
 ぶくぶくとあぶくを立てている浴槽に飛び込むと、傑も後を追うようにその大きな体を浸した。気づいた時には既に浴槽から少しお湯が溢れていた事もあって、二人分の体を受け入れた浴槽は勢いをつけて二人の体重分だけ湯を外へと流し出した。
「お風呂でもさっきと大して変わらないね。」
「なら向かい合って入る?」
「ううん、やめておくよ。」
「そっか、それは少し残念だ。」
 私の背後から湯に浸かった傑は、先刻と同じように私を後ろから抱き止めて足を伸ばす。私が目一杯足を伸ばして浴槽の縁がちょうど先端に触れたくらいだから、傑にとっては普通の風呂より大きいとはいえ少し窮屈だろう。折られた彼の足が、お湯からひょっこりと姿を現していて、なんだかそれが絶妙におかしくて笑ってしまった。
「こら、人の体で遊ぶんじゃない。」
 傑の膝小僧に、指を五本這わせてぞわぞわとなぞると擽ったいとそれを引っ込める。いつだって主導権を傑に握られているからか、彼の弱いところを突いている錯覚に陥って少し楽しい。
「これから人の体弄ぶくせに。」
「随分と人聞きが悪いね。でも、否定しきれないのが悔しいな。」
 私の腰に回されていた傑の手を一度払って、私は向き合うようにくるりと体勢を回転させて傑を視界に入れる。恥ずかしいという感情がありながらも、恐らくはどうしようもなく昂ったこの感情の方がそれに勝る。彼の鎖骨に手を添えて、自分から彼を求めた。
「傑が、好き。」
 湯にあてられて少し火照った私の体を引き寄せたのは傑で、私たちはお互いの唇を重ね合って、暫く無言のままそれを欲しいままに貪りあった。今も美しく残っている、懐かしい傑との記憶   回顧録だ。




 私は柄にもなく張り切って、大して得意でもない料理を作る。タブレットに料理のレシピを映し出して、その通りの手順に沿って作っていく。“簡単“なんて単純な見出しにつられてたどり着いたそのレシピはちっとも私にとっては簡単ではなく、作業は難航を極めた。仕事柄しっかりと決まった時間に何かを食べるという習慣のない私は、あまり料理をしない。大抵、仕事が終わって帰宅途中にコンビニで買った弁当を食べる事が多い。
 クリスマスらしくチキンを買って、中を繰り抜いて具材を突っ込む。それが美味しいのかどうかは分からないけれど、こういうイベントには非日常が必要だ。私が料理をしているだけでも充分な非日常だが、チキンにせっせと具材を詰め込んでいるトリッキーな私がいるくらいの方が盛り上がるだろう。
「手伝おうか?」
「大丈夫。傑の方が料理上手いから、癪に触る。」
「必要最低限できるってだけで、上手くはないさ。」
「世間ではそれを上手っていうんだよ、知らない?」
 傑と迎えるクリスマスは何回目だろうかと考えて、もう随分と長い事付き合っているのだと改めて思う。最初のクリスマスはまだ私たちが高専生の時で、酷く若く初々しい記憶だ。当日、皆が部屋へと戻った隙を見計らって私は傑と街へと飛び出した。昭和感の漂う古びたラブホテルで、こっそりと外泊をしたのを思い出す。今も尚、それは大切な記憶として残っているけれど、翌日しっかり外泊がバレてこっぴどく叱られたのも含めて愛おしく思い出すことができる。
「適材適所、できる人間ができる事をやればいい。」
「できる人ばかりが大変になって、理不尽じゃん。」
「まぁ、私はそれを大変に思っている訳じゃない。」
「お人好しすぎるんじゃない?それ。」
「もちろん、に限定して言ってる言葉だけど。」
「相変わらず傑、あっまいなぁ。」
 あの時から、多分傑の愛情表現は変わっていない。私を後ろからふわりと抱きしめて、安心させてくれる。付き合いが長くなっても、倦怠期を迎えることもなくこうして一身に愛情を感じられるのはとても幸せな事なのだろうと思う。もう傑との付き合いが長すぎて、一般的な感覚というものが私には分からない。けれど私以外の人間からすれば、それは奇跡に近いような事なのだと皆口を揃えて言う。
「こんな時間にゆっくりしてるんだ、早く飲もう。」
「まだ途中だし、それにまだ大根も炊けてない。」
「…大根?クリスマスに。」
「そう。なんかね、ふいに高専時代に食べたなって思い出したの。」
 高専時代はカレーとかシチューとか、王道な食事をする事が多かったけれど、とある時私はその料理と出会った。別にそこまで印象に残る程美味しかったのかといえば、多分そうじゃない。けれど、何処か母が作ったような懐かしみを感じる暖かい味がした。それが、その当時の私にはとびきり美味しく感じられたのかもしれない。
「もしかして、“ホラ吹き大根“。」
「お察し通り“ホラ吹き大根“。懐かしいでしょ。」
「本気かボケか分からなかった、奇跡のあれね。」
 別にクリスマスだから作ろうと思った訳ではない。クリスマスという特別感がない限り私が料理をする事などないのだから、そのついでに作ってみようと思っただけで特別意味はない。高専時代、あまりの美味しさに感じたそのままを表現した私は、ふろふき大根を“ホラ吹き大根“と疑う事もなく呼んで、傑と悟を爆笑させた。今となっては、懐かしい思い出だ。
「クリスマス関係ないけど、私たちの思い出の品でしょ?ある意味。」
「確かにね。今思い出しても笑えるな。」
 昆布を入れて炊くだけのふろふき大根は、料理に不慣れな私でも簡単に作れる。大根の皮を剥いて、沸騰した鍋に昆布と一緒に放り込むだけで、あとは出来合いの肉味噌をつけてしまえば簡単に完成する。“あの頃“を思い出させる、私の憎い演出だ。久しぶりに、傑と昔の話をしたいと思った。酒のアテには、昔の思い出話が一番美味い。
「“ホラ吹き大根“とチキンとなると、お酒は何だい?」
「え?ビールだよ。というか、料理にあわせてとか考えてなかった。」
「はは、そういう所らしくていいね。」
「だって、ビールが一番美味しいでしょ。」
「間違いない。」
 グリルがピピピと頃あいを教えてくれて、私は一度様子を伺う。丁度いい感じに焦げ目がついているので、“簡単“ではなかったけれどどうやらそれは無事完成したらしい。後は少し冷めるのを待って、ビールと一緒に流し込むだけ。“ホラ吹き大根“の方も、鍋の蓋を開けて竹串を刺せば簡単に突き抜けて頃合いを示している。火を止めて、私はエプロンを脱いだ。
「ビールをより美味しくする魔法、傑は知ってる?」
「勿体ぶるね。興味しかないけど。」
「お風呂で火照らせた体に流し込むのが、一番美味しいんだよ。」
「思考が中年のおじさんだ。」
 あの時のように、私は風呂場へ向かって、栓を閉めるとお湯張りのボタンを押す。ラブホテルではなく、ただの私たちの住まいにあの時のような泡風呂用のリキッド等もちろんなくて、久しく使っていなかった個包装された入浴剤を投げ入れた。お湯に溶けて、じわじわと形を無くしていくその球体は徐々に湯を白く濁らせ、甘ったるい匂いを放った。
「一緒に入るのは、随分久しいな。」
「一緒に入るとは言ってないけど。」
「意地が悪いね、。」
「でもさ、現実的に考えてこのサイズじゃ二人で入れなくないかな。」
「じゃあ、今度は向かい合って入ればいいさ。」
 暫くすると、お風呂が沸いたのだと軽快なメロディーが耳に届いて、私は風呂場へと向かう。もちろん、傑も同じく私の後ろをついてきて一緒に入る様子だった。あの時とは違って、体のピースをはめるように、私たちは正面を向いて辛うじて浴槽に収まった。
「流石に狭いね。」
「どうせ密着するんだ、返って都合がいいだろう。」
「前から思ってたけど、傑って何言ってもエロい。」
「趣がある、くらいに言葉はぼかして欲しいものだ。」
「そんな周りくどくて面倒なの、嫌だよ。」
 高専時代よりもはるかに伸びた彼の毛束を拾い上げて、手首に潜らせていた髪ゴムで傑の髪を結う。結っている途中で、昔の傑の髪型を思い出して、私はあえて少し上の位置で傑の長い髪を一つに束ねる。前髪だけを垂らし、その綺麗な黒髪を全て後ろで団子状にまとめると、まるでタイムスリップしたかのような夏油傑が、そこにはいた。
「うわ、夏油傑だ。」
「じゃあ今の私はなんなんだ?」
「大人夏油傑。これは、高専の傑だ。」
 急激に懐かしい何かが込み上げて来るような気がした。もちろん、今の彼も私にとってどうしようもなく大切で、必要不可欠な存在ではありながらも、あの頃の傑を愛おしく思えた。まだ青臭く、ウブな感じが消えきっていなかった頃の私たちが懐かしくて、愛おしい。
「嫉妬させたいのか?」
「何言ってるの。同じ傑でしょ。」
「過去の私に、嫉妬するよ。」
「嫉妬深いとは、知らなかった。」
 傑の足元の隙間を縫って、私は距離を詰める。そうすれば、待ち構えていたとばかりに長い傑の腕が私を出迎えてくれて、ちゃぷんとお湯から手を出して私の髪を流れに沿って撫でてくれる。あの頃からちっとも変わっていないこの愛情表現に幸せを感じることはあっても、慣れというものは感じられない。いつだって傑の一つの行動で、私は心を持っていかれる。昂る気持ちは、あの頃から変わらない。
「そう言えば、いいホテルに泊まりたかったんじゃなかったっけ。」
「いつの話?形にこだわる程もう子どもじゃないよ。」
「じゃあ、今のが求めてるものって何だい。」
「美味しいビールと、料理。後はそこに傑がいればそれだけでいい。」
 あの時を再現するように、傑の鎖骨に手を置いて、私はゆっくりと彼との距離を詰める。強請るように視線を合わせても、少し意地の悪いかんばせをしている傑は、やっぱり高専時代の傑と瓜二つだ。もちろん同じ人間なのだから瓜二つという表現が正しくないのはわかるけれど、あの頃の傑に会えたようでちょっとぞわぞわとした。
「それだけでいいのか、逆に。」
「それ以上はばち当たる。欲張りすぎだって。」
「謙虚だね。健気で、可愛い。」
 深く体を浴槽に落とし込んでキスをすれば、呼応するように吸い返されるその唇に火照った体はより体温を上げていく。いつまで経っても慣れる事がないこの距離感に恥ずかしいという気持ちがありながらも、それ以上に今は彼を独占してしまいたいとそう思う。
 私の首筋をなぞりながら、徐々に体の方へと降りてくるその大きな傑の手が、私の肌に触れていく。どうしようもなくそれが気持ちが良くて、いつも通りの感覚に安心する。
「…泣いてる?」
 どうしようもなく、いつもの当たり前の感覚のはずなのに、それはとても久しぶりのような気もして、傑の言葉で自分の得体の知れない感情に気づく。これは、なんだ。私が知っている傑で、けれどそれは私の現実ではない。
 なんで、なんで、なんで、なんで   こんなに幸せなのに、私はこの記憶を知らない。




 流れ落ちた涙を拭われたような気がして、はっとして飛び起きた。まだ夜は明けきっていないようで、カーテンからも日は差し込んでいない。私は、夢を見ていた。多分、自分の理想を、あったかもしれない傑との未来の自分を見ていたのだ。私が望んだものを夢に投影していたのかと理解すると、虚しくなって涙さえも自然とひいていた。もうここに、私の涙を拭ってくれる傑はいない。
 傑と共に過ごしたのはもう十年ほど前の昔の事で、実際に付き合ったのはたった一年ほどだった。二度目のクリスマスを共に過ごす事なく、傑は私の元を去り、そして呪詛師に堕ちた。
 どこまでも私に甘く、大事にしてくれていた傑の言葉を思い出す。あの護衛の任務がなければ、私が先刻リアルに具現化した夢のような二人の時間が今も流れていたのだろうかと思わずにはいられない。十代の若者の言葉に、どこまでその拘束力があるのかと言われると、きっと大した事はない。熱に絆された若い男女の言葉なんて、すぐに破綻する。けれど、傑だけは特例と思っていたのかもしれない。術師は非術師を守る為に在ると真っ直ぐに伸びた思想を持っていた彼だから、と。
「…ホラ吹き。」
 美味しいビールも、料理も何もいらない。そこに、傑だけがいればそれだけでよかったのに。もう私の手に届くところに、彼は居ない。そして私は、これから任を受けて十年ぶりに彼に会いに行く。恋人としてではなく、最悪の呪詛師を討伐しに行く、その為に。
 奇しくも傑とのその美しい記憶と、今日が同じ日なのだからこれも何かの意味があるのだろうか考えてしまう。最後にと、あったかもしれない幸せな未来を夢に見させたのは誰の差し金だろうか。
 夜が明けるまでにはもう少し時間があって、まだクリスマスはやってこない。前夜祭は、久しぶりに私に傑との幸せな幻想を持ち込んで、そして夢となって霧に消えた。再会までは、もう間もなくだ。

前夜祭
( 2022’03’07 )