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ほんの少し前にあった幻覚のようなあいつの姿が、浮かんだ。煙草を吹かすと、煙と共に、一緒にいた数年間が蘇ってくるようだった。酷く惨めで、皮肉な話だと自分のことながらあざ笑ってしまう。電子音がブルブルと振るえ、もう残量が少ないと俺に教えてくれる。嫌いであった筈の、我慢をして吸っていた筈のこの電子煙草も今になって思うと慣れてしまって特に違和感を感じない。水蒸気のような独特な香りを放つそれも、最早俺の一部になっていた。 以前吸っていた銘柄の紙煙草に手を伸ばす。久しぶりに出してきたライターを手に、重石を下に押し付けるとジジっと音を鳴らして紙を燃やしたような匂いが充満する。 以前は好んで吸っていた筈の紙煙草が、やけに肺に染みるような違和感を覚えた。 ![]() 記憶は、一年ほど前に遡る 三十を超えた大人にとって誕生日は意味を成さない。たまに親と連絡を取る手段でしかない。この歳になって誕生日を祝ってもらうのも、どこか気恥ずかしいものがあった。ただ自分が生まれたというだけのその日を大層に祝う必要もなければ、人に気を使わせるのも気が引ける俺は自分の誕生日を人に告げることはあまりない。 と付き合って数ヶ月した頃、あいつに尋ねられて久しく自分自身の誕生日を他人に告げた気がする。 俺の誕生日を知ったは、嬉しそうに数ヵ月後に訪れるであろう俺の生まれた日を楽しみにしているようだった。生まれたのは俺なのに、何故他人であるがそんな些細な事を楽しそうに待ちわびているのだろうかなんて、不可思議に思った。俺よりも歳が下だから、誕生日という括りのイベントを楽しみたいのかもしれないと、そんな事を思って特に気にすることもなかった。自分自身の誕生日に構っていられるほど、俺は暇ではなかった。 「トシはさ、何が欲しい?」 誕生日が近づくにつれて、あいつはよく俺にこんな事を聞いてきた。社会人になってばかりの若造でもなければ、欲しいものを自分で変えないほどに困窮している訳でもない俺にとって、それは難しい質問だった。 「毎日毎日同じ事を聞くな。」 「だってさ、誕生日だよ。ちゃんと、お祝いしないと。」 は、俺が何を欲しいのかと週末の度に聞いてくる。正直嬉しくないわけではないが、同じ事を聞かれ続けることに対して少しだけうんざりしていた気持ちもあった。自分自身の誕生日を謳歌しなければいけないのであれば、正直貰うものなんて何でもよかった。 「別に要らねえって言ってるだろいつも。」 「そういう訳にはいかないじゃん。」 「だったら、時間が欲しい。いくらあっても足りないからな。」 この頃の俺は仕事に没頭していた。周りから仕事人間と言われることも多かったが、そもそも睡眠を除けば平日にしている事なんて仕事以外の何もないのに、世の中の人間は何を楽しんでいるのだろうかと俺は少し冷めた気持ちで周りを見ていた。自分自身を保っていられるのも、成果を得られるのも、結果が伴うのは仕事だけだ。形に見えないものなど、意味を成さないとそう思っていた。周囲から冷徹な人間と思われていても、俺にとっては然程の意味を意味を持たない。自分自身が満足できているのであれば、それで問題がないからだ。 「たまには彼女に対しても時間使いなよ。」 「使ってんだろ。今も、こうして。」 「一緒にいても私じゃなくて、パソコン見てる。」 「付き合う前からそんなの分かってただろ。」 俺がそういうと、は「そうだけど。」と見ていなくても分かるようなむくれた表情で告げる。 別にの言葉可愛くない訳ではない。大切に思っているのは違いない。ただ、自分自身の一番が何であるのかを考えたときにその軸がぶれることがないというだけの事だ。そんな俺を理解してくれているという、俺の勝手な解釈で俺はを傍に置いていた。世の中の恋人と呼ばれる関係性を考えると少しかわいそうな気もしたが、それでも俺についてきてくれたのだからにとってもこんな日常は苦じゃないのだろうとどこか勝手に思っていたのかもしれない。 仕事にひと段落をついたところで、俺はマウスの隣に置いてあった煙草の箱を手に取る。ライターで火を付けて、それを肺へと陥れていく。本当のところではなく、この煙草こそが俺を一番癒してくれると言えばあいつは怒るだろうか。そんな事を思いながら、俺は特に何を言う訳でもなく煙草を吹かす。 「煙草臭いなあ。」 「そりゃ煙草吸ってるんだから当たり前だ。」 「辞めなよ、体に悪いしいい事ない。」 「辞められるんだったらとっくの昔に辞めてる。」 そんなものに依存しないでも、私に依存すればいいのにとは後ろから俺に抱きついてくる。そんなを可愛いと少し思いつつも、この後何を言ったらいいのかと俺は思案する。 甘い言葉を言うのは、苦手だ。愛情表現も得意ではない。これだけ俺に対して愛を表現してくれているに、俺は何も返すものがない。 自分自身の年齢を考えても、きっとと結婚するのだろうなとどこか曖昧ながらも考えていた。彼女を妻に迎えるに当たって、何も不足はない。いつか、そんな言葉を告げる日が来るのだろうかと俺は人事のように思う。だとすれば、と家庭を築いても彼女に苦労をさせないだけの暮らしをさせてやるのが何よりの答えなのだと、そう考えていた。俺の望みと、が俺に対して望む想いと、同じであると思い込んで。 「トシ。」 物欲しそうな顔で、俺の名を呼ぶ。 今日のところは仕事は終わっていた筈だった。だからと言っておいそれとに構うのも、何だか気恥ずかしい。自分自身の不器用さを感じながらも、俺は背中にあるの重石を感じながら意味もなくメールボックスを開いて、どうでもいいメールの確認作業を始める。 「平素は格別のご高配を賜り厚く御礼申し上げます。」 「勝手に読むんじゃねえよ。」 「仕事終わったくせに相手してくれないからじゃん。」 「子供か、お前は。」 にそんな下らない事を言わせているのが俺自身と分かっていながらも、俺は作業をやめる事はない。この作業をしておけば、将来的にを幸せにしてやれると自分に言い聞かせるようにして。 「重い。」 「じゃあせめて何欲しいか言ってよ。」 こうまで他人の誕生日に拘るのかと少し俺は呆れる。男が女に送るプレゼントには意味があるが、その逆はそこまでの意味を持つのだろうかと思う。 俺がと付き合ったのは、彼女の誕生日だった。俺にしては似合わないような事をしたと思う。女物のアクセサリーを買って、付き合って欲しいと告げた。その時の嬉しそうなのかんばせを胸に、俺はそれ以上のことを今日まで何もしてやっていない。自分の手の内に欲しいものを留めてしまったが最後のように、その責務を放棄していると言われたら俺には言い返す言葉がない。 「しつこい女は嫌いだ。」 「だってトシは、私の誕生日にちゃんと欲しいものくれたじゃん。」 女という生き物はよくも恥ずかしげもなくこんな事を言えたものだと思う。の誕生日にそれ与えたのは他でもない自分であったが、面と向かって言われるとどうも居た堪れない気持ちに陥った。照れくさいという言葉を、彼女は知らないのだろうかと思わざるを得ない。 元々はただの知り合いだった。二人で会ったのではなく、たまに飲みにいく集団にがいた。はじめて見た時に、好きだと思った。自分の女にしたいと、そう思った。きっと、付き合うまでの過程で言えば俺は必死だっただろう。柄にもなく、彼女の誕生日にその想いを告げるという柄でもない事をしたのだから。 「お前は俺に何を求めてるんだ、。」 「なんだろう。別に、大それた事は何も望んでないと思うけど。」 「じゃあ、具体的になんだよ。」 その言葉を聞いたは、俺にもたれかかるように倒れこむ。抱きつくとは少し違う、甘え方。こうでも強引にしないと俺が反応をしないと分かっているような、そんなの姿だった。素直に甘えさせてやれないのは俺自身のせいなのに、どうしようもなくそれを愛おしく思う。であれば、自分の今の環境を壊すことなく一緒に生活ができるような気がしていた。 メールを閉じて、俺もパソコンを離れる。そんな俺を見て、輝いた瞳で俺を見てくるを視界に写して、思わず笑ってしまう。 「なんて顔してやがる。」 「ようやく私を見てくれたって、そう思って。」 恥ずかしげもなく己の感情を口にするに苦笑いを浮かべながら、俺はその体を包み込む。そうすれば、が喜ぶのを知っているからだ。このの笑顔が、俺は好きだった。何にも違う事無く、真っ直ぐに向いたその目が好きだった。その目を自分自身に向かせようと必死になっていたあの頃を、ふいに思い出した。 今この瞬間を幸せに思う事で俺には無駄な自信があったのかもしれない。きっと、は俺の傍から離れることなどないと。俺がいかに仕事に没頭しても、視線の先がパソコンであってとしても、俺がそういう人間だという事を理解し、愛してくれているのではないだろうかと独りよがりな事を考えていた。 「いちいち言葉にしないと分からないお前は頭が悪い。」 こんな時間も、悪くない。 俺の誕生日当日。結局、当日を迎えるまで俺はに欲しいものを告げることもなかった。もっとも、欲しいものは本当になかったというのもある。自分自身が仕事以外で何かに執着したといえば、と付き合うことだけだったかもしれない。今となっては、そんな事を自分自身忘れているところがある。 三十を超えた大人の男を祝うには大げさすぎる、クラッカーが響き渡った。あまりの爆音に耳を塞ぐと、は嬉しそうに誕生日おめでとうとテンプレートのような言葉を放った。 「…耳、潰れるだろ。」 「トシの鼓膜はそんなにヤワじゃないでしょ。おめでと。」 親と連絡を取る手段でくらいしかなかった誕生日が、思いがけず嬉しかった。誕生日とちゃんと認識してその日を過ごすのはいつぶりだろうかと思う。それは、親に祝ってもらっていた幼いときの思い出からしばらくぶりの事だった。 「はい、プレゼント。」 そう言って、は長方形の厚みのある箱を俺に手渡す。結局、に何が欲しいかを伝えていなかった。そもそも欲しいと言えるものがなかったから言わなかったというのもあったが、一体彼女は何を買ったのかと少し気になった。 開けて、というの言葉に俺も箱を開けていく。マトリョーシカのように永遠に続いていくカラクリでだったらどうしようかと思いつつ開けていくと、思いのほか現物は早く俺の視界に映し出された。 「何だ、これ。」 「電子煙草。これで、少しは寿命延びるでしょ。」 そう言って、は欲しいものを言ってくれなかったからと一度頬を膨らませたが、自信ありげにその箱を見つめて、俺に告げた。 「今時紙煙草なんて吸ってる人少ないよ。」 「ほっとけ。」 職場のデスクで煙草を吸える時代ではない。閉鎖感のある箱のような喫煙者を囲うその箱で煙草を吸うとき、よく目にするものだった。吸いはじめと吸い終わりをバイブ機能で教えてくれるらしい。喫煙者が煙たがられる世の中、健康のためと電子煙草に移行する人間がほとんどだったが、結果的にそれが電子的になっただけで何が健康的なんだろうかと俺はそれを毛嫌いしていた。 「俺が電子煙草の匂い苦手なの知ってたろ。」 「知ってるよ。でも、これでトシの寿命が長くなるなら未来のトシから感謝されなきゃ。」 「よく言う。」 本体と一緒に買われていたカートリッジを渡してきたは、俺の紙煙草を取り上げてそれを吸えと言う。酷く気は進まないが、誕生日に何が欲しいかをずっと言わないでいた自分の後ろめたさもあって俺は皮をはいでそのカートリッジを差し込む。暫くたつと、ブルブルと俺の手のひらで震えた。 初めての電子煙草に口を付ける。きちんと口から煙は出たが、どこか煙草と違っている。水蒸気を吸っているようでいて、残り香も煙草と違った独特な香りだった。正直に言うと、煙草の旨いと思う感想とはかなり異なっていた。 「…まずい。」 「じゃあ、そもそも煙草やめなよ。」 の目的の真髄は、そこにあるのかもしれない。ふわふわしているようで、あいつは酷く頭が回る。俺が電子煙草を嫌っているというその事を知っていながら、紙煙草よりは体に害が少ないという建前で購入し、その香りが嫌いということで煙草を辞めさせるつもりなのかもしれない。人のことを思っているようで、のペースに嵌められているのかもしれない。 「トシには長く生きて欲しい。ずっと、傍にいて欲しいから。」 先ほどまで嫌いと分かっていた筈の電子煙草を買ってきたに対して小言を言ってやろうと思っていたが、そうもいかなくなった。結局、にいつだって先手を取られてしまう。 「この間の健康診断の結果を、心して待つことだな。」 違和感しかない電子煙草を再び口に運ぶ。紙が焦げているのとはまた別の何かが焦げているような得体の知れない煙を吸い込み、吐き出す。酷くまずかったが、まさかそれをもう一度口にする事はできない。あんな殺し文句を言われたのであれば、吸い続けるしかないだろう。俺のことを策士とは言うが、よっぽど俺よりもあいつの方がその言葉にふさわしいと思った。 残量を知らせるように、初めて俺の手のひらでそれがブルブルと震えた。 俺の誕生日から数ヶ月が過ぎていた。俺が、に想いを告げてから一年が経つ。の誕生日が近くなっていた。去年のことを思い返すと、その日に向けて色々と動いていた自分を酷く滑稽に思う、柄ではないと。今になってと付き合ってしまえば、あの時に必死になっていた気持ちは忘れつつあった。 仕事柄もあり、の誕生日付近は忙しい。俺は、からの週末の誘いを断るようになり、休日返上で会社で仕事をするようになっていた。一年前は、それでも仕事に折り合いを付けてに時間を作っていたということを、すっかり忘れて。 仕事をしていると不思議と充実感に包まれた。それに伴って周りからの視線も変われば、半年で行われる査定でもしっかりと結果が出る。 には、暫く会えていない。罪悪感がまるっきりなかったのかと言えば嘘になるが、俺は仕事が充実している現状にどこか満足していた。そして、そんな状況をも理解してくれているのだと思って。出世をすることで、に示しを付けたいと躍起になっていた。そうすれば、けじめを言葉にして彼女に伝えられると思っていた。 仕事が架橋に差し掛かったとき、からの着信があった。 職場だからと、一度ディスプレイを見て出ることはなかった。その後を追うように、通知がなった。メッセージを開くと、からの文面が映し出された。 ここ久しく会っていなかったからのその言葉に、俺は淡々と返事を返す。仕事で忙しい事は伝えていた筈だ。だからこそ、ここ最近からの着信もメールも、ほとんどなかった。そのおかげで、俺は仕事に集中していた。もう少しで、こんな繁忙期も終わる。そのことだけを、頼りに我武者羅に働いていた。 それを打ち終えると、俺は終電の時間までずっとパソコンに向かっていた。 遅れていた終電に乗り込み、俺は家へと向かう。駅の改札を出て、近くのコンビにへと向かう。酒を買おうか少し迷ったががその場を離れ、晩御飯を手にとってレジに並ぶ。レジで、15番と告げるとがくれた電子煙草のカートリッジを取りにコンビに店員はいそいそと動く。大して好きでもないそれが、最早俺にとっては日常的になっていた。水蒸気臭い電子煙草を嫌いつつ、あれ以来紙煙草は吸っていなかった。 コンビニの袋を手にして、駅から徒歩七分の道のりを俺は歩いていく。きっと、がそこで待っているのだと思いながら足取りを進めていく。 マンションのロビーについて、ポストを開ける。八割がた必要ではないその紙を持って、俺は階段をあがる。ようやく自分の家のドアに鍵を指して、ドアを開ける。そこに明かりがあるとばかり思っていたが、視界の先に広がっていたのは無限に続く闇のみだった。 俺は、に電話をする。いつだってかかってくる電話を待つだけのその機械を握り締めて、自ら過去の着信履歴を辿り、見つけたところでそれをタップした。 用事があってに電話をすればワンコールで出る彼女に呆れていたが、今日ばかりはそれを望むのにコールは長くなり続けていた。 「うちに来てたんじゃないのか。」 仕事でに構ってやれなかったからこそ、今日は一緒にいたいと思った。俺の勝手と言えばそれまでのただの我がままだ。けれど、そんな我侭にいつだっては付き合ってくれた。酷く子供っぽく理解がないように見えて、どうしようもなく頭が回って、誰よりも人の気持ちが分かるに、きっと俺は甘えていた。だからこそ、こんな生活を続けていたのかもしれない。 「…ちょっと、眠くてさ。」 「自分からいつ帰ってくるか聞いておいたのにか。」 「そうだね。ごめん、トシ。」 電話越しのは、いつもと何も違わぬ彼女だった。彼女もきっと疲れているのだろう。営業職というのも、大変なのだろうなと思う。違う職種だから分かってやる事はできないが、それでもが仕事に熱心である事は知っていた。は、元々俺の取引先だった。取引先の営業として、秀でた才能を持ち合わせているのは誰でもなく俺が一番よく知っていた。 「タクシーで来いよ。金は気にするな。」 「太っ腹。…でも、やめとくよ。」 少し語尾を小さくして、はそう言った。俺が何故かと聞くと、終電まで仕事をしていて疲れただろうしゆっくり寝てと言われ、それ以上会話は続かなかった。 「明日は、暇か。」 「トシこそ暇なの?最近仕事尽くめだったから。」 「とりあえず、明日空けとけ。」 の予定も聞かず、一方的にそう告げた。きっと彼女であれば喜んで来るだろうと思っていた。いつだってそうだったから、疑う余地などなかった。久しぶりに会える事に、きっとは喜んでくれるだろうと勝手に思っていた。 その日、俺は仕事の疲れもあってか帰ってすぐに寝てしまった。目覚ましもなく自然と起きた時間が、いつもと同じ時間で自分自身の老いに苦笑いをした。 服を着替えて、洗面台にいく。顔を洗って、歯を磨く。髪を整えて、鏡で姿を確認する。少し早いが、俺は家を出る。パソコンを持って、に会う前に少しカフェで仕事をすればいいとそう思った。 待ち合わせの一時間前、カフェに入ろうとしていた俺の前に、の姿が映し出された。 「トシ、一時間前だよ。」 は、休日にも関わらずスーツ姿で俺の前に現れた。今までになかった展開に、何事なのだろうかと思う。約束の時間までは、一時間もあった。 「昼から商談があるの。カフェで、話そうか。」 いつになく、先導をきるの姿に俺は戸惑いながらもそれにしたがってカフェへと足を踏み入れた。 ブラックコーヒーを慣れたように二つ頼んだは、そのトレイを持って二階席へと進む。一階席にもまだ余裕があるのに、何故二階に進むのだろうかと思ったが、二階に入ってすぐにその理由が分かった。 「煙草吸えないと、トシ死んじゃうでしょ。」 そう言って、ニカっと笑ってトレイを置いた。煙が出ているホットコーヒーのひとつを持って、俺に渡してくる。熱いから火傷しないしないようにね、なんて大層な言葉を添えて。 「何故昨日は来なかった。」 「言ったでしょ。眠かったの、商談続きで私も疲れててさ。」 「来るなと言っても来るお前の言葉とは思えないな。」 「それじゃあ、私ストーカーみたいな言い草じゃん。」 は椅子に腰掛けると、目の前にあるブラックコーヒーに口を付ける、俺は昨日の事を聞きたくて上手くコーヒーすすれないでいる。が電話をしてきて、家に来なかった事など一度もなかったから。少しだけ、心がざわついた。何かが、あったのだろうかと。 「トシ、別れようか。」 思っても見ない、の言葉だった。あれだけ俺を好きだと言って、愛を表現したから告げられる言葉とは到底思えない。何が、どうなっているのか俺には皆目見当もつかない。 「何の冗談だ。」 「別に冗談じゃないよ。ほんとの事。」 あれだけ俺に依存していた筈のは、平然とした顔をしていた。これから商談にいく、取引先としていつかに俺が見たのかんばせと、それは全く同じで記憶と重なりあった。 「そう至った理由を言え。」 「何でそんな命令されないといけないかな。」 「俺には聞く権利があるだろ。」 は、自分勝手だなと言って笑いながらコーヒーに口を付ける。とても、余裕のあるかんばせだった。もっとも、今まさに振られようとしているのは俺だから状況としては正しいのかもしれない。 権利があるなんて言っておきながら、彼女がそれを言う事に義務などない。けれど、それを聞きたいと望んでしまう心が、義務付けているかもしれない。 「トシの事は好き。でも、もう付き合えない。」 表情を崩す事無く、はそう告げた。いつだって俺の言う事に最終的にYESを示して、付いてきてくれたは、そこにはいなかった。 結婚まで考えた女だ、好きと思っていた。も、同じように俺を好きと思ってくれていると感じていた。 俺から気持ちを伝えたのは違いなかったが、付き合ってからのは酷く俺に甘えてきた。 「矛盾してんの分かってるか。」 「確かに矛盾してるよね。好きだけど、別れたいなんて。」 は、俺と違って何も変わらない。今まで一緒にいたように、普通に語りかける。けれど、そこに別れようという一言をはらんでいるだけだ。は腹立たしいほどの笑顔を浮かべて、俺に言葉を紡ぐ。 「トシを好きでいる事、疲れちゃった。」 そう言って、は笑った。何故そんな事を言うのか俺には到底分からない。けれど、何故だと問い詰めるほどの勇気もない。彼女のその言葉を、受け入れる以外他に方法を見つける事ができなかった。 「取引先の良きパートナーに戻ろう。」 は、吹っ切れたようにそう言うと商談の時間だからと早々に席を立つ。飲めもしないブラックコーヒーは、ほぼほぼ手付かずの状態で残っていた。 突然、俺はに振られた。明確な理由は分からない。 家に帰ってコートをかける。ふうと大きなため息をつく。ため息をつく時なんてが要るときに駄々を捏ねられてつくものだったのに。今はそんな事ですら、懐かしく感じられた。 キッチンの壁にかかっているカレンダーをめくる。嗚呼、もうこんなに日数が過ぎていたのかと驚く。仕事をしている間に、いろんなことが過ぎていたらしい。 そのカレンダーをめくって、何かを思い出して俺は一枚捲った紙を元に戻す。忘れぬように、丸をつけていたその日を思い出す。その日は、がいつ帰ってくるか?と珍しく電話とメールをして来た日だ。 俺はやみくもに家を出てどこかに向かって走ったが、そこに望んだ女の姿を見つける事はできなかった。もう、遅かったのかもしれない。 が俺に対して抱いた不信感は、きっと深いものなのだろう。誕生日を忘れ、その事に対して気づくのもこのタイミングだ、あまりにも、遅すぎる。 あれから何度電話をしても、は電話に出ない。 一方的とはいえど、別れたのだから当たり前なのかもしれない。送った文面も、既読にならない。俺は、見捨てられたのだろうか、そう悲観した。 居なくなってこんなに自分が取り乱すとは、思ってもみなかった。柄にもなく、俺はどうしていいのかさっぱり分からなくなる。 一年前の、に告白しようと思っていたときの事を思い出す。何故、俺はこの気持ちを忘れてしまったのだろうか。を振り向かせる事で必死だったのに、振り向いたら振り向いたで自分勝手に仕事を優先しているのだから。 仕事、仕事と、を遠ざけていた事を思い、どうしようもない気持ちに苛まれた。たった一年前は、同じ業務量にも関わらず、をどうして自分のものにするかを考え仕事に折り合いを付けていた。今は、そんな面影もない。比率は、ではなく仕事に全重力をかけていた。 仕事は大事だ。俺にとっての、生きがいだ。 仕事なんて、いつでもできる。けれど、といる時間は、いつでも、ではない。ようやくそんな当たり前の事に気づいた俺を、は笑うだろうか。 一度家に戻った俺は、スマートフォンを手に持ちダイヤルする。相手は、出ない。けれど、それで挫けるような事はしない。ならば、通電したかった相手に、会いに行けばいいだけの簡単な話だ。いつから俺は、こんなにも単純な頭になったのだろうかと自分の事を心配したが、それでもただひとつ望むものを目指して。 もう何度目になるかも分からないダイヤルを鳴らしたとき、俺はふいに思い立つ。彼女に言おうとしていた言葉は、今こそ言うべきなのではないだろうかと。そして、今、言いたいのだと。 商談中なのだろうか。もう、何度目になるかも分からない留守番電話のガイダンスを聞いた俺は、真っ直ぐを目指してひたすらに走り始めていた。 伝えるべき、たった一言を携えて。 さして旨いとも思わない電子煙草がブルブルと、その時を告げていた。 アシッドに酔いしれて |