珍しく目覚ましをかけずに過ごす日曜日、私は昼過ぎに目を覚ます。いつだってバイトや予定を詰め込んでいた日曜日にしては、本当に珍しく、ノースケジュール、ノープラン。そんな、私の暇をまるで見透かしているかのように、あの男からのメールが三通、そして不在着信が五件、記録されていた。
  起きろ。今すぐ起きろい。
  頭かち割れる。
  早く家まで看病しにこい。
 明らかに看病してもらいたい側の人間からはおかしいメールに、私は一度溜息をつく。彼は私の彼氏でも何でもない。ただ、三軒隣に住むご近所さんであり、同級生であり、幼馴染であるというだけのはなし。そうは言いながらも、私は携帯に手をかける。
「もしもし。あんた、二日酔いでしょ。」
 携帯の向こう側からまず聞こえてきたのは、否定の言葉を口にした罵声だった。こうもブン太が荒れるのは珍しい。昨日は相当飲んだのだろう。そう言えば、やはり彼は呑んでいたことを否定したけれど、そういえば昨日は以前の部活面子で久しぶりに飲むような事を聞いたような気がする。部屋に張ってあるカレンダーを見ると、昨日の日付に赤い丸。そして、上からバツ印。そういえば、どうしてもバイトに出てほしいと言われて、飲み会を断った事を思い出した。
『しのごの言ってねえでいいから早く来いって言ってんだろうがよ。』
「今の自分の立場を踏まえたら、そんな言葉は出ない筈なんだけど。」
『……頼むから、早く来いって。』
 電話口からのブン太の声が、弱弱しく響いた。私も、彼のそんな態度に「わかった」と一言告げると携帯を閉じた。準備をしようと立ちあがり、そして準備するものなど何もない事に気づく。二日酔いを根本から治すものは、何もない。私は冷蔵庫をがさがさと漁り、取りあえずと、彼の好きそうなアイスを二、三個みつくろい、鞄の中に放り込んだ。
 家の玄関を出てから、約二十歩程歩いたところで、私は足を止めた。昔は毎日のように、この家で遊んだ、あの頃が、酷く遠くの事に感じられた。大学生になってからは、学部も違い、あまり会う機会も少なくなっていたからだろうか。少し、以前には感じられる事のなかった、緊張感が私を苛む。
 彼の家のベルを鳴らす。暫く経っても、返事はない。きっと彼が私にメールや電話をしてくる時点で、家には誰にもいないのだろう。私は、意をけしてガチャリと回るノブを開き、数年ぶりに映し出す懐かしい光景の中へと、足を進めていく。以前、よく使っていたスリッパを履き、二階への階段を上る。階段から見て、一番奥にある角部屋で数回のノックののち、ようやく大層調子の悪いブン太の顔がお目見えした。
「遅いっつうの。まじ、気分最悪。」
 今にも吐き気を催しそうな彼は、やはりどこから見てもただの二日酔いに違いなかった。普段はあまり酒を飲まない彼にしては、珍しく多く飲んだのだろうと想像がつく。それゆえに、二日酔いなど経験したことがなく、未知のものだったのだろう。今にも死んでしまいそうな彼の顔が、少し可笑しい。彼の弱みなんて、いつぶりに見ただろうか。
「…で?薬とか持ってきたんだろ?早く出してくれって。」
「薬なんてないよ。」
「じゃあお前何しにきたんだよ。意味ねえじゃん。」
「二日酔いに薬なんてありません。常識外れの戯言じゃない。」
 そう言えば彼は不審そうに私を見たけれど、途方にくれたように再び枕に顔をうずめてしまった。ブン太のくぐもった声が、弱弱しく漂う「俺もう死ぬかもしれない」「大げさだな。そんなんで死ぬわけないでしょ。」「お前に俺のつらさは分からんだろ。」「何を言ってるの。二日酔いこそ私のテリトリー。」。馬鹿げた会話だけが響く中、彼の体調が良好への兆しに照らされる事はなかった。
「うーん、そうだなあ。あ、グレープフルーツって置いてある?」
「お前の胸とおんなじぐれえの小ぶりのやつが冷蔵庫に三個くらいあった気がする。」
 死ぬだの何だの言ってる割には、小言を言う元気はあるのかと呆れるのを通り越して関心してしまうほどの言葉に私は軽くブン太の頭を小突いた。それでさえも、二日酔いにはきついらしく、彼は頭をかかえこんで布団の中に閉じこもってしまった。
「看病してあげてるのにあんまり口悪いと帰るからね。」
「……もう言わねえよ。」
 居酒屋のバイトを始めて数年。最初の方は若さに任せた飲み方をして、よく二日酔いになったものだった。そんな時に先輩から教えてもらったのが、“二日酔いにはグレープフルーツジュース”だった。
 二日酔いを完治する薬はない。気休めに、という言葉と共に教えてもらったグレープフルーツを昔は飲み会後の朝、必ず欲していたのを思い出した。一応それなりに大人になってからはすっかりそんな飲み方をすることもなく、思い出すのにも随分と時間がかかってしまった。
 ブン太の部屋を出て、下へと降りる。一応誰もいない事を確認して、私は冷蔵庫の野菜室を見る。確かにそこには、悔しい程的確な大きさのグレープフルーツが三つ、並んでいる。少し引き出しを捜すと、奇跡的にもすぐにスクイザーを見つける事に成功し、グレープフルーツを横半分にカットし、スクイザーで搾り取る。苦い成分が二日酔いに効くという、以前どこかで聞いた事のある迷信のようなものを信じ、皮のみしかのこらないほどに、果汁すべてを絞り取った。
 ブン太は温いドリンクを極端に嫌うことを思い出し、冷凍庫から氷を二つ、取りだして放り投げた。三つ目のグレープフルーツを絞り終えると、ちょうどグラス一杯ぶんの生搾り100%ジュースが完成していた。味見と称して飲んだそれは、懐かしい味がした。
「はい、これ。おっぱいジュース。」
「おっぱいジュース?お前の乳から出てきたんだったら俺はそんなもん飲みたくないぞ。」
「似たようなもんかもしれないけどね。まあ、いいから飲んでみなって。」
 一口飲んで、苦い顔。「苦いからって要らないはなし。これが本当に一番効くんだから。」そう言われ、渋々二口目、さっきよりも顔が歪む。ブン太は甘党が故に、こういうものは苦手なのかと改めて思わされる。立派な成人になった今でも、昔からの彼の好き嫌いは変わらないのである。
「……心なしか気分がましになった気がするぜ。」
「でしょ?グレープフルーツジュースって見かけによらず効くし、即効性あるよね。」
 ジュースを口にしてから数分もしないうちに、ブン太の顔に赤みが差した。当の本人はあまりにも突然の事に驚いているかのように、口をぽかーんと明けてぼんやりとしていた。どうやらグレープフルーツジュースが効いているらしい。
「なあ。なんか甘いもんねえの?」
 すっかり調子をある程度戻したブン太は、平然とした顔つきでそう告げる。そして、私は鞄の中に長時間入れるには危険な彼の好物を思い出し、慌てて取りだした。袋の中で液状化しているものが二つ、そして、半分溶けかかっているカップのものが一つ。ため息をつきながらそれを流しへと捨てに行こうとする私の腕を引きとめる。
「いい。それ、食うから。」
 食べれる原型を最早残してはいないそれを、彼は取り上げてぺろりと口の中へと流し込んだ。間違いなく、ほとんど本調子のブン太が、そこには見受けられた。あまりにもあっけない二日酔いの終了の知らせだった。
「青葉、お前結構いい奴だったんだな。」
「幼馴染に言う?普通。」
「褒めてんだからいいだろ。この魔法のジュース、案外気に入ったんだ。」
「それはそれは。」
 ブン太の顔が、ニカっと快晴に笑む。そうだ、私はこの笑顔にいつだって救われていた。この笑顔に助けられ、導かれ、そして、淡い恋心を抱いていた。やんちゃで居ながらも何処か要領のいいブン太の背中を追いかけ、その背中に私は幼心ながらに確かな恋心を抱いていたのだ。そんな事を、思い出す彼の快晴のような笑みだった。
 部活も始まり、さらには学校でも顔を合わさなくなってから随分と時間が経ち、私のその恋心も極自然な形で薄れていった。それは冷めたというよりは、徐々に忘れていったような、そんな感覚に近い。そんな昔の記憶が舞いおり、その感情も、少なからず私に降り注いだ。何故看病をしている側である、自分が?と問いただしたくなるような、こんな状況下において。
「ねえ。今日の見返り、期待してもいいかな?」
 そう言えば真っ先に彼の拒絶の言葉が聞こえてくるかと思ってばかりいた私の耳に、「しょうがねえなあ。期待しとけよ。」予想にもしない言葉が届いた。二日酔いから解放された彼は、今、聊か上機嫌のように見える。
「じゃあ。今度一緒にグレープフルーツサワー飲みに行かない?」
「グレープフルーツサワー?」
「うん。そしたら、他の飲みモノよりも二日酔いも少ないでしょ、多分。魔法の果物だから。」
「でも何だって酒なんだよ?別に、前みたいに飯じゃ駄目なのか?」
 昔の記憶と共に蘇ったその感情に、素直になるには昨日の彼のようになる必要が、私にはあった。目の前にあるグレープフルーツジュースの残りを、私は一気に飲み干した。そうすれば、彼は、「俺の勝手に飲んでんじゃねえって」なんて言いながら少しむくれた面を見せたけれど、私の中にあったモヤのようなものは、聊かすっきりとしたような気がする。グレープフルーツの効用は、二日酔いだけではないのかもしれない。
「お酒の力を借りて話したい事なの。そこに、アルコールと、グレープフルーツは必須でしょう?」
 そう言えば、ブン太は首をかしげて、今尚何の事を私が言いたいのかさえ、理解に苦しんでいるようだった。でも、それでいい。時期は何れやってくる。魔法の果物の、力を借りて。

20110804
GFジュース