この血のような赤が消えればいいと思った。
でも、それが消えた所で自分が違う存在に生まれ変われる訳じゃない事も知っていた。


 久しぶりに宿の暖かい布団で寝れると変に安心したからなのか彼は中々寝付けないでいた。気が付いたら野宿する事の方が断然に多いこの旅で、自分の感覚が狂っているのかもしれないと自嘲にも似た笑みが彼自身を包んでいた。
 外に出て煙草でも吸おうと思い立った彼は男三人が雑魚寝している部屋を出て外に歩いた。思った以上に酷い冷え込みに体がぞくりと震えあがるのを感じた。
   さみい……。」
 生憎風も強く、上手く煙草に火がつかない。
 何もかもが上手くいかない日々に彼は珍しくも少しの焦りを感じていた。好き、嫌いを除いたにしても確かにこの居場所が心地のいいものには違いなかったけれど、それでも彼は何か満たされない欲求に想いを馳せる。自分が何かに満たされる事など、思うだけで罪深い事なのだろうなと、彼は再び自嘲めいた。
 ふと窓から射す光に気づいた悟浄は、その窓の先にあった女と目が合った。
「なに、柄にもなく寝れないの?」
「……吃驚させんなよ。ぬうっと出て来られたら吃驚すんだろ。」
 彼が茶化す様にそう言えば彼女も同じような素振りで「レディーに失礼ね。」なんて言って見せた。真夜中にするには少し、見当違いな二人の声が窓を通じて繋がっていた。
「なんだよ、お前も寝れねえのか?」
「私はさっき目が覚めて、そこから。それより普段呆れるほどに寝付きのいい貴方がどうしたの。」
「随分なご挨拶なこった。お前みたいに一人部屋じゃねえんだよ、俺は。」
 嗚呼そっか。そう言って青葉は酷く納得したように、それ以降言及してくる事はなかった。そのないかもしれない気遣いが、彼には有難く感じられて仕方ない。深く追求されるのは、嫌いだったからだ。
 冷たい風が吹きやむと時折彼女の隣の部屋から豪快な鼾が聞こえて、「納得。」青葉は少し眠たそうな眼をさすって笑った。
「もうじき雨が降る。…中、入ってくれば?」
「…別に。雨も滴るいい男ってやつを体現してみんのも悪くないな。」
「誰も見てないのに?それに水が滴ったら煙草、吸えなくなるでしょ。」
 青葉の言葉に彼は妙に納得したように「あ、そっか。」それだけ告げた。尚も吹き荒れる強い風に、所詮安物のライターが付く筈もなく、彼は一言呟くようにして言ってみせる。
「俺を部屋に入れるって襲われる覚悟でもあんのか?」
「野暮な事を聞くのね。アンタと一緒の部屋で寝た事が、何度あると思っているの?」
「……可愛くねえ女。ちょっと怯えてみてもいいだろ。」
 彼がそう言えば お生憎様 そんな至極分かり切った言葉が悟浄の耳元を掠りぬけていた。彼にとって、酷く心地のいい、ぬるま湯につかっているような言葉のようだった。
 悟浄は青葉の誘いの言葉のままに、彼女の部屋に辿りつくと、ベットに腰かけた。閉じた窓からはまだ少し冷気を感じたけれど、煙草に火をつけるのに何も影響はなかった。しかし火は上手く付かない。よく見ればオイルが底をついて空っぽになっていた。ガス欠だった。まるで自分にそっくりなまでに空っぽであるように彼は感じていた。
「案外どんくさいね。知らなかった。」
「…悪かったね。」
 宿に設置されていたマッチに青葉が手を伸ばす。下手くそだなと笑う悟浄にくじける事もなく、彼女は三度目にしてようやく火を灯し、待ちぼうけをくらっている彼の口元にそれを近づけた。
「そんなものにいつまで依存してるんだか。見かけに寄らず精神脆いよね、悟浄って。」
「あーもう何とでも言えよ!煙草はもうガキん頃から体に染みついてんだよ。止めろって言われて止められるようならとっくに捨ててるさ。」
 ふうん、と彼女は酷く他人事のように言って見せた。まるで興味がないと言わんばかりに、そっぽを向いて漂う煙を手で払っていた。
 少し遠い過去に、青葉に聞かれた事があった。何故煙草を吸うのかと。その答えは簡単だったけれど、あえて本当の事を言うのも憚れた彼は適当に言ってのけた「男の浪漫」と。すると彼女は「男の浪漫って案外ちっぽけで下らないものなのね」躊躇う事もなくそう言っていた。
 青葉はそう言ったけれど、きっと悟浄は本当の所彼女がそれを嘘だと知っているのだと自覚していた。腹が立つほどに頭のキれるこの女が、そんな下らない冗談を見抜けない筈もないのだ。
「悟浄は女好きだって自分の事を言うけれど私にはそうは見えない。」
 そしてまた、不思議な事を言う女でもある青葉に彼は中々いい言葉を見つける事が出来ない。いつだって。
「だって、こんなに傍にいる私に一度でも欲情したことないでしょ。」
「そりゃあアレだろ、欲情するだけの色気がお前にないって事。」
 長年彼女と一緒に旅をしてきて、青葉の言葉通り彼が欲情した事は一度だってなかった。別に女としての魅力がない訳ではなかった。でも彼は不思議とそんな感情と格闘することもなく、ここまでやってきたのだ。
「それは違う。」
 いつだって的確な言葉を齎す青葉を彼は心の奥底で怯えていたのかもしれない。彼自身ですら自覚していない程に、心の深海で。ふわふわと漂い、いつだってちゅうぶらりんな自分に厳しい程の正論をぶつけてくる、青葉が。
「悟浄は逃げてる。私から、逃げてるんだ。」
 悟浄はその言葉を飲み込むように煙草を強く吸いこんだ。ジジっと音を鳴らした火種が青葉を薄らと映し出す。そこには彼とそっくりな、血の赤を纏った髪を靡かせる彼女の姿が映し出されていた。
 もう一人の消えない自身を見ているようで、彼は彼女を映し出す唯一の火種をぐしゃっと音を立てて丸めた。




 結局その後黙り込んでしまった二人は同じ部屋で朝を迎えていた。睡魔に打ち負かされた青葉を見て彼は「呑気な奴。」そう言って再び煙草に火をつけた。煙草を吸えば、「臭い」と彼女が起きてくるんじゃないかって些細な希望を見出しながら。
 雨は止んでいた。眩しい程の日の光が毒のように彼の体を包み隠さずに照らし出す。そしてもう一人の彼である、彼女も同じように。
「…おはよう。朝から臭いね。」
「また随分なご挨拶だな。こんな爽やかな朝だってのに。」
「それは爽やかさの欠片もない悟浄のせいでしょ。」
 そして、また彼女は厄介なものを打ち払うように彼の口から舞う煙を薙ぎ払う。「…そんな物以外にも頼るべきもの、あるのに。」少しだけ悲しそうに、青葉の声が小鳥の囀りに紛れて響いた。
 悟浄は夜通し考えていた。眠気が襲ってこなかったのかと言えばそうではなかった。しかしそんなものを取っ払ってでも、まさに今考えなくてはいけない事を彼は夜通し考えていた。
「なあ青葉。俺、分かったんだわ。」
 何かが分かった割には興奮もない落ちつき放ったその言葉に青葉は同じ口調で尋ねる。「何が?」。
「お前に欲情しない訳だよ。」
「ああ。そんな話、昨日してたね。」
「人ごとだな。お前の事だってのに。」
「…そりゃ人ごとだし。」
 愛想のない青葉に反抗するかの如く彼の口に含まれた煙が彼女の顔を直撃する。「…何のつもり?臭いんだけど。」「うっせえな。偶には汐らしく人の話きけって。」「臭いものは臭いの。私に向けるのはやめて。」「へえへえ。」他愛もない、朝の会話にその後少しだけ沈黙が流れた。
「きっと本気になるからだ。」
 え?青葉の疑問に満ちた声が部屋を木霊し、支配した。それでも彼は違う事無く同じ言葉を口にする。
「お前に本気になるからだ。だから俺の本能がお前に欲情させないんだよ。」
「…馬鹿馬鹿しい。朝から冗談ばっかり。」
 彼は新しい煙草に火をつける。弱い心を隠す事もせずに、何の躊躇いもなく火を灯した。その火の先にある青葉の髪が、それと同じような燃える赤に見えた。自身のものとは違う、炎のような赤に見えた。
 彼は気づく。本当は青葉に憧れ、そしてちっぽけな嫉妬を持ち合わせていた。
 同じ境遇にありながらも幾分も信念を持ち、揺らがない強い青葉に嫉妬していたのだ。同じ色でありながら、血の赤ではなく、燃え上る炎を印象付けるその赤が、羨ましかった。
「冗談ならもう少しマシな冗談言ってるって。」
 そう言えば彼女は昨日の夜のように、まるで何を咎める事もなく「嗚呼そっか。」そう言って俄かに彼の意見に賛同を示していた。
「そう思うなら煙草なんかじゃなくって、私に依存すればいいのに。」
「馬鹿。だから出来ねえんだよ。」
「…勿体ないなあ。こんなに色っぽい年頃の女が傍にいるっていうのに。」
「あほ。」
 嫉妬の対象でありながらも、やはり心地のいい青葉の言葉に彼は安堵したようにそう告げた。彼女の赤が、揺れる。それは戒めなんかではなく、自由に満ち溢れた赤だった。少なくとも悟浄には希望に満ちた赤に見えていた。そんな自分と違う青葉にやはり嫉妬の念を忘れずに、でも、少し同じものを感じて。
 腹を減らした隣人が戸を叩く。早く早くと急かす煩い声が日常の始まりを告げていた。青葉はそんな日常の中に誘われていく。その赤く、燃え上る様な情熱の赤を揺らしながら。
「悟浄も早く。朝ごはん、無くなっちゃうよ。」
 青葉が慌てながらに部屋を出る。そんな彼女と入れ違うようにして八戒の見慣れたかんばせが彼の視界を占領する。「…あれ、帰ってこないと思えばこんな所に。」そう言って「夜ばいですか?」茶化したように尋ねる。
「あやうく…な。」
 そうですか。八戒はそれ以上問いつめる事もなく、戸を閉じた。
 悟浄はようやく口元から煙草を離し、灰皿に丸めこむようにして火を消した。赤が、消えた。これから行われる騒々しい朝食での一時を思い浮かべると、彼は思い出して慌てたように戸を開けた。
 血ぬられたような赤い彼の髪が朝の日の光に反射して、輝きを放っていた。